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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

称光天皇の追号について

称光天皇追号が「称徳天皇」と「光仁天皇」から一字ずつ採った、というのは基本的には疑うべくもない事実である、と言ってよいでしょう。なぜかといえば、当時学識ナンバー1と言われた一条兼良が書いているからです。しかも兼良は称光天皇追号の決定に参加しています。当事者の書いた一次史料にはっきり「称徳天皇光仁天皇から一字ずつ採った」と書いてある以上、何を疑うのか、というものです。

 

私も基本的には疑いをもつところではない、と思っています。

 

でも何か引っかかるのです。

 

実は引っかかり始めたのも最近です。それまでは私も疑うことは微塵もありませんでした。

 

何が引っかかるかといえば、称徳天皇から光仁天皇というのは、そこに皇統の移動があったわけです。私はここのところ後小松上皇足利義教の駆け引きを調べていまして、その結果、義教が後光厳皇統を潰そうとしていること、後小松が必死に抵抗しているのではないか、と考えるようになりました。称光天皇が重病に陥り、後継者に伏見宮の若宮の彦仁王が候補に挙がった時に、後小松上皇がやけに皇統の断絶になる可能性を心配していたのです。義教が彦仁王を後小松上皇の猶子とすることを確約してようやく彦仁王の践祚にゴーサインが出ます。

 

後小松上皇崩御後に義教が貞成親王太上天皇尊号を奉呈しようとした時にも満済は後光厳皇統が断絶することになる、と反対しています。

 

後小松皇統の存続にここまでこだわった後小松上皇が、称徳天皇光仁天皇の皇統移動を意味するような名前にゴーサインを出すでしょうか、という疑問がありました。ちなみに当時の貴族の大半は後小松上皇にシンパシーを感じています。しかも兼良によれば言い出しっぺは後小松上皇です。後小松上皇が「皇統の移動を宣言する」とは考えられません。むしろ逆でしょう。自らと称光天皇光厳天皇の光景であることを宣言することの方がよほど自然です。だから私は称光天皇崇光天皇と同じ構造ではないか、と思っています。崇光は光厳を崇める、という意味でしょう。そして称光は光厳を称えるという意味でしょう。

 

そう考えた方が自然なのは後小松上皇諡号にこだわったからです。ようするに後小松上皇は「称光院」という言葉に頌徳の意味を込めたかったのです。しかし兼良が「子が親を頌徳するのはありだが、親が子の徳を称えるのはおかしい」と主張して追号と決めました。大事なのでもう少し詳しく念を押します。つまり後小松上皇は「称光院」を諡号としたかったのですが、「称光院」は追号ということになります。

 

ここで重要なポイントが出てきます。つまり「称光院」は諡号にも追号にもなるのです。言い換えれば諡号追号に当時の公家はそれほどの差異を認めていない、ということが明らかになります。これ、後花園天皇追号問題にも重要な論点を提供しています。

 

それはさておき、後小松上皇諡号としたかった称光院という追号は、はっきり意味を持たされているのです。もちろんこれをごり押しした後小松上皇の意思がそこに込められています。関白の二条持基満済

満済)「後何院ではダメなのですか」

(持基)「そのことですよ、ダメだと仰せです」

という問答をしていますから、「フツーに「後何院」としとけや」と思っていたはずです。つまり「称光院」は形では貴族の合議で決まっていますが、そこに後小松上皇の意思が強く押し出されているのです。

 

ここで繰り返しますが、後小松上皇が「称徳天皇から光仁天皇に皇統が変わったように称光天皇から皇統が変わるんだぞー!!!!」と主張するでしょうか。絶対にしないと思います。したがって「称徳天皇光仁天皇から一字ずつ採った」という兼良の言い分を私は疑っているわけです。

 

これを疑う理由はもう一つあります。それは「先例がない」ということです。天皇諡号から一字ずつ採る、というルールでつけられた天皇称光天皇以前にはいません。いないはずです。兼良によれば順徳天皇追号を定める際に「淳和」と「陽成」から一字ずつ採るという案があった、ということを以前述べました。

称光天皇の追号の由来 - 室町・戦国時代の歴史・古文書講座

これはまだわかります。淳和天皇陽成天皇も子孫は天皇になっていません。後嵯峨天皇のもとでは順徳院の子孫が天皇になる可能性を排除したい気持ちはものすごくよくわかります。でも他の天皇から一字ずつもらう、という命名法がこれまで存在しない以上、それが「子細」(それがまずい理由)であるのは明白でしょう。

 

考えてもみてください。「後文徳」を「先例がない」と反対した兼良ですよ?その兼良が先例の全くない「以前の天皇から一字ずつもらう」という案に賛成すると思いますか?私には到底賛成するとは思えません。

 

ではなぜ兼良はそんなことを言ったのでしょうか。それについて次回、暇があれば書いてみたいと思います。これについては近い将来論文にしますので出たおりにはよろしくお願いします。