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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

オンライン歴史講座第5回予告3庚寅以来の倭寇

明日のオンライン日本史講座のお知らせ第三回です。相変わらず見出しが一定せず申し訳ないことです。昔からこういうきっちりしたことが苦手です。研究会で史料を貼り付ける作業をやっていた時に後輩から「秦野さん、まっすぐ貼ってくださいね」と注意を受けたことがあります。ちなみにまだ一枚も貼り始めていませんでした。私がまっすぐとかきっちり決まった通りに貼ろうという努力を見せないことをあらかじめ知っていたんですね。

 

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庚寅年以降の倭寇という意味です。倭寇関連の庚寅年というのは1350年のことを指します。日本では南朝年号正平五年、北朝年号貞和六年、観応元年に当たります。高麗では中定王二年、元では至正十年です。

 

この年何があったか、と言いますと、十月に足利直義が京都を脱出するという事件が起こります。

 

何を言ってんだかわかんない、という人は亀田俊和氏の『観応の擾乱』を読んでくだされば全て氷解すると思います。持ってないよ、という方は下のアフィをポチってくだされば私も喜びます。中公新書でしかも結構売れているのでそこらの図書館でもあると思うのでそこで読むのもありです。

 


観応の擾乱 - 室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い (中公新書)

 

高師直を殺してうまく天下を取ったはずの直義がなぜだか不利になって追い詰められて京都を脱出するのですが、これが大きな破紋を引き起こします。

 

九州にいる足利直冬を討伐する必要が生じたわけです。で、もともと直義に近い少弐頼尚も直冬討伐に駆り出されることになり、兵糧集めが大変です。

 

高麗では12歳の中定王の時代です。このころの高麗は中恵王の暴政で国が乱れ、中恵王の死後も幼君が続き、急速に国が傾き始めたころです。

 

『高麗史』には「この時より倭寇の侵略が始まった」と記されていますが、それ以前から「倭寇」は記録されているので、この時以降、倭寇が大規模化した、という風に取られています。

 

李領氏の『倭寇と日麗関係史』はこの問題に切り込んだ名著です。

 


倭寇と日麗関係史

 

李氏は庚寅年以降、爆発的に増加した倭寇の数を、多くの倭寇が一斉に朝鮮半島に渡ったのではなく、一つの大規模な集団が繰り返し襲撃したため、倭寇の数が増えたように見える、と指摘し、さらに集団の大規模化についても考察をしています。

 

それまで数人からせいぜい十数人の集団が倭寇だったのに対し、数千人レベルで、しかも騎馬軍団とあっては、これは庶民の蜂起や対馬などの海民集団ではなく、なんらかの正規兵だろう、と考えられるわけです。

 

李氏が注目したのが少弐頼尚でした。直冬下向で、後醍醐天皇の皇子の懐良親王率いる南朝方と直冬方の腹背に敵を受ける形となった少弐頼尚はとりあえず兵糧その他の調達手段を朝鮮半島に求めたのではないか、という見解です。

 

李氏はそこまでしか検討していらっしゃいませんが、私見では少弐氏による兵糧の調達はその後も続いている、と考えています。

下に私見を披瀝した論文を挙げておきます。前回示した論文です。pdf注意。

ja.wikipedia.orgここの一番下にあります。

http://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/hss/book/pdf/no81_04.pdf

 

 

では明日、オンラインで会いましょう。

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