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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

平宗度置文(『朽木家古文書』122 国立公文書館)

古文書入門です。

しばらく平頼盛の子孫の池氏から朽木氏に伝領された所領群の関係文書です。

まずは写真。ダウンロードしてご覧になることをお勧めします。

www.digital.archives.go.jp

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平宗度置文 朽木家古文書 国立公文書館

翻刻です。

申含条々子細事

右、丹後国倉橋郷内与保呂村地頭職、播磨国

在田上庄内満願寺村地頭御代官職、鎌倉甘縄・

佐々目両地事、

平増一丸、相副代々御下文所譲也、依為所領最

少分、不及庶子配分之間、一圓不輸所譲渡也、

但依増一丸計、甘縄・佐々目両地之中仁、少分

亀松丸可被相計候歟、情分穏便、而兄弟之

礼儀候者、可被不便存候、若千万一不和之儀

候者、不申及候、女子二人之事、不及名田

譲候之間、略之了、同兄弟仁天御渡候之上

者、不可被見遊(放)候歟、若不調之事候者、宜

被任進退之意候、仍如件

 元亨二年十一月廿八日

           散位宗度

読み下し。

申し含む条々の子細の事

右、丹後国倉橋郷内の与保呂村地頭職、播磨国

在田上庄内の満願寺村地頭御代官職、鎌倉甘縄・

佐々目両地の事、

平増一丸に代々の御下文相副え譲るところなり。所領最少分たるによりて、庶子配分に及ばずの間、一円不輸を譲渡するところなり。但し増一丸の計らいによって、甘縄・佐々目両地の中に、少分亀松丸に相計らうべく候歟、情分穏便にして兄弟の礼儀に候はば、不便に存ぜらるべく候、もし千万一に不和の儀も候はば、申すに及ばず候。女子二人の事、名田を譲るに及ばず候の間、これを略しおわんぬ。同じく兄弟にて御渡候の上は、見放さるべからず候歟、もし不調の事候はば、宜しく進退の意に任さるべく候、仍て件の如し

 とりあえずこの辺で。

宝山乾珍と季瓊真蘂

嘉吉の乱では赤松満祐が足利直冬の孫の足利義尊を擁立したのは知られている話ですが、赤松家中も一枚岩ではなかったようです。

 


足利直冬 (人物叢書)

 

 ただ嘉吉の乱直後に足利家を細川持之がいち早く身柄を確保してしまったため、これくらいしか担ぐことはできなかったでしょう。ただ実際に擁立する必要があったのか、については少々悩ましいところです。

 

ここで一応足利直冬とは誰か、という話をしておきますと、直冬は尊氏の実子で、嫡出の義詮や基氏の庶兄にあたります。直義の養子になっており、直義の没落とともに彼も中国地方に没落し、その子どもたちは嫡男冬氏を除くと出家してしまいました。義尊は冬氏の子どもです。

 

直冬の末子が宝山乾珍です。彼は鹿苑寺僧録を務めていました。かなり出世したことになります。

 

絶海中津の弟子で景徳寺・等持寺の住持を経て相国寺第四十四世となります。その一年半御に鹿苑院塔主になり、その後天龍寺九十四世を経て再び相国寺に住しています。その間僧録を務めていました。彼の主な業績は明のもたらした宣徳帝の勅書に対する返書に干支を書くことを主張しており、明年号を主張する満済に撃沈されています。

 

乾珍のもう一つの大きな業績は廃れていた蔭涼軒を再興し、蔭涼軒主に季瓊真蘂を抜擢したことです。

 

季瓊真蘂は赤松氏の一門である上月氏の生まれで、父母は不明です。若くして叔英宗播に師事しています。宗播も播磨国の出身なので、その縁を頼ったのでしょう。

 

蔭涼軒は僧録と将軍の取次を務めるもので、乾珍の信頼をよほど季瓊真蘂が獲得していたとしか考えられません。

 

乾珍と季瓊真蘂は揃って嘉吉の乱でひどい目にあいます。

 

季瓊真蘂は当然赤松一門ですから非常にまずい状況に陥りました。彼はその中でも赤松氏になびかずに義教の首級を受け取るために満祐の居城の播磨坂本城に赴き、義教の首級を受け取っています。そしてそれを京都に届けるとそのまま逐電しました。

 

乾珍にも非情な運命が待っていました。彼の甥にあたる足利義尊が赤松氏に擁立されたことに関連してか、義教の首級が京都に届いたのをきっかけに鹿苑院主を辞任し、僧録も退きます。そして半年後には京都北山の等持院で死去しています。何らかの事件性をみる見解も存在します。

 

しかし人間生きていれば何とかなるものです。季瓊真蘂は苦節十七年、長禄二年に足利義政の引立てを受けて蔭涼軒主に復帰します。それ以降以前にも増して将軍に近侍し、幕政にまで関与していくようになります。この辺の季瓊真蘂の活躍は木曜日をお楽しみに。

 

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正親町天皇の生涯ー永禄八年正月一日〜十二月晦日


永禄八年
正月
一日、四方拝行う、小朝拝、元日節会を停止
御湯殿上日記、言継卿記、続史愚抄
四日、千秋万歳あり、五日同じ
御湯殿上日記(四日・五日)、言継卿記(四日・五日)
五日、叙位を停止
続史愚抄
七日、白馬節会停止
続史愚抄
八日、太元帥法
御湯殿上日記
十五日、三毬打
御湯殿上日記
この日、御楊弓あり、のち数このことあり
御湯殿上日記(正月十五日・十六日・十七日・二十三日・二月七日・十六日・二十七日・三月十八日・二十二日・二十七日・四月一日・十三日・十七日・十九日・二十二日・五月二日)、言継卿記(正月二十三日・二月十六日・二十七日・三月二十七日・四月一日・十三日・五月二日)
十六日、踏歌節会
続史愚抄
十八日、三毬打
御湯殿上日記
十九日、和歌会始
御湯殿上日記(十日)、言継卿記(十三日・十九日)
二十二日、庚申待
御湯殿上日記
二十八日、この日より臨時の御拝
御湯殿上日記
二十九日、故式部卿邦輔親王王子師秀親王を猶子とする。この日親王仁和寺に入室
御湯殿上日記(二十六日・二十九日)、言継卿記(二十七日)
三十日、七観音に近侍の代官詣
御湯殿上日記(正月三十日・二月二十九日)
二月
三日、貝合わせ、のち数このことあり
御湯殿上日記(二月三日・六日・九日・十二日・十四日・三月六日・四月九日)、言継卿記(二月六日・十八日・二十八日・三月六日)
八日、御祈始、この日別殿行幸
御湯殿上日記
十日、囲碁
御湯殿上日記
十三日、北野社に近侍の代官詣、のちまたこのことあり
御湯殿上日記(二月十三日・十四日・八月十四日)
十四日、御霊社、清荒神ならびに因幡堂に宮女の代官詣、のち数このことあり
御湯殿上日記(二月十四日・四月十四日・十六日・二十八日・五月二日)
二十日、議定所で御楽始あり、箏の所作あり
御湯殿上日記、言継卿記
この日不予
御湯殿上日記(二月二十日・三月二十七日・四月十九日・五月十三日・十六日・十七日・二十三日・二十四日・二十六日・六月三日)
二十二日、水瀬宮法楽和歌会
言継卿記(二月二十一日)、御湯殿上日記
二十五日、北野社法楽和歌会ならびに月次和歌会、のち数月次和歌会あり
御湯殿上日記(二月二十五日・四月十四日・十五日・二十四日・二十五日・五月二十四日・二十五日)、言継卿記(二月二十五日・五月二十五日)
三月
三日、闘鶏
御湯殿上日記(三月三日・四日)、言継卿記
五日、曼殊院宮覚恕に宸筆の天神名号を賜う
御湯殿上日記
二十三日、庚申待
御湯殿上日記
二十九日、三月昼当座和歌会
御湯殿上日記、言継卿記
四月
六日、六条町衆をして禁裏の警固に候せしむ
御湯殿上日記(四月六日・八日・十二日・五月十五日・六月十六日)
七日、後柏原天皇の聖忌、伏見般舟三昧院にて法事
御湯殿上日記(三月二十九日・四月七日)
この日元応寺住持某を召して受戒
御湯殿上日記、言継卿記
八日、この日より禁裏裏築地その他の修理あり
御湯殿上日記(四月八日・十日・二十七日・二十八日・五月三日・四日)
この日、内侍所法楽御神楽、筝の所作
御湯殿上日記、言継卿記
十三日、稲荷祭追行
続史愚抄四月一日・十三日)、東寺執行日記
五月
一日、祈祷のため、御霊社に御神楽、また同社並びに北野社・歓喜天などに代官詣
御湯殿上日記
六月
七日、故征夷大将軍足利義輝に贈左大臣従一位などの宣下あり
御湯殿上日記、言継卿記(六月五日・七日)
二十五日、月次和歌会停止、触穢による
御湯殿上日記(六月二十四日・二十五日)、言継卿記
二十六日、七観音に近侍の代官詣あり、のちまたこのことあり
御湯殿上日記(六月二十六日・七月二十八日)
二十九日、大祓
御湯殿上日記
七月
七日、七夕節、和歌会、触穢により楽会は停止
御湯殿上日記、言継卿記
十八日、吉田兼右に内侍所の清祓を行わせる
御湯殿上日記
二十一日、この日より臨時の御拝
御湯殿上日記(七月二十一日・二十三日)
二十五日、月次和歌会、のち数このことあり
言継卿記、御湯殿上日記(八月二十九日・九月二十五日・十月二十四日・十一月二十四日・二十五日)
二十六日、庚申待、この日禁裏に落雷
御湯殿上日記
二十九日、天王寺別当のこと奏聞
言継卿記、御湯殿上日記
八月
四日、世上物騒により禁裏番衆のことを仰せ出す
御湯殿上日記
九日、御霊社、清荒神並びに因幡堂に宮女の代官詣
御湯殿上日記
十一日、広隆寺薬師開帳の勅許
御湯殿上日記(八月十日・十一日)、言継卿記
十五日、観月御宴
御湯殿上日記
十六日、楊弓あり、のち数このことあり
御湯殿上日記(八月十六日・二十一日・二十五日・八月十七日)
十八日、御霊祭
御湯殿上日記
九月五日、後奈良天皇聖忌、法事
御湯殿上日記(九月四日)
九日、重陽
御湯殿上日記
十三日、観月宴
御湯殿上日記
二十七日、庚申待
御湯殿上日記
十月
十二日、亥子の儀、二十四日同じく
御湯殿上日記(十月十二日・二十四日)
二十日、賀茂の郷民に禁裏を警固せしめる
御湯殿上日記(八月二十日・二十一日・二十三日)
二十七日、別殿行幸
御湯殿上日記
十一月
二日、囲碁
御湯殿上日記
十四日、山科言継より誓願寺の本地の絵を叡覧
御湯殿上日記
二十六日、庚申待
御湯殿上日記
十二月九日、別殿行幸
御湯殿上日記
十一日、改元の儀あり(実際には行われず)
御湯殿上日記

後南朝の歴史

皇居を放火して玉体を狙い奉り、あまつさえ三種の神器を奪って逃走した禁闕の変の犯人の日野有光。彼の経歴は?家族は?背後関係は?調べてみました。

 

日野有光という人は日野家の当主です。

 

日野家と言いますと我々は足利将軍家外戚となった日野富子とその一門を思い出しますが、彼女は実は庶流の裏松家の出身です。しかし日野本家が禁闕の変で滅亡し、日野本家の名跡を継承した広橋兼郷も伏見宮家と揉め事を起こして洛中からの追放処分となり、生き残っていた裏松家の勝光が日野家名跡を継承して日野勝光となります。そしてその妹の富子が足利義政と結婚して有名になります。

 

裏松家というニセ日野家ではなく元祖日野家、本家日野家、というか普通に日野本家と書いたらいいような気がしました。その日野本家は裏松家とはどういう関係だったのでしょうか。

 

日野家の勃興の始まりは日野資名です。彼の兄弟は多士済々で、後醍醐天皇の側近として活躍した日野資朝大塔宮護良親王の側近として活躍した律師浄俊、醍醐寺三宝院門跡となり足利尊氏のもとに光厳上皇院宣をもたらした賢俊などがいます。日野資名の息子の時光は多くの子供に恵まれ、嫡子資教が日野本家を、資国が日野西家を、資康が裏松家を興し、娘の業子が足利義満と結婚して日野家は足利家と深い結びつきを持つようになります。

 

具体的には裏松資康の娘の康子は業子のあとの義満の正室に、栄子は義持の正室になり、さらに嫡子の義量を生んでいます。重光の娘の宗子と重子は義教に嫁いでいます。しかし義教の代に義教はそれまで幕府に深く食い込んで力を蓄積してきた名家層の貴族、特に日野家、勧修寺家、万里小路家という幕府と朝廷のパイプとなってきた貴族を遠ざけようとし、宗子と離縁して新たな正室には正親町三条尹子を迎え入れます。

 

重子は側室として残りますが、彼女が長子の千也茶丸を生んだ時、さらなる悲劇が裏松家を襲います。裏松義資は義教の恨みを買って謹慎中でしたが、妹の重子に足利家の跡取りとなる可能性がある千也茶丸が生まれたため、赦免されると思い込んだ人々が義資のもとに祝賀に訪れます。しかし義教は義資を赦免するつもりなどさらさらありません。それどころか義資のもとに参賀に来た人々を監視しており、彼らに処分を食らわせました。さらに義資は賊に殺され、その首はいずこかへ持ち去られました。誰がみても義教の仕業ですが、義教はその噂を流した高倉永藤を薩摩国硫黄島流罪とします。

 

義資の息子の重政は出家に追い込まれ、裏松家はまだ若年の勝光一人になります。

 

こうして裏松家は没落しましたが、日野本家も裏松家に先立って没落していきました。有光は称光天皇外戚となっていましたが、義持との関係も悪化してしまいます。これはどうも義持の病気中に後小松上皇の言い分を義持に取り次いだ為、義持の機嫌を損ねたようです。

 

義教の代に入って彼が持っていた能登国の若山荘を召し上げられ、広橋兼郷に与えられます。そこは日野本家の伝領してきた所領である為、兼郷が日野中納言名跡を名乗ることになります。日野本家と広橋家は父親の資教と兼宣の代からの熾烈なライバル同士でした。

 

有光の娘の光子は称光天皇典侍を務め、後花園天皇にも引き続き仕えています。義教の死後、有光は名誉回復し、穏やかな老後が待っているはずでした。

 

しかし彼は禁闕の変を引き起こしてしまいます。

 

禁闕の変については以下に少し述べています。

 

sengokukomonjo.hatenablog.com

また『十六世紀史論叢』11号に詳しく述べています。合わせてご覧ください。

historyandculture.jimdofree.com

いかがでしたか?日野有光禁闕の変に参加した動機は上の本に書いてあります。また今週木曜日の午後八時半からのオンラインの講座でも話します。

ticket.asanojinnya.comこれはユーチューブでもしばらくしたら流れます。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

将軍藤原頼嗣家政所下文(『朽木家古文書』119 国立公文書館)

古文書入門です。

 

今回も前回と同じく国立公文書館の写真版の番号と『史料纂集』とは一つずれています。

www.digital.archives.go.jp

とりあえず原文です。

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将軍家政所下文 国立公文書館

翻刻です。

将軍家政所下  丹後国倉橋庄内与保呂村住人

補任地頭職事

前宮内大輔平朝臣

右人、為彼職任先例可致沙汰之

状如件、以下

建長三年八月三日 案主菅野

令左衛門尉藤原  知家事清原

別當陸奥守平朝臣(花押)

  相摸守平朝臣(花押)

 読み下しです。

将軍家政所下す  丹後国の倉橋庄内の与保呂村の住人

 地頭職に補任するの事

前宮内大輔平朝臣

右の人、彼の職として先例に任せ沙汰致すべきの状件の如し。以って下す。

 下文(くだしぶみ)は「◯◯下す」という形が取られることから「下文」と呼ばれます。基本的には知行宛行(新恩給与)と譲与安堵(所領の譲与の将軍家による保障)に使われます。

 

将軍家政所下文には将軍家の花押はなく、ここでは花押が捺されているのは北条重時北条時頼だけです。北条重時連署北条時頼が執権です。このような形になるのは承久の乱後で、北条氏による政治的実権の掌握という側面と、将軍家政所下文が実質的な働きを失いつつあることを示しています。14世紀初頭には「外題安堵」と言う形で譲状の余白に下知状の形式で文言を書き入れる形になります。

 

ここで地頭職に補任されているのは平光度です。平頼盛の子孫です。

赤松氏からみた嘉吉の乱

赤松氏4代の動きを見ていて大きなターニングポイントは赤松則祐ということになります。則祐が兄の貞範を差し置いて赤松宗家を継承したことが後世に禍根を残すことになったのです。

 

貞範の子孫は春日部家と言われるようになります。春日部から出た赤松持貞は満祐にとっては放置できないトラウマを植え付けることとなります。

 

赤松義則が七十歳で死去した時、足利義持は播磨守護職を満祐から持貞に変えることを決定し、通達します。これに激怒した満祐は当然播磨国に下国することとなります。

 

これに逆ギレした義持は「美作と備前は安堵してやるのであるから文句を言うとはけしからん。播磨国も取り上げだ」といいます。

 

無茶苦茶です。播磨国守護職は赤松本家の印です。満祐からすれば「播磨一国と備前・美作、どちらか選べ」と言われたら播磨国を選ぶでしょう。

 

義持はそれを知らなかったのでしょうか。おそらくわかっていたと思います。義持は満祐を追い込んだのではないでしょうか。

 

それに抵抗したのが畠山満家です。満家は最終的に室町殿御所に使える侍女と持貞の密通疑惑を持ち出して持貞の失脚に成功します。

 

しかし義持はなぜだか持貞を処刑する、と言い出します。満済はそれに異を唱えますが、それに対する義持の反論が結構ひどい。

 

「俺は神に持貞を殺すと誓ったのだから、何を言われようとあいつを殺す」

 

ちょっと何言ってるんだかわかんないです。

 

満済は流石に持貞を高野山に逃亡させようとします。しかしすでに遅く、満済の準備が出来た時には持貞は自害させられていました。

 

命拾いした満祐ですが、やがて義持は死去し、義持を嫌っていた足利義教が室町殿となります。

 

満祐は義持に疎んぜられていたせいか、義教の信頼を勝ち得ました。侍所のトップとして正長の土一揆の鎮圧や後花園天皇の警備など、義教にとっては重要な職務を確実にこなしていきます。

 

畠山満家満済の死去後は満祐くらいしか義教に意見できそうなベテランはいません。そのせいか永享9年には不仲が噂されています。それを打ち消すかのように義教は満祐を侍所に任命しますが、永享12年の事件でこの両者の関係は再びうまくいかなくなります。

 

永享12年、彼の弟の義雅の所領が没収されることとなりました。ほとんどは満祐に与えられたのですが、一部が春日部家の貞村の所領となりました。これは満祐からは我慢できない事態となりました。同年九月、彼は「狂乱」の名目で隠居、長男の赤松教康に家督を譲ることとなりました。

 

その9ヶ月後嘉吉の乱が起こります。

嘉吉の乱リバイバル

オンライン日本史講座最初期のリバイバルです。

 

最初期の分のオンライン日本史講座は一部ユーチューブにアップされていない、ということで、リバイバルをしますが、中でも第三回の嘉吉の乱については赤松満祐を悪者にしたことについて兵庫県関係者には不評だったようです。そこで今回は赤松氏からみた嘉吉の乱を見ておきたいと思います。

 

赤松氏と足利氏の関係は意外と新しく、建武の新政以降になります。もともとは大塔宮護良親王に近かったようです。もともとは赤松円心の三男の妙善が比叡山で律師となっていて、天台座主の尊雲法親王に近侍していたのが縁の始まりです。元弘の変で尊雲、還俗して護良親王に従い転戦します。『太平記』には芋瀬庄司のもとを通行する時に芋瀬が「御旗か側近を欲しい」と要求した時に妙善が「私を身代わりに」と名乗り出たことが記されています。平賀三郎が「今は一人でも惜しい。御旗を奪われたことにすれば芋瀬の面目もたちます」と進言して御旗を渡します。遅れてきた村上義光がその旗を奪い返し、護良親王が三人を激賞したと伝わります。

 

妙善がいつ名前を「則祐」と変えたかは知りません。一般には「則祐」の名前が有名ですので、以降則祐で統一します。

 

則祐は護良親王の令旨を父親や兄のもとにもたらし、それに応じて父親の円心らが挙兵し、六波羅探題滅亡に大きく寄与します。中でも関東から援軍に来た二部隊のうちの名越高家を円心の部下の佐用範家が討ち取ったことが、もう一つの援軍部隊の足利高氏の離反にも繋がり、赤松氏の勲功は非常に大きなものであったと思われます。播磨守護職に任命されますが、護良親王後醍醐天皇が対立すると、赤松家は冷遇されます。護良親王が失脚すると赤松氏も運命を共にし、播磨守護職も没収され、円心らは播磨に帰国を余儀なくされます。

 

円心らは足利尊氏に従います。尊氏が北畠顕家に敗れて九州に落ち延びた後、尊氏を討伐するために西下した新田義貞軍を白旗城で足止めさせ、尊氏の再起に大きく寄与します。

 

それ以降、円心は一貫して尊氏に従いますが、観応の擾乱足利直冬討伐に向かう準備中に急死、跡を継いだ嫡男範資も翌年には急死し、幕府から疎んぜられていた次男貞範を飛ばして則祐に継承させたことがいろいろ後年に禍根を残します。

 

則祐は実力者佐々木道誉の娘婿となり、幕政に大きな影響を行使するようになります。観応の擾乱の最中に護良親王の皇子の興良親王を奉じて南朝に降ります。舅の道誉も応じて南朝に降ります。足利直義足利尊氏が一旦対立したあと、高師直の殺害を経て和睦した直後のことです。足利義詮が則祐を討伐するために京都を出ます。さらに尊氏が道誉を討伐するために京都を出ます。直義はこの一連の動きを自分への攻撃準備の謀略と解釈して京都を脱出し、北陸に向かいます。

 

この一連の動きが謀略だったのか、それとも則祐らの動きはガチだったのかについては議論が分かれるところです。

 


観応の擾乱 - 室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い (中公新書)

 

 後に尊氏に帰順した則祐は楠木正儀によって京都を追われた足利義満を受け入れます。この時義満を慰めるために則祐が催した松囃子を赤松囃子と呼び、室町将軍家にとっての吉例として年中行事になります。

 

則祐の死後は義則が継承します。

 

一方貞範の子孫は春日部家となり、足利義持の側近の赤松持貞、足利義教の側近の赤松貞村を輩出します。特に赤松持貞の一件は赤松満祐には大きなトラウマとなります。

 

この辺の詳細な話は以下のリンクからおいでください。

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