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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

近衛基平ってどんな人?

今から二十年以上前の大河ドラマに「北条時宗」というのがありまして、大河ドラマですからあちらこちらにフィクションが仕込まれているのですが、そこで人々のハートを射抜いたのが主人公北条時宗の兄の北条時輔とその相棒となってモンゴルとの通行関係を拒否して宮中で自害した近衛基平だったのです。

 

最近ネットでも姿を見かけませんが、近衛基平ってどんな人?何をしたの?彼女は?SNSは?気になっていろいろ調べました。

 

近衛基平は日本の関白左大臣です。実際の死因は痢病とありますから、下痢による脱水症状で死んだ、と思われます。

 

ものすごくイケメンに描かれることが多い基平ですが、実際にはどうだったのでしょうか。「正元二年院落書」に次のように書かれています。「内府ニシシアリ」と。『中世政治社会思想』下(日本思想体系、岩波書店)の注には「シシ」を肉として「肥満」と推定しています。イケメンでスマートなイメージがありましたが、実際は当時の貴族から見ても肥満だったんですね。

 

ちなみにお顔はこんな感じです。

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近衛基平 天子摂関御影

彼のブログ、もとい日記は『深心院関白記』(じんしんいんかんぱくき)と言います。『大日本古記録』に活字が、『陽明叢書』に写真版があります。

 

彼とモンゴル戦争の関係をいいますと、クビライ・カアンからの国書が到来した時の院での議論に基平は返書の反対を主張し、二条良実一条実経と対立しています。基平の姉は宗尊親王の妻で惟康親王を生んでいますが、密通して京都に戻ってきていました。困った親族です。宗尊親王も後嵯峨院の逆鱗に触れて鎌倉から送還されてきています。ちなみに宗尊親王が幕府の実権を掌握しようとして北条時宗によって追放された、という見方は私はとりません。時宗宗尊親王の関係がよくなかったことは事実ですが、むしろこれは妻の宰子の密通事件の処理を誤って後嵯峨院の逆鱗に触れた、というのが真相でしょう。時宗は後嵯峨院にとりなした上に宗尊親王に領地を献上しています。

 

基平が国書への返書に反対したのは、彼がクビライの国書を侵略的である、と思ったからではありません。基平も「和親」であることは理解していました。

 

ではなぜ基平は反対したのでしょうか。

 

これはまず第一に書式が無礼だったからです。クビライの友好を求める気持ちは基平もわかっていました。しかし若き基平にとっては、クビライが日本を見下しているように思えたのです。クビライの主観では最大限譲歩し、日本を立てているのですが、あくまでもウエメセであることには違いがありません。基平にすれば、かようなウエメセ国書は受領するわけにはいかなかったのです。

 

もう一つ、これは確証はないので推定にとどまりますが、鎌倉幕府の意向が働いているのではないか、と考えています。

 

クビライの国書が到来した時、日本の外交の窓口は大宰府でした。と言っても大宰府は極めてややこしい状況にありました。大宰府の長官は帥です。これは親王が任ぜられるものです。そして権帥があります。現地に赴く場合も多くは流罪に処せられる時に、左遷の形をとって送られました。有名なところでは菅原道真ですね。次官が大弐です。これも遙任で、平清盛がついていたことでも知られています。三等官が少弐です。これが受領となります。つまり現地に赴任する最高責任者です。

 

鎌倉幕府は西国の押さえのために大宰少弐御家人武藤資頼をつけます。以降、大宰少弐は武藤氏の世襲するところとなり、少弐氏を名乗るようになります。

 

したがってクビライの国書を持ってきた使者は最初に大宰少弐武藤資能にその国書を渡すことになります。資能はこれをどうするか、頭を悩ませるところです。彼は一方で朝廷の外交の窓口である大宰少弐であると同時に鎌倉幕府鎮西奉行でもあります。

 

結局資能はおそらくは悩まずにあっさりと鎌倉幕府に国書を送りました。そしてその国書は鎌倉幕府から東使によって西園寺実氏のもとにもたらされ、朝廷に提出されたのでしょう。この時に宰子の弟の基平にも幕府の意向が伝えられていた可能性があるのではないか、と私は考えています。

 

いかがでしたか?

 

今回近衛基平とモンゴル戦争の関わりについて調べてみました。クビライの国書を武力行使をちらつかせた、と読み取るのはあくまでもモンゴル戦争という結末を知っている現代人の結果論的解釈にすぎないことが、基平の日記によっても分かります。史料を解釈する時に結果論的解釈に陥らないようにする、というのは非常に大事であるということがわかりますね。私も少しでもそうなれるように努力していきたいと思います。

 

今回も最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

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