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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

源頼義ー武門源氏の雄飛の基礎を作った名将

オンライン日本史講座のお知らせです。

 

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源頼義源義家といえば、義家は「八幡太郎義家」として英雄、頼義はその親父という感じでなんとなく脇役感が強いです。子どもの頃、『八幡太郎義家』という名前の伝記を古本で入手したことがあります。義家は凛々しい若者に、頼義は分別のある渋い中年に、安倍貞任は乱暴者っぽいが人情味あふれる漢に、安倍宗任はインテリ風に、安倍頼時は頑固で一徹で誇り高き英雄に、藤原経清は顔はたぬきづらで卑しい小物の悪人に描かれていました。のちに大河ドラマ炎立つ』では藤原経清藤原泰衡という、あまりよく描かれてこなかった二人を渡辺謙が格好良く演じていて、ものすごいギャップを感じたものです。

 

源頼義といえば河内源氏の棟梁、というイメージがありますが、実は意外と苦労人でもあります。

 

小一条院の判官代を務めていました。平忠常の乱を鎮圧したことで武勇を見込まれ、狩猟好きだった小一条院の相手として選ばれたのです。小一条院三条天皇の皇太子だったのですが、藤原道長の圧力によって辞退に追い込まれ、道長の庇護下に入った人物です。この小一条院に仕えていた、ということは道長との関係は浅からぬものがあった、と言われています。

 

ちなみに最大限元木泰雄氏の『河内源氏』を参考にしています。

 


河内源氏 - 頼朝を生んだ武士本流 (中公新書)

 

「そんなんでは足りない。もっと詳しいものを出せ」と言われたらこれです。


源 頼義 (人物叢書)

 

彼が受領になったのは50歳を目前にした1036年のことで、その時7歳年下の弟源頼清に5年遅れていました。相摸守でした。上国スタートなので悪くはありません。しかし頼義にとって相模国の受領になったことは単にキャリアパスだけではなく、非常に大きな意味を持っていました。桓武平氏嫡流平直方の婿となります。直方の娘との間に義家・義綱・義光の三人の子をもうけ、鎌倉の大蔵にあった邸宅・所領・郎等などの地盤も引き継ぎました。この地盤が河内源氏の東国での繁栄の基礎となり、後の鎌倉幕府につながっていきます。

 

頼義の飛躍の第二ステージは陸奥守です。陸奥守は弟の頼清が数年前にすでに務めており、完全に弟の後塵を拝していましたが、藤原登任が更迭されたことを受けて陸奥守に補任され、受領として赴くことになります。頼義抜擢の理由は、北緯40度以北のエミシの地での動乱でした。エミシの有力者であった安倍頼良が衣川を超えて勢力圏を拡大しようとしてきたのです。それに対し登任は討伐しようとしましたが鬼切部で大敗し更迭されました。

 

この戦乱を鎮圧するために軍事貴族であった河内源氏の棟梁源頼義に白羽の矢が立ったのです。頼義にとって運が良かったのが後冷泉天皇祖母の上東門院(道長息女の彰子)の病気快癒祈願の大赦安倍氏が赦免され、頼良も名前を頼時と改めて頼義に恭順を誓うようになりました。やはり軍事貴族の存在感が大きかったのです。さらに頼義は鎮守府将軍も兼帯し、陸奥国の行政・軍事を掌握します。

 

陸奥守の任期が終了する直前、陸奥国在庁官人(在庁)の一人の藤原光貞から安倍頼時の嫡男安倍貞任から襲撃された、という訴えが入りました。頼義は貞任の出頭を命じますが、頼時はそれを拒否し、安倍氏陸奥国衙の争いが再燃しました。

 

その時に頼時の娘婿で在庁でもあった平永衡を疑って殺しています。これに慌てた同じく在庁で頼時の娘婿であった藤原経清安倍氏サイドに離反します。この一連の動きを亜久利川の戦いといいます。

 

安倍氏の動乱のため頼義は陸奥守に重任されることになります。ここから判断して我々はしばしば「陸奥守の重任を実現するために安倍氏を挑発して戦乱を起こさせたのであろう」と、頼義が陸奥国に勢力を扶植することを狙って一連の事件を起こさせた、と見がちです。しかし私見を言えば、結果から逆算した陰謀論ではないかと思います。頼義からすれば陸奥国への勢力扶植よりも少しでもキャリアを前に進める方が有意義です。子孫がそれだけスタート地点を早めることにもつながります。

 

これは朝廷サイドは当初は頼義の後任を用意したにも関わらず、後任の藤原良綱が任地に赴くのを拒否したため、止むを得ず頼義に引き続き陸奥守を任せたまでで、頼義にとっては不本意であるともいえましょう。

 

頼義がこのまま帰洛して陸奥守の次のステージに進むことで一番損をするのはだれでしょうか。これは藤原光貞ではないか、と思います。在庁の中でも藤原光貞の父の説貞は娘を貞任から望まれていたにも関わらず拒否していました。ようするに安倍氏とは距離を置いていたのです。対して同じ在庁でも経清や永衡は安倍氏と婚姻関係を結んでいました。いわば安倍派と反安倍派が対立する状況にあったのです。そのような中、頼義が帰国し、新たに軍事貴族ではない国守がやってきた場合、安倍派が在庁の中でも力を増しかねません。良綱が安倍氏の武力に頼るようであれば光貞らの立場は悪化します。

 

頼義は津軽のエミシの安倍富忠を離反させ、攻勢をかけます。頼時の従兄弟ともいわれる富忠を説得するために津軽に赴いた頼時を富忠は襲撃し、頼時を戦死させます。しかし頼時を喪ってもなお安倍氏の抵抗は続きます。頼義は追討の官符や兵糧の増援を求めますが、朝廷の反応は鈍いままで、頼義の苦闘は続きます。

 

頼義は黄海の戦いで大敗を喫し、頼義を後援させるために朝廷は出羽守に頼義と同じ清和源氏の満政流の斉頼を任じます。満政は頼義の祖父の満仲の弟にあたり、頼義とは再従兄弟の関係にあたります。しかし斉頼は頼義に協力せず、頼義は単独での戦いを強いられ、戦況は膠着します。

 

藤原経清は国へ納めるべき租税を自らに納めさせるなど、陸奥国は安倍派に乗っ取られてしまいます。そのような状態で二期目の任期が終了しました。朝廷は新任の高階経重を下向させますが、このような状態で交代すると頼義にとってはキャリアが大きく傷つくことになります。さすがに頼義もここで陸奥守を譲るわけにはいかなかったでしょう。赴任した経重に対して在庁や郡司は従わず、前陸奥守の頼義に従ったため、経重は帰京し、頼義は三期目の陸奥守に補任されました。

 

頼義は出羽国のエミシの清原光頼に援軍を依頼します。清原氏はおそらくは出羽国在庁で、様々な説がありますが、京都から降ってきた官人がエミシと通婚して土着化したものと言われています。これも京都と地方のハイブリッドと言えるでしょう。

 

光頼は弟の清原武則を派遣し、武則の力もあって安倍氏は滅亡し、前九年の役終結します。

 

この一連の戦いで一番大きな果実を手にしたのは清原氏です。武則が鎮守府将軍に補任され、安倍氏の旧領を併呑して奥羽にまたがる一大勢力を築き上げることになります。

 

源頼義も伊予守となりました。伊予国播磨国とならんで熟国と言われ、伊予守と播磨守は受領の筆頭でした。ここを経るとあとは公卿としての第一歩である参議への昇進もまっているところですが、頼義はすでに齢80近くに達しており、伊予守のポストは終着点であることは頼義も熟知していたでしょう。それでも河内源氏は伊予守までは射程に納める地位に到達したのです。

 

伊予守を無事勤め上げた頼義は出家し、余生は敵味方の菩提を弔う生活に入り、極楽に往生した、という伝説も残っています。弟に大きく水をあけられながらも最後は伊予守まで昇進し、子孫の雄飛のきっかけをつくった傑出した人物と言えるでしょう。