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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

後花園天皇をめぐる人々ー貞成親王

言うまでもなく後花園天皇にとって最大の影響を与えた、と言っても過言ではない人物です。実父です。教養人で、風流な人であった彼の教養・素質を後花園天皇はよく引き継いで後世に「近代の聖主」とか「中興の英主」とか讃えられるようになった、と言われます。

 

貞成親王の生まれた伏見宮家は、崇光天皇を祖とします。しかし観応の擾乱における足利尊氏足利直義の骨肉の争いに翻弄され、崇光天皇皇位から引き摺り下ろされ、さらに南朝方に幽閉されます。三年後帰還が許された時には弟の後光厳天皇が即位しており、崇光上皇は自分の子の栄仁親王の即位を求めますが、後光厳皇統を立てた幕府は崇光上皇の要請を一蹴します。崇光上皇は失意のうちに隱遁先の伏見御所で崩御します。

 

その後は後光厳皇統を継いだ後小松天皇によって引き継いだ所領をことごとく奪われ、断絶の危機に瀕しますが、家伝来の笛を差し出すことで、一宮家としてかろうじて存続することが許されます。栄仁親王は困窮と屈辱の中で人生を終え、治仁王が継承します。もはや親王にすらなれません。

 

栄仁親王が亡くなる少し前に、養育先の今出川家から戻ってきたのが貞成王です。治仁王と貞成王の関係については様々な説があります。同母の兄弟で一年治仁王が年長である、とするのが通説ですが、治仁王の方が九歳年下とする説もあります。そうなるとこの両者は同母の兄弟ではない、ということになります。

 

貞成王の母親は三条治子といいます。割合早く世をさっています。貞成王は宮家を継承できな立場であったため、仏門に入るはずでしたが、入室予定の門跡が急死したり、いろいろあったようで、出家せずに今出川家で養育され、四十歳を超えて元服し、伏見宮家に迎えられました。

 

琵琶などの楽、和歌、連歌漢詩、宮廷儀礼、書札礼など様々な学問を身につけていた貞成王は、博打が好きな治仁王とはソリが合わなかったようです。この距離感の背景に、両者の年齢と継承順序が絡んでいる、という松薗斉氏の見解は当を得ていると思います。

 

日記で読む日本中世史

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彼の野望の第一は親王宣下です。しかし彼の前には次々と難題が降りかかります。治仁王殺害疑惑、これは後小松上皇自身が噂を打ち消してくれました。しかし新内侍懐妊疑惑では後小松上皇称光天皇貞成親王を疑って足利義持に訴え出ます。これは義持の調査でシロと出ます。四十五歳で第一子を授かり、四十八歳で待望の長男である彦仁王を授かります。

 

後小松院の依頼で、後円融天皇三十三回忌の法華八講のための写経事業に協力した見返りに待望の親王宣下を受けますが、それが称光天皇の怒りを招いて後小松上皇称光天皇の関係が悪化し、そのとばっちりを受けて出家に追い込まれます。称光天皇は、自分の後に貞成親王を即位させると思い込んだようです。冷静になって考えれば50過ぎた貞成親王が、まだ二十代の称光天皇の後に即位するはずがありませんし、そもそも貞成親王は後小松上皇よりも五歳年長です。後小松上皇にしても貞成親王を即位させようとはなから思っているはずがありません。しかし心身を病んでいた称光天皇にはそのことが分からなかったのか、大騒ぎになり、結局後小松上皇から出家を要請され、出家に追い込まれました。

 

貞成親王皇位のことを意識するのはいつからか、と言えば、この前年の正月に彦仁王の即位必定という夢を見た、という真乗寺恵明房の話を耳にしたことがきっかけかもそれませんが、称光天皇と小川宮の不仲や、小川宮の所業の悪さなどから、足利義持称光天皇の後継者に彦仁王を考え始めたとしても不思議ではありませんし、それと連動して称光天皇もナーバスになっていたのかもしれません。

 

特に小川宮が急死してから、というものの、称光天皇はともかく後小松上皇の脳裏には後光厳皇統の断絶という最悪の状況が視野に入ってきています。

 

足利義持が厳中周噩に彦仁王の年齢を尋ねさせたのはまさに貞成親王が出家した直後でした。

 

称光天皇の病状は一進一退でしたが、彼の最後の皇女は実は崩御の2年前に生まれています。つまり後小松上皇足利義持称光天皇に後継者が生まれないと決めつけていた、ということではなさそうです。彼らは万が一のことを考えて彦仁王まで声をかけていたのでしょう。

 

南朝は頭になかったのでしょうか。当時、皇統は後光厳と崇光の二大皇統がありましたが、後醍醐皇統の中でも後亀山皇統は幕府との関係に問題があるので、後村上皇統の護聖院宮、長慶皇統の玉川宮、あるいは後二条皇統の木寺宮、少し離れているものの亀山皇統の常磐井宮が残存しています。当今を擁する後光厳皇統にとって崇光皇統が一番御しづらい皇統であるはずで、本当に崇光皇統でよかったのか、聞いて見たい気がします。

 

長くなってまいりましたので、後花園天皇即位後は次回に回します。