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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

「正統」思想はいつ始まったか

「正統」(しょうとう)思想は室町時代特有の皇位継承原理です。

 

天皇系図を幹と枝葉で区別し、幹を「正統」とし、枝葉を非「正統」の天皇と区別し、「正統」の天皇の子孫が永続する、と考えます。

 

もちろん皇位継承がスムーズに行われている場合は「正統」かどうかなどということは問われません。問題は皇位継承がうまく行っていない場合です。

 

鎌倉時代中期にややこしい事態が訪れます。

 

始まりは後嵯峨天皇皇位を嫡子の久仁親王に譲位します。これが後深草天皇です。で、ここで後深草天皇の子孫が続けばなんてことはなかったのです。しかしここで後嵯峨上皇は余計なことをします。

 

彼は弟の恒仁親王を寵愛し、恒仁親王およびその子孫に皇位を代々継承させようとしました。亀山天皇です。後嵯峨上皇亀山天皇に世仁親王が生まれると立太子させます。後宇多天皇です。

 

これはこれでそのままうまくいけばいいのですが、後深草上皇はたまったものではありません。鎌倉幕府に訴えます。ここで北条時宗が大チョンボをやらかします。時宗後深草上皇を気の毒に思ったか、後宇多天皇の後に後深草上皇の皇子の熈仁親王を据えます。伏見天皇です。

 

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系図をみていただければわかると思いますが、天皇家が二つに分裂してどちらが本家かわからなくなります。

鎌倉幕府霜月騒動を経て平頼綱がイニシアティブを掌握します。彼は露骨に後深草上皇とその子孫である持明院統を贔屓にします。将軍の惟康親王を京都に送還し、後深草皇子の久明親王を将軍に、皇太子を伏見天皇皇子の胤仁親王に決定します。ここに院(後深草)、天皇(伏見)、皇太子(胤仁親王)、将軍(久明親王)と全て持明院統が占めることになります。

 

このまま推移すればそれはそれで平和だったのですが、そうは問屋が卸しません。

 

伏見天皇がやる気満々すぎて幕府もドン引きし始めます。頼綱も殺されてしまい、後ろ盾を失った伏見天皇は胤仁親王に譲位(後伏見天皇)しますが、次の皇太子は大覚寺統の邦治親王に決まります。そして後伏見天皇は在位三年ちょっとで邦治親王に譲位に追い込まれます。後二条天皇です。で、幕府はこのころ双方の顔を立てる両統迭立という愚策に走ります。後二条天皇の次は後伏見上皇の弟の富仁親王を擁立し、後二条天皇の急死で富仁親王が即位します。花園天皇です。

 

ここで両統迭立をつぶそうとしたのが後宇多法皇です。

 

後宇多法皇花園天皇の皇太子に後二条天皇の皇子の邦良親王ではなく、花園天皇よりも十歳も年長の尊治親王をつけ、さらに尊治親王の即位後(後醍醐天皇)の皇太子に邦良親王を押し込むことに成功します。これは邦良親王立太子の三年前に連署に就任した金沢貞顕大覚寺統と関係が深かったことが背景にあるでしょう。

 

後醍醐天皇は要するに邦良親王の引き立て役だったわけです。しかし後宇多法皇崩御したのちには後醍醐天皇は自らの子孫を天皇につけようと考え、また後伏見上皇後醍醐天皇を引き摺り下ろそうとして活動し、邦良親王後醍醐天皇を引き摺り下ろそうと画策します。

 

さて、「正統」という概念を作り上げた北畠親房はこのような状況下にあって後醍醐天皇に仕えていました。

 

ただ親房自身は後醍醐天皇にものすごく入れ込んでいたわけではなかったようです。邦良親王薨去後に幕府は後伏見上皇皇子の量仁親王を皇太子に据え、後醍醐天皇はそれを不満として倒幕の兵を挙げますが瞬殺され、隠岐に流されます。量仁親王が即位し(光厳天皇)、後伏見院政が成立します。後伏見上皇光厳天皇の皇太子に康仁親王をつけ、両統迭立にこだわりを見せます。

 

この時、すでに親房は出家していましたが、長子の顕家を光厳朝に出仕させ、後醍醐天皇とは一線を画していました。そのせいか、親房は鎌倉幕府のことを絶対に悪く言いません。それどころか鎌倉幕府について「物事をよく知らんやつらは最近は武士の世の中になって朝廷が衰えたなどと言っているが、そもそも頼朝という人も泰時という者もいなければ世の中はどうなっていたか」と褒め倒しています。滅亡に関しても「そもそも七代も続いたことの方がすごくね?」と幕府の悪政のせいであるとはしていません。いや、理由がないと滅びないんですけど、親房先生・・・。

 

まとめると「正統」という概念を作り上げた北畠親房が活躍した時代というのは天皇家が二つに分裂してしっちゃかめっちゃかになっていた時代だったのです。そこで問題になるのが「どちらが正しい天皇」つまり「正統の天皇」か、ということになります。

 

「正統」という言葉自体は皇位継承の原理ではなく、単に「嫡流」という意味で使われています。親房は「正統」という言葉に肉付けをしていったのです。

 

親房が「神皇」の「正統」という概念をどのように作り上げていったのかを考えたいと思います。

「正統」について

北畠親房の主著「神皇正統記」をこのブログを読んでいらっしゃる方の多くはご存知だと思います。読みが「じんのうしょうとうき」であることもここで改めて書く必要もないとは思います。

 

この書名は「神皇」の「正統」を記すために南朝方の重鎮の北畠親房が書いたものです。この「正統」は「しょうとう」と読み、中世における天皇位の継承原理のことです。

 

「正統」観念について現状一番入手しやすく、またわかりやすくまとめられているのは河内祥輔『中世の天皇観』でしょう。

 

中世の天皇観 (日本史リブレット)

中世の天皇観 (日本史リブレット)

 

「正統」は以下のようにまとめられています。

第一に全ての天皇が一筋につながっているのではなく、幹と枝葉に分かれ、枝葉の天皇の系統は断ち切れており、幹は「一系」として続いていく。

第二に幹は血統であり、皇位ではない。幹の中に天皇ではない者が入り込んでいる点に明瞭である。

第三に幹と枝葉では価値が異なる。価値ある天皇と価値の乏しい天皇に分かれる。

第四に「正統」は男系である。女系天皇は全て枝葉である。

 

字面だけではわかりにくいので図にしてみました。戦国時代から現在の天皇家を「正統」に合わせて引き直しました。

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正親町天皇から今上天皇まで一本の幹が見えます。中御門天皇に始まる枝葉などが見えます。この幹が「正統」です。

 

この「正統」イメージは現在の皇位光格天皇以降一系でつながっているため、我々の抱くイメージとそれほど齟齬がありません。現在我々が「正統」を意識しないのはそのためでしょう。

しかし江戸時代に天皇の後継者がいない、というアクシデントが起こった時には「正統」に基づく系図が大きく揺らぎます。

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上が後桃園天皇崩御前の「正統」観念に基づく系図です。ところが後桃園天皇が後継者を残さないまま崩御し、中御門天皇の弟によって創設された閑院宮家から光格天皇を迎えるとそれまでの東山天皇中御門天皇桜町天皇桃園天皇ー後桃園天皇という幹が一瞬にして枝葉となってしまいます。

 

結構面倒臭いですね。現在の天皇家の系譜が「正統」観念に基づいて記述されていないのも宜なるかな、です。

 

ではどうしてこのような「正統」観念が出てきたのでしょうか。室町時代前半の天皇の歴史を理解する上で「正統」を理解することは必須要件だと考えます。しばらく「正統」について考えたいと思います。

称光天皇の重病に際しての後小松上皇と足利義教の交渉

称光天皇が重病に陥ったのは正長元年七月六日の夕方です。万が一のこともある、と典薬頭丹波幸基(『満済准后日記』では「行基」)が報告しています。八日には小倉宮後亀山天皇皇孫)が逐電しました。十一日には管領畠山満家が義教の意向を満済の下に持ってきます。そこでは新天皇は誰がふさわしいか、関白二条持基と相談するようにということでした。そこで満済万里小路時房を呼びつけ、義教の意見を持基に伝えています。

 

十二日には義教が満済に今日ばかりは京都にいるように命じ、午後に呼びつけます。持基の意見はとりあえず後小松上皇と相談すべきということで、義教は持基に十六日に院に申し入れるように依頼します。

 

十三日には伏見宮家の長男の彦仁王を伏見から若王子に入れます。これは義教の意向です。実際には満済伏見宮の側近の世尊寺行豊を通じて伏見宮家に申し入れています。これは内密に若王子に入れています。理由は二つです。一つは分かりやすい、南朝方から彦仁王の身柄を奪われないようにするため。もう一つは、天皇が突然快復した場合に備えて、です。称光天皇には前歴があります。崩御すると誰もが思っていたら突如体調がもどったのはいいのですが、その病気を伏見宮貞成親王の呪いのせいだ、と騒ぎ出してややこしいことになりました。もし称光天皇の体調が快復して自分の後継者に彦仁王が担ぎ出されていることをしればただではすみません。若王子に入れておいたのは、もしそういう事態が起こった場合は「いや、彦仁王は単に若王子にお参りにきていただけですからぁ」と言い訳すれば万事解決です。なぜ若王子か、といえばそこの忠意僧正は満済の子分だからです。

 

十六日、いよいよ申し入れです。この日のことは現代語訳を作ってみました。

十六日、晴れ、醍醐寺より京都に出て室町殿に参った。小倉宮伊勢国司の在所の多気にいらっしゃることが、方々より報告があったことをおっしゃった。今日、室町殿より仙洞に申しあげることがある。新主の事、どのように決定されるのか、内裏様は医者の見立てでは近日中に重大事が起こるだろう、ということである。間違いなくその時になって大騒ぎになるだろう、そこで内々に申し上げるのである、ということである。このことを執柄(関白二条持基)が院参して申し上げることがよい、ということを万里小路時房、勧修寺経成、広橋親光の三人を通じて関白に申し上げた。そこで関白が院参して申し入れられたところ、仙洞はいささかご体調がすぐれない、ということで、ご対面はどうだろうか、重要事なので申し次ぎを通じて奏聞するのはよろしくない、ということであった。そこで書状を通じて申し入れたところ、勅答は伏見殿宮(彦仁王)を猶子として決定すべきであるということを勅書に載せられていた。そこで上皇(後小松)の勅書は関白(二条持基)より時房卿を通じて室町殿(足利義教)に進上された。珍重であるとのことであった。次に室町殿から経成卿を通じて上皇に申された。「伏見殿の宮御方(彦仁王)は去る十三日より若王子へ移し奉りました。その事情については少しお考えになることもありましょうが、御用心の為であります。この旨は真っ先に申し入れるべきところではありますが、新天皇のことについてまだ仰せ出されていない段階で先にこのようなことを申し入れるのはこの御内心(彦仁王を次の天皇に指名する)でいいのだろうかと、叡慮もどうだろうと考えておりましたので今まで遠慮しておりました。すでにこの宮で決定すべきであると仰せ下されたので今申し上げます」ということであった。経成卿は遠縁の者の服喪なので参ることはできず、書状で申し入れた。勅答は思った通りお喜びのことを申された。その詳細は、彦仁王が崇光流として即位するのではないかと内心恐れていたが、室町殿が申されるには上皇の叡慮の通りにする、ということで大変安堵した、ということである。勅書を見た。

 

私が引っかかったのは、原文では「仙洞聊御窮屈折節也。御対面等可有如何哉。重事之間以申次仁御一奏聞不可然也云々」となっているところです。次の天皇をどうしようか、という重大な局面で、天皇家の家長である後小松上皇が本当に体調不良で会わない、ということは考えられません。重体ならばとにかく、「御窮屈」程度ならば朝廷の責任者である二条持基に面会することくらいできるでしょう。要するに後小松上皇は持基に会いたくないのです。なぜ会いたくないか、といえば、上皇サイドの言い分を口頭で義教に伝えることに不安があったからでしょう。だから「申次仁」も拒否したのです。義教は改めて書状を出して後小松上皇の意を確かめます。これは彦仁王一択だったわけです。これは実は前室町殿の足利義持が後小松上皇と話し合いの結果、彦仁王と決めていたわけで、後小松上皇には選択肢は残っていません。

 

ただ後小松上皇がこだわっていたのは彦仁王が崇光皇統であることです。崇光皇統に皇統が移り変わるのであれば、別の没落した皇統を後光厳皇統の猶子とすればその方が確実に後光厳皇統を残せる、そう考えたとしても不思議ではありません。後光厳皇統を血統で残すことはもはや叶わぬことです。問題は誰を後光厳皇統を継承するものとして後小松上皇の猶子に迎えるか、だったわけです。彦仁王の問題点はまさに崇光皇統であることです。彦仁王には実父がおり、実父を天皇待遇にすれば後光厳皇統は断絶し、崇光皇統に「正統」(しょうとう)が移動することになります。この「正統」については次に説明します。義教が彦仁王の処遇について後小松上皇に一任してくれたことで、後小松上皇も彦仁王にゴーサインを出したわけです。

 

原文では以下の通りになります。「此宮御事、以伏見殿御一流之儀被定申新主歟、御怖畏内々千万処、只今為室町殿御申様偏被任仙洞叡慮間、於今者旁御安堵此事也云々」

 

で、新井白石も逃げる気満々の一休の和歌ですが、「常盤木や 木寺の梢 摘み捨てよ 世を継ぐ竹の 園は伏見に」というこの内容がもし万が一一休が後小松上皇に送ったものだとすれば、持基と後小松上皇の会談が十六日にセットされた十二日に後小松上皇が一休に「院宣」(もし本当に後小松上皇が一休に相談するのであれば女房奉書を使うはず)を出して意見を求めたのではないか、という仮説が立ちます。実際、この和歌は生々しすぎて後世の仮託とは見えません。一休に譲る、という内容ならば後世の仮託で決定ですが、この和歌はどうみても後小松上皇常盤井宮家(亀山天皇の子孫)や木寺宮家(後二条天皇の子孫)を自らの皇位継承者に考えていたことを諌めた和歌です。

 

二条良基の孫の持基は和歌にも堪能でした。案外この短歌は持基と後小松上皇の予備折衝で木寺宮家か常盤井宮家から迎えようとしていたことを察した持基が後小松上皇に釘を刺したものかもしれません。

 

そうなれば後小松上皇にできることはただ一つ、彦仁王を後小松上皇の猶子として後光厳皇統を継承させることを約束させることです。

 

木寺宮家の明仁法親王と承道法親王は後小松上皇の猶子になっています。彼らの弟の邦康王も上皇の猶子となって皇位を継承する、という夢を後小松上皇は持っていたのではないでしょうか。常盤井宮に関しては直明王でしょうか。常盤井宮は少し弱い気がします。

後花園天皇をめぐる人々ー一休宗純

 いわずとしれた一休さんです。♪「好き好き好き好き好き好き」の一休さんです。テレビアニメが懐かしいです。

一休が後小松天皇落胤である、というのはどの程度信ぴょう性があるのか、と言う問題ですが、島津氏のご先祖が源頼朝落胤である、というよりは信ぴょう性が高いと思われます。というか、島津の先祖が頼朝である確率は、秀吉の母が萩中納言の娘で天皇(誰かは不明)の寵愛を受け、秀吉を生んだ、というのと同レベルです。

江戸時代に新井白石が記した『読史余論』に一休と後花園天皇について次のように説明があります。

南朝記に、大徳寺の一休と聞えしは実は後小松の皇子也。然れど賤しき腹に宿り給しかば人臣の子となされて僧とは成り給へる也。称光院の御世継の事を議せられし時に一休に問はしめて定め申さるべしとて院宣有りしに和尚言葉はなく一首の和歌をば献ず。
常磐木や 木寺の梢 つみ捨てよ 世を継ぐ竹の 園は伏見に
然らばとて伏見殿の御子に定れりといふ。此の歌書かれし物は今も世の宝など申して伝ふる者あれば然も有りしにや心得られず。

 現代語に直してみると次のようになるのではないか、と思います。

 
 
南朝記に「大徳寺の一休というのは、実は後小松の皇子であった。しかし母の出自が身分の低い者だったので、人臣の子とされて僧となられた。称光天皇の後継者をどうするか、一休の言う通りにしよう、と言って院宣を出したところ、和尚は言葉はなく、一種の和歌を献上した。
常盤木や 木寺の梢 摘み捨てよ 世を継ぐ竹の 園は伏見に
それならば、ということで伏見宮の御子(後花園天皇)に定まった」という。この歌か書かれた物は今も世の宝などと申して伝える者がいるので、そういうこともあるだろうか、よくわからない。

信ぴょう性については白石自身が逃げる気満々です。

一休の和歌の意味ですが、「常盤木や 木寺の梢 摘み捨てよ」というのは、どう見ても常盤井宮木寺宮を指しているとしか思えません。後小松上皇が一休に相談したとすれば、常盤井宮木寺宮の登極を相談したのではないか、と思われます。それに対して一休は「世を継ぐ竹の園(皇族のこと)は 伏見にある」と答え、伏見宮貞成親王の第一皇子の彦仁王を推薦した、ということになりましょう。

 

後小松上皇称光天皇の後釜に伏見宮を据えることをあまりよく思っていなかった節があります。足利家を継承したばかりの義宣(のちの義教)の使者に「窮屈の折ふし(体調が悪いので)」と述べて会おうとしなかった、というのは、本当に体調不良だったのかもしれませんが、重大な局面で「体調悪いんで」と会おうとしない、というのは会いたくない、という意思表示ととるべきでしょう。義宣を嫌がらせか、「軽服(きょうぶく、軽い服喪)」の勧修寺経成を使わしています。これは多分言った、言わないを避けるために書面を出さざるを得ないように物忌み中の経成を派遣したのではないか、と思います。

 

結局彦仁王を後小松上皇の猶子として貞成親王を棚上げすることで両者は一致しますが、木寺宮とか常磐井宮だったら新天皇の父親面するのがいなくて後小松上皇としてはすっきりしたでしょう。

 

我々は南北朝の対立に目を奪われがちになりますが、後小松上皇にとっての脅威は大覚寺統の宮家ではなく、同じ持明院統の崇光皇統であったと考えられます。

 

この和歌自体の信ぴょう性は白石の逃げる気満々の記述からも伺えるようにさほど高くはありませんが、この話のベースには後光厳皇統と崇光皇統の激しい対立が横たわっているような気がします。しかし時間が経つとなし崩し的に後花園天皇以降は後光厳皇統に編入されてしまいますが、少なくとも後花園天皇存命中はこの対立は決着がついていませんでした。

後花園天皇の生涯−宝徳四年(享徳元年)正月一日〜十二月晦日

宝徳四年
正月一日、四方拝、御薬供、元日節会
師郷記、清贈宗賢卿記、続史愚抄
二日、御薬供、殿上淵酔
師郷記、続史愚抄
三日、御薬供
師郷記、続史愚抄
七日、白馬節会、別殿行幸
師郷記、続史愚抄
八日、後七日御修法、太元帥法
東寺執行日記、続史愚抄
十一日、県召除目延引
続史愚抄
十六日、踏歌節会
師郷記、続史愚抄
二月三日、釈奠、大原野祭延引
師郷記、続史愚抄
四日、祈年祭延引
師郷記
八日、春日祭延引
師郷記
十三日、釈奠追行、園韓神祭延引
師郷記、続史愚抄
十五日、大原野祭を再び延引
師郷記
十九日、祈年祭追行
師郷記、続史愚抄
二十日、春日祭追行
師郷記、続史愚抄
二十五日、園韓神祭追行
師郷記、続史愚抄
二十七日、大原野祭追行
師郷記、続史愚抄
三月二十三日、県召除目追行
師郷記(二十日・二十一日・二十二日・二十三日・二十四日)、続史愚抄(二十日・二十三日)
四月一日、旬、平座
師郷記、続史愚抄
四日、稲荷祭延引
続史愚抄
九日、松尾祭を行う、この日、平野祭、同臨時祭延引
師郷記、続史愚抄
十日、梅宮祭
師郷記
十三日、吉田祭延引
師郷記
十六日、稲荷祭追行
東寺執行日記、続史愚抄
二十一日、日吉祭延引、平野祭再び延引
師郷記
二十二日、賀茂祭
師郷記(二十日・二十二日・二十三日)、続史愚抄(二十日・二十二日・二十三日)
二十六日、今日より三夜、内侍所御神楽
師郷記(二十六日・二十七日・二十八日)
五月四日、日吉祭追行
師郷記、続史愚抄
六日、祈雨奉幣
師郷記
十八日、年号勘者宣下
師郷記、続史愚抄
この日、非常赦、三合および疱瘡流行による
師郷記、続史愚抄
十九日、この日より三宝院義賢を召して禁中に仁王経を修す
師郷記、続史愚抄
二十日、止雨奉幣
師郷記
二十五日、重ねて止雨奉幣
続史愚抄
六月十一日、月次祭、神今食
師郷記、続史愚抄
十四日、祇園御霊会延引
師郷記、続史愚抄
十七日、三宝院義賢に牛車を聴す
師郷記、続史愚抄
二十七日、大徳寺華叟宗曇に大機弘宗禅師の諡号を賜う
続史愚抄
二十九日、大祓
師郷記
七月七日、七夕御楽、詩
師郷記
二十五日、改元、宝徳四年を享徳元年とする。三合厄および赤斑瘡流行による
建内記、師郷記、東寺執行日記、元秘別録
享徳元年八月七日、釈奠延引
続史愚抄
十五日、石清水八幡宮放生会延引
東寺執行日記、続史愚抄
十六日、駒牽
清贈二位宗賢卿記
十七日、釈奠延引、この日荒説あり、人々禁裏に参ず
師郷記(十七日・十八日・十九日・二十日)、清贈二位宗賢卿記
二十六日、止雨奉幣
清贈二位宗賢卿記
二十九日、軒廊御卜、伊勢外宮をはじめ諸社に怪異あるに依る
清贈二位宗賢卿記、師郷記
閏八月十一日、この日より禁裏に金剛童子法を修す、十七日結願
師郷記(十一日・十七日)
二十三日、別殿行幸
師郷記
九月二日、延暦寺六月会
師郷記
九日、重陽節句、平座
清贈二位宗賢卿記、師郷記
十一日、伊勢例幣を延引
師郷記
二十六日、平野臨時祭追行
清贈二位宗賢卿記、続史愚抄
十月一日、旬、平座
師郷記
八日、前内大臣久我清通太政大臣に、権大納言一条教房内大臣に任ず
清贈二位宗賢卿記、師郷記
十六日、再び伊勢例幣を延引
師郷記
十一月二日、平野祭、春日祭を延引
師郷記
三日、梅宮祭
師郷記
七日、伊勢例幣を追行
師郷記、続史愚抄
十日、興福寺維摩
師郷記
十四日、春日祭を追行
師郷記
十八日、大原野
師郷記
十九日、園韓神祭
師郷記
二十日、鎮魂祭
師郷記
二十一日、新嘗祭
師郷記
二十二日、豊明節会を停め、平座
師郷記
十二月十一日、月次祭、神今食を延引
師郷記
十三日、月次祭、神今食を追行、この日平野祭を追行、同臨時祭
師郷記、康富記
十四日、禁裏で仏眼法を修す。二十日結願
師郷記(十四日・二十日)
十五日、石清水八幡宮放生会追行
師郷記、続史愚抄
十八日、節分、別殿行幸
師郷記
十九日、伊勢外宮仮殿遷宮
二所太神宮例文、続史愚抄
二十七日、貢馬御覧
師郷記(二十七日・二十八日)
二十九日、祇園御霊会追行、この日内侍所御神楽延引
清贈二位宗賢卿記、師郷記
三十日、追儺を行う、大祓は諸司に附す、内侍所御神楽は停める
師郷記

後白河天皇聖忌の意味

宝徳三年三月十三日は後白河天皇聖忌ということで長講堂で御経供養が行われ、後花園天皇の側近の坊城俊秀(嘉吉の乱の綸旨の奉者)が派遣されています。

 

どの天皇の記念日を取り上げるか、というのは極めて政治的な意味合いを含みます。そもそも全ての天皇の誕生日を祝日にしていたら、日本は世界に冠たるバカンス国になります。そこで明治天皇(十一月三日)と昭和天皇(四月二十九日)が選ばれています。これはその誕生日を祝日にした人々が明治天皇昭和天皇をことさらに持ち上げようとしていることを意味します。十二月二十三日はどうなるのでしょうか。

 

神武天皇の即位の日とされる日を祝日に決定するのも同じように政治的な意味合いを含みます。

 

で、後白河天皇の命日ですが、後花園天皇にとって後白河天皇とはどういう意味を持っていたのか、です。

 

結論から言いますと、後白河天皇の集積した王家領荘園である長講堂領が持明院統の財政基盤になっていたのです。従って持明院統天皇後白河天皇をことさらに自らの祖として持ち上げるのです。

 

ちなみに長講堂領は、保元の乱で没落した藤原頼長の荘園を元に後白河天皇が後院領として整備したのが始まりです。鳥羽法皇が集積した八条院領は鳥羽法皇の皇女の暲子内親王に伝領されていました。こちらは後鳥羽皇女の昇子内親王から順徳天皇・後高倉法皇を経て亀山天皇に移り、大覚寺統の所領となります。

 

ともあれ、持明院統の財政基盤である長講堂領を形成した後白河天皇は彼らにとって一つの画期と意識されていました。

 

ちなみに他の画期としてはやはり後嵯峨天皇後深草天皇でしょう。特に大覚寺統持明院統の共通の祖である後嵯峨天皇については本格的な評伝が出されてもいいのではないか、と思います。彼が天皇制の歴史に占める割合は決して小さくはないし、武家政権下における天皇のあり方を作り出したのは後嵯峨天皇です。

後花園天皇の生涯−宝徳三年正月一日〜十二月三十日

宝徳三年
正月一日、四方拝、御薬供、元日節会
師郷記
五日、叙位
師郷記
七日、白馬節会
師郷記
八日、後七日御修法、太元帥法
東寺執行日記、続史愚抄
十一日、県召除目延引
続史愚抄
十六日、踏歌節会
師郷記
二十九日、内侍所御神楽追行、昨年末五体不具穢による
師郷記
二月二日、春日祭延引
師郷記
七日、釈奠
師郷記、続史愚抄
九日、大原野
師郷記
十四日、春日祭追行
師郷記
十九日、園韓神祭
師郷記
二十九日、祈年祭追行
師郷記
三月三日、御燈御拝
師郷記
十三日、後白河天皇聖忌、長講堂で御経供養、前中納言坊城俊秀を遣わす
康富記、師郷記
二十日、別殿行幸
師郷記
二十六日、県召除目追行
康富記(二十三日・二十四日・二十五日・二十六日)、師郷記(二十三日・二十四日・二十五日・二十六日)
四月一日、旬、平座
師郷記
四日、松尾祭を行う、平野祭は延引
五日、梅宮祭
師郷記
十一日、稲荷祭
東寺執行日記
十六日、平野祭追行、同臨時祭、日吉祭は延引
師郷記
十七日、賀茂祭
師郷記(十五日・十七日・十八日)
二十一日、吉田祭
師郷記
二十八日、平野臨時祭追行
師郷記
二十九日、日吉祭追行
師郷記
五月三日、別殿行幸
師郷記
二十四日、祈雨奉幣
師郷記
六月七日、祈雨奉幣
師郷記
十一日、月次祭、神今食
師郷記
十三日、祈雨奉幣、吉田社立柱日時定
師郷記
十四日、祇園御霊会
師郷記(七日・十四日)
十五日、祇園臨時祭延引
師郷記
二十三日、当年重厄祈祷のため禁裏で不動小法
修法部類記、続史愚抄
二十九日、大祓
師郷記
七月七日、乞巧奠
康富記
十八日、御霊祭
師郷記
八月一日、釈奠延引
康富記
四日、北野祭を行う
康富記
十一日、釈奠追行
康富記
十五日、石清水八幡宮放生会延引
康富記
十六日、駒牽、止雨奉幣附行
康富記
十八日、御霊祭
康富記
二十六日、再び止雨奉幣
九月六日、興福寺衆徒、春日神木を奉じて入洛しようとし、綸旨によって諭止
康富記(二日・四日・五日・六日・八日・十日・十一日・十三日・二十二日・二十四日)
九日、重陽節句、平座
康富記
十一日、伊勢例幣
康富記
十月一日、旬、平座
康富記、続史愚抄
十一月一日、平野祭、春日祭延引
康富記
二日、梅宮祭
康富記
十二日、延暦寺衆徒、日吉社神輿を奉じて入洛しようとし、幕府の請を入れ綸旨によって諭止
康富記
十三日、再び平野祭、春日祭を延引、吉田祭も延引
康富記
十六日、石清水八幡宮放生会追行
康富記
十七日、大原野祭延引
康富記
十八日、園韓神祭
康富記
十九日、前大納言中院通淳に准大臣宣下
続史愚抄
この日鎮魂祭
康富記
二十日、新嘗祭
康富記
二十一日、豊明節会を停め平座
康富記
二十五日、春日祭、吉田祭、平野祭追行、この日平野臨時祭
康富記
二十九日、大原野祭追行
康富記
十二月十一日、月次祭、神今食
康富記
二十七日、貢馬御覧
康富記
三十日、内侍所御神楽、同臨時御神楽
康富記