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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

正親町天皇の生涯−弘治三(1557)年十一月一日〜永禄元(1558)年十二月三十日

十一月
十日、因幡堂薬師の開帳を聴許
御湯殿上日記
二十二日、後奈良天皇泉涌寺に葬る
御湯殿上日記、康雄記
二十五日、後奈良天皇の収骨、仙骨深草法華堂及び伏見般舟三昧院に納める
続史愚抄
十二月十二日、倚盧御所に渡御、遺詔詔、御誦経使定などあり、この日素服を宮女などに賜う
御湯殿上日記、康雄記
十五日、三条西公条、後奈良天皇を夢にみ、和歌を詠進、よって返歌を賜う
御湯殿上日記
二十三日、倚盧より還御
御湯殿上日記、康雄記

弘治四年
正月
一日、諒闇により四方拝、元日節会などを停止
本朝通鑑
五日、釿始あり
御湯殿上日記
八日、太元帥法を行う、聴聞あり
御湯殿上日記
この日、別殿行幸
御湯殿上日記
十二日、太元の本尊を東寺より清涼殿に召して叡覧
御湯殿上日記、厳助往年記、言継卿記
十九日、石清水八幡宮に近侍の代官詣
御湯殿上日記(十九日・二十日)
二十日、月待にて貝合
御湯殿上日記
二月
八日、薫物を調合、宮女らに賜う
御湯殿上日記(四日・五日・八日)
二十一日、神宮奏事始あり
御湯殿上日記、言継卿記
二十三日、鞍馬寺に宮女の代官詣
御湯殿上日記
二十八日、改元、弘治四年を改めて永禄元年とする
御湯殿上日記(二十一日・二十八日)、言継卿記、康雄記、元秘別録、資定一品記
二十九日、春日祭、社家に附して行う
御湯殿上日記(二十七日・二十八日)
三月
十二日、内侍所御修理始
御湯殿上日記
二十日、柳原資定、一条観音縁起を上る
御湯殿上日記
三十日、来たる四月七日の曼荼羅供の奏事始あり
御湯殿上日記
四月
七日、後柏原天皇の三十三回忌、伏見般舟三昧院にて曼荼羅供を行う
御湯殿上日記(四日・七日・八日)、言継卿記、厳助往年記、永禄元年曼荼羅供雑記
十日、別殿行幸
惟房公記
二十七日、方位悪しきにより、小御所の北方修理を停止する
御湯殿上日記
二十八日、拝診、養生の薬
御湯殿上日記
五月
七日、足利義輝、絲巻の剣、馬代五百疋を献上して践祚を賀す
惟房公記
十三日、御庚申待、貝合
御湯殿上日記
十四日、築地修理
惟房公記
二十二日、御所の庭に菊の籬を作らせる
惟房公記
二十七日、別殿行幸
閏六月
四日、御本尊蟲払、のちたびたびこのことあり
惟房公記(四日・五日・九日・十日・十二日)
十四日、庚申待あり、後、またこのことあり
御湯殿上日記(十四日・八月十六日)
七月
七日、七夕節、和歌御会を停止、諒闇
御湯殿上日記
二十二日、中院通為に源氏物語を校合させる
御湯殿上日記
八月
一日、八朔の儀、この日別殿行幸
御湯殿上日記(一日・二日)
十一日、不予
御湯殿上日記
九月
四日、来たる五日、後奈良天皇聖忌により宸筆三部経を三条西公条に下す
御湯殿上日記(三日・四日)
五日、後奈良天皇の聖忌、伏見般舟三昧院に於いて御経供養
御湯殿上日記
二十四日、宮女等に御薫物を賜う
御湯殿上日記(十九日・二十日・二十二日・二十三日・二十四日)
二十六日、諒闇竟大祓日時を定める、大祓、御禊あり、この日聖母故藤原栄子に贈皇太后宣下
御湯殿上日記、言継卿記、康雄記、続史愚抄
十月
八日、亥子の儀を行う
御湯殿上日記
十七日、当座和歌会を行う、後、またこのことあり
御湯殿上日記(十七日・二十二日)
二十日、亥子の儀
御湯殿上日記
二十七日、御薬あり、後、たびたびこのことあり
御湯殿上日記(十月二十七日・十一月六日・七日)
十一月
四日、別殿行幸
御湯殿上日記
十二日、御内宴、猿楽
御湯殿上日記(九日・十一日・十二日)
二十一日、祇園御霊会
御湯殿上日記
十二月
九日、別殿行幸
御湯殿上日記

前九年の役と後三年の役

6月13日(木)午後8時30分からのオンライン日本史講座のお知らせです。

 

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前九年の役後三年の役です。

 

前九年の役を取り上げる場合、二つの視点があります。一つはエミシ社会のその後です。北緯40度ラインで一旦おさまった情勢が流動化し始めます。

 

海域アジアレベルでの変動が当然日本列島の北部にも影響を及ぼし始めます。北方の靺鞨と呼ばれたオホーツク・沿海州の民族集団から様々な交易品が流入していましたが、唐の崩壊とそれに伴う海商の広範囲な展開は海域アジア全体に大きな変動を引き起こしたに違いありません。

 

これは古代的な帝国秩序の崩壊が本格化したことを示しており、海域アジアにおける中世が始まったことを意味していました。

 

唐や高麗は倒壊し、新しい王朝に変わっていきました。そのころ日本では違った展開が待っていました。地方に有力者が力を蓄え、自立化傾向を見せ始めます。これは海域アジア各地で起こりますが、日本列島上では地方に分立した群盗が宇多朝の時に「武士」と名付けられて制度の中に回収されていった、と桃崎有一郎氏は説明します。

 


武士の起源を解きあかす――混血する古代、創発される中世 (ちくま新書)

 

 宇多朝のころに大規模な転換があったことは、様々な研究から明らかですが、「武士」の成立もそのひとつでしょう。宇多朝における国制の大きな転換はまさに古代から中世への転換といってもいいでしょう。この時期こそ中世の始まりと私は今のところ考えています。海域アジア史的視点から見てもこの時期を中世の始まりとすると筋が通ります。

 

そのような中で北緯40度ライン付近にも変動がやってきます。その中で安倍氏清原氏のようなエミシ系の有力者が現れます。安倍氏清原氏の出自については様々な見解がありますが、ざっくりいえばエミシの末裔の在地土豪という見方、京都から下ってきた有力者の末裔、在地有力者に京都から下ってきた貴族層が婿入りして勢力を引き継ぎ、武士団化したもの、などです。

 

そのような動きが始まった東北北部〜道南地域ですが、北海道でも大きな変動は当然起こります。このころ擦文文化と呼ばれる文化が道南から東北北部に広がり、北海道のオホーツク海沿岸には靺鞨文化が展開していました。オホーツク文化とも呼ばれます。

 

日本は毛皮や鷲羽・鷹羽や昆布などを求めて北方社会と交易を行います。日本での動揺は矢羽に使われる鷲羽などの需要を大幅に押し上げたでしょう。交易ルートが活発化するとともに、さらなる利益を求めて北上を再開する契機にはなるでしょう。

 

10世紀ごろ、北海道でも交易ルートの大きな変動が見られます。関根達人氏によれば9世紀まで本州側の窓口は秋田城でしたが、10世紀には津軽地域のエミシ集団に変わるということです。

 


モノから見たアイヌ文化史

 

 そしてこのころ北緯40度以北地域では環濠集落が発達しますが、11世紀後半に国郡制が施行されると環濠集落は消滅します。この環濠集落の時期が前九年の役後三年の役です。北緯40度以北の地域を日本に編入するために投入された武士団の棟梁が河内源氏と呼ばれる武士団でした。

 


河内源氏 - 頼朝を生んだ武士本流 (中公新書)

 

 

坂上田村麻呂とアテルイ報告と世界史的概念としての「古代」「中世」を考える

昨日のオンライン日本史講座のご報告です。

 

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ここでは予告編から脱線した話をまとめています。

 

エミシとの戦いは基本的に遷都事業とセットになって行われています。平城京遷都の時に征夷事業が開始され、平安京遷都も征夷事業とは切り離せません。

 

常識的に考えれば二つの大事業にリソースをつぎ込むのもあまり賢いとはいえませんが、征夷事業と遷都事業はこの常識が通用しないようです。

 

平安京に関していえば、遷都の大義名分として征夷事業の大きな成果が必要であったことがあり、まあ納得できます。早良親王の祟りや洪水の起こる地という立地条件を考えれば、平安京への遷都とともに征夷事業の成功が報告されれば遷都の機運も高まるでしょう。

 

しかし実際問題、大規模な事業を同時並行で行うのは国家財政上、むちゃくちゃなことで、この辺大学で講義した時にも受講生から確実に質問がやってくるところです。

 

こういう大規模な造営事業とややこしい法体系と戸籍による人民の把握と領域的な拡大への欲望と異民族支配という古代国家的な側面は確かに日本列島上に存在したんだな、と思います。そしてそれは実現不可能なものであるがゆえに、完成したかと見えた瞬間崩壊していく、というものだったと考えています。

 

藤原仲麻呂称徳天皇というのは確かにそれを一瞬完成させ、桓武天皇はそれを引き継いでさらに発展させようとした、という感じで見ています。しかし桓武末期にはその実現不可能性ははっきりしていたわけで、いわゆる「徳政相論」というのもその文脈で見ることができるでしょう。また平城天皇嵯峨天皇の改革も何とか現実の社会に理念をアジャストさせていこうという必死の試みだったのではないでしょうか。

 

そしてこういう古代国家の実現不可能性は他の地域でも同様であり、新羅の滅亡や唐の滅亡と高麗・宋の勃興というのはその結末だったのではないでしょうか。日本列島上では宇多天皇による政治改革が古代国家の理念を放棄し、新しい体制を作り出したものではないか、と私は見ています。

 

ここで少し放言をしますと、「中世」というのはあくまでも世界史的概念であるべきであって、日本列島にしか通用しない概念であればわざわざ「中世」というあいまいな概念を使うべきではありません。例えば武家政権による支配を「中世」と呼ぶのであれば、「中世」というあいまいな概念を使わずに「武家政権の時代」とすれば済むことです。「鎌倉・室町時代」でもいいはずです。「中世」という世界史的概念を使うのであれば、その世界史的概念性を生かさなければならないはずです。

 

例えば史的唯物論や大塚史学のように世界史的観点から「中世」概念を使った研究は存在します。そこではヨーロッパの「中世」と日本の「中世」が対比され、いずれも「封建制」の展開に「中世」という概念が合致したから鎌倉時代室町時代を「中世」と定義したのではないでしょうか。領主制理論はそのうち、封建的生産様式に基づく在地領主層が、古代奴隷制的生産様式に基づく天皇・貴族社会に階級闘争を挑む中で中世社会が作られ、非領主制理論の中でも権門体制論は封建制の階級対立を在地領主対古代的デスポティズムの間に求めた領主制論を批判し、階級対立の本質を「百姓」層対全領主階級に求めたもので、いずれにせよ、封建制社会という世界史的概念に基づく「中世」概念であるわけです。しかしその前提が崩れたところで「中世」という言葉を使っても、前提が失われている以上、「中世」とは何か、という議論は空疎なものになります。

 

私がいま何となく考えているのは、海域アジアレベルでの普遍性で「中世」を考え直す、という作業です。海域アジア史の分野では「中世」というのは、「古代的中央集権制」の崩壊、つまり唐の滅亡を以って始まる、といいます。海域アジア的視点で言えば10世紀初頭に「中世」が来なければならないわけです。

 

もう一つ、どう考えても藤原道長の時代の政治と藤原不比等の時代の政治は一様ではありません。戸籍による人身把握の有無、賦課体系の違い、軍事機構の違い、政治的意志の反映のされ方の違い、どれを取っても聖武天皇一条天皇よりも一条天皇後嵯峨天皇の方が似ています。

 

海域アジアの視点では聖武天皇は古代、一条天皇後嵯峨天皇は中世、後花園天皇は近世前期、霊元天皇は近世となります。それは中華帝国の構造と周辺への関わり方の違いに求められます。国家的使節団による「ヒト・モノ・情報」の交流が行われていた時代、つまり国家が全てを管理しようとした時代は唐までで終わります。この時代は古代的な段階です。9世紀ごろから中国海商による民間交易を介した「ヒト・モノ・情報」の交流が発展してきます。この時代が「中世」です。したがって「中世」は9世紀から14世紀前半となります。14世紀にユーラシア規模の危機が発生し、モンゴル帝国も崩壊し、日本でも南北朝の内乱が起こって鎌倉幕府が滅亡、朝鮮半島では高麗が滅亡します。新たに成立した明は海禁体制を軸にして閉じた秩序を構想しますが、周辺では交流が活発化します。足利家による日本国王体制もその対応です。17世紀に差し掛かると近世前期の競争を勝ち抜いた勢力が国家の枠内で社会の安定化を図り、海は障壁として機能するようになります。各地域ごとに「伝統」社会が形成され、成熟していきます。これが近世後半です。

 

以上のような海域アジア史における時期区分に従えば、日本では宇多天皇の時期に古代から中世へ移行し、後醍醐天皇の時期に中世から近世前半に、後陽成天皇の時代に近世後半に移行することになります。この時期区分を従えば「古代」「中世」「近世」という言葉も世界史的概念として使うことが可能になります。

 

以下の本に従うとほぼ上のような時期区分になるかと思います。執筆者を見たら橋本雄先生と谷本晃久先生がいらっしゃったので、私としては((((;゚Д゚)))))))という感じです。

 


海域アジア史研究入門

 

後花園天皇をめぐる人々−細川持之、嘉吉の乱に翻弄された悲運の管領

2022年1月20日に少し追記。

 

久しぶりの「後花園天皇をめぐる人々」です。

 

今日取り上げるのは「決められない政治」の象徴と某公共放送でレッテルを貼られてしまった細川持之です。これは某公共放送だけでなく、多くの先学がそう行っているので、通説に従う限り、細川持之は「決められない政治家」というイメージで語られることになります。

 

と、こう書いているのですから、私としてはその見方に対して疑問を持っている、ということになります。

 

そもそも私は「決められない政治」「決められる政治」という物言いを好みません。

 

細川持之です。彼は細川満元の次男です。兄は持元、弟は持賢です。持元が早死にしたため、彼が細川京兆家を継承することになります。

 

永享四年(1432年)、斯波義淳に代わって管領に就任します。そのころから幕府の指導層の世代交代が行われ、畠山満家・山名時熙・三宝満済によって主導されてきた幕政が細川持之・赤松満祐によって担われるようになります。

 

このころの将軍は有名な足利義教ですが、義教の代には管領の力は低下していました。個人的な意見を言えば斯波義淳のせいです。関東の取次であった義淳は関東の言い分を重視しすぎて他の守護大名と乖離してしまい、浮き上がってしまいます。義教も満済もかなり義淳の暴走には呆れている様子が見て取れます。義淳と比較的政治的立場の似ていた満家も距離を置いてしまいました。

 

義淳はそもそも管領にはなりたくなかったようです。甲斐常治らが「義淳は管領の器ではありません」と義教に直談判に及んだこともありました。ただ右大将拝賀では管領が斯波家という義満の故実を守りたかっただけです。右大将拝賀式が終わるとあっさりお役御免で誰もがハッピーになりました。

 

その影響を受けてか、御前沙汰という形で義教が直接訴訟に介入するようになります。またこのころ重臣会議と呼ばれていたものが、管領邸に集まって衆議する形態から、義教が個別に諮問する形態に変化します。管領は諸大名の衆議を集めて将軍とネゴシエートする役割から将軍を補佐する役割へと変貌します。

 

永享山門騒動では持之は義教と山門使節の間に立って汗をかきますが、最終的に義教は持之に山門使節を捕らえさせ、処刑させています。この辺、義教の言いなり、というイメージがありますが、そうではないところも見せています。

 

持之の被官に河野加賀入道性永という人物がいます。もとは足利義満の寵童の御賀丸の被官だったようですが、義満の死とともに御賀丸は失脚し、河野加賀入道も一部の書体を没収されています。その後は細川持之の被官だったようですが、彼が伊予国河野氏の関係者とすれば、もともと細川家の被官で御賀丸に出向していたのかもしれません。

 

彼の妻の連れ子が祇園社の関係者で、殺害事件に巻き込まれ、義教の糾明を受けますが、持之は最後まで河野加賀入道を庇いだてしています。その後は姿を見せていません。

 

函館の河野加賀左衛門尉という人物はその系譜は不明ですが、「加賀左衛門尉」という官途名乗りの「加賀」というところに着目すれば、もしかして・・・とも思いますが、確証はありません。

 

持之の人生を大きく変えてしまったのが嘉吉の乱でした。

 

義教が赤松満祐に暗殺されたのですが、その時持之は義教のお供をして満祐の屋敷にいました。嘉吉の乱では山名熙貴と京極高数が犠牲になり、大内持世は重傷を負って一ヶ月後に死去します。また細川持春は片腕を切り落とされる重傷を負い、三条実雅は股を斬られ、負傷します。

 

山名持豊細川持之らは現場から逃亡しますが、これは止むを得ない処置であると言えばそうです。ここで死ぬことは簡単です。しかし幕府はどうなるのか、管領である持之は何としても自分が生き延びなければどうしようもありません。

 

ここで持之を思いっきりディスったのが伏見宮貞成親王です。「御前において腹を切る人もない。赤松は落ち延びた。追いかけて討つ人もいない。残念なことだ。諸大名は赤松とグルか。よくわからない。所詮、赤松を討とうとした企てがバレて討ったということだ。自業自得の結果、どうしようもない。将軍がこのような犬死をしたことは前代未聞だ」(『看聞日記』嘉吉元年六月二十五日条)

 

特に持之は満祐と親しかったことが余計に疑心暗鬼を呼ぶことになります。万里小路時房にまで「赤松の謀反は持之と仲が良かったから内々で通じていたのではないか、という噂があって、そういうことがないのは明らかなのだが、それでも管領を襲撃しようというヤツがいるという噂がある。大内持世は持之を疑っていて「俺が死んだら家臣たちは残らず管領のもとにいって抗議の切腹をしてこい」と遺言したらしい(後で聞いたら嘘やった。「俺が死んだら残ったものは播磨に向かえ」という遺言)。噂のせいで落ち着かない」(『建内記』嘉吉元年七月十七日条)と言われています。

 

この辺の持之sageの傾向について『新九郎、奔る!』第1巻206ページで勝本が「侮られるのは父の代から慣れておる」と心中で思っているシーンがあります。

 

その後は持之は怒涛のような多忙に巻き込まれます。

 

まず朝廷への報告があります。追放された畠山持国が彼に代わって義教に取り立てられた畠山持永を追い落とそうとしている、という動きに対しての対応。山名持豊が都でヒャッハーしていることへの対応、赤松満祐から義教の首を返したい、という使者が来ましたが、それを処刑する必要、義教の息子たちを保護し、義教の兄弟を厳重な監視下に置かなければなりません。彼ら貴種は相手方に落ちたら旗印として使われます。

 

遅々として進まない征討軍の編成を進めるために朝廷に治罰綸旨を奏請する決断、しかもその綸旨は反対意見が多い中、後花園天皇が突っ切ってくれました。後花園天皇の決断がなければこの綸旨もなかったでしょう。

 

 

sengokukomonjo.hatenablog.com

 

 

結果、三ヶ月後には無事赤松満祐を討伐することに成功しました。

 

しかし持之をさらなる悲劇が襲います。播磨に軍勢が進発したのを見計らったかのように土民が立ち上がり、徳政を要求します。嘉吉の徳政一揆の勃発です。これまで幕府は徳政一揆に対しては断固たる処置を取ってきました。しかし今回の一揆は様子が違います。あっという間に京都を包囲し、東寺に立てこもると、東寺を人質にして強硬な交渉をします。

 

金融業者である土倉は持之に献金をして一揆の実力排除を依頼します。土倉は幕府にとっては事実上の国庫にあたります。土倉が大きな損失を出しますと幕府の財政が破綻します。持之の判断はやむを得ないものでしょう。

 

しかし持之に抵抗した大名が現れました。河内から上京し異母弟の畠山持永を排除した畠山持国です。持国の被官が多く一揆に参加していました。一揆勢といっても専門的な軍事集団が多く参加していたのです。結局持之は献金を返却するほかはなく、メンツは丸つぶれとなりました。

 

土一揆と大名被官の関係についてはゆうきまさみ氏『新九郎、奔る!』第1巻10ページでも「狐」(新九郎より少し年上の少年、新九郎にそう呼ばれている)が「一揆ってのは百姓や流民ばかりが集って暴れてるわけじゃない。戦さ経験のある国人侍が指揮を執ったりしてるしな」と新九郎に教えています。

 

持之は義教時代に処分された人々を赦免し、人々の気持ちをつなぎ止めようともしています。

 

嘉吉元年九月に赤松満祐は戦死し、翌年三月には満祐に擁立されていた足利直冬の孫と言われる足利義尊が討たれ、嘉吉の乱は一段落します。

 

その三ヶ月後の六月二十四日、嘉吉の乱一周年の日に出家します。その二ヶ月後、43歳の若さで亡くなります。細川京兆家はみな若死にしていますから短命な家系であることは事実でしょうが、嘉吉の乱後の一年間の激務が彼の生命を確実に縮めたことも間違いがないでしょう。彼もまた嘉吉の乱の犠牲者の一人だったのです。

 

後継者の聡明丸が元服して勝元と名乗り、京兆家を継承しますが、勝元はまだ若かったため、細川持賢を後見とします。

 

管領職は畠山持国が任命され、持国に対抗すべく勝元は山名持豊との連携を強め、禁闕の変にも関わっていくことになります。

禁闕の変については『戦乱と政変の室町時代』第八章「禁闕の変」で取り上げています。

 

その元となった「禁闕の変再考」が収録された『十六世紀史論叢』11号はこちらで販売中です。

historyandculture.jimdofree.com

 

細川持之後花園天皇の綸旨については以下のエントリ参照。

 

sengokukomonjo.hatenablog.com

 

 

今回の話の主要参考文献は以下の通りです。

 


戦乱と政変の室町時代

 


新九郎、奔る!(1) (ビッグコミックス)

 


土民嗷々―一四四一年の社会史 (創元ライブラリ)

 


籤引き将軍足利義教 (講談社選書メチエ)

 


室町人の精神 日本の歴史12 (講談社学術文庫)

 


室町幕府崩壊 将軍義教の野望と挫折 (角川選書)

 

坂上田村麻呂の戦いーオンライン日本史講座「戦争の日本史」2

追記:関根達人先生のご指摘に従い、38度線と40度線に訂正いたします。

 

6月6日(木)午後8時30分からのオンライン日本史講座「坂上田村麻呂アテルイ」の予告です。

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774年、エミシによる上京朝貢の中止と、海道エミシによる桃生城攻撃が起こります。38年戦争の勃発です。

 

背景には偉大なる指導者だった称徳天皇の死去があるでしょう。太上天皇天皇の地位を兼ね備え、聖武天皇光明皇后の血を引く完全無欠なる正統の君主、しかもあれだけの権力を誇った藤原仲麻呂を完膚なきまでに叩きのめしたカリスマ性、称徳天皇はおそらく不世出の君主だったと言えるでしょう。

 

ただ惜しむらくは自らの後継者問題で道鏡を推すという致命的ミスを犯します。彼女からすれば天武の血を引く数少ない生き残りの文室浄三はそもそも彼女より年長ということでアウトでしょう。天智天皇の孫で、皇族であり続けた白壁王も彼女より10近くも年上なのでアウトでしょう。それを言い出せば道鏡も彼女より年上です。八方塞がり、という言葉しか思い浮かびません。

 

冷静に考えれば称徳の異母妹の井上内親王が嫁いでる白壁王一択です。白壁王と井上内親王の間に生まれた他戸親王皇位を継承すれば一番いいわけです。

 

史上最高齢の62歳で大納言から急遽即位した白壁王こと光仁天皇には早晩後継者問題が浮上してきます。光仁天皇の後継者は聖武天皇の娘である井上内親王の皇子の他戸親王で決定していました。というよりも井上内親王の女系を通じて天武系統を残すことに意味があった、はずです。

 

しかし藤原式家藤原百川らが暗躍します。井上内親王には光仁天皇の呪詛の疑いがかけられ、井上内親王は廃后、他戸親王廃太子となります。さらに光仁天皇の同母姉の難波内親王の死去も彼らの呪詛とされ、難波内親王死去後数日で彼らは大和国の宇智に幽閉され、同じ日に死去します。

 

他戸親王の代わりに立太子したのが渡来系氏族の高野新笠を母に持つ山部親王でした。

 

やがて光仁天皇は山部親王に譲位します。桓武天皇です。

 

桓武天皇にとって一番の課題は天武系の都である平城京を去ることでした。平城京は天武系の聖武天皇のために作られたような都でした。天智系の桓武にとっては克服するべき都であったわけです。

 

784年、天武は百済系渡来人の地盤である山背国に遷都します。水運にも便利な淀川沿いで、桂川宇治川・木津川の合流地点の近くにある乙訓郡長岡の地に長岡京を作ります。

 

しかしこの長岡京はうまくいきません。789年、征東大将軍紀古佐美がエミシの有力者のアテルイに敗北します。

 

長岡京では造営責任者であった藤原種継が暗殺され、遷都反対派の存在が浮き彫りになります。すでに死去していた大伴家持らも処分され、人々は疑心暗鬼に苛まれます。最終的に皇太弟の早良親王が疑惑の中心に浮上し、淡路国に配流される途中で餓死します。これは抗議のハンガーストライキの末の餓死という見方と、桓武が意図的に食料を与えずに殺したという見方があります。

 

その後洪水や桓武の血縁者が死去する事件が相次ぎ、早良親王の祟りがささやかれるようになりました。

 

そのような中、桓武長岡京を諦め、さらに渡来系氏族の地に近い葛野郡に遷都を決定します。大規模な土木工事が再び始められ、同時に征夷事業も本腰を入れることになります。なにせ失敗は許されません。

 

794年には大伴弟麻呂征夷大将軍とする10万人の征夷軍が出発し、征夷副将軍の坂上田村麻呂が大きな戦果を挙げました。とりあえず桓武のメンツは保たれたのでした。この征夷事業の成功を祝い、新たな都は平安京命名されました。また山背国は山城国と改称され、国土の中心が大和国から山城国に移ったことが明示されました。

 

しかしまだアテルイはまだ抵抗しています。桓武にとってはアテルイを打倒しなければ真の「平安」は訪れないのです。

 

第三次征夷軍が797年に組織され始め、802年に出発します。4万人の征夷軍が平安京を出発します。坂上田村麻呂征夷大将軍とするこの征夷軍は胆沢・志波のエミシを完全に制圧し、大きな戦果を挙げました。胆沢城を築城するために四千人の浮浪人を徴発して胆沢城に移配するとともに、多くのエミシを俘囚として移配しています。

 

胆沢城の築城中、ついにアテルイとモレが降伏してきました。度々に及ぶ圧倒的な軍事力の征夷軍の前にエミシの地は荒廃し、多くの死傷者を出した上、俘囚として住み慣れた土地を無理やり追い出され、遠い場所に移配された人々も多く、人的資源も枯渇していたのでしょう。土地の生産力も人的ネットワークも破壊された中、彼らに残されたのは田村麻呂の慈悲にすがることだけだったでしょう。

 

田村麻呂はアテルイらの降伏を受け入れ、都に凱旋します。これは桓武にとって格好のアピールポイントでもありました。

 

田村麻呂はアテルイの助命と帰郷を願い出ます。アテルイの名声はエミシの統治に必要だ、というのです。しかし桓武朝はアテルイの処刑を決定し、アテルイとモレは河内国で処刑されました。桓武の軍を苦しめたエミシの代表者は処刑されなければ桓武の権威と「平安京」の威厳は保たれなかったのです。その意味では平安京はその名前と裏腹に血塗られた皮肉な名前だったと言えるでしょう。

 

さらに日本の国境の北上を目指して桓武による第4次征夷軍が組織されます。しかしその動きは遅々として進まず、翌年の805年の12月に桓武天皇藤原緒嗣と菅野真道に命じて徳政相論を行わせます。緒嗣が征夷事業と平安京造営事業の中止を主張し、真道がそれに反対しますが、最終的に征夷事業と平安京造営事業の中止が決まります。

 

これについては、桓武自身の意思が強く働いているのが自然と考えられています。民衆の疲弊と国土の荒廃、国家財政の破綻の危機は桓武自身も自覚していたのでしょう。桓武は若い緒嗣に中止を述べさせ、その意見を受け入れることで名君を演じた、とされています。その三ヶ月後、桓武は70歳の生涯を閉じました。

 

その後は平城天皇による桓武時代の清算が強力に推し進められ、平城から嵯峨天皇への譲位後の薬子の変の翌年、文室綿麻呂が811年にエミシ征討の完了を宣言し、征夷事業と38年戦争は集結します。この時の国境線は40度線にほぼ沿う形で、やや太平洋側で南に湾曲して引かれます。そしてそこより以北は律令制の外の地としてエミシの有力者の自治に委ねるという形がとられます。その辺については次回の前九年の役後三年の役で見ていきたいと思います。

 

なお参考文献はまずこれです。

 


【送料無料】 蝦夷と東北戦争 戦争の日本史 / 鈴木拓也 【全集・双書】

 

他にこれもいいかと思います。

 


古代蝦夷 (歴史文化セレクション)

足利義稙御内書(『朽木家古文書』37 国立公文書館)

月曜日恒例の古文書入門です。

 

今日は「足利義稙御内書」(『朽木家古文書』37号文書)です。

 

御内書は将軍家の私的な用事のための書状が発展したもので、義教期あたりからいろいろな命令を伝えるものとなっており、例えば足利成氏を討て、という命令を伝える足利義政の御内書は山ほど残っています。成氏討伐に執念を燃やす義政を見ていますと、もしコシャマインが成氏と対立する立場だったら義政は全面的に援助を与えたのではないか、と思えるほどです。

 

しかし多くの御内書がやはり私的な内容のもので、一番目につくのが「素敵な贈り物、ありがとうな!」という内容です。

 

では見ていきましょう。

 

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足利義稙御内書 国立公文書館

釈文から。

太刀一腰到来候

事、神妙候也

閏十月二日 (花押)

佐々木朽木弥五郎とのへ

読み下しです。

太刀一腰到来し候事、神妙に候なり。

見事に内容がありません。

 

ちなみに前の二行は違う文書です。宛先が「佐々木朽木弥五郎とのへ」と同じ人名が書いてあるように見えますが、実は違う人物です。

 

前の「佐々木朽木弥五郎」は義政の時代なので、朽木貞綱ですが、こちらは足利義稙なので朽木稙広(後に稙綱と改名)しています。

 

これは「弥五郎」という仮名(けみょう)が通り名となっているからです。朽木家は代々「弥五郎」という仮名を名乗っていたのです。

 

ちなみに「稙綱」のような名前は諱(いみな)といい、基本的には読むことを忌むことから「いみな」と呼ばれます。これは正式な場で呼ばれることが多く、上位者が下位者に対して呼ぶもので、したがって「義教さま」と呼びかけることは原則的にはありません。

 

ではどう呼ぶか、といえば官途を獲得していたら官途名乗りです。例えば細川本家は代々右京大夫(うきょうのだいぶ)を世襲していたので「右京大夫」と呼ばれます。これをドラマでいちいちやると結構面倒臭いのは理解できます。ゆうきまさみ氏の『新九郎、奔る!』では工夫がなされています。

 


新九郎、奔る! 1-2巻 新品セット

 

 戦国時代に入ると偉い人を「元親」と諱を呼び捨てにするのが敬意みたいになっているようで、その辺難しいです。

 

もっとも「上杉謙信感状」(血染めの感状)では武田信玄のことをわざわざ「武田晴信」呼ばわりしていますが、これは経緯とは異なり、蔑んでいます。

 

この辺は渡邊大門編『戦国古文書入門』の「上杉謙信感状」の部分を参照ください。ちなみに私の担当です。

 


戦国古文書入門 / 渡邊大門 【本】

講座「丹波学」で明智光秀と戦った赤井氏についてお話しします!

8月31日(土)から12月21日(土)まで、全5回にわたって丹波の中近世についての連続講演会「講座「丹波学」戦略のクロスポイント「丹波」」が丹波の森公苑で行われます。

 

私も10月5日(土)に登壇します。

 

そのほかのテーマと講師は以下の通りです。

 

8月31日 南北朝の内乱と丹波 講師:生駒孝臣氏

9月14日 明智光秀丹波支配 講師:福島克彦

10月5日 丹波赤井氏(荻野氏)の勃興 講師:秦野裕介

11月9日 近世丹波の舟運ー加古川を中心にー 講師:片山正彦氏

12月21日 丹波波多野氏の台頭過程 講師:渡邊大門氏

 

詳細は以下のサイトをご覧ください。

 

www.tanba-mori.or.jp

チラシは以下です。

 

http://www.tanba-mori.or.jp/pdf/2019/0601/tanbagaku.pdf