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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

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 歴史学研究者・古文書講師の秦野裕介のブログです。

室町時代を中心に日本史を研究しております。

室町時代・戦国時代の政治史、あるいは北海道の中世史を研究しています。

京都府乙訓郡大山崎町出身。

1997年4月〜2018年3月まで立命館大学非常勤講師。

2004年4月〜2018年3月まで立命館アジア太平洋大学非常勤講師。

株式会社歴史と文化研究所客員研究員。

会社概要・客員研究員 - 株式会社 歴史と文化の研究所

2019年4月〜9月まで立命館大学授業担当講師。

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本当に強い戦国武将は誰かベスト5私案

Qさま!で6月24日に放映された「本当に強い戦国武将ベスト15」がいろいろ言われているようで、そもそも「強い」ってどういう意味なのか、とかまあ悩むわけですが、普通に考えれば結果で見ても織田信長豊臣秀吉徳川家康に集中するだろうな、ということが容易に予測できるわけです。ガチの「歴史のプロ」に聞いたらどう考えてもそうなります。

 

で、これでは製作サイドも困るわけでいろいろ工夫するわけです。

 

ちなみに「歴史のプロ」の一員として私が当初挙げた五人(一応五人挙げろということなので)は以下の通りです。

 

ちなみに貼り付けている画像は「戦国IXA」の画像です。

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一人目 織田信長

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高い戦争遂行能力を評価しました。

二人目 豊臣秀吉

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結果論ではこの人を選ばない理由がありません。戦国時代を終わらせた人物です。「個の武力」はほぼ期待できないのでそこはマイナスです。

三人目 徳川家康

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江戸幕府260年の太平を築いた能力はまさに最強。家臣団の統率、人望など何を取っても圧倒的、後世の人々から嫌われるのも最強ゆえか。

四人目 足利義輝

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近年の研究の進展で新しい義輝像が出されつつあり、無力という評価は覆されつつあります。個の武力も申し分ありません。

五人目 上杉謙信

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戦さの強さと塩止めされた甲斐国に塩を高額で売りつけ儲けのタネにする経済観念とそれを美談に変えてしまう時空を歪める超人。イメージ先行の武将ですが実際にはイメージ以上の能力を持っていたと思われます。

 

で、三英傑に集中するのを避けたい、という意向で新たに作り直したのがこれ。

 

一人目 織田信長

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これは外せません。他の二人は信長に乗っかった、として除外できても、そもそも戦国時代を一気に終結に持ち込みかけたのは信長の卓越した能力故であり、これだけは別格と思います。

二人目 島津義弘

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あとは順位はあまり関係ありません。義弘は九州統一まであと一歩と迫った実力は島津四兄弟全体の問題ですがそこに加えて「島津の退き口」で加算しました。

三人目 朝倉宗滴

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九頭竜川の戦いでの奮戦ぶりと、78歳まで最前線で活躍し続けた元気さを評価してランクイン。あまり他の人が挙げないだろう、ということで選びました。

四人目 柴田勝家

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フロイスが「日本で最も勇猛な武将」と評価したことでランクイン。勇猛一途でこそこそした政治力はなさそうなイメージですが、賤ヶ岳に先行して足利義昭長宗我部元親まで巻き込んで羽柴秀吉包囲網を築こうとするなど政治力もあなどれません。

五人目 明智光秀

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謀略家というイメージが先行しがちですが、優れた軍略家であり、鉄砲の名人として個の武力でも秀でていましたが、領国での善政でも知られ、光秀の故地では今なお慕われています。

 

戦国時代の強い女性という項目もあって、私は以下の三人を選びました。

 

一人目 洞松院

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「誰やねん!」というツッコミが入りそうですが、細川勝元の娘です。赤松政則の妻となり、政則死後は養子の赤松義村を後見して三ヶ国の守護権を行使します。義村の挙兵をしのぎきり、数十年にわたって知行地安堵や諸役免除の「つほね(局)」名義の黒印状を発給し続けます。

二人目 高台院

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周囲の反対を押し切って身分差のある藤吉郎への恋愛結婚を貫く芯の強い女性であると同時にフロイスからも「大変な人格者」と言われる強い女性でした。

三人目 ガラシャ

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本能寺の変の後の運命の暗転の中でキリスト教と出会い、夫の細川忠興にだまって洗礼を受け、忠興と離婚しようとするもキリスト教徒は離婚できないと説得されるほど悪化した夫婦仲にも関わらず、関ヶ原では壮絶な死を遂げ、東軍の勝利に貢献した烈女。彼女の最期は戯曲「強き女」の主人公グラツィアの殉教として表現されました。

 

番外編として「総合的には弱かったけど、実はこの能力が、とっても秀でていた!戦国武将」という項目もあります。私はこの二名。

 

一人目 小田氏治

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「弱い戦国武将を選べ」と言われたら満票で彼でしょう。佐竹義重上杉謙信に敗れ続け、それでも再起し続けた最弱の武将です。名門小田家のネームバリューで生き続けたようなものです。あそこまで負けても負けても再起できたのは人望が無限大だったからかもしれません。もっとも佐竹義重上杉謙信という相手が悪すぎた、という説もあります。

二人目 足利義昭

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室町幕府を滅ぼした暗君ですが、信長包囲網を作るなど政治力はありそうです。ただ信長からも義教と並ぶ「悪御所」と指弾されるなど人望、統率力には問題おおあり。そういえば義教と信長って似ている、と言われたものですが信長は義教のことをディスっている、というのが面白いです。更にいえば故星野仙一氏は「好きな戦国武将はやっぱり信長ですか」と聞かれた時に「信長は裏切られるようなダメ人間(大意)」と発言し、「京極高次」と答えています。

 

保元の乱3−戦争の日本史

保元の乱の主役は鳥羽・崇徳・後白河・藤原忠実・忠通・頼長であることは論を俟ちませんが、もう一つは伊勢平氏平清盛河内源氏源義朝でしょう。特に義朝はこの戦いでその地位を飛躍的に向上させ、清盛に次ぐ軍事貴族の地位を手に入れます。

 

伊勢平氏平貞盛の子の平維衡が伊勢北部に拠点を築いたことをきっかけに伊勢平氏と呼ばれます。彼は伊勢守になっていますが、それ以前から伊勢国に勢力を築いていたようです。ただいつから、何故に伊勢に基盤を持つようになったかは今ひとつ明らかでもないようです。

 


増補改訂 清盛以前 (平凡社ライブラリー)

 

 東国で平直方河内源氏源頼義の影響下に吸収されていくと、元来東国で広く栄えていた桓武平氏河内源氏の影響下に入っていき、東国は河内源氏の有力な地盤となります。

 

伊勢には良兼流の平致頼平維衡が争っており、最終的に貞盛流の平維衡が勝利して伊勢平氏の源流が成立します。

 

維衡やその息子の平正度は伊勢に地盤を築きながら都に拠点を持ち、受領を歴任するという中下級貴族として存在し、11世紀における家格の成立・固定期の競争の中で地位を低下させ、官歴の最後に受領に到達するという下級貴族、いわゆる侍品と呼ばれるレベルに低下します。

 

平正盛源義親を討伐して一気に時流に乗りますが、その背景には院近臣という院との個人的な関係を通じて引き立てられる勢力が出現し、院にその能力を通じて勤仕することによって財をなし、勢力を広げていくことがありました。白河院の乳兄弟であった藤原顕季が白河院に引き立てられ、その孫の美福門院が鳥羽の寵姫として権勢を振るい、頼長と対立したことは前述しました。

 

正盛の子の平忠盛も鳥羽に気に入られ、一気に勢力を伸ばしていった側です。その子の清盛になると若年で累進をとげ、もはや中級貴族を脱して上級貴族に届こうとする勢いでした。忠盛の妻の藤原宗子重仁親王の乳母となっていました。

 

伊勢平氏はそういう意味では彼らは崇徳院と関係を深めていったと考えられます。鳥羽の葬儀には伊勢平氏は呼ばれませんでした。しかし宗子が後白河へつくことを指示したために伊勢平氏は崇徳を見限り、後白河派に急遽参戦することになります。7月5日、頼長を謀反人認定する時に警備についた武士の中に平基盛の名が見えます。保元の乱勃発の四日前でした。

 

乱後は崇徳を見限り、後白河へ寝返ったことで最大限の恩賞を拝領することになりました。安芸守から播磨守への転任となり、清盛は参議にあと一歩とせまります。

 

河内源氏はその東国での基盤が有名ですが、本来は河内国が地盤です。ただ頼義の代に平直方の婿となって直方の勢力を継承したことで東国での地位を固めていきます。しかし義家の末期から義親の乱、義忠の暗殺、義綱と義光の争いを経て急速に没落し、為義は受領にすら届きませんでした。

 

義家は白河の院近臣でしたし、為義も白河・鳥羽の院近臣としてスタートしていますが、為義は自身の不祥事も響いて低迷し、摂関家に接近することで失地挽回を図ります。

 

義朝は為義の嫡子にはなれず、早くから東国に勢力を築くことに専念します。当初は為義と共同歩調を取っていましたが、やがて関東の豪族の争いに介入して勢力を拡大し、東国を河内源氏の牙城とすることに成功します。実は東国と河内源氏の関係が強化されたのは義朝の代です。

 

義朝は為義と共同歩調をとっていた段階では摂関家と関係を持っていましたが、東国で独自の基盤を築くと都で院近臣であった藤原季範の娘や近衛天皇中宮の雑仕女であった常盤御前と婚姻関係を結び、急速に鳥羽の院近臣としての地位を築きます。その甲斐あって義朝は父が届かなかった受領の下野守に31歳で任ぜられ、翌年には右馬助を兼帯することになります。

 

為義はその対抗のために頼長と関係の深かった次男義賢を武蔵国に遣わしますが、義朝の長男の義平に滅ぼされます。

 

義朝は保元の乱では抜群の勲功を挙げ、右馬権頭となりますが、不満をとなえ左馬頭となります。

 

この義朝の恩賞に対しては義朝は不満であり、それが平治の乱への伏線となる、という考え方が主流でした。しかしそもそも正四位下で大国安芸守の受領であった清盛と、従五位下の下野守の義朝では同等の恩賞は求むべくもないものであり、義朝は保元の乱に関してはそれほど不満を持っていなかった、という見方が有力になってきています。

 


保元の乱・平治の乱

 


保元・平治の乱 平清盛 勝利への道 (角川ソフィア文庫)

 

それに対してその考え方は公家の考え方ではあっても武家の義朝の考え方と一緒とは限らないだろう、という反論もあります。

 


中世初期の〈謀叛〉と平治の乱

 


陰謀の日本中世史 (角川新書)

 

実際、当時の軍事貴族、いわゆる「兵の家」と呼ばれる「武家」では他の貴族とは若干違う行動原理で動いているのも事実で、軍事貴族が単に都のみで発展を遂げたのではなく、都と地方のハイブリッド、ということも踏まえるならば、その辺を考慮する必要もあるかと思います。

 


武士の起源を解きあかす――混血する古代、創発される中世 (ちくま新書)

 

 武家の特徴として前の当主の妻が大きな権限を掌握することが挙げられます。承久の乱における北条政子の果たした役割は有名ですが、武家とは無関係な家から武家に入ってきた藤原宗子の場合を見ても、先年死去した忠盛の妻である宗子が保元の乱における伊勢平氏全体の帰趨を決定づけたことを見ても、武家における後家の権限の強さというのは特筆されます。もし宗子の決断が違っていればその後の歴史も大きく変わっただろうと思われます。

室町将軍家御教書(『朽木家古文書』62 国立公文書館)

『朽木家古文書』62です。

 

とりあえず写真を。

 

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室町将軍家御教書 朽木家古文書 国立公文書館

釈文

 若州發向事不日可被

致忠節之由所被仰下也

仍執達如件

嘉吉元年十一月三日 右京大夫(花押)

  佐々木朽木満若殿

 

一行目の一番下の「被」と二行目下から四字目の「被」ですが、後者の方がよく見るくずしです。個人的には「被」と「致」は意外と似ている気がするのですがいかがでしょう。

 

読み下しです。

若州発向の事、不日忠節を致さるべきの由、仰せ下さるるところなり。よって執達件の如し。

嘉吉元年十一月三日 右京大夫(花押)

  佐々木朽木満若殿

 

差出人は管領細川持之です。宛先は朽木貞高です。嘉吉元年は足利義教が弑殺された嘉吉の乱の時です。

 

嘉吉の乱で弑殺された義教の後継は当時八歳、当然幕政は管領細川持之が担うことになります。この文書は一応室町将軍家の意を持之が奉じて執達する形式となっていますが、持之が幕府の代表者ということになります。

 

文中の「若州発向」というのは嘉吉の乱に乗じて一色氏が蜂起し、若狭国を奪おうとしているので若狭国に近い朽木氏に軍勢の派遣が求められたものです。

 

若狭国はもともとは一色氏が守護職を保持してきました。しかし丹後・三河・若狭の三ヶ国の守護を兼帯していた宿老の一色義貫が足利義教の命を受けた武田信栄に暗殺されます。信栄はその功績によって若狭守護職を獲得し、一色氏は義貫の甥の教親が継承し、丹後一ヶ国を与えられます。

 

しかし若狭には国際交易港の小浜を抱えています。この小浜の権益をめぐって一色氏と武田氏は争うことになります。寛正年間には十三丸という船をめぐって両者の関係者が争っています。

 

小浜が禁裏御料だったことについてはここで述べています。

sengokukomonjo.hatenablog.com

十三丸についてはいずれ述べたいと思います。

保元の乱の過程2−戦争の日本史

時はいいころ(1156)保元の乱

 

武者の世のはじまりと言われる保元の乱ですが、『保元物語』に基づく保元の乱のイメージが強く存在しています。それに対して『愚管抄』を通じてみると少し異なるイメージが出てきます。

 

愚管抄』は藤原忠通の息子の慈円が書いた書物で、忠通はいわずもがな保元の乱の一方の当事者です。後世に書かれているので二次史料ですが、一次史料に準ずるものとも言えます。他に一次史料としては忠通に仕えていた平信範の『兵範記』もありますが、今手元にあるのが陽明文庫の写真版だけなので今回は見送ります。

 

愚管抄』の注意点としては彼は忠通の息子ですから徹底的に頼長や崇徳上皇を批判する立場に立っているということです。彼の頼長評はかなり悪辣に書かれており、忠通については大変美化して書かれている可能性が高い、ということになります。

 

参考文献としては以下の二つが代表的なものと言えましょう。

 

まずは河内祥輔氏のこれです。特に平治の乱の大胆な解釈は議論を呼びました。


保元の乱・平治の乱

 

続けて元木泰雄氏のこれです。河内説を真っ向から批判した書でこの二つを合わせて読めばかなり詳しくなるかと思います。


保元・平治の乱 平清盛 勝利への道 (角川ソフィア文庫)

 

さらに呉座勇一氏のこの本でも保元の乱について述べられています。

 


陰謀の日本中世史 (角川新書)

 

 まず『保元物語』を読む限り、後白河の皇位継承に不満を持つ崇徳と忠通に不満を持つ頼長が手を組んで後白河・忠通体制にクーデタを起こした、というように捉えられがちです。

 

この見方は現在では否定的に捉えられることが多いです。一つだけ今までの見方で正しいのはこの内紛が天皇家の後継者争いと摂関家の後継者争いである、ということですが、もう一つ重要な対立軸が見落とされています。それは院政に伴って勢力を拡大してきた院近臣と呼ばれる新興の公家集団と摂関家との対立です。

 

忠通を追い落として摂関家の主導権を掌握した頼長はその強烈な自負から院近臣層と対立します。特に彼は院近臣層出身の美福門院を侮り、美福門院および近衛天皇から忌避されていきます。

 

近衛の死後、頼長は忠通の計略にはまり失脚します。近衛を呪詛したという疑いをかけられ、妻の服喪期間中であったために弁明も許されず内覧の権限を奪われます。

 

鳥羽の死去の時に崇徳を死に目に会わせず、崇徳を失脚させた後白河サイドですが、後白河サイドの主要勢力は院近臣です。彼らは鳥羽の権威のもとに権勢を振るえたわけであって、鳥羽がいなくなれば美福門院も後白河も権威を失いかねません。一方、崇徳は失脚したものの、本来は白河ー堀河ー鳥羽ー崇徳と「正統」を継承しています。和歌にも堪能で当代の文化を担った崇徳は場合によっては正統の君主に返り咲く可能性があったわけです。

 

したがって現在の研究では保元の乱は一刻も早く崇徳と頼長を亡き者にしなければならなかった後白河サイドの挑発によるものとされています。

 

鳥羽の死去から三日後には後白河派は本来崇徳に近かった伊勢平氏の切り崩しに成功し、頼長を謀反人認定します。頼長は宇治に退いて謹慎しますが、肥前国への流罪が決定しました。

 

ここで崇徳が思わぬ動きに出ました。崇徳は上西門院統子内親王の居所であった白河殿に侵入しました。これは後白河サイドはもちろん頼長も知らなかったと見られます。頼長はあたふたと宇治を出て白河殿に向かいます。

 

実はこの両者は特に親しい関係ではありませんでした。それどころか頼長は鳥羽存命中には皇太子守仁親王への奉仕を申し出るほどでした。しかし忠通の計略によってすっかり頼長を憎んでしまっていた鳥羽にはにべもなく断られています。鳥羽から阻害され、失脚した両者が追い詰められて急遽連携した、という見方が主流です。

 

頼長は急遽武士を集めますが完全に出遅れてしまいました。伊勢平氏を抑えられてしまった以上、伊勢平氏の中でも反清盛だった平忠正河内源氏源為義が中心でしたが、彼らも用意出来た手勢は少数でした。

 

この様子を見た為義が崇徳と頼長に献策します。「宇治にお逃げください。そこから甲賀、さらには坂東にお逃げになることもできます。我々は御所に参って一合戦いたします」と。要するに逃げろ、と言っているわけです。頼長はそれを却下します。「まあそう急ぐな。夜明けになれば興福寺から援軍が来る」と。

 

これは結局頼長や崇徳が逃げれば完全に詰んでしまうことを頼長はわかっており、為義は坂東に逃げればなんとかなると思っていたことを示します。実際彼らが京都を退出した瞬間流れは完全に後白河派に流れるでしょう。崇徳サイドはここで踏ん張るしかなかったのです。

 

これは崇徳・頼長にとって唯一の活路でもあった、と言えます。白河殿に入った、という政治的な意味合いは、崇徳が自らを白河の正嫡であると宣言したに等しいわけです。崇徳の目算は公家たちが白河殿に参集するのではないか、というところにありました。崇徳と頼長は興福寺の援軍以上に貴族層の参集を待っていたのではないでしょうか。

 

一方後白河サイドでは源義朝信西が忠通に夜襲を迫っていました。しかし忠通は許可を出しません。忠通としてはできれば圧力をかけて頼長が自発的に退去することを願っていたのです。圧倒的な軍事力を背景に圧力をかけて崇徳陣営の自壊、つまり頼長らが宇治に引き退くことを願っていたのではないでしょうか。

 

忠通は苦渋の決断を下します。「排除しなさい。」ここに崇徳と頼長の命運は極まりました。

 

保元の乱がどの程度の規模の戦いだったかは議論が分かれています。ほとんど死傷者を出していない、という考え方もあれば、結構激しい戦闘だった、という考えもあります。少なくとも後白河サイドは圧倒的な兵力を持ちながらも攻めあぐねたことがわかります。最終的に放火して火攻めにすることで決着が付いています。

 

崇徳と頼長は逃亡しますが、やがて崇徳は捕縛され、讃岐国流罪となります。これまでの常識であれば出家してうやむやにするところですが、異常に厳しい処分となりました。

 

頼長は梅津から淀川水系に入り、木津に向かいますが、そこで死去します。

 

忠実も謀反の疑いをかけられます。院近臣層は摂関家の解体に取り掛かろうとしていました。結局忠通が抵抗してなんとか忠実の断罪は見送られました。保元の乱を通じて摂関家という巨大複合権門は解体され、王家という新興の巨大複合権門の権威も大きく傷つきました。

 

この乱における藤原忠通の立場について、しばしば無能とか優柔不断という見方がなされますが、その辺に疑問を呈した山田邦和氏の議論をあげておきます。

 


平安京とその時代

 

この著作の中の「保元の乱の関白忠通」です。2009年の論考です。アマゾンで26000円するので図書館などで読まれるとよろしいでしょう。

 

保元の乱がなぜこのような陰惨な武力衝突にいたり、その処断も苛烈を極めたか、と言えば両者の実力差が小さく、武力を確保した方が圧倒的に有利になったからです。両者の実力差に圧倒的な違いがあれば、武力を行使しなくても相手を屈服させることができたはずです。現に鳥羽は武力による威嚇だけで延暦寺を抑え込むことに成功しました。後白河派の勝利ではありましたが、その勝利は薄氷を踏むようなものでした。

 

つぎは伊勢平氏河内源氏の問題について見ていきます。

正親町天皇の生涯ー永禄三年正月一日〜十二月晦日

永禄三年(1530年)の正親町天皇の動向です。

 

この年は桶狭間の戦いがあり、また長尾景虎が上杉政憲を奉じて関東に出陣し、近衛前久長尾景虎を頼って越後に下向するということがありました。

 

永禄三年
正月一日、四方拝
御湯殿上日記
言継卿記
二日、読書始
御湯殿上日記
四日、千秋万歳、五日同じ
御湯殿上日記、言継卿記
五日、叙位を停止
続史愚抄
この日釿始
御湯殿上日記
七日、白馬節会
続史愚抄
八日、太元帥法を行う、後七日御修法は停止
御湯殿上日記、厳助往年記、東寺執行日記
十五日、三毬打、この日礼服御覧、次に叙位
御湯殿上日記(十四日・十五日)、言継卿記(十五日・十六日)
十六日、踏歌節会を停止
続史愚抄
十七日、三毬打
御湯殿上日記
十九日、和歌会始を延引
続史愚抄
二十日、即位日時定、三条西公条を召して即位のことについて下問、この日即位礼服検知
御湯殿上日記(二十日・二十四日)、言継卿記(二十日・二十一日・二十三日)
二十二日、来たる二十三日の即位の礼を延引
言継卿記
二十三日、即位無為祈祷を諸寺に仰せつける
御湯殿上日記、厳助往年記
二十七日、即位礼
御湯殿上日記、言継卿記
二月
四日、神宮奏事始
御湯殿上日記
この日内侍所恒例並びに臨時御神楽
御湯殿上日記(正月二十九日・二月一日・四日・五日)、言継卿記(正月二十九日・二月四日)

六日、将軍足利義輝、参内して即位を賀す
御湯殿上日記、言継卿記
十四日、別殿行幸
御湯殿上日記、言継卿記
十五日、毛利元就毛利隆元父子の即位礼費用献上に対し綸旨を下し、元就を陸奥守、隆元を大膳大夫に任じる
毛利家文書
十八日、昼御座において読書始、式部大輔高辻長雅、史記、五帝本紀を授ける
御湯殿上日記、言継卿記
二十一日、和歌会始を追行
御湯殿上日記(二十日・二十一日)、言継卿記
二十二日、水瀬宮法楽和歌会
御湯殿上日記、言継卿記
二十四日、庚申待
御湯殿上日記
二十五日、北野焙烙和漢会並びに当座和歌会
御湯殿上日記
三月
三日、闘鶏
御湯殿上日記、言継卿記
五日、三条西公条、小御所で二尊院縁起を進講
御湯殿上日記
十日、山陵使の発遣を延引
御湯殿上日記
十四日、皇子誠仁親王の御楽稽古のことを大納言四辻季遠に仰せつける
御湯殿上日記
二十七日、清涼殿の棟木折れる、よって二十八日、足利義輝に修理のことを仰せつける
御湯殿上日記(二十七日・二十八日・二十九日・四月十日・十一日・十四日)厳助往年記
四月
三日、愛宕社に近侍の七人詣
御湯殿上日記
七日、稲荷祭
東寺執行日記
十三日、清涼殿に仁王護摩法を修し、変異の祈祷
御湯殿上日記(一日・十三日・十六日・十八日・十九日)
厳助往年記
二十五日、この日より七日間変異祈祷
続史愚抄
この日賀茂祭
御湯殿上日記
五月
十六日、恒例御念仏
御湯殿上日記
二十九日、誕生日祝いあり、御霊社に近侍の代官詣あり
御湯殿上日記、
六月
五日、授戒
御湯殿上日記
十日、延暦寺六月会を追行
続史愚抄(四日・十日・十六日)
十四日、三条西公条に伊勢物語の伝授を受ける
御湯殿上日記(十四日・二十日)
二十日、別殿行幸
御湯殿上日記
この日、春日社および興福寺より祈雨の巻数を献上
御湯殿上日記
二十二日、足利義輝、新第に移住するによりこの日剣、馬を賜う
御湯殿上日記
二十五日、北野社法楽当座和歌会
御湯殿上日記
二十七日、三条西公条に古今伝授を受ける
御湯殿上日記(二十五日・二十六日・二十七日)
七月
七日、七夕和歌会を行う、楽会は停止
御湯殿上日記
十三日、内宴
御湯殿上日記
十八日、御霊祭
御湯殿上日記
八月
二日、別殿行幸
御湯殿上日記
三日、御楽
御湯殿上日記
五日、三条西公条、二尊院所蔵の十王絵を叡覧に供す
御湯殿上日記
八日、上乗院より杜若を献上
御湯殿上日記
十二日、三条西公条に源氏物語系図を書写させる
御湯殿上日記
十五日、観月当座和歌会
御湯殿上日記
二十一日、当御所修理
御湯殿上日記(一日・二十二日・二十三日・二十四日・二十五日)
九月
五日、受戒
御湯殿上日記
九日、重陽節句、和歌会
御湯殿上日記
二十六日、近臣に諸家の系図を裏打ちさせる
御湯殿上日記
二十九日、九月昼和漢会
御湯殿上日記
十月
七日、亥子の儀、十九日また同じ
御湯殿上日記(七日・十九日)
十五日、甲子待
御湯殿上日記
十六日、竹田法印より耳の内薬を供す
御湯殿上日記
十八日、甘露寺経元より源氏物語本拝借を申請
御湯殿上日記
二十一日、この日より小御所北方の築地修理
御湯殿上日記(二十一日・二十二日・二十八日)
二十四日、貝合
御湯殿上日記(二十四日・二十五日)
二十八日、庚申待
御湯殿上日記
二十九日、近侍に連句草子を書進せしめる
御湯殿上日記(二十九日・十一月四日・十二日)
この日、後奈良天皇宸筆古今集真名序を三条西公条に見せしめる
御湯殿上日記
十一月二日、この日より禁裏修理
御湯殿上日記(二日・三日・五日・六日〜九日・十一日〜十四日・十六日・十八日・十九日・二十三日・二十五日〜二十九日、十二月一日〜十一日・十三日〜十九日・二十三日・二十四日)
六日、三条西公条より河内本源氏物語を召して叡覧
御湯殿上日記
九日、正親町三条実福に薫物新枕相伝
御湯殿上日記
十日、曼殊院宮覚恕に源氏物語薄雲の巻を貸し出す
御湯殿上日記
十二日、三条西公条より土佐筆源氏懸絵を叡覧に供す
御湯殿上日記(十二日・十三日)
十六日、鞍馬寺に宮女の代官詣
御湯殿上日記
二十一日、不予により代拝
御湯殿上日記(二十一日・二十六日・二十七日)
十二月
八日、皇子誠仁親王の帯直の儀を行うにより服、帯などを賜う
御湯殿上日記
十七日、別殿行幸
御湯殿上日記(十五日・十七日)
この日、祇園御霊会
御湯殿上日記
二十日、絵所に仰せて御屏風を調進させる
御湯殿上日記(二十日・二十一日・三十日)
二十二日、曼殊院覚恕らに御薫物を賜う
御湯殿上日記
二十九日、清荒神に宮女の代官詣あり
御湯殿上日記

保元の乱の過程−戦争の日本史

保元の乱は小学校でも習う有名な戦乱です。だいたい平治の乱とワンセットで習います。「時はいいころ(1156)保元の乱」という語呂合わせを覚えさせられた方も多いかと思います。

 

保元の乱に関しては「貴族の争いに武士が動員され、武士の世の中になっていった」というように習います。というか、中学受験向けの社会ではそのように教えます。これは『愚管抄』に「武者の世」と書かれているように、保元の乱が一つの画期となったことは間違いがありません。

 

この直接のきっかけは1155年に近衛天皇が死去し、後白河天皇が即位したことに始まります。これについて、自分の皇子重仁親王が即位することになると思っていた崇徳上皇はかなり立腹したようです。

 

この背景には崇徳とその父鳥羽の不仲が関係しており、この両者の関係がかなりややこしいものであったかのように言われます。これについてはまた述べます。

 

近衛の後継者選びについては、鳥羽は様々な可能性を提示していたようです。近衛はまだ若く、皇子は生誕していません。そこで鳥羽の選択肢は五つあったようです。一つ目は鳥羽自身の重祚、二つ目は鳥羽の皇女八条院の即位、三つ目は崇徳皇子の重仁親王即位、四つ目は雅仁親王の皇子守仁親王の即位、五つ目が雅仁親王自身の即位です。一つ目と二つ目は実現しませんでした。おそらく重祚の先例は皇極斉明と孝謙称徳という女帝二人で、どちらもあまり吉例とは言えません。女帝は推古・皇極斉明・持統・元明・元正・孝謙称徳といますが、こちらも最後の女帝があまりにも何なのでやはり吉例とはいきません。後水尾がブチギレて女帝を当てつけのようにやってしまったので女帝の呪縛からは逃れ、江戸時代には緊急時に女帝という選択肢ができました。

 

近衛天皇の体調が思わしくなく、近衛天皇が後継者を得ることのないまま死去するであろうことは周囲には織り込み済みだったと思われます。近衛の生母である美福門院は万が一に備えて重仁親王守仁親王を猶子としていました。どちらに転んでも大丈夫なように処置していたのです。

 

しかし結果的には守仁親王への皇位継承を前提にワンポイントとして雅仁親王が即位することになりました。これは藤原忠通が強く主張したようです。忠通としては雅仁親王後白河天皇に恩をうまく売りつけたことになります。

 

これに崇徳がブチギレてまた崇徳と藤原頼長という忠通への不満分子がくっついて保元の乱を起こしたかのように描かれていますが、これは『保元物語』に基づくもので、現在では違った見方が主流です。

 

ここでは以下、『保元物語』的な保元の乱の動きを見ておきます。

 

近衛の死後の皇位継承争いからはぐれた崇徳ですが、崇徳は実は生母の待賢門院が鳥羽の祖父の白河法皇との間にできた不義の子である、という見方が強くあります。これは現在ではどちらかと言えば否定的に考えることが多いのですが、実際にはわからない、としか言いようがありません。ただその噂が出てきたタイミングやその話の中身、待賢門院のそのころの行状などを見るとその説は信憑性が薄いのではないか、と見られています。

 

しかも崇徳と頼長もそれほど親しい関係ではありません。どちらかと言えば忠通サイドの挑発の中でこの両者が結び付けられていった、というのが真相でしょう。

 

それはともかく、頼長と崇徳は白河殿に立てこもって反乱を起こします。ここに保元の乱の幕が切って落とされました。

 

後白河天皇方は平清盛三百人、源義朝二百人、源義康百人の兵力をかかえ、圧倒的に有利な立場にありました。一方崇徳上皇方が集めたのは源為義平忠正ら少数で、為義の子供達が主力でした。中でも鎮西八郎という仮名を持つ源為朝は弓の強さと豪勇無双なことで知られており、非常に頼りにされていました。

 

為朝は頼長に進言します。「兄は夜襲を考えているでしょう。私に夜襲の許可をください。私の弓矢で義朝などは一発で潰せます。天皇が脱出する時に弓矢を射れば駕籠かきどもは一目散に逃げましょう。そうすれば天皇をとらえ、我が君を天皇ぬつけることもできます。」。すると頼長は「天皇様と上皇様が天下を争うのだ。夜襲のようなせこい真似はできない。明日になれば興福寺の僧兵がくるからそれを待って正々堂々と戦おう。公家どもは招集をかけてある。こないやつを数名斬首すれば恐れおののいて帰参するだろう」と却下し、為朝は「それでは義朝は夜襲を仕掛けてくるだろう」とぼやきました。

 

そのころ後白河のもとでは源義朝が夜襲を提案し、受け入れるところとなっていました。軍勢は白河殿目指して二条通りを東に向かいます。上皇側の偵察部隊がそれを見つけて報告した時には手遅れで為朝は「俺のいっていたのはこのことだ、このことだ」と叫び、直ちに守りにつき弓矢で蹴散らします。

 

攻めあぐねた義朝は火攻めの許可を得て放火します。進退窮まった上皇方は逃げ惑い、頼長は逃げる途中で首に矢を受け、数日後に死にます。為義らは義朝に降伏しますが処刑されます。崇徳上皇讃岐国に流され、乱は終結します。

 

義朝は左馬頭になりますが、播磨守に出世した平清盛を妬み、平治の乱の伏線となります。

 

というのが『保元物語』のあらすじですが、かなりの脚色が加えられています。当事者の聞き取りを経て作られた『愚管抄』では乱のきっかけもこのような単純な話ではなく、夜襲を進言するのも為朝ではなく為義で、あまりにも小勢のために対抗できないので為義らが夜襲をかけている間に宇治に逃げる、という案でした。これでは頼長には飲めないのは道理で、もしその案を受け入れていたらそれは忠通の読み通りだったでしょう。

 

また天皇方の夜襲についても明け方に進発したのは朝駆けの夜襲をかけたわけではなく、単に忠通が逡巡していただけなのですが、その辺は『保元物語』では描かれていません。忠通はなぜ逡巡していたのでしょうか。これは為義の提案を頼長が一蹴したことと関係があります。

 

この辺についてはまた述べます。

 

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