記載されている会社名・製品名・システム名などは、各社の商標、または登録商標です。 Copyright © 2010-2018 SQUARE ENIX CO., LTD. All Rights Reserved.

室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

トップページ

*このページは告知用に一番上に置いています。2ページ目からご覧ください。

 歴史学研究者・古文書講師の秦野裕介のブログです。

室町時代を中心に日本史を研究しております。

室町時代・戦国時代の政治史、あるいは北海道の中世史を研究しています。

株式会社歴史と文化研究所客員研究員

会社概要・客員研究員 - 株式会社 歴史と文化の研究所

原稿執筆(書籍・雑誌)、講演の相談・依頼は大歓迎です。

yuusukehatano617◆gmail.com(◆の部分を@に変えてください)までお願いします。

今後の予定

 

☆戦国古文書、後北条氏の文書を読む(全5回)

1月11日(金)

府市民教室 2018年度第2期 文芸・歴史コース 戦国古文書 後北条氏の文書 | ラボール学園(京都勤労者学園)

 

☆戦国古文書、後北条氏の文書(全5回)

月一回(3月〜7月)、第二金曜日(祝日は休講)

3月8日、4月12日、5月10日、6月14日、7月12日

時間10時〜12時

受講料:5回、¥6,750(資料代・消費税含む)

 

☆京都の歴史と地名謎解き散歩(全5回)

月一回(3月〜7月)、第一月曜日(5月13日のみ第二月曜)

3月4日、4月1日、5月13日(第2月曜)、6月3日、7月1日

私の担当は5月13日

大覚寺大覚寺統

時間10時〜12時

受講料:5回、¥6,750(資料代・消費税含む)

 

☆語り継ぎたいその人の生涯

月一回(3月〜7月)、第四金曜日

3月22日、4月26日、5月24日、6月28日、7月26日

私の担当は5月24日、7月26日

5月24日:後花園天皇応仁の乱を招いた「近来の聖主」〜

7月26日:兼好法師吉田兼好はいなかった〜

時間10時〜12時

受講料:5回、¥6,750(資料代・消費税含む)

 

お問い合わせ

ラボール学園(公益社団法人 京都勤労者学園)

www.labor.or.jp

 

〒604-8854 京都市中京区四条御前 ラボール京都3階

2月6日(水)午前10時より受付開始

お申し込みは授業料を添えて直接ラボール学園まで

 

フェイスブック

www.facebook.com

 ツイッター

twitter.com

インスタグラム

www.instagram.com

『看聞日記』における足利義教ディスについて2

『看聞日記』には足利義教の暴政が数多く残されています。貞成親王は義教には散々お世話になっているはずですが、しっかり書かれています。

 

今日はそのうち「万人恐怖」を取り上げたいと思います。

 

この言葉が発せられたのは永享七年二月八日条です。原文を上げます。

山門事是非不可沙汰之由被仰。而煎物商人於路頭此事申間召捕。忽刎首云々。万人恐怖莫言々々。

 

f:id:ikimonobunka:20181211093448j:plain

東京国立博物館本『七十一番職人歌合』二十四番「一服一銭」と「煎じ物売」

七十一番職人歌合 - Wikipedia

 

「煎物商人」は上の画像および次の記事をご覧ください。左側の人です。

中世日本の移動式カフェ!? 煎物売(せんじものうり)とは【狂言のなかの職人・商人 1】 | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト

 

義教は山門(比叡山)をめぐる事件の是非についてあれこれしてはいかん、と通達を出したのですが、「煎物商人」が路頭で話していたので捕らえられ、首を刎ねられた、という事件です。

 

貞成親王自身は山門騒動の一件についてこの直前で「社頭以下無為、天下大慶也」と述べているので、特別に義教をディスっている、というわけでもありません。

 

「万人恐怖、言う莫かれ言う莫かれ」というのは、「おーこわ、言うたらあかんな」という感じでしょうか。

 

ちなみに山門騒動については下記のサイトが詳しいです。もとが『大津市史』ですから信頼ができます。

坂本の歴史 盛衰

 

さらに詳しく見たければ下記の本が読みやすくていいでしょう。最近出ている室町時代のマンガの本よりはよっぽどしっかりしています。何と言っても今谷明先生の監修です。しっかり監修なさっているのと、作者の石ノ森章太郎先生もしっかりと勉強なさっています。このマンガは監修が例えば村井章介先生とか、第一線の研究者が監修していたので安心して読めます。通史を知りたければこのマンガをお勧めします。場所をとりますが。

 


マンガ 日本の歴史〈21〉土民、幕府をゆるがす (中公文庫)

全巻セットはこちら。

 


マンガ日本の歴史全55巻セット (中公文庫)

 

で、山門騒動ですが、ざっくりまとめます。

幕府は比叡山延暦寺の統制のために山門使節と呼ばれる組織を設置し、山門の衆徒をコントロールするとともに梶井門跡や青蓮院門跡に将軍家の子弟を入れ、彼らを天台座主に据えます。足利義教も前職は青蓮院門跡で天台座主でした。

 

その山門使節の中で仲間割れが発生します。光聚院猷秀という山門使節が仲間から追放されます。事情はわかりません。ところが彼は幕府と太いパイプがあり、幕府のゴリ押しでちゃっかり復帰します。彼は幕府の威光をバックにやりたい放題、山門使節があまりのひどさに猷秀と、かれと癒着した飯尾為種、赤松満政を訴えました。

 

義教も猷秀はさすがにかばいきれなかったのか、三人を処分します。それに調子付いた山門側はこの時に同調しなかった園城寺を焼き討ちします。あれ?これって山門側、悪くね?

 

義教は満済細川持之の静止を振り切って比叡山に軍勢を差し向けます。これは半月でカタがつきますが、よく年、関東公方足利持氏と通謀の噂が流れ、義教は比叡山への本格的な軍事行動を決意します。

 

近江守護六角氏と京極氏による封鎖が実施され、坂本焼き打ちが実行され、使節は音を上げて降伏します。

 

義教は彼らを赦免し、再任すると偽って呼び寄せるとやってきた使節の首をことごとく刎ねます。その時の様子は「公方悦喜快然、中々無申計云々」ということでした(『看聞日記』永享七年二月四日)。

 

貞成親王のもとにも「御太刀可献」という御達しが来てあたふたしながら太刀を用意して三条実雅を通じて献上しています。

 

八日、風呂上がりにくつろいでいると内裏の後花園天皇のもとに行っていた世尊寺行豊が帰ってきて根本中堂が炎上した事、座禅院以下が中堂に立てこもって自焼きし、腹を切ったこと、噂をしてはならない事、それを破った商人が首を刎ねられたことなどを報告してきました。

 

後花園天皇が口の軽い親父を気にして送ってきたのかな、という気がしないでもありません。

『看聞日記』における足利義教ディスについて1

意外と人気の高い『看聞日記』。荒ぶる足利義教をしっかりと描いているので義教ファンにとって最高の書物です。満済の『満済准后日記』もあるのですが、なんせ義教は満済の前ではおとなしいですから。また満済もオブラートに包む名人で、なかなか本音を出しません。どうでもいい話ですが、『東寺百合文書』で出てくる満済は日記とは別人のようにハジけた男です。

 

これからしばらく『看聞日記』の足利義教ディスについてみていきたいと思います。「薄氷を踏むの時節」(永享3年3月24日)、「万人恐怖」(永享7年2月8日)、「恐怖千万」(永享9年2月9日)、「悪将軍」(永享9年11月6日)、「将軍如此犬死」(嘉吉元年6月25日)とあるのですが、実は貞成親王は義教にものすごくお世話になっています。義教が機嫌を損ねないか、ものすごく過敏になっているのは事実ですが、ここまでディスると「忘恩の徒」とかいう言葉が浮かんできます。しかし貞成親王ファンの私としては彼を「忘恩の徒」とは思っていません。

 

まず永享3年3月24日条の「薄氷を踏むの時節」です。

原文は以下の通りになります。

 踏薄氷時節可恐々々。

 何があったのでしょうか。

 

この日は後小松院が出家した日です。後小松院は以前から出家したがっていましたが、義教が反対してきたため、延び延びになっていました。この日のやりとりについては石原比伊呂氏の『足利将軍と室町幕府』(戎光祥出版、2017年)に詳しいです。


足利将軍と室町幕府 時代が求めたリーダー像/石原比伊呂【1000円以上送料無料】

 

足利将軍と室町幕府―時代が求めたリーダー像 (戎光祥選書ソレイユ1)

足利将軍と室町幕府―時代が求めたリーダー像 (戎光祥選書ソレイユ1)

 

 

 

 

政権基盤が確立していない義教にとって後小松院が出家して朝廷内の秩序が変動するのが望ましくなかった、と石原氏は説明します。にも関わらず出家を強行した後小松院に対する義教の不満はたまる一方です。

 

で、後小松院に仕えてきた西園寺実永や洞院満季らが後小松院に殉じて出家したい、と申し入れます。もちろんリップサービスです。ここで義教が「いや、お待ちください、残って私を補佐してくださらないと回りません」と止めることしか期待していません。ところが義教はあっさり「出家したらええやん」といい、「今日中に出家しないと罪科に問うぞ」と脅したので彼らはあわてて出家した、と伝えます。

 

もう少し詳しく訳をつけると以下のようになります。

院周辺の人々が出家のことを両伝奏(勧修寺経成・広橋兼郷)を通じて室町殿に伺いを立てた。西園寺・吉田・園は勧修寺に申した。洞院・按察(藤原姓土御門)は広橋を通じて申した。しかし勧修寺が三人が院のお供をして出家します、と述べたところ、「決定しているのだから今更伺うには及ばない」ということであった。ものすごく機嫌が悪かったので述べ申していうには「院の上意で出家しますので申し上げるのです」と。すると余計にご立腹で、広橋を通じて「三人は今日中に出家しないと罪に問う」ということを仰せであった。そこで急いで出家した、ということである。洞院と按察は広橋が申した。すると「ともかくも」と仰せられた。これも不快か、出家を遂げた、ということである。仙洞の出家のことは以前再三お止めになった。そこを押して出家したので周辺の人々までムカついているということである。摂政の着座は参るべきであるが、体調不良と称して来なかった。これもムカついたから出仕しなかった、ということである、勧修寺はものすごく室町殿の御意に違ってしまったので欠席した。気の毒なことだ。薄氷を踏む時期、おーこわいこわい。

 少し解説を加えます。

 

勧修寺経成を通じて出家の意向を申し出た公家には返事が広橋兼郷だった、というのはホラーです。経成も巻き込んでしまったか、と思った方、正解です。経成は義教が「決定しているのだから今更グダグダいうな」とキレた時に、「上意で出家するので申し上げるのです」といらんことを言ってます。だから義教は経成にまでキレています。

 

広橋兼郷に対しては「ともかくも」(原文は「ともかくもと被仰」)としか言わなかったようです。これは現代語で「ともかくも」と書いてもそのままです。

広橋兼郷「あのー、洞院と按察が出家したいと伺い申し入れているのですが、どのようにいたしましょう。」

「とにかくな・・・」

(気まずい沈黙)

兼郷「はいー!!!わかりました」

三人のところにもどる。

洞院ら「あのー、室町殿のご返事は?」

兼郷「とにかくな・・・だけでした」

洞院ら「😱」

 

勧修寺経成というのは貞成親王にとっては比較的親しい関係です。播磨国衙領の代官なので、昔から馴染みはあります。その勧修寺が義教の機嫌を損ねたことに関する感想です。

だから

「気をつけないとやばいよねー、そだねー😅」

くらいのイメージで考えるべきではないでしょうか。

 

九州南朝方の中心ー征西将軍宮懐良親王

征西将軍宮懐良親王といっても知らない方も多いのではないでしょうか。

 

懐良親王後醍醐天皇の皇子です。第何皇子かはわかりません。なんせたくさんいますから。1329年生まれですから、かなり下の方です。後醍醐天皇の皇子の中でも没年はかなり遅い方の1383年です。母は権大納言三位局で二条為道の娘です。

 

以上はウィキペディア後醍醐天皇の項目です。

後醍醐天皇 - Wikipedia

 

懐良親王といえばやはり征西将軍として九州方南朝勢力の最盛期を作ったこと、「日本国王良懐」として明の洪武帝に使者を送ったこと、などがその事績としてあげられます。

 

懐良親王が明に使者を送ったのか、あるいは偽使だったのか、というのは議論がありました。ただ偽使だった、というのは、皇室の藩屏たる親王が中国に称臣朝貢をするはずがない、という前提がなければ成り立ちません。

 

『明実録』を見る限り懐良親王はかなり迷っているのは事実です。1回目の使者は或いは斬られ、或いは拘禁された上で追い返されています。しかし2回目の使者の趙秩の説得に応じ、趙秩を斬ろうとしていた態度を改めて称臣朝貢をすることにした、と書いてあります(『明太祖実録』洪武四年十月癸巳条)。

 

問題は洪武帝の使者が懐良親王日本国王冊封するために来日した時にはすでに博多は今川了俊の手に落ち、彼らは京都に連行され、細川頼之の取り調べを受けたことです。ここでの見聞もかなり面白いのですが、そこでは「持明」と「良懐」が争っていること、「持明」は年少なので臣下が国権を擅(ほしいまま)にしていることなどが述べられています、「持明」は後円融天皇でしょうが、国権を擅にする臣とは同い年の足利義満では無く細川頼之でしょう。頼之はかなり厳しく明使を取り調べたようです。それはそうで、明と征西将軍府が結びついて北朝を打倒に来れば、日本は明軍の侵攻を受けて明を後ろ盾にした征西将軍府および南朝の天下がやって来る恐れがあるわけです。荒唐無稽な感じがしますが、頼之にとっては排除できない可能性でしょう。

 

頼之も明に使者を送りますが却下されます。当たり前です。当時は「人臣に外交なし」ということで、臣下である頼之が外交主体になれるはずがありません。

 

肝心の懐良親王も一旦は少弐冬資の暗殺に端を発した今川了俊陣営の混乱もあって勢力を盛り返すかと思われましたが、博多を回復することもかなわないまま、晩年の懐良親王菊池武光や後継者の良成親王とも離れて筑後の山中に引き退きます。どこで薨去したかは不明です。

 

長慶天皇の時代に後征西将軍宮が南朝から離反している、と五条氏から訴えがあり、菊池武朝がそれについて弁解する、という事件を起こしています。これを考慮すると征西将軍府の自立傾向は南朝から見ても看過できないこと、懐良親王は自立化傾向から距離を置いていたことが伺えます。

 

懐良親王はかなり厭世的な傾向が強く、最盛期にあっても出家遁世を願うような気弱なところがありました。新葉和歌集に載せられた懐良親王宗良親王の和歌の贈答からもそれがわかります。

 

現在残る懷良親王の筆跡を見ても、非常に神経質で几帳面な人柄が伺えます。

 

参考文献として私の書いた論文を挙げておきます。

「明初洪武期の日本国王」(『日本思想史研究会会報』8号、1990年)pp23~35

「初期日明関係に見る東アジア国際秩序の構築と挫折」(『新しい歴史学のために』210号、1993年)pp19~29

日本国王号成立をめぐって」(『日本思想史研究会会報』20号、2003年、)

pp284~296

 

北方謙三氏が小説化していらっしゃいます。小説ですので事実と違うところが当然あるのですが、非常に綿密に調査・研究していらっしゃいます。一読をお勧めします。

 

後花園天皇をめぐる人々ー貞常親王

後花園天皇の弟宮です。

 

貞成親王後花園天皇の親子関係というのはかなり複雑だったと思います。『椿葉記』で「実の父母を大事にしなさい」ということを著書一冊丸々使って述べています。しかし後小松院が存命中にそんなことができるはずもなく、そもそも『椿葉記』は後花園天皇の手に渡ることはなかったように思われます。後小松院崩御後には貞成親王に宛てた手紙で切々と後小松院崩御の悲しみを訴えかけています。内心大喜びの貞成親王とは大違いです。以前にも述べましたが、後小松院と後花園天皇はうまくいっていたようです。それが貞成親王には我慢できない。

 

この両者はものすごくアンビバレントな関係であったのではないか、と思います。その複雑な関係が噴出したのが貞常王の親王宣下です。貞成親王の第二皇子の貞常王が元服し、親王宣下を受けることが決定しました。しかし穏やかならぬ噂が流れ、親王宣下は中止になります。それに対し貞成親王が不満を言い立て、調査の結果広橋兼郷らがデマを流布したとして遠流となります。実際には日野重子の嘆願により遠流は取り消され、洛中からの退去処分となりますが、兼郷は完全に失脚し、赦免もなされないまま死去します。

 

これについては兼郷が後小松派で、後花園天皇による貞成親王への太上天皇宣下を快く思わなかったため、デマを流した、と考えられていますが、仔細に兼郷と後花園天皇の関係を見るとその疑いは晴れます。

 

禁闕の変後花園天皇が命からがら内裏から脱出したのちに逃げ込んだのが内裏の裏辻にあった正親町持季の邸でした。しかしそこでは近すぎてまずい、と広橋兼郷邸に移動しています。この緊迫した場面で移動場所に選ばれる人物が後花園天皇と疎遠であるとは思えません。後花園天皇の信頼はかなり厚かったと考えるべきです。

 

そのデマの内容は貞成親王後花園天皇を退位させ、貞常王に譲位させるというものだったと小川剛生氏は「伏見宮家の成立 -貞成親王と貞常親王-」(所収:松岡心平 編『看聞日記と中世文化』(森話社、2009年)で言っていますが、従いたいと思います。問題はそれがデマだったか、です。

 

 

看聞日記と中世文化

看聞日記と中世文化

 

 

私は兼郷が後花園天皇貞成親王の微妙な関係を吹聴したのではないか、と考えています。それはもちろん後花園天皇の内意をよく表したものだったのでしょう。貞成親王にその気が無くても後花園天皇からすれば貞成親王が自分よりも貞常王に皇位継承の望みを託しているように見えたとしても不思議ではありません。

 

こう考えると色々なことが腑に落ちるのですが、その辺はいずれきちんとした形で論じたいと思っています。

 

で、本題です。後花園天皇は肝心の貞常親王をどう思っていたか、ですが、貞成親王のような複雑な関係とは異なり、かなり可愛がってはいたようです。禁闕の変の直前も後花園天皇は貞常王の和歌の添削をしてやったり、応仁の乱勃発後には貞常親王に「伏見に逃げ出したいが幕府にバレると止められるのでうまくやってくれないか」と伏見脱出の手助けを頼んだりしています。後花園上皇が結局伏見に隠棲という無責任な逃亡をしなかったのは案外貞常親王が諌めたのかもしれません。

 

後花園天皇の死の状態を詳しく『山賤記』という随筆にまとめています。

 

皇子を一人しか儲けなかった後花園天皇とは異なり九人も皇子を儲けていますので、後土御門天皇に万一があっても安心だったことでしょう。多くの法親王を輩出して寺院との関係も強固にするのに役立っています。

 

彼自身父や兄と同様に諸芸に長けた人物だったようです。しかし彼らのような衒いの強さや自己顕示欲は受け継がなかったようです。だから貞成親王後花園天皇のような強烈な個性の中で両方から信頼されたのでしょう。

相応院新宮のこと

『看聞日記』に「相応院新宮」という皇族が出てきます。「南方上野宮御子」と割注がついています。永享五年十二月二十日条です。

相応院新宮〈南方上野宮御子〉、自公方侍所ニ被仰付搦申。門主ハ御室ヘ被入申。其間ニ侍所門跡ヘ参取申懸縄云々。御形儀悪物之間、公方へきこえて被搦申云々。委細事未聞。稀代不思議事也。

 上野宮の御子の相応院新宮という南朝関係の皇族が門主の留守中に捕縛された、という記事です。理由は「御形儀悪物」ということで、詳細は不明です。命令したのは義教、ということで「御形儀悪物」というのが言いがかりである可能性は極めて高いと思います。

ちなみに上野宮というのは後村上天皇皇子説成親王のことで、上野太守であったことからこの宮号となっているようです。

 三日後、こんな記事が出ています。

大教院隆経法印参。相応院新宮事語。有隠謀之企。仍被搦申云々。侍所日野家へ渡申。彼に御座云々。

 どうやら相応院新宮は「隠謀之企」によって捕縛されたようです。日野家に引き渡されているのは皇族であるためでしょう。ちなみに当時の「日野家」というのは広橋家のことです。

その四日後の二十七日、事態は急転します。

相応院新宮事、隠謀之企虚名也。更々無支證云々。而自門跡密々被告申。随而日野中納言事々敷申之間、被搦申有御後悔云々。雖然管領へ被渡被配流申云々。

 いや、何言ってるんだかわかんないです。

要するにこういうことです。

相応院新宮のことについて、隠謀の企てはうそだった。全く証拠がない、ということである。しかし門跡より密告があった。そこで日野中納言(広橋兼郷)が重大事であるかのように申したので捕縛されて「御後悔」あり、ということである。そうとは言っても管領細川持之)に引き渡されて配流ということである。

 いやいやいや、隠謀の企てはうそだったんでしょ?「御後悔」してんでしょ?なんで配流になってるかな。

これ、要するに結論ありきの逮捕だと考えればわかります。要するに隠謀の疑いでしょっぴいて、嘘がバレても押し通せば誰も文句を言わない。ちなみに「御後悔」の主語が誰か、ということですが、ここで扱っている『看聞日記』の場合、「御」をつけるのは足利義教か、後花園天皇以外にはありません。この事件に後花園天皇が直接関わっているとは思えないので、「御後悔」の主語は足利義教でしょう。義教はどうやら責任を全て兼郷にかぶせるつもりのようです。

 五月十六日、この問題は決着します。

相応院新宮も流罪〈但被行死刑云々〉。

 うん、こまわり君のようにあっさり「死刑」でした。おそらく最初から死刑ありきだったようです。

この三ヶ月後には「南方御一流、於于今可被断絶云々」という方針が出され、護聖院宮の若い皇子が二人僧籍に入れられます。

ちなみにこの五月十六日には妙法院門主木寺宮明仁法親王)、勧修寺門主小倉宮の教尊)が逐電しています。身の危険を感じたのでしょう。

 

追記

田中義成『足利時代史』を読み直していたらこんな記述が目に入りました。

後村上天皇の皇子説成親王の御子相応院宮をば謀叛の嫌疑にて遠流に処し、隠に之を害せり。之は全く冤罪なり。

 これはえぐい。

しかし田中義成は次のように言います。

是に於て南朝の余党初めて屏息し、全く其跡を絶つに至れり。これ亦義教の勇断果決なる政策の致す所に外ならず。

 義教、大絶賛です。まあ南朝の皇胤を断絶するのは北朝天皇にとってはいいこと、かもしれませんから。私は後小松関係者への義教の偏執的かつ一方的な怨恨ではないか、と思っていますが。

 

足利時代史 (講談社学術文庫 341)

足利時代史 (講談社学術文庫 341)

 

 

 

「日本通史の決定版」発売に便乗してみる

日本通史の決定版と銘打った本が大評判(いろんな意味で)。
ここは一発『天皇紀』でも執筆して儲けるか。
というわけで出版企画書を書いてみた。
(最後のオチは立命館アジア太平洋大学の学生さんはわかるんじゃないかな。基本は最後のオチにつなげるネタです)
 
企画概要
著者が立命館アジア太平洋大学で2012年から2017年まで講義した「日本の歴史JA・JB」の内容をもとに、いつも時間切れで終わる2・26事件以後を付け加え。
国際社会で活躍する人材を養成する立命館アジア太平洋大学アジア太平洋学部・国際経営学部の学生に、日本のあり方を考える際のベースとなる知識をコンパクトかつ興味を持ってもらえるように講義してきた内容を活字化。大学の一般教養の講義なので、最先端の研究成果に目配りしつつ歴史に詳しくない人々にも興味を持ってもらえるように構成。
 
著者プロフィール
株式会社歴史と文化の研究所客員研究員
専攻:日本中世史、これまで日本国王号、倭寇、中世の北海道、室町時代天皇について論文を執筆
大学講師として20年にわたり大学生に歴史の面白さ、歴史を学ぶ意義を教え続ける。
 
はじめに
我々は何者か、我々はどこからきてどこへ向かうのか
天皇と日本が不可分の理由
 
第1章 天皇の始源
神武天皇は何か
崇神天皇は初代天皇
応神天皇の時に王朝交代はあったのか
雄略天皇の偉業
継体天皇は王朝交代か
安閑・宣化・欽明朝をどう考えるか
崇峻天皇暗殺の黒幕は蘇我馬子
聖徳太子はいたのか
 
第2章 天皇の完成
大化の改新はあったのか
斉明天皇はなぜ百済を救援したのか
天武天皇はなぜ「天皇号」を作り上げたとされるのか
持統天皇による古代王権の完成
元明元正天皇の戦い
孝謙称徳皇帝の意味
 
第3章 東アジアの激動の中で
平安京遷都はなぜ行われたのか
平城太上天皇太上天皇製の終焉
嵯峨天皇における転回
清和天皇と人臣摂政の意味
東アジアの大変動を乗り切った宇多天皇菅原道真
冷泉天皇円融天皇による皇統の分裂
三条天皇と皇統分裂の終焉
後三条天皇による天皇権力の構築
白河天皇による院政の本質
 
第4章 武家政権天皇
「王家」を創出した鳥羽天皇
後嵯峨天皇と中世天皇制の完成
後宇多上皇の皇統統一策
 
第5章 動乱期の天皇
後円融上皇足利義満
後土御門天皇と応仁・文明の乱
後柏原・後奈良天皇と戦国武将
 
第6章 安定期の天皇
東山天皇における大嘗祭の復活
光格天皇における朝幕関係
孝明天皇の登場
条約勅許
孝明天皇と幕末の政争
 
第7章 明治天皇
宮中から大元帥陛下へ
不平士族の反乱
国家体制の整備
日清・日露戦争と万国対峙の達成
 
第8章 大正天皇
心優しい天皇
桂園時代
 
第9章 昭和天皇
生まれついての大元帥陛下
第一次世界大戦後の摂政としての外遊
ベルサイユ体制
ワシントン体制と幣原外交
金融恐慌と田中義一内閣の成立
統帥権干犯批判
5・15事件
斎藤実内閣と国際連盟脱退
滝川事件と帝人事件
天皇機関説と「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」
国体明徴声明と大日本帝国憲法の死文化
2・26事件と昭和天皇
宇垣一成内閣不成立と近衛文麿内閣
日中戦争と「爾後南京政府を対手とせず」
米内光政内閣倒閣と日独伊三国軍事同盟
日米交渉の行き詰まりと近衛内閣から東条英機内閣へ
東条内閣倒閣と終戦交渉
鈴木貫太郎内閣と敗戦
 
昭和天皇の戦犯回避
日本国憲法制定過程
高度経済成長とミッチーブーム
昭和天皇の戦争責任の議論
昭和天皇と沖縄
昭和の終わり
 
第11章 (仮題)今上天皇と平成の時代
日本国民統合の象徴として
バブル崩壊と失われた20年
平成の終わりへ
 
おわりに
日本はどこへ向かうのか
 
学生の声(想像)
「せっかく赤い香辛料で味付けした鳥唐揚げ弁当を食べていたのに秦野の鼻をすする音や咳払いの合間に聞こえる斉明天皇百済救援を決めた理由やらどうでもいい話を聞かされて食欲がなくなった。勘弁してほしい」