オンライン日本史講座四月第四回「戦国時代の天皇」3
平成最後のオンライン日本史講座のお知らせです。
平成31年4月25日(木)午後8時30分から下記のリンクでお待ちしております。
文明2年12月27日、後花園法皇は室町第で崩御しました。足利義政と日野富子に看取られながらの崩御でした。
その後も後土御門天皇は室町第に滞在し続けます。この間に天皇と将軍の緊張関係は失われます。また朝儀も行われなくなり、朝廷はその内実を急速に崩壊させていきます。
その4ヶ月後には後土御門は退位を表明します。足利義政が何とか慰留しました。もともと後土御門の自覚のなさについては後花園が当時皇太子であった成仁親王に手紙を送って注意をしていました。声の出し方から自分の得意な連歌についてマウントを取りたがる悪癖、小鳥のコレクションにハマる自覚のなさをあげつらっています。
八月、再び退位を表明しています。いや、だからまだ後花園崩御後一年たっていないだろ、というところでしょう。
三年後、日野勝光に対する反発から退位を表明しています。これは賀茂社の裁判が膠着状態になり、籤を引くことになりましたが、勝光がそれに反発し、親長の専横を訴えたため、親長と後土御門が激怒し、後土御門が退位を表明したというもののようです。ただこれは本気で退位を考えたかどうかは不明と言わざるを得ません。勝光が詫びを入れればあっさり撤回しているからです。
これで味をしめたか、後土御門はうまくいかないことがあると譲位をほのめかし、周りが振り回される、ということを繰り返すようになります。
ほかにも改元奉行が決まらない、という不祥事に見舞われます。担当者にとっては旨味のない朝廷の儀式などやりたくもなくなっていたのです。その意味で朝廷自身はもはや自らのレゾンデートルを見出しづらくなっていったのでしょう。
後土御門は内裏の再建が遅々として進まないことに業を煮やして退位を表明しますが、義政にまたも止められます。武家の内実としては退位して仙洞御所を造営するだけの費用の捻出が難しくなっていたのです。
足利義政の死後、足利義視の息子の義稙が、管領の細川政元によって引き摺り下ろされるというクーデターが起こります。明応の政変です。
この時後土御門は激怒しますが、甘露寺親長に「幕府の言い分がどんなに不条理があろうとも、幕府に従い、それを叡慮で追認するのが天皇のありかたです」と説教されてしまいました。
このころ後土御門は吉田兼倶に傾倒していきました。吉田兼倶の講話に感動した後土御門は従三位だった兼倶の位階を従二位に引き上げようとしましたが、親長の反対で正三位にとどめられました。
兼倶といえば、「後醍醐の位牌を祀れ」と義政に提案したり、金沢貞顕に使える右筆の卜部兼好を六位蔵人で大覚寺統に仕えた吉田兼好と言い張ったり、となかなか胡散臭さ満点の男だったようです。
後土御門の最期も気の毒なものでした。結局譲位が叶わず在位中に崩御するという形になってしまいました。在位年数は父後花園天皇をわずかに超え、当時では最長、現代でも四位に入る長期間の在位でしたが、後花園に比べるとなんとも不本意な在位だったに違いありません。
しかも大喪の礼の費用が出せず、40日以上も大喪の礼は行われませんでした。幕府から寄付を経てようやく行われることとなりました。
次の後柏原天皇は即位ができないことで名を残しました。
践祚と即位の違いについて押さえておく必要があります。践祚は皇位を継承することです。この場合先帝の後土御門が崩御した段階で直ちに践祚します。その後天下に皇位継承を周知させるために即位礼が行われます。それは概ねよく年になります。
しかし後柏原の場合、践祚が費用不足で一ヶ月遅れました。これは一ヶ月間天皇が空位であったことを意味します。
朝廷は幕府に費用の拠出を求めます。しかし幕府管領の細川政元は「即位を行なっても実質がなければ意味がありません。即位をしなくても私は天皇と認めています。即位式など不相応です」と言い放ちました。
永正の錯乱(細川政元暗殺事件)や足利義稙の復権を経て義稙とともに上洛した大内義興が即位式の費用を出したおかげで後柏原はようやく即位大礼を行うことができました。践祚してから21年の歳月が過ぎていました。
やがて足利義稙は没落し足利義澄が将軍になってしばらくしたころ、後柏原は65歳で崩御します。
後奈良天皇も大内義隆の援助で即位式を行うことができました。その見返りに義隆は大宰大弐になることに成功します。
後柏原のころから目につき始めるのは、官途を売って財政に充てるという方式です。義隆の場合、大宰少弐を世襲してきた宿敵の少弐氏を滅ぼすのに大宰大弐の官職が必要だったのです。義隆の目論見通り、少弐氏は滅亡しました。しかし義隆自身も京都からの公家を迎えたりして費用がかさみ、陶晴賢によって滅亡させられます。京都の官途に金をかけるのは一長一短だったと言えるでしょう。
官途というのはある意味便利なものです。常に自分の集団の中でのマウンティングに余念のない当時の社会にあっては官途はマウンティングの意味合いがありました。先ほどの例でいえば義隆は少弐氏に対してマウンティングのために朝廷に金を払って大宰大弐の官職を得たのです。そして少弐氏を滅ぼせたのですから安いものです。
と言いたいところですが、実際大宰大弐の官職が役に立ったのでしょうか。果たして義隆は大宰大弐がなければ少弐氏を滅ぼせなかったのでしょうか。これはなんともわかりません。
後奈良天皇崩御後は正親町天皇が践祚します。正親町はさらに遅れて一ヶ月半もの間践祚できませんでした。正親町の場合、三好長慶と足利義輝が対立していたので余計に状況がまずかったのです。しかし三好長慶によって滞りなく行われました。
この辺は基本的に以下の著作に依拠しています。
それでは4月25日午後8時30分、よろしくおねがいします。