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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

渡邊大門編『虚像の織田信長』(柏書房)のお知らせ

この度渡邊大門編『虚像の織田信長』が出版となります。

 

 


虚像の織田信長 覆された九つの定説

 

www.kashiwashobo.co.jp

 

内容は以下の通りです。

 

商品の説明

内容紹介

「短気な独裁者」「軍事の天才」「自ら神になろうとした男」……一般的に広く知られる織田信長のイメージ。しかし、最新の研究が示すのは、天皇・将軍の権威を尊重し、柔軟に家臣に接し、宗教や芸術への深い理解を示した天下人としての人物像である。「対室町幕府」「対朝廷」「家臣団統制」「戦術・兵法」「外交政策」「経済政策」「城郭建築」「宗教」「芸術」、九つの側面から、稀代の英傑の「虚像」と「実像」を明かす!


【目次】
第一章 足利将軍家に対する信長の意外な「忠誠」――秦野裕介
第二章 実は「信頼関係」で結ばれていた信長と天皇――秦野裕介
第三章 家臣団統制に見る「独裁者信長」の虚像――千葉篤志
第四章 緩急自在の外交政策が示す信長の「我慢強さ」――片山正彦
第五章 「天才的」とは言い切れない信長の「兵法」――渡邊大門
第六章 信長の作った城郭・城下町、その「幻想」と「現実」――光成準治
第七章 信長の経済政策の「革新」と「保守」――廣田浩治
第八章 「無神論者」とはほど遠い、信長の信心深さ――渡邊大門
第九章 教養をうかがわせる趣味人・信長――八尾嘉男

著者について

渡邊大門(わたなべ・だいもん)
1967年神奈川県生まれ。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。主な著書に、『戦国誕生中世日本が終焉するとき』(講談社現代新書、2011年)、『戦国の交渉人外交僧・安国寺恵瓊の知られざる生涯』(洋泉社歴史新書、2011年)、『逃げる公家、媚びる公家――戦国時代の貧しい貴族たち』(柏書房、2011年)、『戦国の貧乏天皇 』(柏書房、2012年) 、『関ヶ原合戦は「作り話」だったのか? 一次史料が語る天下分け目の真実』(PHP新書、2019年)、『明智光秀本能寺の変』(ちくま新書、2019年)、『光秀と信長 本能寺の変に黒幕はいたのか』(草思社文庫、2019年)ほか。

 

 

 

正親町天皇の生涯ー天正七年正月一日〜十二月晦日ー

天正七年
正月
一日、四方拝を行う、小朝拝、元日節会停止
御湯殿上日記、言継卿記、続史愚抄公卿補任
この日、別殿行幸
御湯殿上日記
五日、千秋万歳
御湯殿上日記
この日、巳亥の楽あり、のち数このことあり
御湯殿上日記(正月五日・十一日・二十三日・二月十七日・三月六日・三十日・四月六日・十八日・六月七日・七月二十五日・九月二日・二十六日・十月二十七日)、言経卿記(正月五日・十一日・二十九日・二月五日)
八日、太元帥法、聴聞
御湯殿上日記(正月八日・十四日)
この日、山科言経に体源鈔三巻を書写せしむ
言経卿記
十三日、月次楽会、のち又このことあり
御湯殿上日記、言経卿記(正月十三日・二月二十二日)
十四日、庚申待
御湯殿上日記
十五日、三毬打
御湯殿上日記、言経卿記
十八日、三毬打
御湯殿上日記、言経卿記
この日、甲子待
御湯殿上日記
この日、大納言三条西実枝、病危急により武田法印を遣わす
御湯殿上日記、公卿補任
十九日、和歌会始延引
御湯殿上日記、言経卿記
二十日、内大臣二条昭実を右大臣に、大納言三条西実枝内大臣
公卿補任、御湯殿上日記
二十四日、入道前内大臣三条西実枝薨ず、よってこの日より三日間の廃朝
御湯殿上日記、公卿補任
二十六日、因幡堂に近侍七人の代官詣あり、のち又このことあり
言経卿記(正月二十五日・二月二十一日)
二十七日、権大納言今出川晴季内大臣
公卿補任
二月
五日、看経
御湯殿上日記
九日、不予
御湯殿上日記(二月十日・十二日・十五日)、言経卿記(二月十二日)
十四日、楽始、箏の所作
御湯殿上日記、言経卿記
十五日、別殿行幸
御湯殿上日記
二十日、織田信長に薫物を賜う
御湯殿上日記
二十五日、北野社法楽当座和歌会
御湯殿上日記
二十七日、神宮奏事始
言経卿記
二十八日、水無瀬法楽和歌会
言経卿記
三月
二日、浄華院長老、参内、阿弥陀経談義
御湯殿上日記、言経卿記
三日、闘鶏
御湯殿上日記
十五日、庚申待
御湯殿上日記
十七日、内宴
御湯殿上日記
十九日、歌舞の興
御湯殿上日記
四月
二十七日、前権大納言烏丸光康を大臣に准じ朝参せしむべきのよし宣下
公卿補任
三十日、織田信忠、退京により物を賜う
御湯殿上日記、公卿補任
五月
一日、近臣に公卿補任を書き進めさせる
言経卿記(五月一日・二日・九日・十一日・十五日・六月二十日・二十一日・二十二日)
三日、禁裏小御所の築地などの修理成る、よって村井貞勝に物を賜う、この日より同所に昼間御番一人を置かせる
御湯殿上日記
九日、囲碁
御湯殿上日記
十日、禁裏御門などの修理
言経卿記
十三日、別殿行幸
御湯殿上日記
六月
四日、延暦寺六月会停止
続史愚抄
五日、楽あり、箏の所作
言経卿記(六月五日・十五日)
七日、祇園御霊会
言経卿記
九日、故内大臣万里小路惟房の七回忌により阿弥陀経などを賜う
御湯殿上日記、尊卑分脈
十日、この日より禁中二の対の修理
御湯殿上日記(六月十日・七月十一日)
二十五日、北野社法楽和歌会
御湯殿上日記、言経卿記
七月
四日、祝宴
御湯殿上日記
七日、七夕節、楽会並びに和歌会
御湯殿上日記(七月三日・七日)
十二日、村井貞勝に物を賜う
御湯殿上日記
二十四日、禁裏領山国荘のことについて侍臣発遣のことあり
御湯殿上日記(七月二十四日・二十六日・八月三日・四日・六日)
八月
三日、歌舞の興
御湯殿上日記
八日、屋根葺き
御湯殿上日記(八月八日・九日・十日)
十三日、別殿行幸
御湯殿上日記
二十四日、愛宕社に近侍の代官詣
御湯殿上日記(八月二十四日・九月二十四日)
二十六日、紫宸殿の梅宮仮殿遷宮
御湯殿上日記
九月
五日、後奈良天皇斎日、看経、この日泉涌寺長老など参内、受戒、この日阿弥陀経の談義
御湯殿上日記
六日、謡の興
御湯殿上日記
十三日、融通上人良忍の霊宝を召して叡念あり
御湯殿上日記(九月十二日・十三日)
十七日、庚申待
御湯殿上日記
二十六日、近臣を織田信長の陣に遣わす
御湯殿上日記
二十七日、別殿行幸
御湯殿上日記
十月
十日、懺法あり
御湯殿上日記
十一月
四日、弘法大師筆小町絵を叡覧
御湯殿上日記(十一月四日・十二月二日)
五日、懺法、楽
御湯殿上日記
十二月
三日、明年正月三日、曼殊院宮准后覚恕の七回忌によりこの日懺法
御湯殿上日記

城南宮

城南宮に関する動画です。

最終的には「城南宮ってもしかしたら中世の始まりを象徴する場じゃね?」という問いかけまで発しています。「いつから中世か」という議論はなかなか難しく幅のある議論なんですが、私の個人的な見解を言えばやはり世界史的な概念である「中世」概念はグローバルヒストリーの文脈で捉えられるべきで、海域アジアの海商のネットワークに取り込まれた段階で「中世」になっている、と考えています。その意味では城南宮の場所に造営された鳥羽殿は中世のとっかかりというよりは、王権が海域アジアの中世社会に順応していく大きなメルクマールである、と言えるのではないか、と考えています。

 

www.youtube.com白河上皇平安京の南に鳥羽殿、東に白河殿を所有していました。平安時代から存在していた城南宮は、鳥羽離宮の鎮守社となり貴族たちの信仰を集めます。白河院政・鳥羽院政の舞台となった鳥羽離宮、白河殿と法勝寺の位置関係と院政期の動きを見ていきます。解説は立命館大学の秦野裕介講師です。

 

www.youtube.com保元の乱の後、政治の中心は鳥羽離宮を離れ、後白河の法住寺殿や平清盛の拠点がある六波羅に移ります。動画の前段は、鎌倉時代以降の城南宮を紹介します。中段では、中世につながる流通拠点として鳥羽離宮を検討。後段では、今は交通安全祈願で有名になった城南宮ですが、祭神は何でしたっけ?という雑談です。

 

 

北野天満宮の動画

北野天満宮の歴史に関する動画が上がっています。

 

www.youtube.com北野天満宮は、菅原道真の怨霊を鎮めるために創設された。一条天皇から「北野天満宮天神」の勅号を賜るが、明治時代の国家神道により北野神社と改名、戦後の国家神道解体によって北野天満宮に戻った。北野天満宮に縁の深い菅原氏の歴史をたどり、鎌倉時代後期に北野社の宮仕法師が引き起こした悪党訴訟を検討します。

 

www.youtube.com足利義持から義教の時期、北野天満宮は酒麹を独占した。酒麹をめぐる山門との対立が正長の土一揆の一因となる。京都の北郊に位置する北野天満は、鎌倉時代後半から室町時代にかけて、九条道家貞成親王花園上皇など政界の現状に不満を持つ人々の信仰を集めた。今は「学問の神」として賑わう北野天満宮だが、中世には未来を見通せない人や無実を晴らしたい人の神という性格を持っていた。

 

追記(12/18)

www.youtube.com菅原道真を祭る天満宮平安時代に始まりました。菅原道真と天神は一体化していきますが、イコールになったわけではありません。雑談の前半は天満と天神、アナール学。雑談の後半は、日本のお正月、雑煮・初詣など。そして、研究者と学ぶ日本史講座のテーマの選定です。

正親町天皇の生涯ー天正六年正月一日〜十二月晦日

天正六年
正月
一日、四方拝、小朝拝、元日節会
公卿補任、兼見卿記
五日、叙位を延引
続史愚抄
六日、叙位を追行
公卿補任
七日、白馬節会、出御
兼見卿記、公卿補任
八日、太元帥法
続史愚抄(正月八日・十四日)
十三日、前権大納言中山孝親を大臣に準じ、朝参せしむべきよしの宣下
公卿補任
十六日、踏歌節会
公卿補任
十九日、和歌会始
続史愚抄、言経卿記(二月十一日)
二十日、前関白前左大臣近衛前久に准三宮宣下
公卿補任
二月
二日、春日祭延引
続史愚抄
三月
二十一日、春日祭追行
公卿補任
五月
十八日、石清水八幡宮法楽楽会
公卿補任
二十一日、この日より七日間、清涼殿において不動明王法御修法を行う
公卿補任
六月
四日、延暦寺六月会を停止
続史愚抄
十四日、祇園御霊会
兼見卿記
七月
七日、七夕節、立花
兼見卿記
十二月
四日、別殿行幸
公卿補任
十三日、前左大臣九条兼孝に関白氏長者、一座牛車、随身兵仗などの宣下
公卿補任

明智光秀・中川重政・丹羽長秀・木下秀吉連署状

今日は明智光秀中川重政丹羽長秀・木下秀吉連署状を読みます。禁裏御料であった丹波国山国荘の関係です。山国荘は光厳院が常照皇寺に入り、修行したところであり、光厳天皇後花園天皇の山国陵と後山国陵があります。

 

藤田達生福島克彦編『明智光秀 史料で読む戦国史3』(八木書店)の「明智光秀文書集成」4号、7号文書です。


明智光秀: 史料で読む戦国史

 

4号文書です。

 禁裏御料所山国庄之事、数年宇津右近大夫押領仕候、今度信長遂糺明宇津ニ可停止違乱之由申付候、両御代官へ信長以朱印申渉候、如前々為御直務可被仰付候由、御収納不可有相違候、宇津かたへも堅申遣候、此等之旨可有御披露候、恐々謹言

  四月十六日   木下藤吉郎 秀吉(花押)

          丹羽五郎左衛門尉 長秀(花押)

          中川八郎右衛門尉 重政(花押)

          明智十兵衛尉 光秀(花押)

   立入左京亮殿

 

 奥野高広『織田信長文書の研究』165号です。


OD>織田信長文書の研究 上巻

 

読み下しです。

禁裏御料所山国庄の事、数年宇津右近大夫(頼重)押領仕り候、今度信長糺明を遂げ、宇津に違乱を停止すべきの由申し付け候、両御代官(庭田重保・高倉永家)へ信長朱印を以って申し渡し候、前々の如く御直務として仰せ付けらるべき候の由、御収納相違あるべからず候、宇津かたへも堅く申し遣わし候、此等の旨御披露あるべく候、恐々謹言 

 禁裏御料所(天皇の所領)で丹波国の国人の宇津頼重が収めるべき年貢を納めていなかったので、困っていたのが禁裏御倉職(みくらしき)の立入(たてり)宗継でした。御倉職は朝廷御用達の金融業者です。つまり禁裏の財政を掌握していたのは金融業で、ある意味民営化ですね。

 

この辺は渡邊大門『明智光秀本能寺の変』(ちくま新書、2019年)に詳述されています。

 


明智光秀と本能寺の変 (ちくま新書)

 

 

現代語訳です。

禁裏御料所の山国荘のこと、この数年宇津右近大夫が押領しております。今度信長が糺明を行って、宇津に違反行為をやめるように申し付けました。二人のお代官様には信長が朱印状で申し渡します。以前からのように朝廷の直務(朝廷が直接支配すること) として仰せつけられるようにとのこと、年貢の収納について違反があってはなりません。宇津方へもしかと申し遣わしました。これらの点を披露なさってください。

 

当然山国荘の年貢を横取りしている宇津頼重へも信長の命令は伝達されます。これが7号文書です。これは写真版がありますので、改行を写真版の通りにします。「明智光秀文書集成」をお持ちの方は33ページをご覧ください。

 

此中申旧候

禁裏御料所

山国庄〈枝郷所々、小野・細川〉如

先規、自

禁中可被仰付之

旨、信長以朱印

被申渉候、聊不可

有御違乱候、此旨

各より可申旨候、恐々

謹言

   丹羽五郎左衛門尉

 四月十八日 長秀(花押)

   木下藤吉郎

       秀吉(花押)

   中川八郎右衛門尉

       重政(花押)

   明智十兵衛尉

       光秀(花押)

 

 宇津右近大夫殿

   御宿所

 

読み下しです。

奥野高広『織田信長文書の研究』166号です。

此の中(うち)申し旧(ふ)り候禁裏御料所山国庄〈枝郷所々、小野・細川〉、先規の如く、禁中より仰せつけられ候べきの旨、信長朱印を以って申し渡され候、聊かも御違乱あるべからず候、此の旨各(おのおの)より申すべき旨に候、恐々謹言

 

現代語訳です。

この中でずっと申しております禁裏御料所の山国荘〈枝郷があちらこちらにあり、小野・ 細川〉は、先例のように禁中より仰せつけられる(禁裏の直接支配にする)べきであることを、信長の朱印状によって申し渡しました。一切違反してはいけません。この旨を我々から申すべきである、ということです。

 

織田信長文書の研究』の解説によると、宇津氏の押領は天文9(1540)年から継続しており、弘治2(1556)年には松永長頼(内藤宗勝)の攻撃を受けたこともあります。ちなみに松永長頼は丹波国守護代で、松永久秀の弟です。

 

織田信長も手を焼き、最終的に明智光秀が宇津頼重を滅ぼすまで解決しませんでした。

ja.wikipedia.org