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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

『虚像の織田信長』解説第一章分

ここのサイトで公開した記事です。こちらでも共有します。

yhatano.com

 

先月の末に出版されました渡邊大門編の『虚像の織田信長』(柏書房)ですが、私の周りにもお買い上げいただいた方がいらしゃいます。ありがとうございます。

 

小学生の教え子にも結構買ってくださった生徒さんがいらっしゃってうれしい限りです。厚く御礼を申し述べます。

 

ただ対象が「コアな歴史ファン」ということでいささか難しいのではないか、と思いますので、思い切りわかりやすく『虚像の織田信長』の解説を行いたいと思います。

 

本日は第一章「足利将軍家に対する信長の意外な「忠誠」」です。

 

ここでは歴史を少しはかじった小学校五年生でもわかる程度にかみくだいて書いていきます。

 

押さえておいてほしい歴史事項はいくつかありますが、とりあえず「天下布武」という言葉と、足利義昭を奉じて京都に入り、天下の号令者の位置を確保したものの、義昭と不仲になり、義昭を追放して室町幕府を滅ぼした、という知識は入れておいていいでしょう。そしてこういう時に信長は伝統的な勢力と敵対し、新しい支配政策を立てたために成功した、という説明がなされます。とりあえずその程度の知識を前提にして、以下進めていきましょう。

 

言いたいことは次の4点です。

1 「天下布武」は「天下=日本を武力で征服する」という意味ではありません。

2 足利義昭織田信長の操り人形ではありません。

3 足利義昭織田信長と訣別したのは信長が武田信玄にボコボコにされたからです。

4 信長は室町幕府と協調関係を望んでいました。

 

以下見てみましょう。

 

1 「天下布武」は「天下=日本を武力で征服する」という意味ではありません

天下布武

 

うーん、いい響きですね。天下を武力で制圧する。いかにも織田信長らしい感じがしますね。

 

ところでこの「天下布武」という言葉、信長はいつから使い始めたかご存知ですか?

 

 

答えは永禄十一年(西暦1567年)の十一月です。

 

その当時の信長の立場といえば、ようやく稲葉山城を落として美濃国を手に入れたところです。要するに信長はようやく尾張国美濃国の二カ国を手に入れたところです。

 

考えてみてください。たった二国を手に入れて「日本をこの調子で武力で制圧してやるんだ」と考えたとしたら、誇大妄想としか言いようがないですね。

 

で、今までは「信長というのは常識では考えつかないようなことを言ってのけて、そしてそれを実現させていく天才なんだ」とか言ってきたわけですが、それこそ信長の未来を知っているから、そう言えるのです。

 

ではなぜ信長は1567年に「天下布武」という言葉を使ったのでしょうか。そもそも「天下布武」とはどういう意味でしょうか。

 

この辺は現在では多くの研究者が、信長の使っている「天下」という概念は室町将軍の支配する近畿地方のことである、と考えています。それならば稲葉山城を押さえた段階で言い出す意味があるんです。

 

信長は以前から越前国にいた足利義昭と連絡をとっていました。しかし信長にとって邪魔なのは美濃の斎藤龍興だったわけです。龍興がいなくなれば信長にとって近畿は目の前です。近江国浅井長政とは同盟関係にありますから、京都まで簡単に行けるようになります。その展望が開けたため、信長は稲葉山城を手に入れ、岐阜城と名前を変えた段階で「天下布武」という言葉を使ったのです。

 

2 足利義昭織田信長の操り人形ではありません

信長が義昭のことをどう思っていたか、それは本当のところは分かりません。ただ信長はかなり義昭を持ち上げています。実は歴史学として重要なのは、信長が義昭をどう思っていたか、ではなく、どう扱っていたか、です。そこを勘違いする人がたまにいます。専門家でもいます。困っています。

 

信長は義昭をかなり立てています。従来は信長が義昭から権力を取り上げた、とみられていた「殿中掟」という史料があります。しかしこの「殿中掟」と同じような内容は、室町幕府には以前からあったわけで、そういう意味では室町幕府自体が将軍を操り人形にしていた、とも言える訳です。とりあえず「殿中掟」が信長のオリジナルであり、信長が室町幕府という中世的権威を破壊しようとしていた、という文脈では把握できません。これについては室町幕府の訴訟制度の研究が進んだことで明らかになってきていることです。この辺の事情を無視して「最近の研究者は昔の研究者の成果を重んじない」と言いがかりをつけられてますが、はっきり言って困っています。

 

信長は完全に室町幕府の中に入り込んだか、と言えばそうでもありません。信長は室町幕府の内部に入り込まずに、あくまでも義昭と並び立つ形で特に軍事指揮権を任されていました。

 

朝廷との交渉などは義昭に任されていました。もっとも義昭は朝廷を立てないことが多く、信長を苛立たせています。信長は朝廷にきちんと対応するように、と義昭をしかりつけています。

 

3 足利義昭織田信長と訣別したのは信長が武田信玄にボコボコにされたからです

足利義昭は信長から権力を取り戻したいと思って、あちらこちらに手紙を出して信長包囲網を作り上げた、と言われています。それは義昭が将軍になった直後から始まったとされています。もしそうならば、私が信長ならばとっとと義昭を追放しています。なんせ義昭は信長の操り人形だったはずですからね。

 

でもそういうことにはなりませんでした。なぜでしょうか。それは「信長包囲網」で包囲されているのは信長だけでなく、義昭も包囲されていたからです。

 

「異見十七ヶ条」という史料があります。信長が義昭にブチギレて突きつけた文章です。これによって信長と義昭の間は完全にけんか別れとなりました。

 

これ、今までは武田信玄が上洛を開始する前に出された、と考えられてきたのです。

もしそうなら、こうなります。

信長と義昭、ケンカがひどくなる→信玄、義昭のために立ち上がり西上開始→三方ヶ原の戦いで信長・家康連合軍フルボッコ→義昭挙兵する→信玄急死→義昭追放

 

実際は信玄にフルボッコされた後に出されていたことが明らかになりました。

さらに信玄は徳川家康とかなり長い間遠江国をめぐって争っていました。信玄は信長とは友好関係を結んでおり、また信長と家康も友好関係にあるという三角関係になっていました。まあ信玄からすれば「信長さん、あたしと家康とどっちを取るの!」という感じでしょう。

もう一つ明らかになってきているのは、当時の信長と家康の関係は当初の同盟関係から徐々に上下関係に移っていっている、ということです。だから信長は家康を見捨てるわけにはいかなかった、という面があります。

 

信玄、家康との領土問題決着のために遠江国に侵入→信長、家康に援軍を送る→信長、家康連合軍、信玄にフルボッコ→信玄の有利をみて義昭、信長と戦うことを決定→信玄急死→義昭追放

 

要するに今までは信長と義昭が決裂したから信玄が西上した、と考えられてきたのですが、近年では信玄が西上してきたから信長と義昭が決裂した、と考えられている、ということです。

 

4 信長は室町幕府と協調関係を望んでいました

挙兵した義昭に対して信長は自分の方から人質を出す、と低姿勢に出ています。義昭はそれを拒否します。

信長「将軍様、ここは私が降伏する、という形で収めようと思います」

義昭「いい話だ。だが断る

信長、義昭御所周辺の上京を焼き払う

義昭、さすがに降参

ところが義昭、いきなり京都を飛び出して京都の南の槇島城にたてこもる。「まだだ。まだ終わらんよ」

義昭、信長軍にフルボッコ河内国に逃げ、そこでもフルボッコされ、毛利氏に逃げ込む。

毛利氏を仲介として信長と交渉。交渉役は木下秀吉。義昭は秀吉に対しものすごい上から目線で交渉、信長交渉打ち切り。

 

というように、信長はかなり義昭に譲歩しています。普通の人間ならもっと早くに義昭に見切りをつけてもいいころです。信長にとってはよほど室町幕府があったほうが都合が良かったのでしょう。

 

なんでかな?と思って当時の朝廷を見ると、確かにこういう朝廷と交渉するんだったら義昭にやらせた方がよかったかも、と思えます。もっとも義昭は朝廷をほとんど相手にせず、信長に注意を受けています。まあ義昭に期待されていた役割を義昭はサボタージュしていたわけで、信長にとっての義昭の存在価値というのは逆に言えば朝廷との交渉だったのではないか、という気が最近しています。