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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

正親町天皇の生涯ー天正八年正月一日〜十二月晦日ー

お久しぶりです。一つ仕事が終わったため、このブログを再開します。もう一つのブログはこの三日間無人です(汗)。こちらはありがたいことに更新が止まっても、見に来てくださる方が一定数いらっしゃいます。お礼申し上げます。

 

正親町天皇の生涯の天正八年分です。誠仁親王が病気に倒れています。たった一人の皇位継承者ですから神経を使います。幸い快癒しています。このころどうやら正親町天皇はメンタル的にも不安定で、信長との交渉にはしばしば誠仁親王が立っています。信長の信頼も厚かったらしい誠仁親王の存在は、老境にとっくに入っていた正親町天皇にとっては心強い限りでしょう。

 

天正八年
正月
一日、四方拝
御湯殿上日記、公卿補任
四日、千秋万歳、五日同じ
御湯殿上日記(正月四日・五日)
五日、看経、のち数このことあり
御湯殿上日記(正月五日・十日・二月七日・十日・十一日・12日・三月二日・五日・七日・十日・閏三月五日・十日)
八日、太元帥法、聴聞
御湯殿上日記(正月八日・十四日)
十一日、別殿行幸
御湯殿上日記
十八日、三毬打
御湯殿上日記(正月十七日・十八日)
十九日、和歌会始
御湯殿上日記
二十四日、愛宕社に代官詣
御湯殿上日記
二月
五日、腰痛、遊行上人持参の霊宝を叡覧、十念を受ける
御湯殿上日記
十五日、涅槃会
御湯殿上日記
二十一日、権大納言徳大寺公維を内大臣に任ず
二十二日、水無瀬宮法楽和歌会
御湯殿上日記
二十三日、別殿行幸
御湯殿上日記
二十五日、北野社法楽和歌会
三月
二十日、庚申待
御湯殿上日記
閏三月
十五日、この日より勧進
御湯殿上日記(閏三月十五日・十六日・二十一日)
二十二日、内侍所御神楽、脚痛のため出御なし
御湯殿上日記、公卿補任
三十日、貝始
御湯殿上日記
四月
一日、誠仁親王、参内、なお腕の痛みあり
御湯殿上日記
六日、色紙などの修理あり
御湯殿上日記
七日、後柏原天皇聖忌、伏見般舟三昧院にて経供養
御湯殿上日記
十四日、白川雅朝王に諸本を賜う
御湯殿上日記、白河家系譜
二十二日、別殿行幸
御湯殿上日記
この日、賀茂祭
御湯殿上日記
五月
七日、不予
御湯殿上日記
十日、誠仁親王の祈祷のため内侍所で御千度
御湯殿上日記
二十七日、織田信長石清水八幡宮遷宮の日時ならびに使のことを奏請
六月
五日、春日社仮殿遷宮日時定
御湯殿上日記、公卿補任
六日、伊勢国一向宗専修寺住持お礼に参内、謁を賜う
御湯殿上日記、専修寺系譜并歴代事績
八日、豊後国大友義鎮、金子三枚を献ず
御湯殿上日記
十一日、神宮奏事始
御湯殿上日記
この日慧心僧都阿弥陀曼荼羅を叡覧
御湯殿上日記
十四日、小御所において謡
御湯殿上日記
二十一日、石清水八幡宮遷宮日時定
御湯殿上日記(六月十九日・二十一日)、公卿補任
二十二日、庚申待
御湯殿上日記
二十四日、愛宕社に代官詣、のち数このことあり
御湯殿上日記(六月二十四日・七月二十四日・八月二十四日・十一月二十四日)
二十五日、北野者法楽会
御湯殿上日記
二十七日、石清水八幡宮遷宮
公卿補任
七月
一日、楽始
御湯殿上日記(六月二十六日・七月一日)
四日、大坂本願寺門跡顕如織田信長との和睦により剣・馬代などを献上
御湯殿上日記(七月四日・五日・十八日)、続史愚抄(七月十二日)、本朝通鑑(三月辛丑朔是日・七月己巳朔庚午・八月戊戌朔己亥)
八日、前内大臣菊亭晴季に還任宣下あり
公卿補任
十日、看経、のち数このことあり
御湯殿上日記(七月十日・じゅういちにち・十二日・八月十日・十一日・十二日・九月五日・十日・十二日・十月十一日)
十七日、誠仁親王の病を問う
御湯殿上日記
二十八日、禁裏修理
御湯殿上日記(七月二十八日・八月二日・三日・二十二日)
八月
六日、越中国神保宗二郎、黄金一両を献上
御湯殿上日記
十日、昨九日大風、誠仁親王にもとにお見舞い
御湯殿上日記(八月九日・十日)
十一日、誠仁親王の祈祷のために内侍所でお百度
御湯殿上日記
十三日、織田信長安土城の屏風を叡覧に供す、十四日、信長の申請により宸筆を染める
御湯殿上日記(八月十三日・十四日)
十五日、延暦寺の慧心筆阿弥陀を召して叡念
御湯殿上日記
十八日、御霊祭
御湯殿上日記
十九日、誠仁親王高砂の扇を賜う
御湯殿上日記
二十三日、庚申待
御湯殿上日記
二十四日、薫物を調合
御湯殿上日記
九月
七日、若狭守吉田某、金子二千疋
御湯殿上日記
九日、重陽節、和歌会
御湯殿上日記
十三日、当座和歌会
御湯殿上日記
十六日、般若心経の念仏
御湯殿上日記
十八日、菊見の宴を延引、雨による
御湯殿上日記
十九日、菊見並びに謡
御湯殿上日記
二十五日、誠仁親王の祈祷に北野社法楽和歌会、北野社に代官詣
御湯殿上日記(九月二十日・二十五日)
二十九日、これより先彗星出現、この日祈祷を諸社寺の仰せ付ける
御湯殿上日記、公卿補任
十月
十日、母贈皇太后藤原栄子忌、看経、伏見般舟三昧院にて仏事
御湯殿上日記
十三日、別殿行幸
御湯殿上日記
二十四日、庚申待
御湯殿上日記
十一月
三日、権大納言近衛信基を内大臣に任ず
十一日、北野社法楽和歌会
御湯殿上日記
十二日、不予
御湯殿上日記(十一月十二日・十三日・十五日)
十二月
一日、春日祭
御湯殿上日記(十一月八日・十二月一日)、公卿補任
この日、妙心寺先住、再任により勅使派遣
御湯殿上日記
二十五日、庚申待
御湯殿上日記

日本の武士はなぜあんなに「間抜け」なのか、ということについて小・中学生向けに考えました

yhatano.com

小・中学生向けおよびその保護者様向けに解説したサイトの記事です。

 

sengokukomonjo.hatenablog.comこの記事のリライト版です。

 

yhatano.comこちらのサイトもご贔屓にお願いします。(ワードプレスで作ったら、当初はアクセスがない、と聞いていたけどガチでアクセスがない)

『虚像の織田信長』解説第二章

こちらに書いた記事の転載です。

 

yhatano.com

 

前回の続きです。

『虚像の織田信長』解説第一章分

 

塾の教え子で買ってくださった方もいらしゃってありがたいことですが、「コアな歴史ファン向け」ということもあってちょっとむずかしいので、こちらで少しでも分かりやすく説明しようと思っています。


虚像の織田信長 覆された九つの定説

 

渡邊大門編『虚像の織田信長』(柏書房、二〇二〇年)の第二章「実は「信頼関係」で結ばれていた信長と天皇」です。

 

歴史をかじった小学校五年生でもわかる内容を目指しています。

 

こっちはかなりマニアックな話になってしまいます。そもそも信長の時の天皇って知っている人、どれくらいいらっしゃいますかね。かなり詳しい戦国時代の朝廷マニアでもなければあまり知られていないでしょう。

 

答えは正親町天皇です。

 

とりあえず中学入試には出てきませんね。大学入試に出てきて「難問」とディスられるのが関の山です。

 

正親町天皇を有名にしたのは今谷明氏の次の書物です。


信長と天皇―中世的権威に挑む覇王 (講談社現代新書)

 


信長と天皇 中世的権威に挑む覇王 (講談社学術文庫)

上がもともとの本で、下が再刊されたものです。それだけ研究に大きな影響を与えた書物ということになります。

この書で今谷氏は正親町天皇を信長に抵抗して天皇の地位を守り切った巨大な存在としています。そして研究は今谷説の見直しという形で進み、現在ではかなり違う見方が提示されています。

 

とりあえず言いたいことは次の6点です。

1 蘭奢待切り取りでブチ切れたのは正親町天皇ではありません。逆にブチ切れられています。

2 朝廷の伝統と権威を軽んじたのは信長ではありません。正親町天皇です。

3 信長が正親町天皇を退位させようとしたのは、早く譲位したい正親町天皇への援助です。

4 天皇の命令で講和しようとしたことに関してはいろいろな説がありますが、とりあえず信長が主導権を持っていたようです。

5 信長の軍事パレードは天皇に対するおどしではなく、妻に死なれた正親町天皇を元気付けるためです。

6 信長は官位にはこだわりがありません。

 

1 蘭奢待切り取りでブチ切れたのは正親町天皇ではありません。逆にブチ切れられています

蘭奢待

これを何と読むか知らない生徒はとりあえず学校で織田信長の伝記を借りて読んできましょう。買えばよりいいです。

 

「らんじゃたい」と読みます。香木の一種です。聖武天皇の宝物で東大寺正倉院に入っています。校倉造で有名です。この辺は入試では大事なポイントです。知らない受験生は早急に復習して定着させてください。

東大寺正倉院聖武天皇の宝物を収める。校倉造。

 

ちなみに「蘭奢待」という字をよく見ると「東大寺」という字が入っています。「蘭奢待」というのは言葉遊びです。

 

信長は大和国を押さえると蘭奢待を切り取りたい、と朝廷に願い出ます。朝廷ではびっくりしたものの許可を出します。信長は東大寺の手によって運び出された蘭奢待を少し切り取ってもらい受け、それを天皇にも献上しています。

 

ところが正親町天皇が「聖武天皇の怒りがこわい」と書いた手紙がありまして、それを根拠に正親町天皇は信長に対し怒っている、と考えられてきたわけです。

 

ところが近年金子拓氏がその手紙を詳細に検討したところ、どうやら手紙の主は三条西実枝(さんじょうにし さねき)という公家で、内容は「天皇は責任逃れで関白二条晴良(にじょう はるよし、または、はれよし)にやらせようとしている。聖武天皇もお怒りだろう」という内容ではないか、ということを主張しています。


織田信長 <天下人>の実像 (講談社現代新書)

 

どうも正親町天皇は伝統とか権威を大切にしない人物であったようで、三条西実枝織田信長も呆れることが多かったようです。

 

2 朝廷の伝統と権威を軽んじたのは信長ではありません。正親町天皇です。

信長は天皇の周りに「奉行衆」という組織を設置し、天皇を補佐させました。どちらかといえば天皇を監視する、と言った方が正確です。

 

メンバーは三条西実枝・中山孝親(なかやま たかちか)・勧修寺晴右(かんじゅじ はるすけ、または、はれすけ)・庭田重保(にわた しげやす)・甘露寺経元(かんろじ つねもと)の5名です。

 

この奉行衆が設置されたきっかけが「肩衣相論」という事件です。「肩衣」とは僧侶の着る衣の一種で、もともと天台宗の僧侶が着るものでしたが、江戸忠通という常陸国の武将が真言宗にも着る許可を出しました。それに対し後奈良天皇正親町天皇の父)が真言宗への肩衣着用を禁止しました。

 

ところが正親町天皇は突然ちゃぶ台返しを行い、真言宗に認めます。しかしそれもつかの間、天皇の義兄弟の僧侶が文句をつけた結果、またもやひっくり返った末にその天皇の命令を出した公家が処罰される、というドタバタが展開されました。

 

何のことだかわからないと思いますが、信長も同じことを思ったようで「天皇周辺のなさりようはわけがわからん」と信長が文句をつけたために奉行衆が設置された、と史料には書いてあります。結局全ての天皇の命令を無効としてしまいました。

 

興福寺のトップの人事でも正親町天皇は迷走します。興福寺の決定に不満を持った候補者が天皇に泣きついて天皇の命令をもらいました。それを聞いた信長は「今までのしきたりどおりに興福寺の言う通りにしましょうよ」と意見を出して安土に帰ります。しかし天皇は信長や興福寺の意向を無視して自分のお友達を強引にねじ込みます。

 

さすがに信長もちょっとキレて「天皇がそんなことをすれば天皇が恥をかきます。それは私にとっても恥となります」と丹羽長秀滝川一益を通じてクレームを入れました。

 

正親町天皇には、都合が悪くなると

 

(∩゚д゚)アーアーきこえなーい

 

とやる癖があったようで、代わりに天皇の皇子で皇太子の誠仁親王(さねひとしんのう)が信長に「天皇も後悔していらっしゃいます」という手紙を出しています。

 

この二つの事件を見る限り、伝統や権威を逸脱しているのは天皇の方であって、信長はそれを何とか正しい道に戻そうと介入している、という図式になります。

 

3 信長が正親町天皇を退位させようとしたのは、早く譲位したい正親町天皇への援助です。

信長は二度にわたって正親町天皇誠仁親王天皇を譲ることを要請しています。

これについては、正親町天皇は最後まで譲ることがなく、信長の圧力をはね返したかのように読めます。

しかしこれは「天皇は位を譲らない」というのがどの程度そのころには常識となっていたか、という問題があります。実はそのころの天皇は位を譲るものでした。ところが正親町天皇のひいおじいさんの後土御門天皇応仁の乱の時の天皇ですが、その後朝廷が金がなくなってしまうので位を譲ることができなくなってしまったのです。それどころか葬式の費用にも事欠くありさまでした。

 

信長は位を譲る時にかかる費用を負担することを申し出ています。

 

ただタイミングがうまくいかなかった。最初に言い出した時は、年末で、信長は年末年始を京都では一回も過ごしていません。信長はどうも京都があまり好きではなかったようで、来てはすぐに帰っていくという感じだったようです。だから譲位は延期になり、その後はしばらく信長包囲網との戦いに忙殺されてうやむやになったようです。


宿所の変遷からみる 信長と京都

 

武田勝頼を滅ぼした信長は天皇からの左大臣の打診に天皇の譲位を持ち出します。しかしこの年は縁起が悪い、ということで延期になり、その直後に信長は本能寺の変で倒れてしまいました。

 

こうしてノロノロしているうちに誠仁親王は急死し、結局豊臣秀吉の援助で孫の後陽成天皇への譲位が成功します。

 

正親町天皇は当時すでに60を超えた高齢で、病気がちだったこともあり、意外と譲位は切実だったようです。

 

4 天皇の命令で講和しようとしたことに関してはいろいろな説がありますが、とりあえず信長が主導権を持っていたようです。

これについては信長が天皇の権威にすがる、という今谷氏の研究があり、それを踏まえて近年では逆に信長が天皇を利用しているという見方が強くなっています。今谷説では信長と正親町天皇は対立する関係として描かれていましたが、近年ではむしろ信長と正親町天皇の協調を見る方が有力です。

 

5 信長の軍事パレードは天皇に対するおどしではなく、妻に死なれた正親町天皇を元気付けるためです。

信長は京都で一回「馬揃(うまぞろえ)」という軍事パレードを行なっています。軍事パレードとは言っても、精一杯着飾った武将たちが馬に乗って走り回る、というものであって、軍事というよりはお祭りです。

 

これについては今谷氏によって譲位しない正親町天皇へのおどしである、という見方が提示されました。それに対し近年の研究では、この馬揃が天皇側からの要請で行われたことから、天皇に対するおどし、というものではないことが明らかになってきました。

 

この直前に正親町天皇誠仁親王は大切な家族を喪っています。その沈んだムードを吹き飛ばすために、何をしようか、と考えている時に、信長が安土で派手なお祭りをやっていることが耳に入り、それを京都でもやってほしい、と朝廷から要請したようです。

 

ちなみにこの馬揃の責任者は、当時「近畿管領」とも呼ばれ、近江国坂本城滋賀県大津市)と丹波国亀山城京都府亀岡市)を押さえる明智光秀でした。

 

6 信長は官位にはこだわりがありません。

「三職推任(さんしきすいにん)」という話があります。武田氏を滅ぼした信長に対してその功績を称えるために信長に征夷大将軍太政大臣か関白か、どれでも好きなものに朝廷が推すというものです。これについては朝廷が言い出しっぺか、信長が無理矢理に言わせたものか、という議論があります。

 

これ、結論から言えば「分かりません」が正しいのですが、それでは商売にならないので、限界まで一生懸命考えるわけです。歴史学は暗記ではなく、こういう考えるものであることをご理解いただければ幸いです。

 

現在のところ、征夷大将軍ではないか、という見解が有力です。そして信長が言い出したのではなく、朝廷が言い出した、もしくは信長の京都代官であった村井貞勝がアドバイスした、という見方が有力です。

 

あまりにも自明のことと思っていましたので、この本では書きませんでしたが、征夷大将軍は源氏に限る、というのは都市伝説です。はっきり言えばデタラメです。結構信じている人が多いのでお気をつけください。藤原頼経藤原頼嗣宗尊親王惟康親王久明親王守邦親王が激おこぷんぷん丸です(いずれも鎌倉幕府征夷大将軍)。

 

ただ信長があまり官位に興味がなかったらしいこと、朝廷は信長に高位高官に上って欲しかったらしいことなどを考えると、朝廷が征夷大将軍にならせようとし、信長がその答えを出す前に本能寺の変になってしまった、というのが正解ではないかな、と私は考えています。

 

『虚像の織田信長』解説第一章分

ここのサイトで公開した記事です。こちらでも共有します。

yhatano.com

 

先月の末に出版されました渡邊大門編の『虚像の織田信長』(柏書房)ですが、私の周りにもお買い上げいただいた方がいらしゃいます。ありがとうございます。

 

小学生の教え子にも結構買ってくださった生徒さんがいらっしゃってうれしい限りです。厚く御礼を申し述べます。

 

ただ対象が「コアな歴史ファン」ということでいささか難しいのではないか、と思いますので、思い切りわかりやすく『虚像の織田信長』の解説を行いたいと思います。

 

本日は第一章「足利将軍家に対する信長の意外な「忠誠」」です。

 

ここでは歴史を少しはかじった小学校五年生でもわかる程度にかみくだいて書いていきます。

 

押さえておいてほしい歴史事項はいくつかありますが、とりあえず「天下布武」という言葉と、足利義昭を奉じて京都に入り、天下の号令者の位置を確保したものの、義昭と不仲になり、義昭を追放して室町幕府を滅ぼした、という知識は入れておいていいでしょう。そしてこういう時に信長は伝統的な勢力と敵対し、新しい支配政策を立てたために成功した、という説明がなされます。とりあえずその程度の知識を前提にして、以下進めていきましょう。

 

言いたいことは次の4点です。

1 「天下布武」は「天下=日本を武力で征服する」という意味ではありません。

2 足利義昭織田信長の操り人形ではありません。

3 足利義昭織田信長と訣別したのは信長が武田信玄にボコボコにされたからです。

4 信長は室町幕府と協調関係を望んでいました。

 

以下見てみましょう。

 

1 「天下布武」は「天下=日本を武力で征服する」という意味ではありません

天下布武

 

うーん、いい響きですね。天下を武力で制圧する。いかにも織田信長らしい感じがしますね。

 

ところでこの「天下布武」という言葉、信長はいつから使い始めたかご存知ですか?

 

 

答えは永禄十一年(西暦1567年)の十一月です。

 

その当時の信長の立場といえば、ようやく稲葉山城を落として美濃国を手に入れたところです。要するに信長はようやく尾張国美濃国の二カ国を手に入れたところです。

 

考えてみてください。たった二国を手に入れて「日本をこの調子で武力で制圧してやるんだ」と考えたとしたら、誇大妄想としか言いようがないですね。

 

で、今までは「信長というのは常識では考えつかないようなことを言ってのけて、そしてそれを実現させていく天才なんだ」とか言ってきたわけですが、それこそ信長の未来を知っているから、そう言えるのです。

 

ではなぜ信長は1567年に「天下布武」という言葉を使ったのでしょうか。そもそも「天下布武」とはどういう意味でしょうか。

 

この辺は現在では多くの研究者が、信長の使っている「天下」という概念は室町将軍の支配する近畿地方のことである、と考えています。それならば稲葉山城を押さえた段階で言い出す意味があるんです。

 

信長は以前から越前国にいた足利義昭と連絡をとっていました。しかし信長にとって邪魔なのは美濃の斎藤龍興だったわけです。龍興がいなくなれば信長にとって近畿は目の前です。近江国浅井長政とは同盟関係にありますから、京都まで簡単に行けるようになります。その展望が開けたため、信長は稲葉山城を手に入れ、岐阜城と名前を変えた段階で「天下布武」という言葉を使ったのです。

 

2 足利義昭織田信長の操り人形ではありません

信長が義昭のことをどう思っていたか、それは本当のところは分かりません。ただ信長はかなり義昭を持ち上げています。実は歴史学として重要なのは、信長が義昭をどう思っていたか、ではなく、どう扱っていたか、です。そこを勘違いする人がたまにいます。専門家でもいます。困っています。

 

信長は義昭をかなり立てています。従来は信長が義昭から権力を取り上げた、とみられていた「殿中掟」という史料があります。しかしこの「殿中掟」と同じような内容は、室町幕府には以前からあったわけで、そういう意味では室町幕府自体が将軍を操り人形にしていた、とも言える訳です。とりあえず「殿中掟」が信長のオリジナルであり、信長が室町幕府という中世的権威を破壊しようとしていた、という文脈では把握できません。これについては室町幕府の訴訟制度の研究が進んだことで明らかになってきていることです。この辺の事情を無視して「最近の研究者は昔の研究者の成果を重んじない」と言いがかりをつけられてますが、はっきり言って困っています。

 

信長は完全に室町幕府の中に入り込んだか、と言えばそうでもありません。信長は室町幕府の内部に入り込まずに、あくまでも義昭と並び立つ形で特に軍事指揮権を任されていました。

 

朝廷との交渉などは義昭に任されていました。もっとも義昭は朝廷を立てないことが多く、信長を苛立たせています。信長は朝廷にきちんと対応するように、と義昭をしかりつけています。

 

3 足利義昭織田信長と訣別したのは信長が武田信玄にボコボコにされたからです

足利義昭は信長から権力を取り戻したいと思って、あちらこちらに手紙を出して信長包囲網を作り上げた、と言われています。それは義昭が将軍になった直後から始まったとされています。もしそうならば、私が信長ならばとっとと義昭を追放しています。なんせ義昭は信長の操り人形だったはずですからね。

 

でもそういうことにはなりませんでした。なぜでしょうか。それは「信長包囲網」で包囲されているのは信長だけでなく、義昭も包囲されていたからです。

 

「異見十七ヶ条」という史料があります。信長が義昭にブチギレて突きつけた文章です。これによって信長と義昭の間は完全にけんか別れとなりました。

 

これ、今までは武田信玄が上洛を開始する前に出された、と考えられてきたのです。

もしそうなら、こうなります。

信長と義昭、ケンカがひどくなる→信玄、義昭のために立ち上がり西上開始→三方ヶ原の戦いで信長・家康連合軍フルボッコ→義昭挙兵する→信玄急死→義昭追放

 

実際は信玄にフルボッコされた後に出されていたことが明らかになりました。

さらに信玄は徳川家康とかなり長い間遠江国をめぐって争っていました。信玄は信長とは友好関係を結んでおり、また信長と家康も友好関係にあるという三角関係になっていました。まあ信玄からすれば「信長さん、あたしと家康とどっちを取るの!」という感じでしょう。

もう一つ明らかになってきているのは、当時の信長と家康の関係は当初の同盟関係から徐々に上下関係に移っていっている、ということです。だから信長は家康を見捨てるわけにはいかなかった、という面があります。

 

信玄、家康との領土問題決着のために遠江国に侵入→信長、家康に援軍を送る→信長、家康連合軍、信玄にフルボッコ→信玄の有利をみて義昭、信長と戦うことを決定→信玄急死→義昭追放

 

要するに今までは信長と義昭が決裂したから信玄が西上した、と考えられてきたのですが、近年では信玄が西上してきたから信長と義昭が決裂した、と考えられている、ということです。

 

4 信長は室町幕府と協調関係を望んでいました

挙兵した義昭に対して信長は自分の方から人質を出す、と低姿勢に出ています。義昭はそれを拒否します。

信長「将軍様、ここは私が降伏する、という形で収めようと思います」

義昭「いい話だ。だが断る

信長、義昭御所周辺の上京を焼き払う

義昭、さすがに降参

ところが義昭、いきなり京都を飛び出して京都の南の槇島城にたてこもる。「まだだ。まだ終わらんよ」

義昭、信長軍にフルボッコ河内国に逃げ、そこでもフルボッコされ、毛利氏に逃げ込む。

毛利氏を仲介として信長と交渉。交渉役は木下秀吉。義昭は秀吉に対しものすごい上から目線で交渉、信長交渉打ち切り。

 

というように、信長はかなり義昭に譲歩しています。普通の人間ならもっと早くに義昭に見切りをつけてもいいころです。信長にとってはよほど室町幕府があったほうが都合が良かったのでしょう。

 

なんでかな?と思って当時の朝廷を見ると、確かにこういう朝廷と交渉するんだったら義昭にやらせた方がよかったかも、と思えます。もっとも義昭は朝廷をほとんど相手にせず、信長に注意を受けています。まあ義昭に期待されていた役割を義昭はサボタージュしていたわけで、信長にとっての義昭の存在価値というのは逆に言えば朝廷との交渉だったのではないか、という気が最近しています。

鉄道から歴史を見る!戦争と平和を走り抜けたスハネ30

yhatano.comここで書いた記事をこちらでもシェアします。

 

鉄道趣味をやっていますと、結構社会にも関わってきます。というよりも社会科の先生の中にはかなりの鉄道オタクが入り込んでいると私は確信しています。私も鉄道が好きです。

 

今日取り上げるのはスハネ30という車両です。

 

1 「スハネ」って?

ここで「スハネ」というのはどう言う意味かを簡単に述べておきます。

 

最初の「ス」は客車の重量です。軽い方から順に「ナ」「オ」「ス」「マ」「カ」と重くなっていきます。ちなみに語源は「中型」「大型」「スチール」「マキシマム」「濶大(かつだい)」から付けられている、という説が有力です。

 

次の「ハ」は等級です。もともとは一等車は「イ」、二等車は「ロ」、三等車は「ハ」でしたが、二等級制への移行で一等車が「ロ」、二等車が「ハ」となり、現在ではグリーン車が「ロ」、普通車が「ハ」です。ちなみに食堂車は「シ」、荷物車は「ニ」、郵便車は「ユ」です。寝台車はA寝台が「ロネ」、B寝台が「ハネ」です。

 

スハネ30というのは重量が37.5t以上42.4t未満の重量のB寝台車ということになります。

下の写真はスハネ30の模型です。

 

2 スハネ30の登場ー満州事変の中で

スハネ30は1931年に出来上がりました。1931年といえば満州事変が起こり、日本が長いアジア・太平洋戦争に向かっていく端緒となった出来事ですが、当時の日本ではそのような緊迫感はなかったはずです。日本が権益を持っている南満州鉄道(満鉄)を中国軍が爆破した、と思い込んでおり、生意気な中国をこらしめるだけだ、と考えていたからです。

もちろん中国の仕業にみせかけた関東軍の陰謀だったわけで、当時の総理大臣であった犬養毅はこの問題を大きくしないように動きましたが、それに不満をもった海軍の若手将校が犬養毅首相を暗殺します。5・15事件です。

国際連盟リットン調査団を派遣し、その調査の結果日本のマッチポンプである、と結論づけられました。これに日本の世論は憤激し、犬養のあとを受けて総理になった斎藤実国際連盟脱退という選択肢をとります。

 

1931年満州事変

1932年5・15事件

1933年国際連盟脱退

 

このような中スハネ30、当時はスハネ30000と呼ばれていましたが、やがてスハネ30と名前が変わります。これは国鉄の名前の付け方が変更されたからです。

 

まだ戦争が日常に影響を与えず、自分に無関係だと思っていた日本社会の中で安くで横になれる三等寝台は好評でした。幅が52cmの三段寝台はその後のエコノミークラスの寝台車の標準となりました。

 

3 戦争の激化と座席車への改造

しかし中国との紛争は長期化し、泥沼化していきます。2・26事件では陸軍の若手将校がクーデターを起こそうとし、鎮圧されますが、若手将校が属していた皇道派と対立する統制派が力を握り、陸軍の発言力が増していきます。その直前には美濃部達吉東京帝国大学教授の提唱する立憲主義の思想である天皇機関説が「不敬だ」という世論に押され、天皇機関説は弾圧されます。ちなみに昭和天皇はその時の政府の対応に不満を漏らしています。

 

1935年天皇機関説事件

1936年2・26事件

 

1937年には盧溝橋事件をきっかけに日中戦争が勃発し、日本は泥沼の戦争に足を踏み入れます。1938年には国家総動員法が出され、不要不急の旅行は中止させられるようになります。そのような中、三等寝台車は廃止されることになり、1941年、スハネ30は寝台設備を撤去して座席車に改造され、オハ34と形式が変わります。

1941年アメリカとの戦争(太平洋戦争)

1945年敗戦

 

4 平和の到来と再び寝台車へ

戦時中、戦後の混乱期、この時期を黙々と普通車として旅客を運んできたオハ34ですが、戦後になって経済が復興してくると、旅行ブームがはじまります。その中で国鉄は1956年からナハネ10系列の寝台車を増備しますが、増備が追いつかず、1959年からオハ34を再び寝台車に改造する工事を始めます。

 

形式は再びスハネ30となり、車内は10系寝台車と同等としました。

 

1950年朝鮮戦争

1951年サンフランシスコ平和条約日米安保条約

1954年神武景気

1958年岩戸景気←(三種の神器=電気洗濯機・テレビ・電気冷蔵庫)

1964年東京オリンピック東海道新幹線東名高速道路開通、オリンピック景気

1965年いざなぎ景気(〜1970年)←3C(新三種の神器=車・クーラー・カラーテレビ)

 

5 スハネ30の最後

高度経済成長期の1960年代には北海道から九州まで主として夜行急行列車で活躍しました。しかし時代はさらに進歩し、3C(カー、カラーテレビ、クーラー)が新三種の神器と呼ばれるようになると、クーラーのつけられないスハネ30の活躍の場は失われます。60年代末には廃車が始まり、70年代半ばには完全に姿を消しました。

おりしも石油危機によって高度経済成長が終わりを遂げた時期でした。

1975年には山陽新幹線が博多まで開通し、多くの寝台車が余剰となります。1982年には東北・上越新幹線が開業し、10系寝台もほぼ廃車になりました。

 

 

 

渡邊大門編『虚像の織田信長』(柏書房)見本版が届きました

私も参加した渡邊大門編『虚像の織田信長』(柏書房)の見本版が届きました。

配送は1月23日からです。1月中には全国の書店の店頭に並ぶと思われます。

アマゾン他でも予約受付中です。よろしくお願いします。

 


虚像の織田信長 覆された九つの定説

 

 

 

 

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洛西用水

東寺百合文書でも有名な文書の一つ、ツ函341号文書です。

hyakugo.kyoto.jp

ここで詳しく紹介されています。今回はこれについて話してみました。

これは何回か話している題材ですが、いつもうまくこの文書の面白さを伝えることが十全にできずに苦戦しています。まだまだ改良の余地があります。

 

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東寺百合文書ツ341

 

洛西用水は桂川の水を川の西に広がる水田に導く疎水です。嵐山の渡月橋にある井堰から取り入れられた水は二本の水路を流れ、再び桂川に戻ります。6世紀、秦氏がこの地を開拓した頃に起源をもち、現在まで農業用水として機能してきました。中世、この地には多くの荘園があり、洛西用水の水利をめぐって争いが東寺百合文書に記録されています。琵琶湖疎水が観光化しているのに対し、洛西用水は実用一点張りのため訪れる人は限られています。中世の文書をもとに、秦野裕介先生が洛西用水の水利をめぐる荘園住民の争いを解説します。