オンライン日本史講座四月第二回「南北朝の動乱」3
4月11日(木)午後8時30分からのオンライン日本史講座のお知らせです。
南北朝の動乱です。建武政権はあっけなく崩壊し、南北朝の内乱に入っていきます。
光厳上皇を院に、光厳上皇の弟の豊仁親王を新たに光明天皇とし、後醍醐天皇に対抗しました。
後醍醐の劣勢は覆いがたく、後醍醐は一旦は足利尊氏と和睦します。その時に恒良親王に新田義貞をつけて皇位を譲り、神器を持たせた上で北陸に赴かせていますが、これは何を考えていたのか、私には謎です。
後醍醐は恒良に譲位した上で自らは偽の神器を光明天皇に譲り、太上天皇の尊号を受け、自らの皇子の成良親王を立太子させます。
ここまでしておいて後醍醐は全てのちゃぶ台をひっくり返します。彼は吉野に逃亡し、南朝を作るのです。
幕府の方も大変なことになります。
この観応の擾乱は従来の一般的な見方としては寺社本所領のアポリアという説明がなされます。
幕府にとって天皇の権威は必要なのか不必要なのか、という見方とも関係してきますが、武士の権益拡大を目指す高師直と寺社本所領を保護すべきという足利直義の争い、さらには主従制的支配権を持つ尊氏とそれを代行する高師直と、統治権的支配権を持つ足利直義の権限争いなど、いろいろ言われますが、とりあえずつべこべ言わずにこれを読みましょう、というのが今のところの私からのおすすめです。
観応の擾乱 室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い/亀田俊和
その過程で正平の一統と呼ばれる事件が起こります。
直義は戦況を打開するために南朝に降ります。その甲斐あって師直を倒し、尊氏に勝利しますが、やがて足利義詮との対立のために北陸に逃亡します。
尊氏は背後の憂いを取り除くために南朝と和睦します。この条件は思い切ったもので、当時皇位についていた崇光天皇を廃位して南朝方の後村上天皇に一本化する、というものです。
しかしこれは南朝側の一方的な和約破棄によって瓦解します。
南朝は光厳・光明・崇光の三上皇と直仁親王を拉致してしまいます。
困ったのは北朝で妙法院に入室予定だった弥仁王を無理やり即位させます。後光厳天皇です。神器もなく、院のバックアップもない天皇です。
後光厳の祖母である広義門院西園寺寧子を治天として担ぎ出してなんとか取り繕っていますが、北朝の権威は大幅に損なわれることになりました。
光厳もこれには不満だったようで、尊氏も追認という形だったようです。
この辺はこの書物もいいでしょう。
地獄を二度も見た天皇光厳院 (歴史文化ライブラリー) [ 飯倉晴武 ]
この後光厳院の時代はその後の皇位継承問題に大きく影を落とすことになりました。
もう少し詳しいことは木曜日午後8時30分からお話しさせていただきます。