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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

斯波義敏ーゆうきまさみ氏『新九郎、奔る!』を解説する

三管領家の中で一番影の薄い斯波家です。この斯波家はもともとは一番家格の高い家柄ですが、色々ありすぎて『新九郎、奔る!』のころには一番影が薄くなっています。

 

それでも『新九郎、奔る!』第1巻では56ページで伊勢貞親に相談する斯波義敏が初登場しています。伊勢貞親の新しい妻は義敏の側室の妹で、貞親は前妻の甲斐将久の妹を離縁して義敏関係者を妻に迎えています。52ページで義敏の側室と貞親の妻が千代丸(新九郎)と出会い、「なんとまありりしいお顔つきではありませんか。」「ほんに頼もしいこと。」と言われ「お菓子をあげましょう。」とお菓子をもらっています。

この貞親の妻の移り変わりは幕府政治と深い関係があります。それについてあとで述べます。

 

もともとは足利泰氏の庶長子の足利家氏に始まります。家氏は母親が北条一門の名越朝時の娘で、北条時氏北条泰時の嫡男、北条経時北条時頼の父)の娘との間に生まれた頼氏が足利家を継ぎ、家氏は足利家家督から外されます。

 

南北朝時代に足利高経が新田義貞を倒すなどの活躍を示し、高経の子の義将(よしゆき)が執事となりますが、この時高経は「執事となることは家の傷だ」を放言しながらも義将の後見として幕府政治を牛耳ります。しかし高経は京極導誉と対立し、失脚、越前国杣山城で病死、義将はほどなく赦免されます。義将のころから「足利」ではなく、陸奥国の所領の斯波(紫波)郡にちなんで「斯波」を名乗るようになります。読みは一般には「しば」で通っておりますが、郡は「しわ」と読むので、厳密には「しわ」と読むのが正しいとみる見方もあります。

 

斯波義将の時に康暦の政変を起こして細川頼之を蹴落として幕政を掌握し、その後は細川・畠山とともに幕政を主導する立場になります。義将はそれまで平家の公達や源頼家が就任していた右衛門督に上り、応永の乱の活躍で尾張遠江の守護も兼ねるようになり、それ以降の代々の官途から「武衛」と呼ばれるようになります。

 

義将のハイライトシーンは、義満死後の後継者に義嗣ではなく義持を選び、さらに朝廷から打診された義満の「鹿苑院太上天皇」号を辞退したことです。これ以降室町殿は隔絶した権威を持つ天皇同等の地位であることではなく、天皇の臣下のトップという立ち位置を選び取ることになります。

 

義将の強大な権力はその子孫にマイナスに働きました。義将死後には細川氏と畠山氏による主導が続き、特に義重が比較的早くに亡くなってまだ若い義淳に家督が移動したことで斯波武衛家は幕政から少しずつフェードアウトしていきます。

 

また斯波武衛家でも重臣の甲斐将久(ゆきひさ)が力を持ち、義淳を凌ぐようになります。将久(常治という法名の方が有名)は斯波家の家宰であり、越前と遠江守護代を兼ねると同時に将軍家とも繋がりを持ち、いわば室町殿による斯波武衛家牽制の手段としても機能していました。

 

義淳については管領職への打診が足利義教からあったときに、将久らが「義淳は管領の器ではありません」と申し入れた事件があり、義淳は精神障害があった、という説もあります。ただ実際には斯波家に所領を給付することを引き換えに義淳の管領が実現したところをみると義淳に何らかの問題があったわけではなく、斯波武衛家の駆け引きだったという見方もあります。

 

義淳のよくない噂については、斯波義敏が残した記録に依拠することが多く、割り引いて読む必要がありそうです(このように書かれた史料の内容を吟味して読み込むことを「史料批判」と言います)。

 

義淳も若くして亡くなり、遺言では弟の持有を指定しましたが、義教は「持有はその器ではない」と拒否し、相国寺の僧侶であった瑞鳳を還俗させ、義郷と名乗らせた上で斯波家の家督につけています。これについては義教が持有の器量を警戒して遠ざけたという見方がありますが、私は反対です。持有は史料を見る限りでは義教のお気に入りです。おそらく義教は持有をお気に入りではあっても斯波家をまとめていくタイプではない、と見ていたのでしょう。実際持有は義郷の死後(落馬による事故死)に斯波家を継承した斯波義健の後見人として軍事的・政治的に活躍しています。しかし持有も早死にし、幼い義健があとを継承します。しかし義健も若くして死去し、斯波武衛家は断絶しました。

 

そこで急遽一門から斯波武衛家を継承したのが斯波義敏です。

 

斯波義敏斯波高経の五男の斯波義種の子孫です。加賀守護でしたが、満種が義持によって加賀守護を没収されてからは越前の中の大野郡(福井県勝山市大野市福井市の一部、岐阜県郡上市の一部)を支配し、斯波武衛家の有力一門となります。義淳の死後には持種が甲斐将久とともに若い当主の後見人となりますが、将久との関係が悪化し、斯波武衛家断絶後には持種の子の義敏が家督を継承しますが、将久との不仲は解消するどころか激化し、斯波武衛家は動揺します。

 

この両者は足利義政による「不知行地還付政策」という、寺社本所領(寺社や公家の荘園)の中で守護らによって支配され、寺社本所(寺や神社や公家)の支配から離れてしまった荘園を元の持ち主に返却するよう命じた義政の政策をめぐって対立するようになります。将久らは義政や伊勢貞親と組んで越前国に強力に介入するようになりました。それに対して反発する越前の国人らは義敏と組んで義政・貞親ラインと対立し、将久と義敏の対立は幕府を巻き込んで拡大の一途をたどります。

 

この両者の対立は、長禄二年(1458)には長禄合戦と呼ばれる内戦に発展、このために義敏は享徳の乱鎮圧のための出兵に応じることができず、義政によって追放されてしまいます。追放された義敏は周防の大内教弘を頼って逃亡し、義敏の子の義寛(当時は松王丸)に家督を継承させられました。

 

斯波武衛家の家督はその後には堀越公方執事の渋川義鏡の子の義廉を養子に迎えることとなりますが、義鏡が上杉氏との対立の結果失脚し、義廉は無用の長物となります。さらに義廉は奥州探題大崎教兼との関係構築がうまくいかず、奥州から北海道にかけて動乱が続く中、義政は義廉に変えて教兼との関係が深かった義敏の復帰を図り、義敏も伊勢貞親を頼って復帰工作を始めます。

 

『新九郎、奔る!』で貞親の妻が将久の娘から義敏関係者にすげ替えられた事情には、義政・貞親が義廉から義敏に斯波家の家督の復帰を考えていたことが背景にあります。この辺は端折られていますが、その事情を踏まえれば『新九郎、奔る!』がより面白く読めるでしょう。

 

千代丸に親切に接してくれる従兄の伊勢貞宗の生母が離縁されたことを知った千代丸は、自分の母の浅茅に土産物を買うために大道寺重昌とともに街に出ますが、そこで京極持清重臣の多賀高忠の配下に追われている「狐」と呼ばれる少年に出会い、そこで義敏の話を聞かされています。

 

狐「伊勢守は新妻の色香に迷って斯波義敏復権の願いを聞き入れてしまい、義敏は義敏でこの伊勢守の新妻をあてにしっぱなし、と。まあ京雀の好きそうなゴシップだがね。」

千代丸「伊勢守様はそんな私情で動くお方では・・・」

狐「口さがない京雀の目にはそう見えてるってことさ。事情はどうあれ斯波家は義敏が復権した。おさまらないのは廃嫡された義廉だよ。京に軍勢を呼び込んで今にも義敏に食らいつかんばかりだ。しかもそいつを、義廉の行動を山名宗全入道が後押ししてるって構図、これくらいはガキのお前さんでも理解るだろ?」

 

もっとも義敏については貞親も「義敏はあのようなふつつか者だから家中をまとめられぬかもしれぬが、その時はその時。」と言っています。義敏では世が乱れることは作中では貞親もわかってはいたようです。

 

史実では近衛政家が義敏復帰と上洛の噂を聞いた時に、戦乱を予期して近衛家伝来の日記(『御堂関白記』など)や文書類を岩倉に避難させています。それほど義敏の存在自体が危機要因であったことが伺えます。

まあ義敏の個人的資質というよりは、甲斐氏や朝倉氏などとの関係がよくないことが原因だったので、義敏は気の毒といえば気の毒です。

また義敏の上洛で危機が煽られた結果、近衛家伝来の日記や文書が応仁の乱の戦火から守られたことも事実で、政家のように危機感を覚えなかった九条家の桃花文庫は焼け落ち、九条家に伝来した記録・文書類は焼失しています。

 

義敏は第3巻45ページに義敏が義廉の勢力を打ち破り、「第二話以来じゃ、ゆかいゆかい」と喜んでいます。そして貞親は「左兵衛佐は頼りにならぬ男だが、今回ばかりはよくやった。これで朝倉弾正(朝倉孝景)に盛った毒の効き目も早まろうというものよ。」と褒めています。

 

第8巻では143ページに今川範満と新九郎の会話の中で遠江国に異様な情熱をたぎらせる今川義忠の動きについて「現状、遠江は斯波家の分国。義廉を追い出せば義敏殿か御子息が戻ってくるだけだとおもうのだが」と語るシーンがありますが、そこで義廉に対して「ほれほれ、とっとと出ていかんかーい」と煽っている義敏と義敏にそっくりな義寛(よしとお)が出ています。

 

次回は義廉についてみていきます。

 

 


新九郎、奔る!(1) (ビッグコミックス)

 


新九郎、奔る!(8) (ビッグコミックス)