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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

後花園天皇をめぐる人々−足利義政

後花園天皇といえばこの人を外すわけにはいかないでしょう。足利義政です。

 

しばしば無能ぶりが注目される人物です。私は以前その見方はおかしいのではないか、と疑問を持ち、いろいろ調べたことがあります。

 

結果は・・・

 

無能としか言いようがありませんでした。

 

寛正の飢饉での対応を私は批判するつもりはありません。飢饉で大量の餓死者が出ている中、御所を造営するなど贅沢三昧という見方は藤木久志氏や東島誠氏によって否定されつつあります。少なくとも義政はこの問題に従来にはない新しい方法で対応しようとしていた、とされています。

 

義政が無能なのは、守護への一貫性に欠ける介入です。畠山持国の後継者争いで畠山義就(よしひろ)と畠山政長の間でウロウロして結局応仁の乱を引き起こしたことは有名です。これは畠山家中が割れていたこと、そこに細川勝元山名宗全連合が介入して畠山氏をガチで潰そうと動いていたことを差し引いても、もう少し動きようがあった、というか、動かない方がよかった、ということが言えるでしょう。

 

少し詳しく説明しますと、嘉吉の乱後に幕政の主導権を掌握した畠山持国ですが、かれの後継者をめぐる争いが出現します。実子の義就がいたのですが、いろいろややこしい事情があって、畠山家中では義就が持国の実子であることが保証できないという状況が出てきます。こういう事例は他には足利義満の子の友山清師にあります。友山清師の母は中山親雅の妻だったのですが、義満の側室になります。清師は親雅の血を引いているのか、義満の血を引いているのかわからなかったせいか、義持死後のくじ引きにも加わっていません。

 

義就の血筋が信用できない、ということで持国の後継者に選ばれたのが持国の弟の持富でした。しかし義就可愛さのあまり、持国は持富を廃嫡して義就を後継者に指名します。持富は唯々諾々と従いますが、持富の死後、持国に反発する家臣団は持富の遺児の弥三郎(政久とも、義富とも)を擁立しますが、弥三郎の死後、弥三郎の弟の政長を擁立します。

 

弥三郎・政長を推して義就に対抗したのが細川勝元山名宗全です。これ、どこまで詳しく記すべきか、悩ましいところではあるのですが、とりあえずざっくりまとめますと、義就が一旦は義政から気に入られて畠山後継者争いに勝ちますが、独善的な行動が多く、義政の信頼を失い、政長が勝元らの支持を得て畠山家を継承することになります。

 

後花園天皇に関係することを言えば、弥三郎が死去し、政長が継承した頃、紀伊国根来寺との合戦に義就が大敗したことをきっかけに幕府は義就の家督を剥奪、さらに後花園天皇の治罰綸旨が出されて朝敵となったために義就は河内国嶽山城に立てこもり、そこで二年間抵抗します。

 

まあそのあといろいろあって一四六六年末に宗全は突如義就を支援することに決め、義就を上洛させます。

 

義政は当初は政長支援の姿勢でしたが、突如義就に乗り換えます。尋尊はその一貫性のなさを非難しますが、義政は、一貫しないことについては一貫しています。要するに勝ち馬に乗る、というのが義政の一貫した政治思想だったようです。