足利直義御判御教書(『朽木家古文書』国立公文書館)
今日は「足利直義御判御教書」を読んでいきます。
まずは何を置いても釈文から行きましょう。
越前国金崎凶徒退治事、所差
遣尾張左近大夫将監也依之佐々木
五郎并浅井・伊香・坂田郡地頭御
家人等同令発向畢。急速馳向
可致軍忠之状如件。
暦応二年五月三日 (花押)
佐々木出羽四郎兵衛尉殿
異体字がいくつかあり、読みづらくなっています。
四行目の上から三字目の「ホ」みたいなのは「等」と読んでいますが、要するに「抔」(など)の省略形です。「抔」をいきなり出しても訳が分からなくなるので「等」にしています。
同じ行の「己」に「十」という感じの漢字は「畢」の異体字です。
今回は異体字がこれくらいなので、それほど難しいこともないですが、少しくずしが大きいのでその辺は苦労するかも、です。
読み下しです。
越前国金崎の凶徒退治の事、尾張左近大夫将監を差し遣わす所なり。これに依りて佐々木五郎ならびに浅井・伊香・坂田郡地頭御家人等、同じく発向せしめおわんぬ。急速に馳せ向かい、軍忠を致すべきの状、件の如し。
暦応二年五月三日
佐々木出羽四郎兵衛尉殿
暦応二年は西暦では1339年、南朝年号でいえば延元四年です。
金崎とは敦賀市にある金ヶ崎城です。戦国クラスタからは木下藤吉郎の殿(しんがり)伝説で有名ですが、南北朝クラスタからすれば、尊良親王らが立てこもり、落城時に自害した事で知られます。この時、後醍醐天皇から譲位されたはずの恒良親王は捕縛され、京都に護送され、同母弟の成良親王とともに毒殺された、と『太平記』は伝えますが、成良親王に関しては1344年に死去した、という記事がありますので、詳細は不明です。
一旦は落城したのにまた「金崎凶徒」ということは、奪還されている訳です。ちなみに越前国の南朝の中心であった新田義貞は前年に戦死していますので、ここで頑張っているのは義貞の弟の脇屋義助です。
尾張左近大夫将監は石橋和義です。石橋氏は足利泰氏の庶長子足利家氏の子孫です。家氏の子孫として有名なのは斯波氏ですが、石橋氏もその流れに属します。和義は守護や引付頭人などを歴任し、評定衆筆頭まで登りつめますが、斯波高経と対立して失脚、石橋氏は権威のみを有する「御一家」となります。
御一家とは、いざという時に将軍を継承する資格を有する家柄で、石橋氏の他に渋川氏、吉良氏がいました。
詳しくはこちらを参照ください。
ja.wikipedia.org足利義量が死去した時に天から「将軍」という銘のついた兜が斯波義淳第に降ってきた、とか、鳩が二羽食い合ったとか、剣呑な噂が乱れ飛んだことに鑑み、斯波家と関東公方家を将軍家の継承候補から外そうとした、ということのようです。
確かに義持の後釜を関東公方の足利持氏が狙った事で、面倒くさいことが起こったことを考えれば、永享年間に整備された、という説は蓋然性が高いと思います。いかにも足利義教がやりそうな事です。このころの天皇はもちろん我らが後花園天皇です。
佐々木五郎は京極高秀です。あの有名な佐々木京極導誉の三男です。兄二人の戦死のため導誉の後継者となりました。ちなみに高秀の三男は尼子氏初代です。
訳としては次のようになります。
越前国金ヶ崎の凶徒の退治の事、石橋和義を差し向けたところである。これによって京極高秀と浅井郡・伊香郡・坂田郡の地頭御家人そ向かわせた。急速に馳せ向かって軍忠を挙げよ
「御判御教書」というのは以前にも取り上げました。
「御判」つまり花押の付いているものです。
「御教書」は本来は三位以上の貴人の出す奉書形式の文書ですが、室町幕府の将軍家の出す直状形式の文書を「御判御教書」と言います。年号が書かれているのが御内書との相違点です。
こうした文書は本来将軍が出すものでしたが、直義が出していることに直義の権勢の大きさが見て取れます。
足利直義の本をいくつかあげておきます。
亀田俊和氏のミネルヴァ日本評伝選。人物叢書と並ぶ伝記シリーズです。ライバルの『高師直』や『観応の擾乱』などで有名ですね。南北朝フリークにとってはバイブル群といっていいかと思います。
南北朝・室町時代の泰斗森茂暁氏の角川選書。「足利直義」を単独で取り上げた初めてではないかな、と思います。森氏は『闇の歴史、後南朝』やミネルヴァの『満済』も書いていらっしゃいます。私は『皇子たちの南北朝』(中公新書)をバイブルとしてました。
マイナーな戦乱を取り上げたらベストセラーという風潮で享徳の乱は誰がやるんだろう、と思っていたらまさかの峰岸純夫氏の参戦でした。人物叢書の『新田義貞』も書いていらっしゃいます。