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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

後花園天皇をめぐる人々ー貞成親王2

貞成親王後編です。

 

後花園天皇をめぐる多くの人と同様、彼の運命も、後花園天皇皇位継承で激変します。

 

今までことあるごとに「計会」(やりくりがきびしい)とこぼしていました。また崇光院の崩御後は要人の往来も絶え、寂しいかぎりでした。

 

しかし天皇の実父になると、要人は遠く伏見の里までわざわざやってきます。土地も次々と貞成親王のもとに帰ってきます。裁判は連戦連勝でウハウハです。ごちそうの贈り物も絶えません。

 

これらは全て足利義教が差配しています。裁判は義教の強力なコネがあればこそ勝てます。ごちそうを送ってくれるのは言うまでもなく義教です。要人が伏見詣でをするのは、義教が指示しています。

 

後花園天皇の大嘗会に先立つ御禊行幸では、義教はわざわざ貞成親王に見物の機会を設け、誘っています。後小松上皇は不参加でした。これは義教が貞成親王後花園天皇の父親ということをことあるごとに見せつける儀式でした。

 

義教が伏見にやってきた時には、事前の打ち合わせで貞成親王は義教に対して薄礼で臨むことになっていたのに、貞成親王は舞い上がってしまって礼儀を尽くしてしまい、義教から注意を受けています。

 

義教は貞成親王を事実上の上皇として扱う姿勢を見せています。一方後小松上皇はそれを絶対に認めない姿勢です。後小松院崩御の時の諒闇に関しては、満済一条兼良が諒闇を実行すべき、と強硬に主張し、諒闇不要という義教と対立しますが、最終的に籤引きで諒闇実行となります。

 

このように義教は貞成を天皇の実父として扱う姿勢を示し、後小松院及びその周辺はそれを阻止しようとしています。これ自体はわかりやすい図式なのですが、問題は後花園天皇です。

 

貞成親王後花園天皇に当てた書状(の控え)が残っています。実際にこの書状が後花園天皇のもとに届いたかどうかはわかりませんが、後花園天皇に対する恨みつらみが書き記されています。「わたしのことを今は他人のように思っていらっしゃると思っております。後小松院がいらっしゃる時ならば仕方はありませんが、今となってはご自分でお決めになることです(ここもとの事をば、いまは外人のやうに思食めされ候やらんと推量仕候。故院の御座候つる時こそ候へ、いまはしぜんの事は御扶持わたらせおはしまし候て、叡慮に懸られ候べき御事にてこそ候へ)」というようなことが書かれています。

 

横井清氏はこれについて「この案文を作っていた『父』の熱っぽい『子』への想いの方へと、誰が何と言おうとて、心惹かれるのだ」(『看聞日記』そしえて、1979年、278ページ)としていらっしゃいますが、貞成親王の立場に立てば、全く同意しますが、後花園天皇の立場に立って考えますと、ドン引きです。

 

これに追い打ちをかけるように、貞成親王は伏見に里帰りしていた御乳人の賀々に『椿葉記』を持たせて内裏に帰します。ここでも「院の猶子であったとしても、実の父母を大事にしなさい(ゐんの御猶しにてわたらせ給とも、誠の父母の申さむ事ないがしろにおぼしめすべからず)」「院の猶子になったので、今は我々を他人のように思っていらっしゃる(院の御子にならせましまして、いまは我らをば他人におぼしめされ)」というようなことが書かれています。

 

のちに貞常王に親王宣下をする段になって、貞成親王後花園天皇を退位させて貞常王に皇位を継承させようとした、という噂が出て、その噂を振りまいた広橋兼郷らが処罰される、という事件が起こりますが、あながちデマではない気がします。

 

これは久水俊和氏が「後花園天皇をめぐる皇統解釈の基礎的研究」(『年報中世史研究』42号、2017年)において主張する事ですが、後花園天皇自身はかなり後光厳皇統にこだわりを持っています。私もこの辺については久水氏に同意します。

 

結局晩年に彼は太上天皇号を手に入れますが、これも案外後花園天皇サイドの意識と貞成親王の意識は食い違うのではないでしょうか。貞成親王からすればこれで後光厳皇統の断絶のための作業は完了した、という意識でしょうが、後花園天皇からすれば実父にふさわしい待遇を考えた末のことであり、実父の執拗な望みに答えた、というにすぎなかったのではないでしょうか。

 

考えられている以上に貞成親王後花園天皇の間には心理的な距離がある、というのが私の見解です。

 

その距離の源泉は、後光厳皇統か、崇光皇統かという対立軸に両者が立っていたからであり、この両者の隙間は最後まで埋まらなかった、と言えるでしょう。後花園天皇が崇光皇統か後光厳皇統かという問題は、今日考えられているよりもはるかに深刻で、それだけに簡単には決着がつかない問題だったと考えています。