拙著『乱世の天皇』見どころ1ー禁闕の変は後南朝復興運動ではない
拙著『乱世の天皇』見どころのご案内です。
禁闕の変をご存知でしょうか。
こちらでアウトラインを紹介しています。
もっと手短にまとめますと、後南朝の皇胤である金蔵主と通蔵主、後鳥羽上皇の子孫と自称する鳥羽尊秀、後小松上皇の側近であった日野有光らが後花園天皇の居住する土御門内裏を襲撃し、三種の神器のうち、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)を強奪して比叡山に立てこもり、さらにそこが鎮圧された後は八尺瓊勾玉を大和と紀伊の国境にある北山郷に南朝の皇胤とともに立てこもった事件です。
これは単なる後南朝の暴走だけではなく細川勝元や山名宗全まで絡んだ大規模な陰謀であった可能性が高く、さらには公家衆にも参加者がいた、という噂まであり、一筋縄ではいかない陰謀でした。
この事件についてはしばしば後南朝による皇位回復運動として把握されています。しかし拙著ではこの禁闕の変が後南朝による皇位回復の運動ではない、という見方を示しています。もしこれが多くの書籍が指摘するような「後南朝による皇位回復」であれば、なぜ後小松上皇の側近である日野有光が参加するのか、意味がわかりません。なぜなら有光の娘と息子は後花園天皇の側近だからです。息子の資親はこの事件の結果処刑され、娘の大納言典侍は逐電して日野宗家は断絶しています。割に合わなすぎます。
ちなみに「コトバンク」では日野有光を「南朝遺臣」と書いています。もちろん根も葉もないデマです。後小松院政の担い手で、称光天皇の外戚です。もし称光天皇に皇子が生まれ、即位していたら外祖父です。
有光は義持によって強制的に出家させられた、とか、「日野中納言」の名跡は有光の父の資教のライバルの広橋兼宣の息子の兼郷が継いだ、とか、有光が憤懣を募らせるシーンがあるのは事実です。しかしこの資親が参議右中弁の昇進し、後花園の室町第行幸では後花園にお酌をするような地位にあった資親のことを考えれば、有光の憤懣など取るに足らないことです。しかもよりによってなぜ南朝なのでしょうか。
それから参加した公家衆について、他の書籍では名前も残らない下級公家と言われていますが、違います。当時大納言を務めた清華家の当主です。後花園天皇は彼を完全に「クロ」と認定しています。彼が処断を免れたのは、乱の鎮圧に功績のあった管領畠山持国のとりなしがあったからです。彼には相応のペナルティは与えられました。それはなんだったのでしょうか。
細川勝元と山名宗全が後南朝の動きに加担したのはなぜでしょうか。そしてなぜ彼らには一切の処分が下されず、何もなかったことになったのでしょうか。
こうした数多くの疑問は、禁闕の変を「後南朝による皇位回復運動」と把握している限り解けません。これを「後南朝による回復運動」と把握したこれまでの歴史書が基本的に触れていないのが「護聖院宮」とは何者だったのか、ということです。そしてもう一つ、この問題を見えづらくしているのが「南北朝」という問題の単純化です。「南北朝」という対立軸でこの事件を分析してきたからです。
ではなぜそのことが見過ごされてきたのか。それは『看聞日記』の読み方にかかってきます。『看聞日記』『椿葉記』『後崇光院御文類』に表された貞成親王の真意を読み解けば、この問題が南北朝の対立という浅薄なものではないことがよくわかります。
こういったことの謎解きを拙著『乱世の天皇』で行なっています。ぜひご購読ください。
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