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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

後花園天皇をめぐる人々ー貞成親王2

貞成親王後編です。

 

後花園天皇をめぐる多くの人と同様、彼の運命も、後花園天皇皇位継承で激変します。

 

今までことあるごとに「計会」(やりくりがきびしい)とこぼしていました。また崇光院の崩御後は要人の往来も絶え、寂しいかぎりでした。

 

しかし天皇の実父になると、要人は遠く伏見の里までわざわざやってきます。土地も次々と貞成親王のもとに帰ってきます。裁判は連戦連勝でウハウハです。ごちそうの贈り物も絶えません。

 

これらは全て足利義教が差配しています。裁判は義教の強力なコネがあればこそ勝てます。ごちそうを送ってくれるのは言うまでもなく義教です。要人が伏見詣でをするのは、義教が指示しています。

 

後花園天皇の大嘗会に先立つ御禊行幸では、義教はわざわざ貞成親王に見物の機会を設け、誘っています。後小松上皇は不参加でした。これは義教が貞成親王後花園天皇の父親ということをことあるごとに見せつける儀式でした。

 

義教が伏見にやってきた時には、事前の打ち合わせで貞成親王は義教に対して薄礼で臨むことになっていたのに、貞成親王は舞い上がってしまって礼儀を尽くしてしまい、義教から注意を受けています。

 

義教は貞成親王を事実上の上皇として扱う姿勢を見せています。一方後小松上皇はそれを絶対に認めない姿勢です。後小松院崩御の時の諒闇に関しては、満済一条兼良が諒闇を実行すべき、と強硬に主張し、諒闇不要という義教と対立しますが、最終的に籤引きで諒闇実行となります。

 

このように義教は貞成を天皇の実父として扱う姿勢を示し、後小松院及びその周辺はそれを阻止しようとしています。これ自体はわかりやすい図式なのですが、問題は後花園天皇です。

 

貞成親王後花園天皇に当てた書状(の控え)が残っています。実際にこの書状が後花園天皇のもとに届いたかどうかはわかりませんが、後花園天皇に対する恨みつらみが書き記されています。「わたしのことを今は他人のように思っていらっしゃると思っております。後小松院がいらっしゃる時ならば仕方はありませんが、今となってはご自分でお決めになることです(ここもとの事をば、いまは外人のやうに思食めされ候やらんと推量仕候。故院の御座候つる時こそ候へ、いまはしぜんの事は御扶持わたらせおはしまし候て、叡慮に懸られ候べき御事にてこそ候へ)」というようなことが書かれています。

 

横井清氏はこれについて「この案文を作っていた『父』の熱っぽい『子』への想いの方へと、誰が何と言おうとて、心惹かれるのだ」(『看聞日記』そしえて、1979年、278ページ)としていらっしゃいますが、貞成親王の立場に立てば、全く同意しますが、後花園天皇の立場に立って考えますと、ドン引きです。

 

これに追い打ちをかけるように、貞成親王は伏見に里帰りしていた御乳人の賀々に『椿葉記』を持たせて内裏に帰します。ここでも「院の猶子であったとしても、実の父母を大事にしなさい(ゐんの御猶しにてわたらせ給とも、誠の父母の申さむ事ないがしろにおぼしめすべからず)」「院の猶子になったので、今は我々を他人のように思っていらっしゃる(院の御子にならせましまして、いまは我らをば他人におぼしめされ)」というようなことが書かれています。

 

のちに貞常王に親王宣下をする段になって、貞成親王後花園天皇を退位させて貞常王に皇位を継承させようとした、という噂が出て、その噂を振りまいた広橋兼郷らが処罰される、という事件が起こりますが、あながちデマではない気がします。

 

これは久水俊和氏が「後花園天皇をめぐる皇統解釈の基礎的研究」(『年報中世史研究』42号、2017年)において主張する事ですが、後花園天皇自身はかなり後光厳皇統にこだわりを持っています。私もこの辺については久水氏に同意します。

 

結局晩年に彼は太上天皇号を手に入れますが、これも案外後花園天皇サイドの意識と貞成親王の意識は食い違うのではないでしょうか。貞成親王からすればこれで後光厳皇統の断絶のための作業は完了した、という意識でしょうが、後花園天皇からすれば実父にふさわしい待遇を考えた末のことであり、実父の執拗な望みに答えた、というにすぎなかったのではないでしょうか。

 

考えられている以上に貞成親王後花園天皇の間には心理的な距離がある、というのが私の見解です。

 

その距離の源泉は、後光厳皇統か、崇光皇統かという対立軸に両者が立っていたからであり、この両者の隙間は最後まで埋まらなかった、と言えるでしょう。後花園天皇が崇光皇統か後光厳皇統かという問題は、今日考えられているよりもはるかに深刻で、それだけに簡単には決着がつかない問題だったと考えています。

後花園天皇をめぐる人々ー貞成親王

言うまでもなく後花園天皇にとって最大の影響を与えた、と言っても過言ではない人物です。実父です。教養人で、風流な人であった彼の教養・素質を後花園天皇はよく引き継いで後世に「近代の聖主」とか「中興の英主」とか讃えられるようになった、と言われます。

 

貞成親王の生まれた伏見宮家は、崇光天皇を祖とします。しかし観応の擾乱における足利尊氏足利直義の骨肉の争いに翻弄され、崇光天皇皇位から引き摺り下ろされ、さらに南朝方に幽閉されます。三年後帰還が許された時には弟の後光厳天皇が即位しており、崇光上皇は自分の子の栄仁親王の即位を求めますが、後光厳皇統を立てた幕府は崇光上皇の要請を一蹴します。崇光上皇は失意のうちに隱遁先の伏見御所で崩御します。

 

その後は後光厳皇統を継いだ後小松天皇によって引き継いだ所領をことごとく奪われ、断絶の危機に瀕しますが、家伝来の笛を差し出すことで、一宮家としてかろうじて存続することが許されます。栄仁親王は困窮と屈辱の中で人生を終え、治仁王が継承します。もはや親王にすらなれません。

 

栄仁親王が亡くなる少し前に、養育先の今出川家から戻ってきたのが貞成王です。治仁王と貞成王の関係については様々な説があります。同母の兄弟で一年治仁王が年長である、とするのが通説ですが、治仁王の方が九歳年下とする説もあります。そうなるとこの両者は同母の兄弟ではない、ということになります。

 

貞成王の母親は三条治子といいます。割合早く世をさっています。貞成王は宮家を継承できな立場であったため、仏門に入るはずでしたが、入室予定の門跡が急死したり、いろいろあったようで、出家せずに今出川家で養育され、四十歳を超えて元服し、伏見宮家に迎えられました。

 

琵琶などの楽、和歌、連歌漢詩、宮廷儀礼、書札礼など様々な学問を身につけていた貞成王は、博打が好きな治仁王とはソリが合わなかったようです。この距離感の背景に、両者の年齢と継承順序が絡んでいる、という松薗斉氏の見解は当を得ていると思います。

 

日記で読む日本中世史

日記で読む日本中世史

 

 

彼の野望の第一は親王宣下です。しかし彼の前には次々と難題が降りかかります。治仁王殺害疑惑、これは後小松上皇自身が噂を打ち消してくれました。しかし新内侍懐妊疑惑では後小松上皇称光天皇貞成親王を疑って足利義持に訴え出ます。これは義持の調査でシロと出ます。四十五歳で第一子を授かり、四十八歳で待望の長男である彦仁王を授かります。

 

後小松院の依頼で、後円融天皇三十三回忌の法華八講のための写経事業に協力した見返りに待望の親王宣下を受けますが、それが称光天皇の怒りを招いて後小松上皇称光天皇の関係が悪化し、そのとばっちりを受けて出家に追い込まれます。称光天皇は、自分の後に貞成親王を即位させると思い込んだようです。冷静になって考えれば50過ぎた貞成親王が、まだ二十代の称光天皇の後に即位するはずがありませんし、そもそも貞成親王は後小松上皇よりも五歳年長です。後小松上皇にしても貞成親王を即位させようとはなから思っているはずがありません。しかし心身を病んでいた称光天皇にはそのことが分からなかったのか、大騒ぎになり、結局後小松上皇から出家を要請され、出家に追い込まれました。

 

貞成親王皇位のことを意識するのはいつからか、と言えば、この前年の正月に彦仁王の即位必定という夢を見た、という真乗寺恵明房の話を耳にしたことがきっかけかもそれませんが、称光天皇と小川宮の不仲や、小川宮の所業の悪さなどから、足利義持称光天皇の後継者に彦仁王を考え始めたとしても不思議ではありませんし、それと連動して称光天皇もナーバスになっていたのかもしれません。

 

特に小川宮が急死してから、というものの、称光天皇はともかく後小松上皇の脳裏には後光厳皇統の断絶という最悪の状況が視野に入ってきています。

 

足利義持が厳中周噩に彦仁王の年齢を尋ねさせたのはまさに貞成親王が出家した直後でした。

 

称光天皇の病状は一進一退でしたが、彼の最後の皇女は実は崩御の2年前に生まれています。つまり後小松上皇足利義持称光天皇に後継者が生まれないと決めつけていた、ということではなさそうです。彼らは万が一のことを考えて彦仁王まで声をかけていたのでしょう。

 

南朝は頭になかったのでしょうか。当時、皇統は後光厳と崇光の二大皇統がありましたが、後醍醐皇統の中でも後亀山皇統は幕府との関係に問題があるので、後村上皇統の護聖院宮、長慶皇統の玉川宮、あるいは後二条皇統の木寺宮、少し離れているものの亀山皇統の常磐井宮が残存しています。当今を擁する後光厳皇統にとって崇光皇統が一番御しづらい皇統であるはずで、本当に崇光皇統でよかったのか、聞いて見たい気がします。

 

長くなってまいりましたので、後花園天皇即位後は次回に回します。

嘉吉四年(文安元年)正月一日〜十二月晦日

嘉吉四年

正月一日、四方拝、小朝拝、御薬供、元日節会

建内記、師郷記、続史愚抄

二日、殿上淵酔、出御

康富記

六日、叙位追行

康富記、師郷記

七日、白馬節会、出御

康富記、師郷記

八日、後七日御修法、太元帥法

康富記、東寺執行日記、続史愚抄

九日、別殿行幸

師郷記

十一日、県召除目延引

続史愚抄

十六日、踏歌節会

康富記、師郷記

十八日、三毬打

康富記

二十九日、革令事定

康富記、師郷記

三十日、甲子革令に関する明経、暦、算諸道の勘文、外記勘例を奏進

師郷記、続史愚抄

二月四日、祈年祭延引

康富記、師郷記

この日春日祭延引

五日、改元、嘉吉四年を文安元年とする。甲子の年

康富記、師郷記(一日・二日・三日・四日・五日)、師富記、元秘別録、続史愚抄

文安二年二月七日、釈奠延引

康富記、師郷記

九日、園韓神祭停止

師郷記

十一日、大原野

師郷記

十六日、春日祭を追行

康富記、師郷記

十七日、釈奠追行

康富記、師郷記

二十五日、祈年穀奉幣延引、この日別殿行幸

師郷記

二十八日、再び祈年穀奉幣延引

師郷記

三月三日、御灯、御禊

師郷記

十一日、去年内裏炎上し、今年甲子に当たるため、歴朝の例により山陵使を法住寺(後白河)深草法華堂(後深草)泉涌寺(後小松)の三陵に遣わし、宸筆の書を献上

康富記、師郷記

二十一日、北野一切経

康富記、師郷記

二十九日、県召除目

康富記、師郷記

四月一日、旬、平座

康富記、師郷記

五日、平野祭を行う、同臨時祭を停止、松尾祭も停止

康富記、師郷記

六日、梅宮祭

康富記、師郷記

十二日、稲荷祭

東寺執行日記

十五日、鴨社御蔭山祭を行う

康富記

十七日、日吉祭

康富記、師郷記

十八日、賀茂祭

康富記(十八日・十九日)、師郷記(十八日・十九日)

十九日、北野社仮殿遷宮日時定、十三日に北野社炎上による(康富記)

建内記、康富記、師郷記

二十一日、吉田祭

康富記、師郷記

二十五日、北野社仮殿遷宮

建内記、康富記、師郷記

二十六日、庭田経子に准三宮宣下

建内記(二十五日・二十六日)、康富記、師郷記

五月六日、故右近衛少将庭田経有に贈左大臣従一位宣下

建内記、康富記、師郷記、続史愚抄

二十一日、東寺に修造官符

東寺長者補任、続史愚抄

二十二日、軒廊御卜を行う、去る三月二十三日、熊野新宮阿須賀社雌鶏雄鳴の事による

康富記、師郷記(十七日・閏六月二日)

二十七日、延暦寺六月会

建内記

六月一日

忌火御飯を供す

師郷記

十一日、祈年祭を追行、月次祭、神今食

師郷記(二日、四日、十一日)

十四日、祇園御霊会

師郷記

十五日、祇園臨時祭、この日南殿に出御、御拝

建内記、師郷記

十八日、北野社正殿木作日時定、同一社奉幣使を発遣

建内記(十六日・十八日)、師郷記

二十五日、北野社木作始

師郷記

閏六月二十三日、雨の祈祷を全員に仰せ下す、旱天のため

師郷記

二十七日、炎旱御祈水天供の事を護持僧に命ず

師郷記

二十九日、大祓

師郷記

七月六日、彗星御祈のため、この日より聖護院満意に尊星王法を修せしめる、十二日結願

康富記(七日・十二日)、師郷記

十二日、彗星等の御祈として賀茂在貞の支度で天地災変祭を行う、また禁中で仁和寺真光院大僧正禅信に仏眼法を修させる

康富記、師郷記

十八日、御霊祭御輿迎

康富記

二十二日、祈年穀奉幣追行、奉幣使発遣に臨み、南殿で御拝

康富記、師郷記(二十日・二十一日・二十二日)

八月一日、釈奠を延引

康富記、師郷記

四日、北野祭延引

康富記、師郷記

十一日、釈奠

康富記、師郷記

十五日、石清水八幡宮放生会

康富記、師郷記

十六日、駒牽

康富記、師郷記

十八日、御霊祭

康富記

十九日、この日より三日、内侍所臨時御神楽、行幸、去年の三星合、今年の甲子革令等祈祷のため

康富記(十九日・廿日・二十一日)、師郷記(十九日・廿日・二十一日)、続史愚抄

二十八日、近日諸国牢人洛中に入り嵯峨で集会の風聞、禁裏室町殿門守護すべき沙汰あり

師郷記

九月三日、御灯

師郷記

八日、北野社立柱上棟

康富記、師郷記

九日、重陽節句、平座

康富記、師郷記

十一日、伊勢例幣、甲子革令、地震、兵革等のことを祈祷、発遣に臨み御拝

康富記、師郷記

二十一日、禁中に不動小法、二十八日結願

続史愚抄

二十八日、去年の内裏消失の際、災厄を逃れた四足門の取り壊しを停止

康富記

十月二日、平座を追行

康富記、師郷記(九月十八日・十月二日)

十一月一日、暦奏、内侍所に附す

康富記

九日、平野祭、同臨時祭、御拝、この日春日祭延引

康富記、師郷記

十日、梅宮祭

康富記、師郷記

十三日、大原野

康富記、師郷記

十四日、園韓神祭延引、社頭新造するも、遷宮に及ばざるによる

康富記、師郷記

十五日、鎮魂祭

康富記、師郷記

十六日、新嘗祭

康富記(十日・十六日)、師郷記(一日・四日・十六日)

十七日、豊明節会を停止し、平座

師郷記

二十一日、春日祭追行、吉田祭を行う

師郷記(十九日・二十一日)

二十二日、園韓神遷宮日時定并に小除目

師郷記

二十六日、園韓神祭追行

師郷記

十二月十一日、月次祭、神今食

師郷記(一日・三日・十一日)

十八日、節分、別殿行幸

師郷記

後花園天皇をめぐる人々ー東御方

厳密に言えばこの人は後花園天皇に直接深く関わった人ではありません。幼少期に彼の面倒を見ることはあったにせよ、伏見宮家の先代の栄仁親王の妻の一人で、王子を生んでいます。

 

三条実継の娘です。実継のひいひい孫が実雅と尹子なので、一応足利義教とも関係があります。

 

1363年生まれなので、貞成親王より9歳年長の義母になります。逆に言えば9歳しか変わらないとも言えます。

 

貞成親王が養育先の今出川家から伏見宮家に帰ってきたのが40歳ですから、貞成親王との初対面は49歳の時となります。

 

貞成親王からすれば義母、というよりは姉という感じではなかったでしょうか。才気煥発で口達者な女性だったようです。伏見宮家の子どもの面倒もよく見ていたようです。

 

彼女の活躍は、足利義教に気に入られて室町御所に出入りするようになった70代以降に顕著になります。足利義教伏見宮家の連絡役の一端を担うようになります。彼女の出身の家である正親町三条家が義教の外戚として勢力を伸ばしつつあったことと、彼女が仕えていた伏見宮家を盛り立てようとする義教の意向が大きかったと思われます。

 

彼女の仲介で義教は伏見宮家の移転を決断します。これは非常に大きな事業でした。貞成親王はその動きを聞いて「あのばあさん、ボケたか?」と思うほどの信じられない、プロジェクトX級の仕事です。というのも、後小松院は貞成親王を仙洞御所に入れてはいけない、と遺言を残していたからです。仙洞御所に貞成親王が入ってくる、ということは、当今である後花園天皇の先祖が崇光院であることを明示し、後光厳皇統そのものの存立を揺るがすことを後小松院は危惧していた訳です。

 

後小松院の遺言を真っ向から踏みにじるのは問題あるが、後光厳皇統をつぶしてしまいたい義教は、隠微にことを運びます。

 

まず仙洞御所を解体し、それを内裏の近くに移築し、その後仙洞御所の跡地を伏見宮家に献上する。それによって仙洞御所に貞成親王を入れてはいけない、という後小松院の遺言は守った上で、事実上伏見宮家に引き渡す。これによって当今は後光厳皇統ではなく崇光皇統であることの既成事実を一つずつ積み重ねていく。これが義教が、おそらくは東御方と描いた図でしょう。

 

東御方は晩年の栄仁親王に連れ添っただけに、後小松院によって領地のほとんどを奪われ、困窮し、さらに取り潰しをちらつかされて泣く泣く代々伝わる宝物の笛を差し出すという屈辱を味わわされた栄仁親王の無念を受け継いでいたのでしょう。

 

光厳皇統と崇光皇統はお互いに多くの家臣を抱えており、それぞれの反目がかなり大きなものになっていきました。我々は南北朝の対立や大覚寺統持明院統の争いに目を奪われがちですが、本当に深刻な対立は後光厳皇統と崇光皇統にこそあったはずです。

 

伏見宮家移転という一大プロジェクトを成し遂げた東御方の人生の絶頂は永享7年のこのころでしょう。

 

彼女の運命は一年半後の永享9年2月、暗転します。

 

2月9日、三条実雅邸に行った義教のお供をして彼女も実雅邸に赴きます。そこで見た中国渡来の絵をみた義教は見事さに感心し、感想を東御方に求めます。そこで東御方はその絵をけなしました。

 

逆上した義教は腰刀を抜いて「金打(きんちょう)」に及び、「二度と姿を見せるな」と怒鳴りつけた、と言います。すっかり不機嫌になった義教は猿楽見学も取りやめ、三条実雅邸から帰還します。ただ義教もやりすぎたと思ったか「東御方については今後も今まで通り伏見宮家に奉仕するように」と使者を通じて伝達します。幸子もなんとか尹子に口利きをしてもらえるように動いているようですが、まあ生活の糧を奪われないだけましだと言えます。

 

ところで「腹を立てて腰刀を抜き金打なさった」と『看聞日記』永享9年2月10日条にはありますが、一体何をしたのでしょう。

 

「金打」とは、武士が誓約の印に刀と刀を打ち鳴らす行為をさします。横井清氏は「この場合は峰打ちであったと思える」(『看聞御記』1979年、303ページ)としていらっしゃいますが、私は違うと思っています。

 

 

室町時代の一皇族の生涯 『看聞日記』の世界 (講談社学術文庫)

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峰打ちは危険な行為です。後円融上皇後宮の三条厳子に峰打ちをした時には、出血が止まらず大騒ぎになりました。まして老齢の東御方に峰打ちをしたら大怪我で済まず、死んでいたかもしれません。

 

実際には翌々日の11日には東御方は貞成親王のもとに顔を見せています。ただ貞成親王は小心なところがあって、義教からは「伏見宮家にこれまで通り御仕えさせる」ということを伝えられていたのですが、一応尹子に確認しています。尹子からは「今まで通り伏見宮家に御仕えすることでいいんじゃないですか」という返事をもらい、結局今まで通り伏見宮家の女房に復帰しています。

 

とすると、「金打」はそんな暴力的なことではないのではないでしょうか。

 

そこで思い出すことがあります。志村けんさんのバカ殿様のネタで由紀さおりさんに刀を抜くシーンがあります。

www.youtube.com

この志村けんさんを足利義教に、由紀さおりさんを東御方に見立てれば、義教が東御方にやったという「金打」のシーンが想像できます。

義教「この絵についてどう思う?」

東御方「だっさい絵ですよね、ほほほほほほ」

(シャーン)←尺八の音色

義教、刀を少し抜きながら

「俺の目は節穴じゃねえぞ」

東御方「申し訳ございません」

ここでいかりや長介さん演じる家老のような人がいなかったのが東御方にとっても義教にとっても悲劇でした。畠山満家満済が入れば、「まあまあ殿、そこまでお怒りにならなくても」となだめ「それはそうじゃな」と義教も我慢できたのでしょうが。

 

東御方は永享13年正月には伏見宮家の正月の儀式に序列二位で出席しています。その年の5月27日には息を引き取ります。そして東御方の逝去から一ヶ月も立たない6月24日、義教は赤松氏によって殺害されます。

後花園天皇をめぐる人々−敷政門院庭田幸子

後花園天皇の実母です。

 

この時代の女性の名前についてまずお話しします。

 

我々は源頼朝の妻の北条政子足利義政の妻の日野富子の例を見て、日本で夫婦同姓が全く伝統ではないことを知っています。

 

ただこれは少し注意を要します。

 

頼朝が知らない政子という名前、というネタがあります。北条政子は頼朝の死後、従二位に叙せられますが、その時の書類である位記に「平政子」と記されているのです。政子という名前が従二位への叙位に伴って付けられているのですが、名前の由来も単純で、時政の一字を付けています。

 

問題は「平」のところですが、これは一般には姓と呼ばれるものです。しかし姓と苗字と氏が紛らわしいのと、現在姓と苗字がほぼ同じ意味で使われていること、姓はカバネと紛らわしいこと、さらにはここでの「平」という「姓」が、桓武天皇を共通の祖先としているということを示していることなどから、私は「氏名」(うじな)というのが正しいと思います。「氏族名」の方がより実態に即していると思います。「氏族」(clan)というのはまさに共通の祖先を持つと意識されている擬制的な血縁集団です。桓武平氏、というのはまさに桓武天皇という共通の祖先を持つと意識されている擬制的な血縁集団です。

 

源頼朝清和天皇という祖先を持つ擬制的血縁集団に属する訳で、この氏族名は原則として変わりません。もっとも擬制的なので、勝手に変えてしまうことはよくあることです。ひどいのになりますと、新たに氏族名を作り上げることもあります。豊臣という氏族名は豊臣秀吉によって作られたものです。

 

で、清和源氏である源頼朝と、桓武平氏である平政子が結婚しても、氏族名は変わりません。

 

足利義政は苗字が足利で、氏族名が清和源氏です。一方日野富子は苗字が日野で、氏族名が藤原氏です。藤原氏藤原鎌足を共通の祖先として持つと意識される氏族です。この両者が結婚します。正式には彼らは「源義政」と「藤原富子」です。

 

では苗字は結婚した場合どうなるのでしょうか。日野富子北条政子の例のように変わらないのでしょうか。それとも明智光秀の娘が細川忠興と結婚したら細川ガラシャとなるように名前が変わるのでしょうか。

 

結論から言いますと、そもそも彼女らは苗字を名乗りません。で、位を授かって何子という名前を名乗るまでの名前はほとんど知られません。

 

ただ貞成親王筆まめだったので、王女の名前を一部記しています。第一王女が「あ五々」、第二王女が「めここ」、第五王女が「ちよちよ」と言います。それから前回取り上げた「内裏御乳人」は「賀々」と記されているので、これも彼女の本名かもしれません。他には東寺領新見荘の「たまかき」という女性もいました。

 

で、ようやく本題に入りますが、庭田幸子、という名前も便宜上の名前です。彼女は准后になった時に「源幸子」という名前に変えています。「源」というのは彼女の氏族名である宇多源氏です。

 

その前は三位に叙せられた時に「経子」となっています。これは彼女の父親の庭田経有から一字をとったものでしょう。

 

それ以前は女房名で記されています。「南御方」「二条」「今参」と遡っていきます。

 

彼女の性格は、一言で言えばアクティブ、これにつきます。

 

勝気で我が強く、社交的で、酒飲みで、双六(バックギャモンのこと)が強く、議論では夫の貞成親王や兄の重有をやり込めることも辞さない。室町時代の女性を言い表した言葉に「わわしき女」というのがあります。「騒がしい」とか「落ち着きがない」という意味ですが、まあ騒がしい女、ということでしょう。この時代の女性はなかなかパワーが溢れていたようです。

 

このような性格ですから、息子がいきなり天皇になって、朝廷のやんごとなき人々と交流するようになっても、もともとヒッキーでオタクの夫の貞成親王を助けて人前でのパフォーマンスを担当するようなタイプの女性だったようです。酒が酌み交わされる席には彼女がしばしば出てきます。

 

短歌は苦手だったようで、国母ということで後花園天皇の勅命で編纂された『新続古今和歌集』に載せるようにせっつかれた時には必死で貞成親王の指南を受けますが、貞成親王から「瓦礫」と評されるものしか作れなかったようです。

 

彼女は伏見宮家の女房の人事権も持っていて、彼女と合わない女官は、たとえ夫や周囲がとりなしてもガンとはねつけたり、逆に貞成親王の逆鱗に触れ、押し籠めの罰を与えられた女官をとりなして罰を取り消させたりしています。貞成親王は彼女には頭が上がらなかったようです。

 

貞成親王の妻は今の所彼女以外には知られていません。側室を置かなかった訳です。ただ松薗斉氏は、第四王女は別の女性ではないか、と推測しています。

 

日記に魅入られた人々 王朝貴族と中世公家 (日記で読む日本史)

日記に魅入られた人々 王朝貴族と中世公家 (日記で読む日本史)

 

 

この本は歴史にそれほど詳しくなくても、それほど興味がなくても十分に面白く読めるので強くお勧めします。

 

彼女の社交性は、特に足利義教正室の三条尹子との関係に活かされます。非常に気があったらしく、しばしば尹子のもとを訪れて長居をすることも多かったようです。

 

三条実雅(ちなみに尹子の兄)が連れてきたインチキ代官を尹子がクビにしてくれ、伏見宮家の権益を守ってくれたことがありますが、これも幸子と尹子の関係がもたらしてくれたのかもしれません。

 

彼女は健康だったようで、四十五歳で最後の王女を産んでいます。平均寿命も短く、老化も早かったこの時代に稀有のことです。

 

しかし彼女の旅立ちは意外と早くやってきました。五十九歳(満五十八歳)の時に噎病(えつびょう)に倒れます。物を飲み込めなくなり、噎ぶ(むせぶ)病気です。喉頭癌か食道癌でしょう。

 

病に倒れた彼女に後花園天皇は敷政門院という称号を与えます。しかしその数ヶ月後、彼女はあの世に旅立ちます。貞成親王の日記である『看聞日記』の最後の記述は彼女の死の数日前です。彼女の死とともに貞成親王も日記を書く気力を失ったのでしょう。

 

彼女は臨終に先立ち出家し、正念にて臨終したと伝わります。わわしき女代表の彼女らしい、堂々とした臨終でした。

後花園天皇をめぐる人々−御乳人

後花園天皇をめぐる人々について、備忘録的にまとめていきます。

 

第一回目は、普通に考えれば実父の後崇光院か実母の敷政門院になるのでしょうが、その辺はとりあえずウィキペディアでも見ればそこそこわかるので、ここでは御乳人と呼ばれた後花園天皇の乳母について取り上げます。

 

彼女は嘉吉三年の禁闕の変の時に急を伏見宮家に急報した女性です。

 

詳しくは松薗斉氏「室町幕府の女房について」(『人間文化』28号、2013年)をご参照ください。以下の記述も全て松薗氏によります。

http://kiyou.lib.agu.ac.jp/pdf/kiyou_02F/02__28F/02__28_143.pdf(pdf注意)

 

彼女は松薗氏によれば応永三年(1396年)生まれに比定されています。最初の子供である「春日」という女房名を持つ彼女の長女が永享四年(1432年)に21歳と記述されており、そこから春日を出産した時の彼女の年齢を16歳と措定した場合の年齢になります。従ってそこから若干の変動はあるため、実際に生没年を示すとすれば、(?)となるか、(1396?〜?)という形になるでしょう。

 

彼女の出自は伏見の地下人と見られています。宇多源氏綾小路流の庶流庭田氏の庭田重有の「妾」と記されています。庭田重有(1378〜1440)は伏見宮貞成親王の仕女で、後花園天皇の生母の幸子(1390〜1448)の兄に当たります。庭田家は崇光院の側近で、崇光院が伏見に居住するのに従って伏見に居を定めたようです。

 

実家があまり地位の高い家ではなかったらしいことは、彼女が『看聞日記』に登場するときの序列からも歴然です。常に一番最後。名前すら出ない下臈の女官が多い中で、名前が出ているだけでも立派なものではありますが、下臈の中では唯一名前が出ている彼女は常に一番最後に書かれています。

 

彼女は重有の寵愛深かったようで、応永年間だけで6〜7人の子どもを産んでいるようです。で、乳母として伏見宮家にいた皇子女8人の世話もしていたようで、松薗氏は保育園の先生のようだ、と述べています。

(松薗斉『日記に魅入られた人々』臨川書店、2017年)

 

日記に魅入られた人々 王朝貴族と中世公家 (日記で読む日本史)

日記に魅入られた人々 王朝貴族と中世公家 (日記で読む日本史)

 

 

永享年間に入って、彼女が伏見を離れても、重有との間に子をなし、最終的に10人前後子どもがいたようです。

 

彼女にとって一大転機は、養育していた伏見宮の一宮が突然天皇になったことでしょう。ある夜、突然伏見宮家に、出入りしている世尊寺行豊が現れ、「宮御方(後花園天皇のこと)をお連れになってください」と三宝満済の指示を伝えます。幕府の管領畠山満家が数百の軍勢を率いて護衛にきます。物々しい雰囲気の中、若宮が連れ出されます。このとき彼女は夫の重有とともに随行を命じられたのです。彼女の立場は一夜にして大きく変転しました。京都の外れのお寺の片隅に寄寓する没落皇族に使える下臈から、一天万乗の君のサポート役へ。伏見の里の地下、つまり一般人の家に生まれた彼女がいきなり宮中の奥深くに住むことになったのです。考えただけで恐ろしい。

 

しかし彼女にとって幸運だったのは、彼女の役割が伏見宮家と宮中の連絡役だったことです。彼女は宮中と伏見宮家の両方に仕えることになり、両方に顔を出すようになりました。宮中で疲れた心身を伏見で癒していたことでしょう。

 

彼女にとって次の転機は伏見宮家の京都転居です。伏見宮家、つまり崇光皇統を「正統」としたい足利義教は、崇光皇統の復活を拒む後小松院の遺言を無視して伏見宮家を仙洞御所跡に住まわせます。貞成親王を事実上の上皇に仕立て上げよう、というのです。後小松院、三宝満済が世をさり、後小松院が属する後光厳皇統を支持する勢力は弱体化していったとは言い条、義教と貞成親王の前には障害が立ちはだかります。それを一つずつ排除していく過程でした。

 

これは彼女の境遇にも影響を与えます。伏見宮家が一条東洞院に移転したため、彼女は里帰りが難しくなります。しかし彼女の「里」も一条東洞院に移転させます。要するに彼女の実家も伏見宮家のそばに呼び寄せた、ということでしょう。

 

彼女は伊勢国栗真荘と若狭国吉田三宅荘を内裏女房の御恩として受け取っていました。荘園を所有している、と言っても現在の我々が想定する形ではなく、毎年一定の金額を受け取るという形です。永享六年には「室町殿申沙汰」つまり足利義教の介入により、彼女には従来の栗真荘に加えて吉田三宅荘を受け取ることになります。これは後小松院の遺領配分によるものですが、後小松院の遺領配分を行なっているのが義教であることは、当時の天皇家と幕府の関係を如実に表しています。

 

彼女の次の転機は、夫の重有の死去でしょう。永享十二年、重有は63歳の生涯を閉じます。ここで出家するのが当時の女性のよくあるパターンですが、彼女の場合、出家して夫の菩提を弔っている場合ではありません。後花園天皇が生まれた時から世話をしていた彼女がいなければ、いろいろなことが回らなかったでしょう。

 

禁闕の変での彼女の災難は前に述べたとおりです。

 

残念ながら、彼女の活躍を記録していた『看聞日記』は嘉吉三年でほぼ終わってしまうため、その後の彼女の消息はわかりません。調べたら出てくるかもしれないので、意識しておきます。

禁闕の変

これについて一番詳しく記述がなされているのが、『看聞日記』です。何せ実際に巻き込まれた「御乳人」(後花園天皇の伯母で乳母)が貞成親王に報告しているからです。御乳人は貞成親王の妻の幸子の兄重有の妾で、幼少時の後花園天皇を養育していました。養育と言っても、当時の庭田邸は伏見御所の隣にあったので、後花園天皇は実の父母、養父母に見守られて成長したわけで、当時では少数派です。貞成親王ですら、今出川家で養育されています。

 

嘉吉三年十一月二十三日、貞成親王はもう寝ていたようです。「火事です!」という声に飛び起き、「内裏です!」という声に寝殿に走り出てみると清涼殿が炎上中、仰天して気を失いそうになっていると、御乳人が泣きながら走りこんできました。小袖も剥ぎ取られて、下着姿、といういかにもやばい姿です。

 

彼女によると、40人ほどの武装した連中が清涼殿に乱入してきて、天皇の普段の居場所の常御所に入ってきた、と言います。天皇はまだ就寝しておらず、そばには甘露寺親長と四辻季春がいましたが、天皇は咄嗟に昼御座(ひのおまし)の剣をとると隣の議定所に逃げ込みます。女官のトップの大納言典侍三種の神器を持ち出しますが、侵入者に奪われ、女官も散り散りになり、御乳人も小袖を剥がされて逃げ出した、と言います。この段階で天皇の行方、生死も不明で、まさに最悪の状況も想定できたでしょう。

 

夜明けになって近衛忠嗣邸にいることがわかり、さらに詳細な経過も明らかになっていきました。

 

清涼殿に乱入した侵入者はまず剣璽を狙ったようです。そして火をつけ、天皇は議定所から脱出し、甘露寺親長と四辻季春が太刀を抜いて侵入者を打ち払いながら天皇を逃しました。天皇は冠を脱ぎ捨てて女房に変装して逃げたようです。

 

北の唐門から内裏の外に脱出した天皇ですが、親長は侵入者に阻まれ、天皇と離れ離れになり、季春一人を連れて正親町持季の屋敷に逃げ込みます。ちなみに季春は当時19歳です。親長は18歳、いずれも若いです。親長はこの時には結局無事で、後花園天皇の最期を看取った側近中の側近です。

 

そこから広橋兼郷の邸に入り、そこから輿で近衛邸に移動しています。この間の動きは、襲撃を避けるために一切外部に知らされず、その間は多くの人にとって天皇の生死すら不明だったわけです。

 

源尊秀という人物が首謀者で、そこに日野有光が加わった、とされています。

 

金蔵主や通蔵主も加わっていましたが、これなどは「南方一統断絶」という足利義教の方針が関係しています。彼らは室町幕府および後光厳皇統に協力的な護聖院宮家です。しかし後花園天皇の即位と後小松院の崩御で義教の方針は後醍醐天皇の子孫は取り潰しと決定し、護聖院宮家の二人の宮は出家に追い込まれます。彼らが足利義教後花園天皇に恨みを抱くのはごく自然な流れです。

 

日野有光は後小松院の重臣です。しかし足利義教の後光厳皇統から崇光皇統への乗り換えの中で不満を募らせ、南朝に味方したようです。

 

我々の今日の考え方では「え?なんで後小松院の重臣が南朝と組むの?」となりがちですが、極端な話、後小松院が南朝よりも恐れたのが、崇光皇統だったはずです。後小松が後花園への皇位継承を了承したのは、あくまでも後光厳皇統を存続させるためでしたが、崇光皇統には貞成親王という、皇統の付け替えに執念を燃やす人物がいて、彼は自分の子どもが天皇になっただけでは不足であり、後光厳皇統を断絶させる意気込みで活動しています。また足利義教貞成親王後花園天皇の父親として位置付ける動きをしていました。後小松院の遺臣からすれば、南朝の方が皇統の付け替えをもくろまないだけまし、というものです。

 

細川勝元山名宗全が同心していた、とされていますが、この噂の蓋然性は高いと私は考えます。当時は畠山持国が執政でしたが、畠山をつぶす、という一点でこの両者は連携していたからです。しかし天皇の暗殺に失敗した段階で彼らは手のひら返しをしたのでしょう。大名が謀反に加担した話はいくらでもありますが、常に不問に付されています。権力の中枢部に累が及びそうになると常にもみ消され、彼らは何事もなかったかのように忠勤を励むのです。哀れを止めるのは末端のものたちです。

 

金蔵主と日野有光比叡山に立てこもったものの、畠山持国の軍勢に攻められ、討ち取られます。右大弁宰相の日野資親(有光嫡子)も捕縛され、斬首となって日野宗家は断絶します。

 

この問題を単に後南朝の問題で議論してはいけない、崇光流と後光厳流の確執という構図も想定すべきということを打ち出したのが田村航氏の「禁闕の変における日野有光」(『日本歴史』751、2010年10月号、pp34〜50)です。

 

私もその見解には従うべきと考えています。今までやはりこの崇光皇統と後光厳皇統の問題はかなり軽視されていたのではないか、と思います。