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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

オンライン日本史講座四月第一回「鎌倉幕府と天皇家の分裂」1

オンライン日本史講座四月第一回です。4月4日午後8時30分からです。

4月4日分の第13回の「南北朝室町の皇位継承」の部分からお越しください。

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承久の乱が終わりました。

note.muこれの続きです。

 

後鳥羽上皇承久の乱は極めて大きな代償を朝廷に払わせることになりました。

 

北条泰時は京都を占拠すると戦後処理に取り掛かります。六条河原で後鳥羽の勅使と対面し、後鳥羽は義時追討院宣の取り消しを伝えます。その後彼らは六波羅に入り、戦後処理を本格化させます。

 

残敵の掃討、勲功の審理、鎌倉への報告などやらねばならない戦後処理は山積しています。

 

泰時からの報告を受けて鎌倉では大江広元が指示内容を文書にまとめ、京都に送られました。この内容を受けて実際の後鳥羽らに対する戦後処理は遂行されたと考えられます。

 

まず天皇の廃位です。後鳥羽が擁立していたのは順徳皇子の懐成でした。順徳と九条良経の娘の立子の所生です。後鳥羽としては九条道家を摂政とするために順徳から譲位させたのでしょうが、幕府は廃位を決定し、伝達します。藤原頼経の従兄弟にあたるため、この決定は衝撃を京都にもたらしますが、幕府としては後鳥羽関係者を皇位から排除することが最低条件だったようです。

 

廃位となったため、天皇としての在位は認められず、太上天皇号も奉られませんでした。九条廃帝と呼ばれ、外伯父の九条道家に引き取られ、11年後に17歳で死去します。在位78日は最短の在位日数です。明治3年に仲恭天皇という諡号が定められ、歴代の天皇に加えられました。

 

仲恭天皇に変わって践祚したのは後鳥羽の兄にあたる行助入道親王の皇子茂仁王でした。後堀河天皇です。行助入道親王は俗名を守貞親王といい、安徳天皇の皇太弟として壇ノ浦まで連れ去られ、帰還後は後鳥羽の警戒のもとで最後は出家に追いやられた親王でしたが、ここに来て治天の君となることになりました。太上天皇号を奉られます。後高倉院といいます。在位経験のない太上天皇号は史上初めてです。二例目が後花園天皇の父親の貞成親王後崇光院)です。

 

後鳥羽は隠岐島へ、順徳は佐渡島へ、土御門は土佐国へそれぞれ流罪となります。もっとも土御門に関しては承久の乱への関与の度合いを考慮された、とされますが、『吾妻鏡』では流罪ではなく、自らの意思での遷幸ということになっています。もちろん私は疑っています。土御門の皇子が天皇になったことから、「流罪」では不都合だったのではないでしょうか。

 

ただ幕府も土御門に関しては厚遇ぶりを見せてはいたので、後鳥羽・順徳とは事情が異なっていたのも事実のようです。

 

後鳥羽の皇子で実朝の後継者に擬されていた頼仁親王と雅成親王流罪となりました。

 

幕府による朝廷再建が粛々と進められていきました。

 

摂政は後鳥羽に近かった九条道家は摂政を降ろされました。承久の乱後幕府が交渉の相手に定めたのは九条家ではなく、近衛家でした。西園寺家閑院流清華家であり、朝廷を代表するだけの地位にはありません。朝廷を代表しうるのは摂関家です。

 

幕府は近衛家実後堀河天皇の摂政に据え、朝廷の再建を目指します。しかし家実の前には後鳥羽のあまりにも巨大な負の遺産が立ちふさがり、家実自身も天皇家との血縁関係が脆弱で、朝廷を束ねていくことが難しいという現実がありました。

 

家実は娘の長子を後堀河に入内させ、それまで後堀河の中宮だった有子を皇后に冊立します。それが軋轢を呼び、九条道家西園寺公経道家の娘の竴子を中宮に冊立し、長子を退出させます。

 

後堀河がまだ皇子を産んでいない段階で9歳の長子を入内させるのはいかにもセンスがないと言われても仕方がありません。とにかく当時必要だったのは即戦力です。じっくりと育成する余裕は当時の後高倉皇統にはなかったのです。

 

竴子は期待に応えて秀仁親王を産みます。しかし皇子が一人だけというのは非常に危ういわけです。

 

折しも流罪になった三上皇の帰京問題が持ち上がります。後鳥羽と親しかった九条道家が中心になって後鳥羽をはじめとする承久の乱関係者の帰京を主張します。

 

幕府はこの帰京問題に対して後鳥羽を帰京させれば再び倒幕運動に使われるかもしれない、と心配して反対した、とされていますが、河内祥輔氏が主張するようにその見方は成り立たない、と私も考えます。もし帰京してももはや後鳥羽が倒幕を計画する、という可能性がないのは幕府自身がよくわかっているはずです。

 


天皇と中世の武家 (天皇の歴史)

 

 

幕府が後鳥羽らの帰京問題に敏感になっているのは後高倉皇統の脆弱性である、と河内氏は言いますが、従いたいと思います。

 

一方帰京を主張する道家らの根拠も単に後鳥羽らをもどしたい、という側面だけでなく、皇統の行方を考えたからではないでしょうか。皇位継承者が秀仁親王一人だけ、という状況は非常に頼りないもので、幕府や朝廷も万が一のことを考える必要はあります。特に死亡率が現代とは比べ物にならないほど高い当時では、いつ誰が死ぬかわかったものではありません。幕府も朝廷もこういうときに自分の価値観にしがみついて天皇の後継者を閉ざしていくほど愚かではありません。

 

交野宮と呼ばれる人物がいます。高倉天皇第三皇子の惟明親王の皇子です。彼は皇位に関係のなくなった段階で出家しようと考えていたところ、幕府によって出家を留められています。しかし元服もさせてもらえず、中途半端なままで養育されていました。

 

しかし出家を留められた2年後、交野宮は長髪の風体で鎌倉に下向し、結局出家ということになっています。

 

出家を幕府が留めたのは、幕府が彼を皇位継承資格者にしようとしていたからでしょう。万が一の場合は彼にも皇位継承の可能性を残す。しかし元服させないのは、皇位継承資格者であることを明示すると後高倉皇統の権威が揺るぎかねない。

 

ちなみに貞成親王が出家を留められる一方で元服も見送られていたのもその辺の隠微な事情がからんでいたのではないか、と考えています。

 

交野宮以外に、仲恭天皇も出家させられず九条道家に養育されていました。万が一の場合のカードとして保持していたのでしょう。

 

順徳皇子の忠成王は順徳母の修明門院のもとで同じく養育されていました。これも万が一の場合のカードだったのでしょう。

 

土御門皇子の邦仁王は土御門母の在子の実家の源定通のもとで養育されていました。定通は源通親の息子で、義時の娘を妻に迎えていました。邦仁王も当然同様に出家もせず元服もせず中途半端な状態で皇位継承のカードとして置かれていました。

 

こういう不安定な状況で後鳥羽らを帰還させれば後高倉皇統の正統性がゆらぎ、状況が流動化してしまうのは目に見えています。

 

後鳥羽らの帰京運動が実を結ばなかったのは、後高倉皇統の不安定さがあったのではないか、と考えられています。

 

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承久の乱と後鳥羽上皇

昨日のオンライン日本史講座の動画です。

 

note.mu

二時間の動画と20分前後の切り取りの動画があります。

 

承久の乱はいわば北条義時の決断が全てだった、という気がしています。

 

当初義時はかなりぐずってました。それは当然です。今まで真正面から天皇家の権威に立ち向かって勝った例はないのです。義時は天皇を真正面から戦い、叩き潰すしか彼自身が生き残る道はなかったのです。しかしそれができるのか。逡巡するのは当然です。

 

義時は当初箱根付近に防衛ラインを敷いて抗戦する道を選ぼうとしていました。これならば天皇と真正面から戦う道を選ばずに済みます。向こうが攻撃してきたから止むを得ず防戦するという、いわば自衛の問題で済みます。しかしこちらから京都に攻めのぼる、となると天皇の権威を真っ向から叩き潰す道を選ぶことになります。

 

逡巡する義時を批判し、直ちに出撃して天皇に立ち向かうべきことを説いたのは、京都の貴族出身の大江広元でした。彼は追討使が派遣されるまでは時間がかかること、それ以前に立ち向かい、叩き潰せば天皇といえど勝者に後付けで権威を与えることを熟知していました。

 

一旦はそれで決まりかけましたが、それでもグズグズしています。思うように人数が集まらなかったのではないか、と考えられます。

 

再度広元はこちらから京都を攻撃することを主張します。義時は老衰のために隠遁していた三善康信を呼んで諮問します。康信は義時を叱りつけます。「今まで何をグズグズしていたのか。なぜ直ちに出撃しない」と。

 

北条政子が最終的な決断を下します。「広元と康信が一致した以上、朝廷を正面から叩き潰しなさい」と。

 

北条泰時がわずかな人数で出撃します。あっというまに人数は膨れ上がり、一方巡撫の整わない朝廷サイドは出遅れ、防御線を突破されてあっという間に勝負は決着しました。

 

後鳥羽サイドには計算違いがあったのではないか、と思います。

 

義時を討て、という院宣などを出せば鎌倉幕府は自壊すると考えていたとしても不思議ではありません。

 

さらに後鳥羽の致命的なミスは三浦胤義に命じて三浦義村に義時打倒を呼びかけたことです。義村は和田義盛の乱から一貫して義時をサポートし続けた人物です。彼に呼びかければ当然義時には筒抜けです。さらに胤義の使者と行動していた関東全体に院宣を回す役割をしていた使者も鎌倉で捕縛され、院宣は関東に出回らなくなりました。

 

一方義時は自らは逡巡して敗北の道を歩むかに思われましたが、広元、康信らの意見を取り入れ、乾坤一擲の決断をすることで勝利をものにしただけではなく、日本史を大きく塗り替えることに成功したのです。

 

入京した泰時は後鳥羽に対して流罪という処分を下します。これぞ後鳥羽上皇像という下の画像は、隠岐国流罪が決定し、そのために身柄を洛南の鳥羽殿に移された際に、似絵の名手の藤原信実に命じて描かせた像と言われています。出家する直前の己の姿を書き残させたのです。

 

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後鳥羽院画像、水無瀬神宮所蔵

 

後小松上皇のお引越し

毎週水曜日の深夜の更新の歴史雑記帳です。

 

今日は後小松上皇足利義持の人間関係について考えてみたいと思います。

 

一般にはよかった、というのが多数説です。義持はしばしば後小松の仙洞御所に参院しています。この回数が非常に多く密接な関係がうかがえる、というものです。

 

それに対して桜井英治氏は「義持は後小松上皇という人間をまったく評価していなかったのだ」としています。

 


室町人の精神 日本の歴史12 (講談社学術文庫)

 

実は私も桜井氏の意見に賛同します。この二人、どう見ても仲良くなさそうです。頻繁な参院と仲の良さは別です。

 

後小松と義持の親密さ、というか、後小松が義持に甘えている構図として挙げられる後小松上皇のお引越しを見ていきたいと思います。

 

このお引越しについては石原比伊呂氏が考察しています。

 


足利将軍と室町幕府―時代が求めたリーダー像 (戎光祥選書ソレイユ1)

 ここには後小松のお引越しの時に後小松がゴネたことについて「後小松もあまり聡明な人物ではなかったように思われてくるが、一方で「甘え上手」という絶対的な長所があった。義持も、そのような後小松の甘え上手っぷりにはお手上げだったらしい」と書かれています。

 

うまい表現だな、と思います。こう言われてくると義持と後小松の関係というのがいまく表現できているように思いますし「まったく評価していなかった」という評価ともそれほど矛盾しません。義持としては舌打ちしながら「仕方ないなぁ」とため息の一つも漏らしていたところでしょうか。あるいは苦笑していたでしょうか。

 

このお引越しについて少し詳しく述べてみたいと思います。

 

事の発端は応永23年(1416年)7月1日のことです。申初とありますから午後四時前後です。『看聞日記』によれば、随身下毛野武遠の下部が武遠の留守中に火を出してしまい、逐電しました。正親町烏丸から出火したといいます。

 

火は東洞院の仙洞御所を焼きました。仙洞御所は日野資教第を譲り受けた東洞院仙洞御所でした。資教はのちに禁闕の変に大きく関わる日野有光の父親です。禁闕の変が単に後南朝のものではない、という田村航氏の見解は従うべき見解と考えます。

 

内裏にも火の手は迫ります。義持と義嗣兄弟は内裏に駆けつけ、称光天皇に避難を進めると、この場から動かない、という称光天皇の言葉があり、刀を持ち、金の鞭を持って立ちはだかったので義持も諸大名に命じて数百人が清涼殿に上がり、火のついたところを切り落として事なきを得たといいます。

 

焼け出された後小松はどこに避難したのでしょうか。『満済准后日記』には「院御所御幸此坊」とありますので、満済のところに避難してきたことがわかります。ただここで後小松の避難先を醍醐寺三宝院とするのは早計です。満済法身院という里坊を持っています。現在の京都御所の範囲内です。で、『看聞日記』によれば焼亡したのは裏辻宰相中将宿所と万里小路時房第と先頭と烏丸薬師堂土蔵在家等十二町、ということですから、法身院は無事だったようです。『満済准后日記』にも法身院罹災のことは見えません。従って後小松は法身院に入ったのではないか、と思います。

 

内裏の消火に大車輪の活躍をした義持は、その日のうちに後小松を見舞っています。4日にも義持が院参しています。後小松と義持は盃を交わしています。二人とも酒飲みではあったようです。

 

五日に貞成は庭田重有を通じて後小松のお引越しについて説明を受けています。それによると広橋兼宣を通じて義持が後小松にいうには、勧修寺経興の屋敷が後円融院の先例に叶うのでそこに移動してほしい、ということでしたが、後小松が難色を示します。事情があるのでそこには行けないからしばらく満済のもとで厄介になる、ということです。内々では新しく作ってくれないのではないか怒っていたようです。

 

しかし実際問題として仙洞御所を仮のままにしておくことは考えられません。しかし後小松は義持が作ってくれない可能性を心配したのでしょうか。ゴネ出します。

 

義持は「もちろん作りますが、今はその間の御在所です」といいます。この時義持は少しばかり呆れていたとしても不思議ではありません。「そこは不断護摩行が行われているので魚食できませんよ」と忠告するとあっさり勧修寺亭で問題はないが破損しているので修理してほしい、と言っています。

 

満済准后日記』には四日に二人が面会していることが記され、翌日に後小松から松木宗量を通じて義持のもとへ勧修寺亭の荒廃のことが記されています。

 

この二つの史料を総合してみると、意思の疎通がうまく行っていなかった可能性が高いと思います。義持はあくまでも仮仙洞御所として勧修寺亭を提示したところ、仮御所であることを言わなかったので、後小松がそこに永住すると勘違いした、というのが真相ではないでしょうか。

 

それを受けて両者の直接の交渉が満済のもとで行われ、誤解が解けて五日には勧修寺亭の修理を行うことになったのでしょう。

 

その日のうちに新造事始日時が定められ、守護一国に一万疋ずつの費用の割り当てガオ行われています。

 

興味深いのは魚食不可と聞いて後小松が態度を軟化させているところです。よっぽど魚食が好きだったのでしょう。

 

7月17日に無事に勧修寺亭に渡御の儀があり、翌年6月には新造の東洞院仙洞御所にもどっています。この建物はのちに破却され、貞成親王に進上され、仙洞御所の跡地も貞成親王に進上され、伏見宮家の近臣たちが住むことになります。もちろん足利義教の後小松に対する嫌がらせです。

 

オンライン日本史講座三月第四回「後鳥羽院政」3

3月28日(木)午後8時30分からのオンライン日本史講座のお知らせです。

 

ticket.asanojinnya.comここの「鎌倉幕府天皇家の分裂」のところからお越しください。テーマが変更になっております。

 

源実朝が甥の公暁によって殺害され、公暁も討たれたことで源頼朝の子孫はほぼ断絶します。「ほぼ」というのは貞暁という人物は存命でした。政子の腹ではない子です。そのため実朝の生まれる直前に上京して出家しています。仁和寺から高野山に移り、修行に打ち込んで僧としての道を歩んでいました。

 

困ったのは後鳥羽上皇です。実朝との関係が後鳥羽の対鎌倉幕府政策の多くを占めていました。それが断たれたのです。

 

幕府の使者の二階堂行光が上洛しました。実朝が亡くなったため、後継の親王東下を実現するためです。当初後鳥羽は東下させるが時期を見て、とします。それに対して幕府は直ちに東下させるように求めます。『吾妻鏡』が当初後鳥羽が容認したが手のひらを返した、というようになっていて、当初から拒否の『愚管抄』と違いを見せているのは、後鳥羽のいけずを見抜けなかったから、ということかもしれません。

 

後鳥羽は最終的に全面拒否をしますが、それと同時に摂津国長江荘と倉橋荘の地頭職の改替を要求します。ここは後鳥羽の愛妾の亀菊の土地だったのですが、そういう問題だけではなく、実際にはここは交通の要衝であったようです。後鳥羽は神崎川猪名川の合流地点で、京都と瀬戸内を結ぶ拠点であるこの荘園の地頭職を手放すように圧力をかけて幕府をコントロール下に置こうとしたのです。

 

その動きと並行して実朝亡き後の幕府をどうするか、という問題についての交渉も行わなければなりません。

 

幕府は北条時房に千騎の軍勢をつけて上洛させ、後鳥羽に圧力をかけます。結局地頭職の改替は実現しませんでしたが、親王下向も拒否しました。さらなる交渉の結果、九条道家の息子の頼経を後継者として下向することが決定しました。

 

この段階では後鳥羽はまだ幕府と敵対する予定はなかったようです。そもそもこの段階で幕府と敵対するつもりであれば頼経の下向も拒否するでしょう。頼経下向が実現した、ということはこの段階で後鳥羽と幕府の間に妥結が成立したことを意味します。

 

源頼茂が討たれたのも、倒幕の企みが頼茂に漏れたから、ではなく、逆で幕府からの頼茂追討に協力した、という方が正しいでしょう。頼経擁立を確実にするため、将軍職に野望を持つ源氏は滅ぼされなければならなかったのです。

 

坂井孝一氏は大内裏造営が一つのポイントになった、としています。頼茂追討の中で大内裏が焼失し、その再建に乗り出すことになりますが、費用負担を巡って反対の意見が多く出され、頓挫していきます。その中で後鳥羽は自らの意のままにならない幕府を自分のコントロール下に置こうとして幕府の中心である北条義時を追討し、自らのコントロール下に置こうとした、ということです。

 


承久の乱-真の「武者の世」を告げる大乱 (中公新書)

 

河内祥輔氏は頼経の鎌倉殿就任で源氏将軍の関係者と頼経の関係者の間の亀裂が入り、それを解消するために頼経の鎌倉殿就任を阻止しようとしたが受け入れられず義時を討つことを決めた、としています。

 


天皇の歴史4 天皇と中世の武家 (講談社学術文庫)

 

 何れにせよ、現在の主流は後鳥羽は幕府体制を否定しようとしたのではなく、幕府の内実を自分のコントロール下に置こうと考えた、というものです。

 

それに対し本郷和人氏は当時の幕府は北条義時がそのまま幕府を代表するものだったから、義時追討はそのまま倒幕と評価すべきだ、という議論を主張しています。

 


承久の乱 日本史のターニングポイント (文春新書)

 

この辺の議論はまた講座本番の方で少し話になるでしょう。

 

後鳥羽の敗因については、色々言われていますが、鎌倉幕府サイドが後鳥羽をはるかに上回る兵を集めた、言い換えれば後鳥羽は幕府を完全に切り崩すことができなかったことに尽きるでしょう。この辺は講座をお楽しみに。

 

最後のポイントとしては乱後の処理です。幕府は後鳥羽らを流罪に処し、後鳥羽の兄を治天の君に、その子の茂仁王を皇位につけます。

 

この乱が朝幕関係の大きなターニングポイントであったことはおそらく一致しているものと思われます。

 

相次いで承久の乱関係の新書が出されていますが、もっと詳しく掘り下げたい方はさしあたりこれなどいかがでしょうか。出たてのほやほやで最新の成果も盛り込まれています。

 


承久の乱の構造と展開-転換する朝廷と幕府の権力 (戎光祥中世史論集8)

 

それでは講座をよろしくお願いします。

 

ticket.asanojinnya.com重ねてのご案内になりますが「鎌倉幕府天皇家の分裂」をクリックしてくださいますよう、お願い申し上げます。

 

足利直義御判御教書(『朽木家古文書』国立公文書館)

今日は「足利直義御判御教書」を読んでいきます。

 

www.digital.archives.go.jp

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足利直義御判御教書

まずは何を置いても釈文から行きましょう。

越前国金崎凶徒退治事、所差

尾張左近大夫将監也依之佐々木

五郎并浅井・伊香・坂田郡地頭御

家人等同令発向畢。急速馳向

可致軍忠之状如件。

暦応二年五月三日   (花押)

佐々木出羽四郎兵衛尉殿

 異体字がいくつかあり、読みづらくなっています。

四行目の上から三字目の「ホ」みたいなのは「等」と読んでいますが、要するに「抔」(など)の省略形です。「抔」をいきなり出しても訳が分からなくなるので「等」にしています。

同じ行の「己」に「十」という感じの漢字は「畢」の異体字です。

今回は異体字がこれくらいなので、それほど難しいこともないですが、少しくずしが大きいのでその辺は苦労するかも、です。

読み下しです。

越前国金崎の凶徒退治の事、尾張左近大夫将監を差し遣わす所なり。これに依りて佐々木五郎ならびに浅井・伊香・坂田郡地頭御家人等、同じく発向せしめおわんぬ。急速に馳せ向かい、軍忠を致すべきの状、件の如し。

暦応二年五月三日

佐々木出羽四郎兵衛尉殿

 暦応二年は西暦では1339年、南朝年号でいえば延元四年です。

金崎とは敦賀市にある金ヶ崎城です。戦国クラスタからは木下藤吉郎の殿(しんがり)伝説で有名ですが、南北朝クラスタからすれば、尊良親王らが立てこもり、落城時に自害した事で知られます。この時、後醍醐天皇から譲位されたはずの恒良親王は捕縛され、京都に護送され、同母弟の成良親王とともに毒殺された、と『太平記』は伝えますが、成良親王に関しては1344年に死去した、という記事がありますので、詳細は不明です。

 

一旦は落城したのにまた「金崎凶徒」ということは、奪還されている訳です。ちなみに越前国南朝の中心であった新田義貞は前年に戦死していますので、ここで頑張っているのは義貞の弟の脇屋義助です。

 

尾張左近大夫将監は石橋和義です。石橋氏は足利泰氏の庶長子足利家氏の子孫です。家氏の子孫として有名なのは斯波氏ですが、石橋氏もその流れに属します。和義は守護や引付頭人などを歴任し、評定衆筆頭まで登りつめますが、斯波高経と対立して失脚、石橋氏は権威のみを有する「御一家」となります。

 

御一家とは、いざという時に将軍を継承する資格を有する家柄で、石橋氏の他に渋川氏、吉良氏がいました。

詳しくはこちらを参照ください。

ja.wikipedia.org足利義量が死去した時に天から「将軍」という銘のついた兜が斯波義淳第に降ってきた、とか、鳩が二羽食い合ったとか、剣呑な噂が乱れ飛んだことに鑑み、斯波家と関東公方家を将軍家の継承候補から外そうとした、ということのようです。

 

確かに義持の後釜を関東公方足利持氏が狙った事で、面倒くさいことが起こったことを考えれば、永享年間に整備された、という説は蓋然性が高いと思います。いかにも足利義教がやりそうな事です。このころの天皇はもちろん我らが後花園天皇です。

 

佐々木五郎は京極高秀です。あの有名な佐々木京極導誉の三男です。兄二人の戦死のため導誉の後継者となりました。ちなみに高秀の三男は尼子氏初代です。

 

訳としては次のようになります。

越前国金ヶ崎の凶徒の退治の事、石橋和義を差し向けたところである。これによって京極高秀と浅井郡伊香郡坂田郡の地頭御家人そ向かわせた。急速に馳せ向かって軍忠を挙げよ

 

「御判御教書」というのは以前にも取り上げました。

sengokukomonjo.hatenablog.com

「御判」つまり花押の付いているものです。

「御教書」は本来は三位以上の貴人の出す奉書形式の文書ですが、室町幕府の将軍家の出す直状形式の文書を「御判御教書」と言います。年号が書かれているのが御内書との相違点です。

 

こうした文書は本来将軍が出すものでしたが、直義が出していることに直義の権勢の大きさが見て取れます。

 

足利直義の本をいくつかあげておきます。

 

亀田俊和氏のミネルヴァ日本評伝選人物叢書と並ぶ伝記シリーズです。ライバルの『高師直』や『観応の擾乱』などで有名ですね。南北朝フリークにとってはバイブル群といっていいかと思います。


足利直義:下知、件のごとし (ミネルヴァ日本評伝選)

 

 

南北朝室町時代の泰斗森茂暁氏の角川選書。「足利直義」を単独で取り上げた初めてではないかな、と思います。森氏は『闇の歴史、後南朝』やミネルヴァの『満済』も書いていらっしゃいます。私は『皇子たちの南北朝』(中公新書)をバイブルとしてました。


足利直義 兄尊氏との対立と理想国家構想 (角川選書)

 

 

マイナーな戦乱を取り上げたらベストセラーという風潮で享徳の乱は誰がやるんだろう、と思っていたらまさかの峰岸純夫氏の参戦でした。人物叢書の『新田義貞』も書いていらっしゃいます。


足利尊氏と直義―京の夢、鎌倉の夢 (歴史文化ライブラリー)

 

 

オンライン日本史講座三月第四回「後鳥羽院政」2

3月28日(木)午後8時30分からのオンライン日本史講座のお知らせです。

下のリンクでは題名が違うものになっていますが、日付に従ってくださいますようお願いします。

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源頼朝の死後、鎌倉幕府が動揺することはよく知られています。

 

頼朝の死後、有力御家人の粛清が相次ぎ、将軍も二代の源頼家外戚の比企氏と運命を共にします。そして源実朝が登場してくるのですが、実朝は外戚を後鳥羽の近臣の坊門家にします。

 

実朝といえば文弱に流れて武士らしさを失った人物、だとか、北条氏の傀儡で文化に逃避したとか、そういうイメージがまとわりついていますが、現在研究者ではそういう見方はほぼ見られないと思います。

 

特に五味文彦氏が源仲章の存在と政所別当の強化を通じて実朝政権の実態を明らかにして以降、実朝についてはしっかりとした権力を行使した将軍である、と評価されています。

 

実朝の一つの問題は後継者がなかなか生まれないことでした。実朝は後継者を後鳥羽の皇子に定めようとし、京都への接近を図ります。母親の北条政子が上京し、後鳥羽の乳母の一人である藤原兼子(土御門天皇の祖母の範子の妹)と交渉し、冷泉宮頼仁親王か六条宮雅成親王を次期将軍とする交渉をまとめます。

 

これは実朝がゆくゆくは後鳥羽の義理の兄弟になることを意味します。それにはふさわしい待遇があります。実朝の急速な官位の昇進はそのためと考えられます。中には「官打ち」と言って分不相応な官位に就くと死ぬという話がありますが、後鳥羽は官打ちを狙った、という「承久記」の見方は成り立たないでしょう。これは俗説としか言いようがありません。

 

実朝の暗殺については昔から様々に言われています。

 

実朝は右大臣に任ぜられたことを鶴岡八幡宮に報告に参拝した時に、頼家の遺児の公暁に暗殺されます。公暁の単独犯行か、あるいは黒幕がいるのか、ということについてはこれまでいろいろ言われてきました。この時に巻き添えを食ったのが源仲章で、彼の立場をめぐって様々な憶測がなされてきたからです。

 

義時黒幕説が今のところ有力な見方であるといえましょう。これは江戸時代から唱えられている説で、源氏将軍を滅ぼして北条氏が実権を握るために実朝を暗殺するように公暁をそそのかした、というものです。『吾妻鏡』によると義時は式典の直前に気分が悪くなり、自らが務める予定であった太刀持ちを仲章に譲ります。実朝と仲章が死んだため、義時は自分が巻き添えを食わないために仲章に太刀を預けた、というものです。

 

この論の難点は、そもそも命拾いをした義時が黒幕である、というところです。仲章が殺されたということは、公暁のターゲットは義時であったことを意味します。

 

この難点を説明したのが仲章が政所の別当になり、実朝の親政を支える有力者であった、というものです。仲章が殺されたのは偶然ではなく必然だった、というものです。

 

これに対し三浦義村黒幕説があります。公暁を養育したのは三浦義村でした。義村は実朝と義時を殺させた上で公暁を将軍につけ、自らが幕府を支配しようと考えた、というのです。

 

この論の難点としては、将軍を暗殺した公暁が将軍となることはそもそも可能だったのか、という点や、三浦義村にそれだけの意思があったのか、ということが問題点とされています。

 

三つ目には後鳥羽上皇黒幕説があります。倒幕を目論む後鳥羽は幕府のシンボルの実朝を殺して幕府を倒そうと考えた、というものです。官打ち論にも通底しています。

 

この論の難点としては、後鳥羽の構想としては実朝を通じて幕府支配を図ろうとしていたのであって、実朝が殺された結果一番割りを食っているのが後鳥羽である、という点を無視していることにあります。

 

四つ目としては北条義時三浦義村などの御家人説があります。実朝が傀儡ではなかった、という近年の説に基づき、実朝親政を支える仲章と実朝自身を殺すことで朝廷の介入を断ち切ろうとした、という説です。

 

この説の難点は北条義時黒幕説と同じで、結局これで鎌倉幕府が得をしているのか、という問題があります。鎌倉幕府はこの後対応に苦慮しているわけで、そもそも実朝を排除するのに公暁を使い、さらにその公暁も殺して幕府そのものの動揺を招くのは危険な賭けではないでしょうか。

 

結局実朝が殺されて得をした人物は誰か、ということを考えても黒幕説は成り立ちにくいと思います。

 

公暁単独説もあります。公暁は頼家の息子ですから、頼家を排除した上で将軍になった実朝やそれをおぜん立てした実朝のバックの北条氏に怨恨を募らせたとしても不思議はありません。

 

実朝がもし殺されずにそのままどうなったか、を想定すれば、平清盛内大臣就任と同じルートを辿ることはほぼ間違いありません。実朝は右大臣になるとほどなく太政大臣になり、引退するでしょう。そのあとを受けて後鳥羽の皇子が幕府の長に就けば、公暁に将軍の家督がめぐってくることはありません。公暁は実朝の猶子になっていましたので、もしかしたら将軍になれるかも、と野望をたぎらせ、それゆえに実朝に対する怨恨を封印していた、としたら、右大臣就任から後鳥羽皇子への将軍職移譲という動きが具体化したことで実朝暗殺を決意した、と考えることもできます。

 

いずれにせよ、この問題については現状決め手がない、という状況ですし、私自身どれ、ともいえないのですが、個人的には坂井孝一氏の『源実朝』を読んでからは公暁単独犯説に傾いています。

 


源実朝 「東国の王権」を夢見た将軍 (講談社選書メチエ)

 

実朝が死んだことで後鳥羽の計画は大きく狂ったはずです。

 

幕府は予てからの約束通り皇子の東下を要求してきます。しかし後鳥羽としては実朝がいるからこその皇子の東下であり、実朝を失った今、皇子の東下を認めるわけにはいかないでしょう。後鳥羽はその背景について多くの可能性を考慮に入れていたでしょう。幕府が実朝を暗殺したのだとすれば、そこにみすみす皇子を東下させるわけにもいきません。また幕府が潔白だったとしても、実朝という紐帯を欠いたまま旗印を幕府に与えるとそれはそれでまずいわけです。

 

後鳥羽は最終的に九条道家の息子の藤原頼経の鎌倉殿就任を容認する形で妥結します。その代わりに源氏将軍は立てない、というのが後鳥羽と鎌倉幕府の間の政治決着ではないかと思われます。

 

というのも、実朝のいとこ(政子の妹の阿波局と頼朝の異母弟の全成の息子)の源時元が誅殺され、続いて大内守護を務めていた源頼茂源頼政の息子)が後鳥羽の命令で六波羅鎌倉幕府軍によって追討されます。

 

それと並行して運命の地頭職改替要求が出されます。いよいよ承久の乱です。

 

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後花園天皇の生涯−寛正二年正月一日〜寛正二年十二月晦日

この年は寛正の飢饉の真っ最中です。

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寛正二年
正月一日、元日節会
本朝通鑑、続史愚抄
五日、叙位
続史愚抄
七日、白馬節会
続史愚抄
八日、太元帥法を行う、後七日御修法は停止
続史愚抄
十一日、県召除目
続史愚抄
十六日、踏歌節会
続史愚抄
二月、天下疫饑あり、漢詩足利義政に賜う
新撰長禄寛正記
三月二十八日、県召除目
続史愚抄(二十七日・二十八日)
この月天下疫饑による自ら般若心経を写経し、三宝院義賢僧正に供養させる
歴代皇紀、如是院年代記、本朝通鑑、続史愚抄
四月十三日、常盤井宮明王親王宣下
本朝通鑑、本朝皇胤紹運録、続史愚抄
十五日、賀茂祭
続史愚抄(十三日・十五日)
八月九日、釈奠
続史愚抄
八月十一日、久我通尚を内大臣に任ず
続史愚抄
十五日、故儀同三司広橋兼宣に贈内大臣宣下
この日、石清水八幡宮放生会延引、神人の強訴による
続史愚抄
十六日、前内大臣徳大寺公有に本座宣下
続史愚抄
十七日、石清水八幡宮放生会追行
続史愚抄(十七日・二十三日)
九月九日、重陽節句、平座
続史愚抄
二十九日、この日より禁中において御修法
続史愚抄
十月一日、旬、平座
続史愚抄
八日、猪子御食切を近臣に賜う
続史愚抄
十一月十二日、平野祭、春日祭延引
続史愚抄
二十二日、黒戸において連歌会、この日儲君の成仁親王、式部卿貞常親王など参内
続史愚抄
二十四日、平野祭、春日祭追行
続史愚抄
二十七日、軒廊御卜
続史愚抄
十二月十一日、月次祭、神今食
続史愚抄
十二日、山陵使を誉田八幡宮に発遣、鳴動による
続史愚抄
二十五日、造伊勢神宮立柱日時を定める、この日前関白近衛房嗣太政大臣に任ず、また内侍所御神楽を行う
続史愚抄
二十七日、貢馬御覧
続史愚抄