記載されている会社名・製品名・システム名などは、各社の商標、または登録商標です。 Copyright © 2010-2018 SQUARE ENIX CO., LTD. All Rights Reserved.

室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

後花園はなぜ後花園なのか

いきなり「ロミオとジュリエット」的(適当)なタイトルですが、「後花園天皇はなぜ後花園天皇なのか」ということを考えたいと思います。

 

これを理解するためには、前提として諡号(しごう)と追号(ついごう)と加後号(かごごう)の違いを理解しなければなりません。

 

天皇は「御一人」というように、一人しかいません。当時は「天皇」という言い方はあまりせず、「主上」「御上」などいう風に呼びかけていましたが、とりあえず「天皇」と言えば「当今」しかいません。で、それとの区別のために崩御後に識別のために名前を割り振ります。この時に先帝の遺徳を偲んで奉るのが「諡号」です。

 

例えば持統天皇を例にとりますと、持統天皇には諡号が三つあります。「大倭根子天之廣野日女尊」(おほやまとねこあめのひろのひめのみこと)「高天原廣野姫天皇」(たかまのはらひろのひめのすめらみこと)「持統天皇」(じとうてんのう)です。

 

前の二つを和風諡号といい、後ろの我々がよく使う諡号を漢風諡号といいます。

 

光孝天皇を最後に諡号というのは使われなくなり、諡号は崇徳・安徳・顕徳(のちに後鳥羽に改名)・順徳のように非業の死を遂げた場合にのみ使われるようになります。

 

諡号に変わって使われるようになったのが追号で、追号諡号とは異なり、評価を含みません。称光天皇崩御時に後小松上皇諡号とすることにこだわりましたが、子が親を評価して諡号を送るのはOKですが、親が子に諡号を送るのはNGと言われて追号にした例がありますが、この場合追号であろうと諡号であろうと「称光院」というのが決定していたので、現在の我々が考えるよりはルーズなものである、と考えた方がよさそうです。ちなみに称光院に関しては、皇統の移行を踏まえて称徳天皇光仁天皇から一字ずつとっている、という考えがウィキペディアなどにみられますが、私はその意見には賛成できません。そもそも「称光院」という加後号を決めた後小松院自体が皇統の移行を認めていません。

 

追号にはやがて「〇〇院」という名前を使うようになりました。始まりは冷泉院、円融院です。

 

追号諡号の二つを持つケースもあります。桓武天皇は「桓武天皇」という諡号と「柏原天皇」という追号(山田邦和先生から「諡号追号のふたつを持っているという理解はただしいでしょうか?」というご質問をいただきました。厳密に言うと山田先生のおっしゃる通り山稜名にちなむ異称、ですが、「後柏原」を選択している段階で追号と異称を分けて考えてはいないだろう点を考慮して一緒くたにしています)を持ちます。後花園院の孫の後柏原院はそこから採用しています。

 

淳和天皇は西院といいました。江戸時代の天皇の後西院はそこから採られています。しかし大正時代に「院」はやめよう、ということになり、後西院は後西天皇という意味不明の名前に変えられています。

 

先祖の遺徳を偲んで「後〇〇」という名前にするのを加後号といいます。後一条院が始まりで、院政期以降増加します。

 

で、我らが後花園院ですが、後花園院が「後花園院」であることについて、まず後花園天皇をご存知の方は「後文徳」と「後花園」でもめた、ということをご存知かと思います。

 

当初「後文徳」となったのですが、一条兼良から「諡号である文徳に後をつけるのはおかしい」とクレームがついて会議し直した結果「後花園」に決定した、という話ですが、これだとまるで最初に「後文徳」を出した高辻継長(高倉長継としてました。間違いです。高辻継長が正しいです)が無能で、「後文徳」に決定した二条持通以下の貴族たちも揃って物知らず、ということになりますが、実際にはそのような単純な問題ではなかったようです。

 

『親長卿記』に詳しいのですが、それはエントリを分けます。