足利義稙袖御判御教書(『朽木家古文書』国立公文書館)
本日は国立公文書館所蔵『朽木家古文書』28号文書の足利義稙袖御判御教書です。
ここのところ御判御教書はずっと見ていますので見飽きている方も多いでしょうが、お付き合いいただけると幸甚です。
とりあえず釈文と読み下し文に行きたいと思います。
(花押)
近江国高嶋郡朽木庄事
佐々木朽木弥五郎材秀任
相⬜︎(伝)⬜︎(当)知行之旨弥領掌不
可有相違之状如件
延徳貳年九月五日
読み下し。
前回の26号文書で朽木荘は将軍家御料所となり、百貫文を上納することになりましたが、27号文書の足利義政袖御判御教書では朽木荘を安堵し、朽木貞高に返付されています。応仁2年3月30日付です。
ちなみにこの文書名ですが、「足利義稙袖御判御教書」ですが、延徳2年9月5日当時は義稙は将軍職を継承したばかりで、名前も義材(よしき)なんですが、彼は名前をしばしば変えていまして、義材→義尹(よしただ)→義稙(よしたね)という遍歴を経ていますが、こういう場合は一番名前の通っている義稙を採用するとわかりやすいので、本エントリでは義稙で統一します。
義稙については以下の書籍がオススメです。
もう少し広げた視点から見たものではこういうものもあります。
朽木材秀の名前の「材」はもちろん義材の名前の一字を拝領しています。これを「一字拝領」とか「偏諱」とかいいます。この材秀に偏諱を授与した義材は将軍になったばかりなので、材秀という名前も名乗りたてのほやほやです。彼は貞清と名乗っていました。
彼以降三代にわたって将軍家から一字を拝領しています。
材秀ー稙綱ー晴綱(足利義晴)
さらに晴綱の弟も藤綱(足利義藤からの偏諱、ちなみに後の義輝)、輝孝(足利義輝)と将軍家からの一字をしっかり拝領しています。