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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

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水曜日:次回講座の予告3

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 歴史学研究者・古文書講師の秦野裕介のブログです。

室町時代を中心に日本史を研究しております。

室町時代・戦国時代の政治史、あるいは北海道の中世史を研究しています。

京都府乙訓郡大山崎町出身。

1997年4月〜2018年3月まで立命館大学非常勤講師。

2004年4月〜2018年3月まで立命館アジア太平洋大学非常勤講師。

株式会社歴史と文化研究所客員研究員。

会社概要・客員研究員 - 株式会社 歴史と文化の研究所

2019年4月〜9月まで立命館大学授業担当講師。

原稿執筆(書籍・雑誌)、講演の相談・依頼は大歓迎です。

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オンライン日本史講座四月第三回「室町時代の皇位継承」4

無事終わりました。

 

今日のポイントです。

 

まず一つ目。称光天皇崩御した後は貞成親王第一皇子の彦仁王を皇位継承にする、というのは足利義持と後小松上皇の間で決まっていたのは事実ですが、その時称光天皇は回復しているので、この約束は足利義教が義持を継いだ時にも生きていたのでしょうか。

 

ここは私はずれがあるように思います。この約束事は応永32年7月に称光天皇が重体になった時の話ですが、この時後小松は義持と話し合って在位中の崩御はまずいので譲位させなければならないが、実際問題称光の気持ちを考えれば難しいので、崩御後直ちに彦仁王に譲位したことにして乗り切る、ということが決定しています。

 

しかしその時称光は回復し、その翌年には皇女を産ませています。ということは、称光はまだ皇女を産ませることができた、ということを意味します。それは立ち消えになった、とみるのは不自然ではないでしょう。後小松はそう考えたのではないでしょうか。

 

一方義教はそれが継続している、と考えていた節があります。義教は称光危篤の報を受けると後小松に無断で伏見に使者を遣わします。若宮を直ちに若王子に入れなさい、畠山満家を警護に差し向けます、という具合でそれを聞いた伏見宮家は大騒ぎで彦仁を送り出します。

 

後小松は「体調が悪いから」といって面会に応じません。直接書状をもってこいと命じます。

 

後小松は彦仁を践祚させる時に貞成の子として践祚することをいやがっていたのです。義教の方で「仙洞の猶子にします」と言われてそれを一番気にしていたことをカミングアウトしています。

 

この辺の詳細は別記事にまとめてあります。

sengokukomonjo.hatenablog.com

ここでも話題にしましたが、後小松には実は木寺宮常盤井宮というカードが存在していました。他にも護聖院宮玉川宮もいます。こういうのを交渉のカードとして保持していたからこそ、彦仁王を後小松の猶子として践祚させ、後光厳皇統を断絶させない、ということを考えることができたのです。

 

もう一つは話が前後しますが、後光厳天皇の時に「天皇権威の失墜」といっているが、そこはしっかりと実証できているのか、という金子先生からの質問です。

 

要するに神器がない、譲国の儀がない、だから権威がなかった、というだけではなく、権威が失墜していたことを史料で説明できるのか、ということです。そもそも「天皇権威」とはどういうもので、後光厳においてはそれがどのように失墜していたのか、もう少し慎重に説明する余地はあったかな、と思います。まあそこはこれからの課題ということで。

 

あとは禁闕の変のことについて先走りして話しましたが、これは次回説明ということで。

 

今回痛感したのは称光天皇論の必要性です。なんとなく「体が弱く、後継者の誕生は望めなかった」と言われていますが、実際には死去の2年前には皇女を産ませているわけで、後継者の生誕する可能性は実はあったのです。

 

もう一つは称光天皇が病弱だった、と言いますが、それはいつからなのか、ということです。今のところの私のイメージですが、応永25年以降ではないか、と考えています。称光天皇のトラブルについて、健康問題ばかりフォーカスするのは公正さを欠きます。きちんと彼のやんちゃな悪事も取り上げないと虚弱な称光というイメージだけでは正しくありません。

 

小川宮は結構あっさりと流してしまったので、こちらは下記エントリをご覧ください。

sengokukomonjo.hatenablog.com

 

次回は後花園天皇践祚から初めて後土御門、後奈良、後柏原と行きたいのですが、どこまでいけるかわかりません。正親町天皇にはいかないことは確実です。ただ後柏原単独で残すと面倒くさいのも事実で、強行突破を図るか、それとも後花園で喋りすぎてそこで終わってしまう、というアクシデントもあるかもしれません。

昔の改元の時の候補とその出典を見てみよう3−嘉吉から文安へ−

平成から令和への改元に便乗した企画、後花園天皇の時期の改元の出典を見ようという企画です。一体どのような改元案が、どのような出典に基づいて出されていったのか、ということを見ることで、間も無くとなった改元がより身近に感じられると思います。

 

この年は甲子の年に当たっており、甲子は辛酉の四年後で徳のある人物に天命が下る革令の年なので変乱が起こりやすく、それを回避するために改元を行います。甲子の年に改元を行わなかったのは永禄7年の例だけです。これは足利義輝三好長慶が対立している中で改元を強行すると本当の戦乱が起こりかねない、と危惧したからだと言われています。

ja.wikipedia.org

長い年号の一つのポイントは辛酉・甲子の年に当たらないことであることがわかります。

 

それでは見ていきましょう。

 

蔵人頭右中弁兼文章博士藤原資任(烏丸家)

徳寿(『漢書』「尭舜行徳則民仁寿」)

安永(『文選』「寿安永寧」、『唐紀』「保安社稷永可奉宗祧」)

 

従四位下少納言侍従文章博士菅原継長(高辻家)

寧和(『文選』「区寓又寧、思和求中」)

長禄(『韓非子』其建生也、長特(ママ)禄也、永」)

万和(『文選』「万邦協和施徳百蛮、而粛慎致貢」)

 

中納言藤原兼郷(広橋家)

承慶(『晋書』「順祖宗下念臣吏万邦承慶」)

文安(『晋書』「文安漢社稷」、『尚書』「欽明文思而安安」)

 

正二位行式部大輔菅原在直(唐橋家)

文安(『尚書』「欽明文思而安安」)

平和(『尚書』注、「九族而平和章明」)

 

左大弁三位菅原益長(東坊城)

寛永(『毛詩』「考槃在澗碩人之寛独寝寤言永矣」『弗⬜︎(言に爰)注』「碩大寛広永長」)

建正(『周礼』「乃施法于官府而建其正」)

洪徳(『文選』「皇恩溥洪徳施」)

 

東坊城益長は前回に引き続いて「洪徳」を出しています。むかし足利義満が応永改元の時に出してポシャったやつです。

 

あとメンツでは烏丸資任が気になります。彼は永享の乱の時に出された治罰綸旨の奉者を務め、また足利義政の養い親でもあった人物です。後花園上皇が出家する時にお付き合いで出家した人物でもあります。一方で足利義教に補任された山国荘の代官の時に後土御門天皇と対立し、後土御門は昔の飲み友達で不倫の噂まで建てられるほど親しい日野富子に介入を依頼しましたが、無理、と言われた人物です。富子の威光でも義教が決定したことはそう簡単には覆らないことを示していると思います。

 

高辻継長は後花園崩御時に「後花園」と「後文徳」を候補として提出した人物で、なおかつ後花園の侍読を務めました。

 

広橋兼郷は『兼宣卿記』で有名な広橋兼宣の息子で、姉は大納言典侍として後花園の女官のトップを務めています。数ヶ月前の禁闕の変では三種の神器を持ち出そうとして賊に奪われてしまいます。また兼郷自身は後花園の避難場所になりました。裏辻持季の屋敷から近衛房嗣の屋敷に逃げる途中、後花園は兼郷の屋敷に立ち寄っています。

 

にも関わらず貞成親王を誣告した罪で洛中から追放処分になり、ほどなく死去します。貞成親王太上天皇の尊号宣下を受ける少し前の話で、後花園の弟の貞常王の親王宣下が延期される事件が起こり、その責任を背負わされたようです。

オンライン日本史講座四月第三回「室町時代の皇位継承」3

4月18日(木)午後8時30分からのオンライン日本史講座「室町時代皇位継承」のお知らせです。

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後小松天皇足利義持は儲君の躬仁親王践祚に踏み切ります。実は後小松天皇の在位は30年を超え、長い方になっていました。

 

躬仁親王の即位は南北朝合体の条件に違反しており、後南朝はそれを不服として蜂起しますが、鎮圧されます。

 

躬仁親王践祚には足利義満の死去が関係あるかもしれません。南北朝合体の条件の一つである両統迭立南朝北朝が交互に皇位に就く事)は義満が決めた事であり、義持や後小松にとっては知ったことではなかったでしょう。当事者の義満が死んだ事で義持と後小松はなかったことにしてしまったのではないでしょうか。

 

躬仁親王称光天皇は剛毅な天皇ではあったようです。火災のときに仙洞御所は焼け落ちましたが、称光は内裏に仁王立ちになってお気に入りの金の鞭で消火を指示、義持や足利義嗣、諸大名たちも一斉に消火活動に取り組み内裏は無事だったことがありました。

 

しかしこの剛毅な性格は時として粗暴にもなります。称光は太刀や弓矢を愛好するという、武を好む側面もありましたが、金の鞭で気に入らない近習や女官を打ち据えるという暴挙に及ぶことがあり、義持は禁裏の警固の強化という名目で称光を監視させたり、名前が「身に弓あり」として諱を実仁と変えさせています。

 

この時期の義持の対朝廷政策は、後小松の治天就任ということもあって、義持自身が院の役割を果たす必要がなくなり、義満のように朝廷との関係を深めることがなくなりました。義持自身は内大臣より上には進もうとせず、准摂関家としての地位を守っていました。

 

しかし一方で自らの将軍就任とともにあった応永年号への執着は凄まじく、称光の代はじめ改元も行わせようとはしませんでした。

 

次にやってきたのが称光天皇の健康問題です。

 

称光天皇は応永25年を超えるころから病気の記事が目につき始めます。

 

この年の7月、称光の新内侍が懐妊しました。めでたい話のはずです。しかし称光は「身に覚えがない」と言いだし、大騒ぎになります。

 

称光は新内侍が伏見にいる間に懐妊したと主張し、貞成親王による密通を疑いだします。武家伝奏の一人の広橋兼宣に義持が「貞成親王は言い逃れできまい」ともらすほどのピンチだったのですが、義持の調査と貞成の起請文によって疑いは晴れ、貞成が提出した起請文に恐懼した義持は後小松父子に「したたかに申し入れ」ました。

 

結局これは松木宗量の讒言ということになり、宗量は讒言の罪とそれに加えて後小松の典侍の光範門院との密通も露見し、追放処分になります。

 

後小松一家にとっては散々な出来事になってしまいました。後小松一家の権威は失墜し、さらに義持と貞成の距離が接近してしまうという結果に終わりました。

 

この年の10月には称光の心身は明らかに悪化していきます。そしてそのころ貞成に仕えていた今参局(側近の庭田重有の妹)が第二子を懐妊し、翌年6月には第一皇子を産みます。

 

その数年後、義持は若宮の年齢を尋ねます。万が一のことも考えたのでしょうが、結局称光の儲君に弟宮を立てることになります。

 

しかしこの弟宮がとんでもない人物だったようで、御薬供の最中に妹宮の理永女王を「淫事」「蹂躙」するという不祥事を起こしています。性的な暴行と解釈されています。この前代未聞の不祥事には後小松も激怒し、弟宮勧修寺経興の小川(こかわ)亭に移され、これ以降小川宮(こかわのみや)と呼ばれるようになります。

 

このころ内裏の四足門の警備をしていた管領畠山満家は奇妙な指示を受けます。女装した人物が武器を携行して突入してくるかもしれないが断固阻止せよ、だが切りつけたり殴りつけたりしてはいけない、というものでした。満家が困惑して問い合わせたところ、天皇の側近と恋愛のもつれを起こした小川宮が意趣返しに内裏突入を企画しているというものでした。この事件を受けて後小松は称光の教導を義持に依頼しています。後小松の手には負えなくなっていたのです。

 

その十日後には小川宮は称光にペットの羊の譲渡を申し入れます。称光は兄弟の和解に役立てばと思い、贈ったところ、即日その羊は殺害されました。

 

そのうちに小川宮は急死します。毒殺の噂がたちました。

 

義持の嫡子の義量は病臥ののちに病死しました。

 

朝廷と幕府はほぼ同時に後継者を失ったのです。これが政治不安を招かないわけがありません。

 

貞成はそのころ後円融院33回忌に協力した功績で親王宣下を受けました。後小松より五年年長でしたが、名目上後小松の猶子となって宣下を受けたのです。

 

これに過敏に反応したのが称光です。平家物語を聞いていたことを後小松に咎められた称光は錯乱し、出奔しようとします。

 

義持が急を聞いて参籠を中断して称光の説得に乗り出し、貞成親王の出家が決定します。称光は貞成親王が次の皇位継承者と勘違いしたのです。そしてその疑いを晴らすために貞成は出家させられました。

 

その直後称光は意識不明の重体に陥り、典医も匙を投げました。義持は貞成に若宮の年齢を尋ね、称光死去後直ちに伏見若宮践祚の儀を執り行うことが決定しました。

 

しかし称光はこのとき奇跡的な回復力を見せます。そしてそこで貞成が称光を呪詛した、という疑惑が持ち上がりますが、その疑いも晴れます。

 

とは言っても称光の健康状態は好転する見込みもなく、皇子生誕の可能性も絶望的だったとされますが、実際には皇女が生誕しているので、まだ皇子生誕の可能性も残されていた、と見るべきでしょう。

 

しかしその望みが潰える時がきました。

 

足利義持から足利義教への代替わりがあった半年後、称光は病に倒れ、半月の闘病の末にあっさり死去します。

 

義教は称光重体の報を受け取ると直ちに畠山満家と赤松満祐に命じ、伏見若宮の身柄を確保し、若王子に入れ、称光の死去を待ちます。称光の死去後直ちに後小松と交渉し、伏見若宮の践祚を決定します。後花園天皇の誕生です。

 

足利義満袖判下文(『朽木家古文書』国立公文書館)

古文書入門です。国立公文書館の『朽木家古文書』を題材にして古文書の簡単な解説を行なっています。

 

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足利義満袖判下文(国立公文書館蔵)

www.digital.archives.go.jp

では釈文です。

足利義満花押)

 下 佐々木出羽守氏秀

 可令早領知近江国高嶋

 朽木庄内針畑事

右、任舎弟五郎氏綱去月

二日避状可令領掌之状如件

永和三年八月廿二日

 それほど難しい字はないと思います。「事」が異体字になっています。

避状は「さりじょう」と読み、権利を放棄する旨を記した証文です。

 

読み下しです。

下す 佐々木出羽守氏秀、早く近江国高島朽木庄内針畑の事。

右、舎弟の五郎氏綱が去る月二日の避状に任せ、領掌せしむべきの状件の如し。

 

近江国高島朽木庄の針畑を朽木氏秀の弟の氏綱が所有権を放棄したので、氏秀がそれを所有せよ、という意味になります。

 

ざっくりしていますが、これで終わります。

オンライン日本史講座四月第三回「室町時代の皇位継承」2

4月18日(木)午後8時30分からのオンライン日本史講座のご案内です。

 

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後光厳天皇室町幕府管領細川頼之の支持も取り付けて無事に後円融天皇に譲位することができました。

 

後円融天皇といえばやはり足利義満による王権簒奪のターゲットというイメージが強いです。この問題は古くは大正時代の田中義成『足利時代史』以降度々取り上げられてきましたが、やはりこれがよく知られるようになったのは今谷明氏の『室町の王権』が大きいでしょう。

 


足利時代史 (講談社学術文庫 341)

 


室町の王権―足利義満の王権簒奪計画 (中公新書)

 

現在では義満による王権簒奪という考えは成り立たない、というのが多数説となっています。

 

義満と後円融の対立は、朝廷の政務をめぐる個人的な軋轢から始まり、後円融が義満を忌避するようになって朝廷が機能不全に陥り、結果義満が朝廷の後見を努めるようになってしまったと見られています。

 

後円融は当初は足利義満とは仲が良かったようなのですが、時間に厳密な義満と、きままな後円融はやがて対立するようになり、また義満が信頼した二条良基と後円融の対立もあってこの両者は決定的に対立するようになります。

 

この辺の事情については早島大祐氏の『室町幕府論』にかなり詳しく載っています。

 


室町幕府論 (講談社選書メチエ)

 

 特に後円融が後小松天皇に譲位したのちの後小松の即位式をめぐって両者は激突し、それをきっかけに後円融は政務を放棄し、義満による治天の地位の代行が始まります。

 

この辺の経緯は石原比伊呂氏の『足利将軍と室町幕府』が詳しいです。

 


足利将軍と室町幕府―時代が求めたリーダー像 (戎光祥選書ソレイユ1)

 

 後円融上皇が義満の参院を拒否したため、義満は参院を遠慮することになり、それを慮った廷臣たちも参院を遠慮し、結果、後光厳院10回忌は非常に寂しいものになりました。

 

後円融の精神が追い詰められていく中、大きな事件が起こります。通陽門院殴打事件です。

 

通陽門院は後小松の生母で、三条公忠の娘でした。公忠は少し前に自分の土地の訴訟に義満を通じて案件を解決しようとしていました。それが後円融の機嫌を痛く損ねることになります。

 

通陽門院は皇女を出産後内裏に戻ってきましたが、準備不足を理由に後円融の召を断り、逆上した後円融が通陽門院のところにやってきて峰打ちします。通陽門院は重傷を負い、急を聞いて駆けつけた後円融生母の崇賢門院がなだめている間に通陽門院は脱出に成功し、ことなきを得ます。

 

しかし騒ぎは拡大し、後円融は寵愛していた女官を義満に通じていた、として追放し、義満が自分を流罪に処そうとしているという妄想に取り憑かれて自殺未遂を行い、後円融の権威は失墜します。

 

そのころ義満は伏見に隠棲していた崇光のもとをしばしば訪れ、崇光が義満の盃を受けたことの謝礼に1億円程度の献金を行なっていますが、これは崇光とその子孫が皇位継承を諦めたことへの謝礼でしょう。義満にとっては後小松をどこまでも擁護し、確立する必要があったのです。そして後光厳皇統を続かせるためならばそれの障害はできる限り取り除かなければならない。崇光皇統もそうですが、皮肉なことに後円融も後光厳皇統の永続のためにはならない、として切られた、と考えるべきでしょう。

 

後円融の死去後は義満による庇護はさらに強まり、義満があたかも上皇のように振る舞うようになります。

 

義満の出家については世俗の規範から脱し、皇位簒奪に向かうための準備という見方もありますが、桜井英治氏はそれを明確に否定します。

 


室町人の精神 日本の歴史12 (講談社学術文庫)

 

 他にも日本国王も現在では貿易の利益に着目したもので、皇位簒奪とは切り離して考えるべきである、というのが多数説です。

 

南北朝合体も義満が前のめりになって進めたものといっていいでしょう。義満は後亀山天皇太上天皇の尊号を奉呈します。北朝サイドの反発が大きかったにも関わらず、です。ましてや両統迭立の条件など義満の個人プレーであったからこそ、義満の死後には完全に破棄されてしまうのではないでしょうか。

 

私は義満はそれなりに真剣に南北朝合体を前のめりに進めたと考えています。後光厳皇統の安定のためには南朝は何としても取り込まなくてはならない。そのためには大幅な譲歩も必要だろうと考えていたのではないかと思います。

 

しかしこれは結局禍根を残すことになります。義満の死去後、足利義持後小松天皇率いる朝廷は両統迭立を無視し、後小松の皇子の躬仁親王の即位に動きます。これに後南朝は反発します。この遺恨は長く尾をひくことになります。

後花園天皇の生涯−寛正五年正月一日〜寛正五年十二月晦日

寛正五年
正月一日、小朝拝を停止、春日社神木動座による。元日節会は行う、神木のことにより簾中に出御
続史愚抄
五日、叙位を停止、春日社神木動座による
続史愚抄
七日、白馬節会、神木動座により簾中に出御
続史愚抄
八日、太元帥法を行う、後七日御修法は停止
続史愚抄(八日・十四日)
十六日、踏歌節会、出御なし
続史愚抄
四月七日、春日社に大慈行満菩薩の号を賜う
続史愚抄、蔭涼軒日録
八日、稲荷祭
続史愚抄
十四日、賀茂祭
広光卿記、続史愚抄(十二日・十四日・十五日)
六月十四日、内侍所臨時御神楽
続史愚抄
この日、祇園御霊会
蔭涼軒日録(七日・十四日)。続史愚抄(七日)
十七日、この日より禁中にて金剛童子法、二十三日結願
続史愚抄(十七日・二十三日)
七月五日、権大納言九条政忠内大臣に任ず
続史愚抄
十六日、貞常親王東洞院第に行幸、近日上位のため。内侍所同じく渡御
蔭涼軒日録、大乗院日記目録、続史愚抄
十九日、位を皇子成仁親王に譲る、この日節会、剣璽、内侍所を新主御所に写す
本朝皇胤紹運録、皇年代略記、公卿補任、清贈二位宗賢卿記、大乗院寺社雑事記、大乗院日記目録、山賤記、続史愚抄
この日、左大臣足利義政を院執事に補任
京都将軍御家譜(十九日・二十九日)、続史愚抄(十九日、二十九日)
八月九日、太上天皇の尊号を受ける、この日兵仗宣下
歴代皇紀、大乗院日記目録、続史愚抄
二十三日、院御幸始あり
大乗院日記目録、有職抄。続史愚抄
十二月五日、院御所で三席御会、御製あり、笙の所作あり
有職抄、御遊抄、続史愚抄