オンライン歴史講座第4回
第4回「応仁の乱」が無事終了しました。
前回までに私が出した論点はつぎの三つでした。
2 義政「今回のこの喧嘩、政長と義就のサシでやらせろ、てめえら手ぇ出すんじゃねぇぞ」
勝元「はい」
宗全「そんなの知らねぇや。ヒャッハー、汚物は消毒だ!」(ボー!!!)
勝元「だがこちらの面目をつぶしたことだけは・・・」(出典ゆうきまさみ『新九郎、奔る!』一巻p205)
となった責任者は誰でしょう?
という問題でした。
私からの回答は
1 『後法興院記』応仁元年六月四日条に「御台内府等自山名依相語旗事など相支云々」とあるが、これは要するに「御台(日野富子)と内府(日野勝光)が山名から言われて(義政による宗全討伐命令の)邪魔をした、ということだ」という意味で、これから富子と勝光が以前から宗全と組んでいた、と読むのは早計ではないでしょうか。
2 『公卿補任』応仁元年に「則被下源政長追罰院宣」とあって、要するに後花園上皇が「政長をボコれ」と命令していた。わかりやすくいうと以下の通り。
義政先生「これは政長君と義就君の個人的な喧嘩です。みなさん手を出してはいけません。二人で解決しましょう」
勝元君「はい、わかりました」
後花園先生「宗全君、政長君をボコりなさい」
宗全・義就「はい、わかりました。精一杯殴りつけます」
ということで、要するに後花園天皇が一方的に悪い、ということでFA(ファイナルアンサー)。
3 知らんがな。
以上になります。
あとは「戦国時代の定義とはどうなんでしょうか。議論など見ていても一定しません」という根本的なところを鋭く衝く質問が出て、みんなで侃侃諤諤の議論になったり、今村仁司氏の排除論やら赤坂憲雄氏の「差異の乱反射」論が出てきたり、と結構論点が出ました。
今村氏のモデルを使って足利義視を説明する、という提案も出され、色々と勉強しなければならないな、と思いましたまる
次回は倭寇を考えます。では今回はこれで、チャオ!