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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

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毎週木曜日にオンライン歴史講座の講師をしております。

ticket.asanojinnya.com当ブログは浅野陣屋札座保存ネットワーク様の旗本浅野家若狭野陣屋に残る札座の保存運動に賛同しております。

 

木曜日の講座に向けてのお知らせを毎週土曜日、月曜日、水曜日にアップします。

金曜日には木曜日の講座の内容報告をアップします。

 

更新スケジュール(予定)

木曜日:オンライン講座本番

金曜日:オンライン講座の内容報告

土曜日:次回講座の予告1

日曜日:後花園天皇の生涯

月曜日:次回講座の予告2

火曜日:古文書入門

水曜日:次回講座の予告3

木曜日:後花園天皇ノートほか

 

 歴史学研究者・古文書講師の秦野裕介のブログです。

室町時代を中心に日本史を研究しております。

室町時代・戦国時代の政治史、あるいは北海道の中世史を研究しています。

京都府乙訓郡大山崎町出身。

1997年4月〜2018年3月まで立命館大学非常勤講師。

2004年4月〜2018年3月まで立命館アジア太平洋大学非常勤講師。

株式会社歴史と文化研究所客員研究員。

会社概要・客員研究員 - 株式会社 歴史と文化の研究所

2019年4月〜9月まで立命館大学授業担当講師。

原稿執筆(書籍・雑誌)、講演の相談・依頼は大歓迎です。

yuusukehatano617◆gmail.com(◆の部分を@に変えてください)までお願いします。

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後花園天皇の生涯−康正三年正月一日〜長禄元年十二月晦日

康正三年正月

一日、御薬供、元日節会

清贈二位宗賢卿記

二日、御薬供

続史愚抄

五日、叙位

続史愚抄

七日、白馬節会

続史愚抄

八日、女叙位を延引、太元帥法を行う、後七日御修法は停止

続史愚抄

十一日、県召除目延引

続史愚抄

十六日、踏歌節会

山科家礼記

二十八日、女叙位を追行

続史愚抄

二月九日、大原野祭延引

続史愚抄

二十一日、大原野祭追行

山科家礼記(二十日・二十一日・二十四日)、続史愚抄

二十七日、故征夷大将軍足利義量に贈左大臣従一位等の宣下

清贈二位宗賢卿記、続史愚抄

三月二十九日、県召除目追行

山科家礼記(二十七日)、続史愚抄(二十七日・二十八日・二十九日)

四月十五日、日吉祭延引

続史愚抄

十六日、賀茂祭

山科家礼記(十四日・十六日)、続史愚抄(十四日・十六日・十七日)

二十八日、贈左大臣足利尊氏に贈太政大臣宣下

清贈二位宗賢卿記(二十七日・二十八日)

五月五日、後崇光院周忌内に属すと雖も菖蒲で内裏を葺く

清贈二位宗賢卿記(四月二十日)

七日、今宮祭御輿迎

山科家礼記

十四日、祈雨奉幣

山科家礼記

二十七日、延暦寺六月会

山科家礼記

六月四日、日吉祭追行

山科家礼記続史愚抄

十四日、祇園御霊会延引

山科家礼記(七日・十四日)

十五日、祇園御霊会追行、同臨時祭は延引

山科家礼記続史愚抄

十七日、右大臣一条教房左大臣に、前内大臣三条実量を右大臣に任ず、官次宣下

清贈二位宗賢卿記(十四日・十七日)

この夏、禁中に怪異

修法部類記

七月二十日、祈雨奉幣、この日称光天皇三十回忌に当たるを以って免者を行う

清贈二位宗賢卿記、続史愚抄

この日、五畿七道および洛中外道俗男女に般若心経読誦の宣下、炎旱、彗星、病気のことによる

清二位宗賢卿記、続史愚抄

八月四日、北野臨時祭延引

続史愚抄

六日、釈奠

清贈二位宗賢卿記

八日、諸社寺に仁王経読誦の宣下、請雨祈の為

清贈二位宗賢卿記

十一日、祈雨奉幣

清贈二位宗賢卿記

十五日、石清水八幡宮放生会延引、この夜月食

清贈二位宗賢卿記、続史愚抄

十六日、軒廊御卜を行う、次に駒牽

清贈二位宗賢卿記、続史愚抄

十八日、御霊祭

康正三年雑記

二十八日、式部卿貞常親王に復任宣下

清贈二位宗賢卿記

二十九日、後崇光院一周忌により仏事、この日免者宣下

清贈二位宗賢卿記

九月八日、内大臣近衛教基を右大臣、前権大納言三条実雅を内大臣に任ず、この日左大臣一条教房第において年号勘者宣下

清贈二位宗賢卿記

九日、重陽節句、平座

清贈二位宗賢卿記

十七日、去年の石清水八幡宮放生会を追行

清贈二位宗賢卿記

(十四日・十五日・十八日)

二十八日、改元、康正三年を長禄元年とする、病患炎旱等による

綱光公記、元秘別録

長禄元年十月一日、旬、平座

清二位宗賢卿記

十一月一日、梅宮祭延引

続史愚抄

十二日、春日祭延引

続史愚抄

十六日、大原野祭延引

続史愚抄

二十日、豊明節会を停め、平座

清贈二位宗賢卿記、続史愚抄

この月、禁中触穢

続史愚抄

十二月一日、忌火御飯を供す、諸社祭は停止延引等の宣下、触穢中による

清贈二位宗賢卿記、続史愚抄

三日、この日より禁中で五壇法を行う、今夏の禁中怪異並びに彗星のこと等による、九日結願

清贈二位宗賢卿記、続史愚抄

十一日、月次祭、神今食を延引

続史愚抄

十八日、大原野祭追行

清贈二位宗賢卿記

十九日、皇子に親王宣下、名を成仁と賜う、次に小除目、小叙位を行う

清贈二位宗賢卿記、康正三年別記、続史愚抄

この日梅宮祭追行

清贈二位宗賢卿記

二十五日、月次祭、神今食を追行

清贈二位宗賢卿記

二十八日、祇園臨時祭並びに北野臨時祭を追行、御拝

清贈二位宗賢卿記

三十日、追儺

清贈二位宗賢卿記

オンライン日本史講座二月第四回「蝦夷地・琉球と室町幕府」

北海道の中世史はほとんど研究が進んでいないと言われます。しかし実際には意外と研究が進んでいる、と言える気もしてきました。

 

海保嶺夫氏の『中世蝦夷史料』『中世蝦夷史料補遺』がやはりこの研究の大きな一里塚であったと思います。

 


中世蝦夷史料

 


中世蝦夷史料補遺

 

海保氏の『中世の蝦夷地』も比較的古く「中世の蝦夷地」に言及した研究です。

 


中世の蝦夷地 (中世史研究選書)

 

この研究分野も対外関係史の進展によって光が当てられる分野となっています。

例えば1988年には『北からの日本史』シリーズが刊行されます。

 


北からの日本史―函館シンポジウム

 


北からの日本史〈第2集〉弘前シンポジウム

 

この問題が注目を集めたのは、アイヌの研究が進展してきたこともあります。1980年代まではアイヌの研究をしたい、と言っても相手にされないことが普通だったわけです。しかし80年代半ばには国家の枠組みを外して考える地域史の視点が流行し、その流れの中にアイヌの研究が進んだこともあります。

 

特に北海道と本州の関係については十三湊の発掘が進展し、従来なぞの多かった十三湊を本拠とした津軽安藤氏に関する研究が本格的になってきた、という面もあるでしょう。

 

この時期の安藤氏に関する本としては以下のようなものがあります。

 


中世十三湊の世界―よみがえる北の港湾都市

 


中世都市十三湊と安藤氏―歴博フォーラム

 

こういう書籍がどんどん発表され、十三湊の発掘調査の成果が広く市民層に広げられました。

またこの頃には上ノ国で発掘調査が行われ、そこでの多くの発掘成果も大きく日本史を書き換えていきます。

 


北から見直す日本史―上之国勝山館跡と夷王山墳墓群からみえるもの

 

夷王山墳墓群ではアイヌと和人(アイヌ以外の日本列島居住者の総称)の墳墓が混在していたことからアイヌと和人の共存が指摘され、アイヌと和人が戦争状態であった、というだけの見方に大きく修正を迫るものとなっています。

 

近年では関根達人氏の次の著書も注目されます。

 


モノから見たアイヌ文化史

 

北海道の中世史と言えば絶対に外せないのが新藤透氏です。

 


北海道戦国史と松前氏 (歴史新書)

 

とりあえず入手しやすい下二つの書籍は入手して読んでも後悔しません。北海道の中世史に関心のある方には強くお勧めします。

オンライン日本史講座二月第三回「朝鮮使節の見た室町日本」

「オンライン日本史講座」2月第3回、無事終了しました。

『老松堂日本行録』と『海東諸国紀』における日本認識についてです。

 

応永の外寇の講和交渉のために来日した朝鮮国回礼使の宋希璟の記した紀行文が『老松堂日本行録』です。

 

そこには朝鮮使節から見た日本の姿が描かれており、非常に貴重な記録となっています。

 

例えば「国王は最も少年を好む」とあり、足利義持が男色を好んだことが記されています。こうした記述ははっきりとは書いてありません。なぜかというとあまりにも当たり前のことだったからです。逆に当時の偉いさんでバイセクシャルでない人を探す方が難しいでしょう。

 

宋希璟はこうも書き残しています。「日本の俗、女は男に倍す」。清水克行氏はこれについて考察していますが、少しだけ紹介すると、「その理由はおよそ私たちの想像を超えるショッキングなものだった。つまり、この記録(鄭舜功『日本一鑑』)によれば、そもそも日本では男が少なく生まれるというわけではない、基本的には男女同数で生まれるのだが、もし男子が多く生まれすぎた場合、母親はこれを嫌がり、生まれるとすぐに首を絞めて殺してしまう、というのだ」と書いていらっしゃいます。

 


大飢饉、室町社会を襲う! (歴史文化ライブラリー)

 

宋希璟は対馬で漁民から魚の売り込みを受けます。その船の中に一人の僧が跪いて食料を乞い、宋希璟は食料を与えるついでに会話をします。

僧「私は江南台州の小旗(小部隊長)でした。一昨年捕虜となりここに連れてこられました。髪を剃られて奴隷となっています。苦しいのでみなさまとご一緒したいです」(T_T)

漁民「米で支払うのであればこの僧を売りますよ。さあ買うのか買わないのか、どうします?」

 

いろいろな情報が含まれています。まず「奴隷」というのは当時で言えば下人身分でしょうが、僧形が一つの下人の表徴であった可能性があります。

 

『老松堂日本行録』で有名な箇所と言えばいわゆる「上乗」について述べた箇所です。

 

東からくる船は東の海賊を乗せれば西の海賊は危害を加えず、西からくる船は西の海賊を乗せれば危害を加えない、というものです。そこで七貫(ざっくり70万円)を出して東の海賊を乗せて通行しているシーンです。これが出てくるのは芸予消灯の蒲刈です。ちなみに宋希璟はこの海賊と意気投合したようです。

 

意気投合したのはいいのですが、そもそも宋希璟がこういう苦労をするのは、安芸国室町幕府の威令が行き届いていないからです。それ以外ならば、海賊衆は室町幕府および守護に雇われていますので、個別に交渉する必要はなかったはずです。しかし幕府の威令が行き届かないところでは自力救済で解決するしかありません。

 

『海東諸国紀』では申叔舟が三管領四職に加えて渋川氏、甲斐氏、伊勢氏にまで目配りをしていることが目につきます。

 

宋希璟にせよ、申叔舟にせよ、日本を非常によく観察し、日本の内実や歴史を実によく踏まえていることがわかります。

 

申叔舟は「日本国紀」の中で神武から全ての天皇を書いていました。神功皇后の時に新羅との関係が、応神天皇の時に百済との関係が始まったと記すなど、かなり日本の史書を読み込んでいることが伺えます。

 

これとは対照的に日本人による朝鮮紀行は見られません。この理由はどこなのか、ということは残念ながら私にはわかりません。当時朝鮮から来日した使者の数よりもむしろ日本から朝鮮に行った使者の方が多いのではないか、という程度には日本の使者も朝鮮に行っています。しかし彼らによる記録が見られないのは、やはり朝鮮側には倭寇問題という深刻な外交課題を抱えていたのに対し、日本側は大蔵経を求めに行く、というようにかなりアバウトな内容であったことが原因かと思われます。

 

申叔舟が書状官として来日した時の通信使の卞孝文についてはいろいろ気になることがあり、これからも調べていく所存ですが、以前も述べましたように、少年の国王である足利義勝のもとでの混乱を見るにつけても、申叔舟が幼少の国王を廃して壮年の国王にすげ替える癸酉靖難に加担した彼の心持ちがわかる気がします。

 

次回の木曜日は室町時代蝦夷地を取り上げます。

 

蝦夷地と日本との関係を管理していた安藤氏を主として取り上げます。

 

今回若干人数が少なかったのですが、皆様のご来聴をお待ちしております。

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「後西天皇」という奇妙な加後号について

前回のオンライン日本史講座で本筋とは関係ないところで話題になったのが天皇追号です。

 

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本題は「日明貿易倭寇」だったのですが、天皇追号に話がずれて、そこで「後西天皇」という妙な名前の天皇について話題になりました。

 

ちなみに我々が知っている「〇〇天皇」という天皇の名前は全て崩御後に付けられるものです。存命中は「天皇」と言えば「上御一人」という言葉が示すように在位中の一人しかいません。しかし歴代の天皇に言及する場合、分けないとややこしいので天皇に「〇〇天皇」と名前を付けます。この辺は以下のエントリをご覧ください。

 

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結論から言いますと、正しくは「後西院」で、「西院」が淳和天皇の別号であるために、加後号で「後西院」となったわけです。

 

「西院」は淳和院の別名で、現在の西大路四条です。ジョーシン京都1ばん館が淳和院あとです。

 

天皇の名前については遠山美都男『名前でよむ天皇の歴史』が詳しいです。一読をお勧めします。

 


名前でよむ天皇の歴史 (朝日新書)

 

遠山氏によれば「淳和」は追号であるが、音読するので漢風諡号に準ずると見なされて西院の方に後を加えた、とみていらっしゃいます。この辺の諡号追号の問題は一筋縄では行きません。今それについての文章を執筆中です。ただこの「後西院」に関する記述については従いたいと思います。

 

淳和は「西院帝」なので例えば「柏原帝」の加後号が「後柏原院」というルールに従えば「後西院院」となります。ただこれがヘンテコなのは誰でも気づくので、当然当時の朝廷でも「院」の重複を避けて「後西院」となりました。

 

この辺はウィキペディアをご覧ください。

ja.wikipedia.org明治時代に過去の「〇〇院」も全て天皇号を付すことになりました。例えば我らが後花園天皇の場合、「後花園院」から「後花園院天皇」に変わったのです。その時「後西院天皇」になりました。大正14年には「院」を外そうと決まり、我々には馴染みの深い「後花園天皇」となりましたが、後西院は「後西天皇」という意味不明な追号になってしまいました。

 

加後号の場合、前の天皇の事績を気にする場合もあれば、気にしない場合もあったようです。

 

今日我々は陽成天皇と言えば困ったちゃんな天皇という意識を持っています。もっとも陽成天皇に関わる困ったちゃんイメージは権力闘争の中で作り上げられたものとする倉本一宏氏の見解があります。

 


平安朝皇位継承の闇 (角川選書) [ 倉本一宏 ]

 

 では後陽成天皇はなぜ陽成の加後号なのでしょうか。そもそも「陽成」ってなんでしょうか。

 

この辺は遠山氏も「不明」としていらっしゃいます。この名前は後土御門院の時にも候補として上がっています。

 

この時の議論については近衛政家の『後法興院記』に記されていますが、後土御門院の場合、元になる土御門院が土佐国、後に阿波国遷座していることを以ってよろしくない先例という反対意見がありました。で、後陽成院については陽成天皇の行状は全く問題になっていません。しかし最終的に後土御門院に決まります。

 

「後土御門院」は後花園の時にも候補に上がります。後文徳院が却下された後に改めて出された候補の中に入っています。この時は遷座の先例ではなく、内裏が土御門にあったことが問題になっています。

 

陽成というのはどうやら「二条院」の別名のようです。だから陽成院と二条院と後二条院と後陽成院というのは全て二条がらみの名前であるようです。

 

陽成の父親が清和天皇でその別号を水尾帝ということから「後水尾院」の名前がついています。他には「深草帝」(仁明天皇)になぞらえた「後深草天皇」もいます。

 

光孝天皇こと「小松帝」にちなんだのが「後小松院」ですが、この帝も困ったお人で、なんと「小松院」を遺詔で定めています。しかし「小松」は光孝天皇のことなので、「小松院」はあかんやろ、ということになって、「後小松院」と加後号が使われています。しかし後小松本人は「俺は小松院だ」と思っていたはずです。

 

後小松が「小松」にこだわったのは、「小松帝」こと光孝天皇が現在の天皇につながる「正統」(しょうとう)の天皇だったからではないでしょうか。

 

「正統」の天皇については以下のエントリにまとめました。この企画が知り切れトンボになっている、という重大な瑕疵を今思い出しましたが、また忘れることにします。

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オンライン日本史講座2月第3回「朝鮮使節の見た室町日本」に向けて3

「朝鮮使節の見た室町日本」に向けての第3回目です。ここでは基礎的な話をしております。突っ込んだ話は当日です。

 

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朝鮮使節はしばしば来日しています。

 

有名なところでは足利義教のお悔やみにやってきた卞孝文がいますが、この使節が有名なのは卞ではなく、書状官だった申叔舟が後に『海東諸国紀』を記したり、世祖の簒奪に大いに寄与してのちの韓流ドラマでは悪役になっていたり、死に際して残した言葉が「日本と和を失ってはなりません」だったという親日派として知られていたりするからです。

 

しかしその前に押さえておかなければならないのが朴瑞生(パク・セソン)です。

 

彼は足利義持から足利義教の代替わりにやってきた人物ですが、非常に日本に関して冷徹な観察をしています。

 

例えば「国には中央銀行は存在しておらず、商人にそれを任せている」という記述などは公方御倉の存在を的確に指摘しています。また国王には倭寇の実効的な抑制策を取ることは不可能で、守護大名に直接交渉すべきことを書き残しています。

 

そして卞孝文です。卞は足利義勝への代替わりの儀礼のために来日しましたが、いろいろなトラブルに巻き込まれます。

 

以下のエントリで詳細に述べています。ご参照ください。

 

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要するに国王が幼少で権臣が力を振るっていると、国王の権威も低下して国家そのものの威信が失われてしまい、周辺諸国に対するメンツも潰れるし、迷惑もかけるし、でいいことがない、ということを書状官の申叔舟は身を以て思い知ったことでしょう、ということです。

 

のちに世祖による癸酉靖難に申叔舟が主体的に関わるのもその辺の事情があるのではないか、と妄想をたくましくしております。

 

『海東諸国紀』は「日本国紀』(!)と「琉球国紀」を日本の柱としています。「海東諸国」というのが現在の「日本」に相当しますが、当時は日本と琉球という国になっていました。

 

「日本国紀」(!!)には最初に「天皇代序」があり、ついで「国王代序」があります。明とは異なり朝鮮では天皇の存在を知っていたことになります。

 

天皇代序の凄いところは「天神七代」「地神五代」から始まるところです。申叔舟の書いた「日本国紀」ではその後「人皇の始祖は神武天皇なり」というところから始まっています。神武天皇の「名は狭野」とあっさりしています、

 

十五代天皇神功皇后が挙げてあるのは大正時代までの皇統譜に合わせてあります。

 

十六代の応神天皇の時に「百済書籍を送る」「百済王の太子来る」という記述があり、日朝関係の始原には彼らも関心を払っていることがわかります。

 

安康・清寧両天皇の事績は少し詳し目です。内紛が記され、最終的に顕宗・仁賢が立つことを説明しています。武烈天皇については「人を殺すを好む」と当時の平均的な記述がなされ、継体天皇は意外とあっさりと処理しています。むしろ欽明天皇敏達天皇が詳しいです。

 

崇峻の暗殺の話はなく、推古については詳しいものの聖徳太子は死んだことしか記録されていません。逆に推古の時代に中臣鎌足の生誕の記事が見られるのが新鮮です。ちなみに大化の改新の記録はありません。

 

これを延々続けるとそれはそれで面白いのですが話がずれますので、それくらいにしておいて、「国王代序」に移ります。

 

「国王代序」では源頼朝の活躍の次は「仁山」が活躍します。足利尊氏のことです。その後「瑞山」が継ぎ、その後は義満が継ぎます。義満の死後は義持が継ぎ、義持の死後は義教が継ぎます。義教は国王権力を強化するために大臣の勢力削減を試みますが、大臣の赤松の従兄弟で義教のお気に入りに赤松の所領を分けようとし、それを知った赤松が義教を殺害し、大内持世も殺されます。管領の細川が義勝を立て、義勝死後は義成がたち、義成死後は義政が立つ、と一人余分な人物が出てきます。義成(よししげ)は義政の最初の名前です。

 

「国中においては敢て王を称さず、只御所を称す」とあり、国王号が使われていないこと、「毎歳の元、大臣を率いて天皇に一謁し、常時はともに相接せず、国政および隣国を聘問することは、天皇は皆な与らず」と書かれています。

以上、以下の岩波文庫『海東諸国紀』を参考にしました。

 


海東諸国紀―朝鮮人の見た中世の日本と琉球 (岩波文庫)

 

天皇宮」「国王殿」「畠山殿」「細川殿」「左武衛殿」(斯波武衛家)「山名殿」「京極殿」「右武衛殿」(渋川家)「甲斐殿」「伊勢守」が記されます。

 

九州では「小二殿」が詳しく書かれています。

 

地図では壱岐対馬が異常に大きく、彼らの関心をうかがわせます。

 

琉球国紀」は「日本国紀」の数百分の一で、これは朝鮮の関心が琉球にはほぼなかったことの反映でしょう。琉球国の使者はたまにやってきますが、実際には対馬に丸投げだったようです。

 

この辺も含めた詳しい話は明後日の木曜日午後8時30分からZoom(ネットを使ったテレビ電話システム)にてお待ちしております。

 

Zoomミーティング - Zoom

↑ここで入手できます。ちなみに「購入」のボタンですが、この講座の視聴のためには無料ですので、押しても課金は発生しません。安心してポチってください。

Zoomでは「顔出し」「顔なし、声だけ」「顔なし、声なし、チャットで意見・質問」「顔なし、声なし、聞くだけ」が選べます。いろいろな形で参加できるのもZoomの魅力です。

 

リアルな講座では居酒屋気分にはなかなかなれませんが、オンラインですのでそこは自由に楽しんでいただければそれが本望です。好きな飲み物食べ物を持ち寄りながら居酒屋や喫茶店で話しているような気分でご参加いただければ幸甚です。

 

トップページにも「紅茶を飲みながら」と書いてあります。

 

Zoomにはマイクとカメラが必須です。両方とも備えているスマホタブレットが楽であると存じます。ちなみに私はタブレットです。

 

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後醍醐天皇綸旨(『朽木家古文書』(国立公文書館所蔵)所収)

月曜日は古文書の解説です。

第一回は後醍醐天皇綸旨です。確か「古文書入門」というカテゴリーで後醍醐天皇綸旨(『東寺百合文書』)をやっていた記憶はあるのですが、それは忘却の彼方、ということで気にせず新しいシリーズとして始めます。

 

一回で1つの文書を読んでいきますので、それほど丁寧な解説はできません。

どれくらい簡略化するか、といえば、2月25日に発売となる渡邊大門編『戦国古文書入門』(東京堂出版)の10分の1以下です。

 

www.tokyodoshuppan.com

私も書いていますのでよろしくお願いいたします。

 


戦国古文書入門

 

では現物を見ます。引用、転載、複製OKといえば国立公文書館京都府立京都学・歴彩館です。他にも意外とありますが、私はとりあえずそこを利用しています。ただし著作権は保持していますので著作権遵守は必須です。

 

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ここで『戦国古文書入門』ならば字が一つ一つここに取り出せて、それに一流の専門家(私を除く)が懇切丁寧に解説していきます(私もそこだけは見劣りしないように頑張っています)。ここではそのような高度な技術は使えませんので、そこは飛ばしていきます。

 

一行目は「近江国朽木庄地頭職」と読みます。

「近」はしんにょうに注意してください。「江」はさんずいが典型的な形のくずしです。「国」は多く「國」と旧字体で描かれますが、ここでは異体字で現行の書体である「国」を使っています。「朽木庄」はそれほど難しくないでしょう。

「地頭職」ですが、「地」はともかく「頭」が全く形が違うので戸惑うかもしれませんが、よく見るくずしです。「職」は偏が「耳偏」ではなく「身」となっていることの注意してください。

 

と、こんな具合に続いていくのですが、ここで『戦国古文書入門』なみの解説をやるとものすごく時間も手間もかかるのでここではもう少し簡略化します。

 

釈文です。

 近江国朽木庄地頭職

佐々木出羽四郎兵衛尉

時経如元可令知行者

天氣如此、悉之、以状、

元弘三年八月十二日  式部少輔(花押)

 

読み下しです。

近江国朽木庄地頭職、佐々木出羽四郎兵衛尉時経、元の如く知行せしむべきてえり。

天氣此の如し、これを悉くせよ、以って状す、

元弘三年八月十二日  式部少輔(花押)

 

朽木氏は佐々木氏の分流で、佐々木信綱ー高島高信ー頼綱ー朽木義綱ー時経と続いてきます。

 

元弘三年は西暦1333年、つまり鎌倉幕府が滅亡した年です。鎌倉幕府の滅亡によって地頭職などは改めて後醍醐天皇の綸旨によって安堵される必要が生じ、それが大混乱を引き起こしたのは「二条河原落書」にも「文書入れたる細つづら」と描かれている通りです。

 

少し注意すべき読み方としては文中の「者」という字です。「者」は「もの」と読んだり、「は」と読んだりする用例が一般的ですが、古代・中世では「てえり」「てえれば」と読む用例も多いです。「ということである」「ということであるので」という意味です。

 

個人的にものすごく疑問に思っていることがあります。「てえり」というのが「といえり」の訛りであることは言われていますが、綸旨にも関わらず「といえり」が「てえり」と、ものすごくべらんめえ調なのはどうしたことでしょう。例えば「ぞ」が『万葉集』の「東歌」では「ぜ」に訛るように「エ」段に訛るのは関東風なのではないか、と思っていたのですが、なぜか古文書では「てえり」とべらんめえ調です。なぜべらんめえ調に「てえり」となったのか、今まで疑問に思ってきました。

 

「天気」というのは「天皇の意思」です。綸旨は天皇の意を奉じた奉者が執筆する奉書形式の文書ですから、この文書では「天気」=後醍醐天皇の意を奉じた岡崎範国が出しています。

 

岡崎範国は藤原南家の堂上貴族で従三位非参議でした。孫に清原家から養子を迎え、それ以降は少納言止まりの下級貴族になります。ひ孫の範景(のりかげ)は足利義教(よしのり)と「のり」の読みが重なるのを憚って「資景」(すけかげ)と改名することを余儀なくされました。

 

「これを悉くせよ」という読みは日本史史料研究会監修、苅米一志著『日本史を学ぶための古文書・古記録訓読法』(吉川弘文館、2015年)に従っています。

 


日本史を学ぶための古文書・古記録訓読法

 

佐藤進一『古文書学入門』(法政大学出版会、1971年)では「これをつくせ」と読んでいます。この辺はどちらを採用するかは自由だと思いますし、私は口頭で説明するときは慣れている「これをつくせ」を採用していますが、文章で書くときはIMの変換効率の問題で「これをことごとくせよ」の方がスムーズに変換されるので「これを悉くせよ」としています。

 


古文書学入門

 

それではこの辺で。