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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

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火曜日:古文書入門

水曜日:次回講座の予告3

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 歴史学研究者・古文書講師の秦野裕介のブログです。

室町時代を中心に日本史を研究しております。

室町時代・戦国時代の政治史、あるいは北海道の中世史を研究しています。

京都府乙訓郡大山崎町出身。

1997年4月〜2018年3月まで立命館大学非常勤講師。

2004年4月〜2018年3月まで立命館アジア太平洋大学非常勤講師。

株式会社歴史と文化研究所客員研究員。

会社概要・客員研究員 - 株式会社 歴史と文化の研究所

2019年4月〜9月まで立命館大学授業担当講師。

原稿執筆(書籍・雑誌)、講演の相談・依頼は大歓迎です。

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日本の武士はなんであんなに「間抜け」なのか

こんな話を聞いたことはありませんか。

 

元寇の時、日本の武士はモンゴル軍の前に進み出て「やあやあ、遠からん者は音に聞け、近くば寄って目にも見よ、我こそは」

モンゴル軍、ドッと笑う。と、いきなり一斉に取り囲んで殺してしまう。

 

日本の武士って間抜けすぎ、としか言いようがありません。

 

というか、これ、本当なのでしょうか。

 

考えてみれば蒙古襲来の時の日本の武士って間抜けに描かれているような気がします。集団戦法と個人戦のネタもそうですが、そもそも武士が戦っても埒があかず、結局二度とも「神風」という自然現象に助けられた、ということになっています。

 

しかし近年の研究ではそれを覆す成果が出されています。文永の役では武士が戦ったゆえにモンゴル軍は撤退した、というのは今や多数説となったとみていいでしょう。ポイントは一日か、もっと長期化したか、という点です。

 

弘安の役でも台風にやられるまでに日本側がかなり奮戦していることは明らかにされています。台風による被害の大きさとその後の「掃討戦」が敗走するモンゴル軍を追いかけるのか、台風で被害を受けながらも戦闘で相手を負かしたのか、という点が議論にはなりますが、武士が何もできなかったわけではありません。

 

では日本の武士は無能で神風のおかげで勝った、という考え方はどこから出てきたのでしょうか。

 

これは『八幡愚童訓』です。

 

ではなぜ『八幡愚童訓』はそんなデマといってもいいような、日本の武士に対する侮辱的な記述を行なっていたのでしょうか。

 

これには当時の戦の構造を知る必要があります。構造、と言っても現実の戦の構造ではありません。当時の人々の頭の中で描かれた戦の構造です。

 

当時の日本では地上で人々が戦っている時、天上で神々も戦っているのです。神々も戦争で傷を負ったりします。相手を打ち果たしたりもします。それが地上の戦にも大きく影響を与えるのです。神の加護の下、人々は戦っていたのです。

 

したがって祈祷は非常に重要でした。戦に勝ったのは神のおかげです。もちろん戦った武士の功績もありますが、同程度に神仏も戦った功績があるのです。

 

もちろん神社はそのお礼を要求します。

 

したがって彼らにとっては武士は間抜けで役立たずの方がいいのです。日本を守ったのはへっぽこ武士ではなく神々である、という方が都合がいいのです。だからことさらに武士は間抜けでカスっぽく描かれ、それが近代の神国思想の中で強化され、日本は神が守っているので「最後に愛は勝つ」ではありませんが、最後は勝つのです。

 

この「神風」という現実から目を背けさせ、神社の利益のみを追求した観念が、後世にいかなる悪影響を及ぼしたかはここでは略します。

 

目の前の現実を受け入れられず、目を背けて神々の世界に閉じこもって破滅した戦前の日本の誤った歴史観を、なぜか戦後も引き継ぎました。「神風」を自然現象と読み替えればあっという間に「神風」批判に変わり得ます。

 

日本が勝ったのは単なる僥倖にすぎない、それを戦前の軍国主義者は「神風」と読み替えて国を誤ったのだ、と。

 

結果として日本にとっての蒙古襲来というのはどこまでも矮小化されます。

 

蒙古襲来研究の課題は戦前と戦後を通じて流れてきた「神風」史観だったと言えるでしょう。この二十年ほど、もう少し長いかもしれませんが、蒙古襲来研究史は「神風」史観をどう克服するか、ということだった、と私は考えています。海域アジア史の中に位置付ける研究、得宗政権の動向を探る研究、悪党、徳政令や仏神領興行法などの社会史の研究など、さまざまな積み重ねがあり、現在の研究につながっています。

 

そういうことを再確認した今回の講座だったと思います。

弘安の役の神風

弘安の役と言えば「神風」こと台風でモンゴル軍が撤退したことはほぼ疑う余地はないとされてきました。もう少し詳しく説明すると、まず東路軍が博多湾に侵攻、志賀島を占拠しますが、博多湾がいわゆる「元寇防塁」によって要塞化されていたために攻撃に手間取り、遅れて到着した江南軍と鷹島で集結し、いよいよ総攻撃を開始しようとした時に「神風」こと台風がやってきてほぼ壊滅した、と考えられてきました。

 

これは戦前の池内宏以来の通説です。ポイントは博多湾に襲来したモンゴル軍が志賀島を占拠しながらも博多湾を要塞化したことによって攻めあぐね、一旦鷹島に退いたところです。

 

服部英雄氏はその見方に疑問を呈します。志賀島という拠点をなぜ放棄して鷹島に戻る必要があるのか、鷹島で全滅したのならばなぜ竹崎季長らは鷹島から遠く離れた博多湾に待機し、そこから鷹島に向かって戦うのか。服部氏は台風で決着がついたのではなく、その後も志賀島鷹島で戦闘が繰り広げられ、海上合戦で敗北して帰国したものと考えています。

 


蒙古襲来と神風 - 中世の対外戦争の真実 (中公新書)

 

 例えば従来の説では高麗を出発してから19日もかかって対馬に到着しています。しかし当時、高麗から対馬までは1日で来ます。何をしていたのか、なぜそんなにかかったのか。それについて服部氏は鮮やかに論証してみせます。ぜひこの本を読んでみてください。

 

服部氏の描き出す弘安の役を時系列に並べてみます。

 

5月26日、東路軍(高麗軍)は志賀島に上陸し、そこに橋頭堡を築くことに成功します。

 

6月上旬、日本側は志賀島奪還のための攻撃を仕掛けますが、志賀島能古島の奪還は失敗します。

 

そのころ長門国にもモンゴルが来週します。

 

東路軍は志賀島を占拠し、日本軍の反撃を退けたものの、九州本土への上陸に失敗し、日本側は志賀島への補給路となっている壱岐を攻撃目標とします。

 

その最中、江南軍(旧南宋軍)が中国大陸を出発し7月始めに平戸、同15日に鷹島に到着し、いよいよ日本への総攻撃が開始されようとしていました。

 

ここで池内説(通説)と服部説の違いをみますと、池内説では鷹島に7月27日に到着、志賀島にいた東路軍が一斉に鷹島に移動したことになっていますが、服部説では27日には東路軍から連絡部隊が鷹島についた、となっています。

 

さらに池内説では閏7月1日に鷹島を直撃した台風で東路軍・江南軍ともに壊滅した、となっていますが、服部説では閏7月1日に東路軍は志賀島で、江南軍は鷹島で、それぞれ台風に遭遇し、東路軍は5日に博多湾で敗北し退却、江南軍は7月7日に鷹島で敗北して退却しています。

 

あくまでも私の印象に過ぎないのですが、今まで腑に落ちなかった点が服部説によってすっきりしました。長門への来襲とか、博多湾から鷹島って遠過ぎない?とか、幕府御家人って弱すぎない?とか。

 

結局『八幡愚童訓』という史料がベースにあったんだな、と。『竹崎季長絵詞』をもっと中心にすえてみていけばよかったんだ、とかいろいろ考えるところがありました。

神風は吹いたのか

ただいま色々忙しいため、ブログの更新は途切れがちです。

 

今回は8月15日(木)のオンライン日本史講座のお知らせを兼ねて神風が吹いたのか、という問題を考えることにしました。

 

「神風」ですが、この由来は文永の役弘安の役の二度のモンゴルの襲来に際して二度とも風によって救われた、という見方です。日本は天皇を中心とする神の国、という概念を作り上げるのに大きく寄与した歴史事件です。

 

ところがこれが不思議なことに文永の役の時に風が吹いたかどうか、定かではありません。日本側の史料にはほとんど風のことが言及されていません。モンゴルおよび高麗の史料には言及されています。これから考えれば、文永の役の時に風が吹いたのは撤退中のことであると考えられます。

 

弘安の役では風が吹き、モンゴル軍に大きな損害を与え、それが原因となって撤退に至ったことは間違いがないところと思われています。

 

それでは文永の役の撤退原因は何だったのでしょうか。

 

これについてはまず言われていたのが、モンゴル軍は1回目には内情を探るために軽いジャブを放つ、という説明がありました。しかし近年ではその見方は否定されています。

 

まず日本側の事情ですが、一口に言えば日本側はかなり善戦しています。とりあえず少弐景資劉復亨を射落とした、と言われています。『八幡愚童訓』には景資が「流将公」を射たとされており、『高麗史』には劉復亨が流れ矢に当たった、とあります。

 

この両者のプロフィールです。

 

まずは少弐景資です。

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少弐景資竹崎季長絵詞』

白粉に口紅をさし、お歯黒をつけています。派手な大鎧と相まって五月人形のようです。しかしバカにしてはいけません。彼の持っている弓矢はかなり強力な武器です。私の記憶ではモンゴルの弓は小さく速射がきいて矢も強く、毒も塗ってあって、逆に日本の弓は大きく弱い、というようなことが書かれていましたが、弓矢は当時最強の武器です。

 

文永の役では「日の大将」を務めていました。肥後・肥前守護代でした。肥前肥後守護は兄の経資です。やすやすと赤坂への上陸を目の前にしながら息の浜から動かなかった判断をミスとする見解もあります。一方で日本側は騎射を基本とする戦法のため、馬が動きにくい赤坂での迎撃を見送り、足場の良い息の浜で迎撃する予定であったとも考えられています。

景資が指揮したのはあくまでも肥後・肥前御家人でしょうから、実際の総指揮は経資がとっていたのでしょう。ただ有名な『竹崎季長絵詞』の著者の竹崎季長が肥後の御家人だったので、景資が目立つのは事実です。

 

服部英雄氏によればモンゴル軍の狙いは赤坂の現在の福岡城にあたる警固山のようです。

 


蒙古襲来と神風 - 中世の対外戦争の真実 (中公新書)

 

 博多に関する土地勘がないので、絵がないとピンとこないのですが、モンゴル軍は麁原に上陸したようです。この辺は実際に地図を出して説明しようと思います。

 

麁原に上陸したモンゴル軍はまずは一番の橋頭堡になりそうな警固山を狙います。10月20日のことです。麁原から鳥飼に向かって警固山を目指すモンゴル軍に対し、菊池武房勢が攻撃を仕掛け、勝利を収めます。

 

モンゴル軍は麁原に退いて体制の立て直しを図りますが、肥前・肥後勢が鳥海潟まで追撃してきたため、モンゴル軍も鳥飼潟に向かい、交戦しますが、この戦いで劉復亨が負傷し、モンゴル軍は麁原山に退却します。

 

それを追撃する形で百道原・姪浜

 

ここでわずか1日で戦闘が終わった、と考えられてきたのですが、服部氏はここから1日で退却するのは難しく、『関東評定伝』に24日に太宰府でモンゴル軍との戦闘があり、日本側が勝利を納めたことが書かれています。

 

これでモンゴル軍は諦めた、と考えられています。

 

劉復亨です。

 

ウィキペディアに依拠します。

ja.wikipedia.org

漢人ですから金の遺民の子孫です。耶律楚材の門人でした。四大軍閥の厳平の配下の武将として台頭し、アリクブケへの対抗策としてクビライが組織した親衛隊に組み込まれ、アリクブケ打倒後には武衛軍副都指揮使となり、左翼侍衛親軍副都指揮使・昭勇大将軍・鳳州等処経略使を経て運命の征東左副都元帥となります。

 

この経歴を見る限り彼も有能な将です。もし劉が景資にやられていたとしたら、「あんな飾り付けられたヤツに射られたOTL」という気分だったのではないでしょうか。

 

いかがでしたか?

 

日本側はかなりショボい、と思われていた文永の役でしたが、実際にはかなりの激戦だったことは事実であり、また実際には日本側はかなり善戦していることがわかります。ではなぜ日本軍はあんなに弱かったように描かれたのでしょうか。それには様々な事情が複雑に絡み合って「日本の武士弱い」というイメージになってしまったのです。それについて次は述べたいと思います。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

大モンゴルウルスに対峙した人々1 北条氏とその周辺

8月1日(木)のオンライン日本史講座でのまとめです。

 

北条氏について、皆さんはどういうイメージをお持ちでしょうか。陰険、陰謀、北条政子、暗殺。あんまりいいイメージないですね。なんとなく謀略と暗殺でのし上がり、最後は暗君の北条高時によって滅びてしまったクソみたいな一族、というイメージでしょうか。

 

北条時政源頼朝の義父という地位を利用して権謀術数でライバルを滅ぼし、初代執権に、北条義時は同じく有力御家人を滅ぼして侍所も支配下に入れ、将軍も暗殺して実権を掌握(ちなみに私はその考えを支持しません)、承久の乱後鳥羽上皇流罪に処して朝廷も圧服した独裁者、北条泰時御成敗式目北条時頼得宗専制北条高時は無能で暴虐で自業自得、というイメージでしょうか。

 

唯一評判のいいのが北条時宗でしょう。国難に敢然と立ち向かい、日本を救った救国の英雄、現代日本に必要な愛国者、ビジネスマンも見習うべきリーダーシップ。

 

実際のところはどうなのでしょうか。調べてみました。

 

北条時宗北条時頼の嫡子として生まれました。庶兄に北条時輔がいます。彼の母は極楽寺北条重時の娘で、その姉妹が安達泰盛の妻です。そして安達泰盛の妹は北条時宗の妻です。

 

安達泰盛は以前(数十年前)までは豪族的御家人最後の生き残りと言われてきました。現在ではそういう見方は基本的にされていません。北条氏の外戚として北条得宗専制の有力な構成メンバーとみられています。

 

モンゴル戦争は日本全体が日本の危機に対応して一致団結して戦ったかのように言われていますが、実際はどうだったのでしょうか。

 

よく言われるのが、この戦争を主体的に戦ったのは鎌倉幕府、それも安達泰盛とその周辺だけ、といも言われています。どういうことでしょうか。

 

鎌倉幕府御家人はすべての武士を支配下に収めたわけではありません。御家人というのは源頼朝と主従関係を結んだ武士とその子孫です。従って新規参入は基本的にはありません。御家人であることは既得権益であったのです。

 

モンゴル戦争で、主体的にモンゴルと対峙した安達泰盛は、御家人だけにしか指揮権を持ち得ない現状に危機感を募らせたことは事実でしょう。

 

安達泰盛はしばしば日本のあり方自体を変えた、とすら言われます。その頃の日本は土盛りの城だったのですが、泰盛は文永の役後に博多湾に壮大な石垣の要塞を築き上げ、博多湾全体を基地化して玄界灘制海権を制圧しました。

 

また九州の非御家人御家人編入しようとしました。それで御家人層の反発を買って粛清された、という見方も存在します。

 

次に得宗についてみてみます。

 

得宗」という言葉自体は北条義時法名から付けられています。義時の子孫で北条家の家督者を指します。具体的には泰時・経時・時頼・時宗・貞時・高時となります。特に経時の早逝後、後継者となった経時の弟の時頼が病気で死にかけて執権辞任、出家以後、奇跡的に快復してのちは執権ではなく北条氏家督として幕政を仕切ります。

 

時頼は死にかけた時に、重時の嫡男の長時を執権にし、時宗成人までの中継ぎとします。ここに執権の地位をめぐる得宗とそれ以外の北条家のランクがはっきりと分かれます。これ以降、得宗にとっては執権は最初の幕府の役職、それ以外の北条氏にとっては最後のキャリアとなります。

 

時宗が成人する前に長時は死去し、ワンポイントとして長老の北条政村が執権に就任します。クビライからの使者がやってきたのは政村執権の時代です。これを受けてか、時宗成人のタイミングか、時宗が執権となりますが、幕府にとって重要な時期であったため、政村が連署に回り、時宗のサポートに回ります。執権辞任後、別の役職に回ったのは政村が最初で最後、得宗以外の人物で執権辞任後も幕政に関わったのも政村が最初で最後です。

 

時宗のもとでは内紛があらわになってきます。平頼綱安達泰盛の不仲が浮上し、時宗はその対応にかなりの心身をすりへらしたのではないか、と言われています。

 

時宗の時代には宗尊親王を追放という事件が起こっていますが、宗尊親王が追放されたのは時宗と対立したからではなく、密通に関する後嵯峨上皇の諷諫に従わず、後嵯峨の逆鱗に触れたからだという河内祥輔氏の見解に私も従いたいと思います。

 


天皇と中世の武家 (天皇の歴史)

 

 いかがでしたか?

 

北条氏について少し調べてみました。安達泰盛という人がなんかポイントっぽい気がしますね。さらに調べていろいろ書いてみたいと思います。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

最後に下のリンクをクリックしていただければありがたいです。オンライン日本史講座のお知らせです。

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三別抄に対して日本はどう対応したか、調べてみた!

8月1日(木)午後8時30分からのオンライン日本史講座の予告エントリです。

 

8月は「元寇」とか「蒙古襲来」とか言われるモンゴル戦争についてやっていきます。

 

第一回は文永の役以前です。

 

文永の役以前の大きな出来事としてはクビライの国書と、三別抄です。

 

というわけで三別抄について調べてみました。三別抄とはどんな人?日本への影響は?日本側の対応は?調べてみましたのでご覧ください。

 

それではどうぞ。

 

まず三別抄です。

 

「別抄」(ピョルチョ)というのは高麗の軍制です。当時高麗は武人政権で、いわば鎌倉幕府平氏政権のような武人による政権が成立していました。鎌倉幕府との最大の違いは、鎌倉幕府が領主制を確立し、朝廷からかなり自立していたのに対し、高麗武人政権は王朝とがっつりくっついていた点である、と言われています。一方で王朝を傀儡化しながら、王朝に権威の由来を求めているところが特徴で、ということを言い出したら室町幕府などどうなるのでしょうか、と室町幕府と朝廷の関係を研究しているといろいろ考えてしまうところがあります。

 

その武人政権の軍制の別抄の中でも夜別抄二部隊と神義軍の三部隊が武人政権の最精鋭部隊で、彼らを三別抄と呼んでいました。

 

モンゴルによる高麗への侵攻が進んでいた時、高麗を支配していた武人政権を、そのトップの名前から崔氏政権といいます。崔氏政権はモンゴルの侵攻に徹底的に抵抗し、やがてモンゴルとの融和に傾く王朝と対立し、最後は王朝に滅ぼされてしまいます。日本より七十年早く武人政権が王朝政権に打倒されたのです。

 

モンゴルの帝室と一体化していく高麗の王朝に対し、一旦は武人政権打倒に動いた三別抄がモンゴルおよびモンゴルと一体化した王朝に対し反旗を翻します。これが三別抄の乱です。近年は高校の授業でも取り上げられるので、ご存知の方も多いでしょう。

 

この三別抄の研究の古典的な位置を占めるのが旗田巍氏の『元寇』(中公新書)です。

 


【中古】元寇 蒙古帝国の内部事情 /中央公論新社/旗田巍 (新書)

 

 この三別抄が日本に遣使していたことを明らかにしたのが石井正敏氏です。石井氏は「高麗牒状不審条々」という史料を分析し、三別抄が日本に救援を求めるとともに日本と連帯しようとしていたことを明らかにしました。

 

村井章介氏によると、その三別抄の呼びかけに対し、当時の朝廷には外交文書を正確に読みこなし、外交を行うことができなかった、ということです。三別抄からの呼びかけに対応するために開かれた会議では儒者の漢文を読みこなす能力を競う場になっている、ということです。

 

私はその見解に対して疑問があります。

 

村井氏をはじめ先行研究が元にしてきたのは『吉続記』ですが、そこの文永八年九月五日条に東坊城長成が「停滞なくこれを読み申す」としているところです。一方日野資宣は九月三日に同じ文書を読み、「日ごろ稽古の名誉なし」と酷評されています。これを捉えて漢文の読みを競う場でしかなかった、と評価しているのですが、この翌日の部分を読めば何が問題となっているのかがわかります。

 

結論から言えば「貼」という漢字では意味が通らなかったのです。資宣は「貼」と呼んだために意味が通りませんでした。一方長成は「目」に「占」という漢字として文意を把握したのです。「目」に「占」という漢字は「テム」と読みますが、意味は「うかがう」ということであり、モンゴルが日本を侵略しようと「うかがっている」ことを三別抄が知らせてきた、ということになります。「字面の解釈に終始」と評価されますが、非常に重要な「字面の解釈」だったわけです。

 

朝廷が三別抄の要請を黙殺したのは、意味がわからなかったとか、東アジア情勢を理解できなかったとか、そういう理由ではなく、三別抄の使者が来た段階では朝廷なりに外交方針を決めていたからです。朝廷は近衛基平の死後に方針を変えて高麗の現王朝と友好関係を結び、モンゴルとの交渉も視野に入れた姿勢を取ることを決定していました。そのような時期に高麗王朝およびモンゴルに抵抗する三別抄と関係を持つはずがありません。

 

この辺の事情については今から七年前に論文にしております。

http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/624/624PDF/hatano.pdf

 

 いかがでしたでしょうか。

 

日本だけでなく高麗にも幕府のような武人の政権があったなんてびっくりですね(棒)

 

さらに高麗の中でもモンゴルと組んでいたり、逆に日本と連帯しようとしていたり、やはり一面的に見るのは間違えている、ということも改めて思いました。物事を単純化して見るといろいろ問題が出てきますね。

 

今日も最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

下をクリックしてオンライン日本史講座の詳細をご覧ください。そして興味を持たれましたらZoomで御越し下さい。

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近衛基平ってどんな人?

今から二十年以上前の大河ドラマに「北条時宗」というのがありまして、大河ドラマですからあちらこちらにフィクションが仕込まれているのですが、そこで人々のハートを射抜いたのが主人公北条時宗の兄の北条時輔とその相棒となってモンゴルとの通行関係を拒否して宮中で自害した近衛基平だったのです。

 

最近ネットでも姿を見かけませんが、近衛基平ってどんな人?何をしたの?彼女は?SNSは?気になっていろいろ調べました。

 

近衛基平は日本の関白左大臣です。実際の死因は痢病とありますから、下痢による脱水症状で死んだ、と思われます。

 

ものすごくイケメンに描かれることが多い基平ですが、実際にはどうだったのでしょうか。「正元二年院落書」に次のように書かれています。「内府ニシシアリ」と。『中世政治社会思想』下(日本思想体系、岩波書店)の注には「シシ」を肉として「肥満」と推定しています。イケメンでスマートなイメージがありましたが、実際は当時の貴族から見ても肥満だったんですね。

 

ちなみにお顔はこんな感じです。

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近衛基平 天子摂関御影

彼のブログ、もとい日記は『深心院関白記』(じんしんいんかんぱくき)と言います。『大日本古記録』に活字が、『陽明叢書』に写真版があります。

 

彼とモンゴル戦争の関係をいいますと、クビライ・カアンからの国書が到来した時の院での議論に基平は返書の反対を主張し、二条良実一条実経と対立しています。基平の姉は宗尊親王の妻で惟康親王を生んでいますが、密通して京都に戻ってきていました。困った親族です。宗尊親王も後嵯峨院の逆鱗に触れて鎌倉から送還されてきています。ちなみに宗尊親王が幕府の実権を掌握しようとして北条時宗によって追放された、という見方は私はとりません。時宗宗尊親王の関係がよくなかったことは事実ですが、むしろこれは妻の宰子の密通事件の処理を誤って後嵯峨院の逆鱗に触れた、というのが真相でしょう。時宗は後嵯峨院にとりなした上に宗尊親王に領地を献上しています。

 

基平が国書への返書に反対したのは、彼がクビライの国書を侵略的である、と思ったからではありません。基平も「和親」であることは理解していました。

 

ではなぜ基平は反対したのでしょうか。

 

これはまず第一に書式が無礼だったからです。クビライの友好を求める気持ちは基平もわかっていました。しかし若き基平にとっては、クビライが日本を見下しているように思えたのです。クビライの主観では最大限譲歩し、日本を立てているのですが、あくまでもウエメセであることには違いがありません。基平にすれば、かようなウエメセ国書は受領するわけにはいかなかったのです。

 

もう一つ、これは確証はないので推定にとどまりますが、鎌倉幕府の意向が働いているのではないか、と考えています。

 

クビライの国書が到来した時、日本の外交の窓口は大宰府でした。と言っても大宰府は極めてややこしい状況にありました。大宰府の長官は帥です。これは親王が任ぜられるものです。そして権帥があります。現地に赴く場合も多くは流罪に処せられる時に、左遷の形をとって送られました。有名なところでは菅原道真ですね。次官が大弐です。これも遙任で、平清盛がついていたことでも知られています。三等官が少弐です。これが受領となります。つまり現地に赴任する最高責任者です。

 

鎌倉幕府は西国の押さえのために大宰少弐御家人武藤資頼をつけます。以降、大宰少弐は武藤氏の世襲するところとなり、少弐氏を名乗るようになります。

 

したがってクビライの国書を持ってきた使者は最初に大宰少弐武藤資能にその国書を渡すことになります。資能はこれをどうするか、頭を悩ませるところです。彼は一方で朝廷の外交の窓口である大宰少弐であると同時に鎌倉幕府鎮西奉行でもあります。

 

結局資能はおそらくは悩まずにあっさりと鎌倉幕府に国書を送りました。そしてその国書は鎌倉幕府から東使によって西園寺実氏のもとにもたらされ、朝廷に提出されたのでしょう。この時に宰子の弟の基平にも幕府の意向が伝えられていた可能性があるのではないか、と私は考えています。

 

いかがでしたか?

 

今回近衛基平とモンゴル戦争の関わりについて調べてみました。クビライの国書を武力行使をちらつかせた、と読み取るのはあくまでもモンゴル戦争という結末を知っている現代人の結果論的解釈にすぎないことが、基平の日記によっても分かります。史料を解釈する時に結果論的解釈に陥らないようにする、というのは非常に大事であるということがわかりますね。私も少しでもそうなれるように努力していきたいと思います。

 

今回も最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

下記のボタンをクリックしてオンライン日本史講座を知っていただければ、と思います。今回は8月1日(木)午後8時30分からです。日付が違っていても接続先は同じです。お暇ならば来てください。

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