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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

オンライン日本史講座四月第二回「南北朝の動乱」1

4月11日(木)午後8時30分からのオンライン日本史講座「研究者と学ぶ日本史」連続企画「中世・近世の皇位継承」「南北朝の動乱」のお知らせです。

 

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南北朝の動乱皇位継承という側面から説明するにはやはり持明院統大覚寺統の問題から入る必要があります。

 

もっとも南北朝の動乱には様々な切り口があります。この時代は海域アジアレベルでも大きな変動があり、社会全体が大きく変容していく時代でありました。世界帝国であるモンゴルウルスが世界をゆるやかに統合し、「世界」が成立、その余波がモンゴル襲来という形で現れ、それに刺激されて社会の様々な矛盾が噴出する時期でした。

 

そのようなデリケートな時期に天皇家が分裂することもまた社会の変動に影響を与えることは間違いがありません。

 

前回は後嵯峨院政のもとでの天皇家分裂の問題については結局時間の問題もあって、触れませんでした。

 

従って下記のエントリの最後の部分を読んでいただければと思います。

sengokukomonjo.hatenablog.com

かいつまんでいえば後嵯峨天皇は第二皇子の後深草天皇に譲位したものの、弟の亀山天皇に最終的に皇位を継承させたくなり、後深草から亀山に皇位を変えた上で亀山の皇子を皇太子に据えたところです。これに後深草が反発し、結果的に亀山皇子の次は後深草皇子を立てることに決定します。

 

結果論になりますが、これは鎌倉幕府にとって致命傷になります。我々は鎌倉時代天皇の地位はもはや鎌倉幕府よりも劣るのではないか、政治的に何の役にも立たない、鎌倉幕府のなすがままの残骸ではないか、と錯覚しがちです。

 

しかしこれは正しくありません。当時の天皇家は大量の荘園群を保有する最大の荘園領主です。そしてそこには荘園群が生み出す利権構造があり、これのハンドリングを誤るとその矛盾は幕府に押し寄せます。

 

幕府はあえてこれに手を突っ込んだ理由として考えられている一つの考え方は天皇家を分裂させて弱体化を図ろうとした、というものです。確かにかつて後鳥羽は摂関家九条家近衛家の両方にイーブンにチャンスを与え、競わせることでハンドリングすることに成功した事例はあります。しかしそれはすでに近衛と九条に分裂していたからこそできた芸当であって、鎌倉幕府が挑んだ課題ははるかに危険な道でした。

 

更にいえば私は鎌倉幕府天皇の権威を損なおうとして分裂させた、という見方はとりません。幕府にとって天皇の権威を傷つけてもいいことはありません。天皇の権威を十全に保った上で自分に都合よく使えるのが一番よいわけです。そして後嵯峨院政において天皇は幕府にとって理想的な形だったはずです。

 

私は後嵯峨が私情で火種をばら撒き、北条時宗はその火消しに入ったが、すでに遅かった、という見方をとっています。そもそも後深草を引き摺り下ろして亀山にその地位を継承させたことが無茶で、これについて遺志を残さなかった、という見方もありますが、私はこれ以上ない遺志を見せていると思います。その意志が貫徹したかどうかが問題なわけです。

 

結局無茶な遺志は幕府によって潰され、後深草皇統と亀山皇統が並立することになります。そして皮肉なことに幕府自身が皇統の分立に振り回されることになります。

 

北条時宗を支えたのはまずは外戚安達泰盛御内人平頼綱、そして北条一門です。安達泰盛平頼綱は対立関係にあり、時宗死後に両者は激突します。

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安達泰盛 『蒙古襲来絵詞

時宗死直後、泰盛は弘安徳政と呼ばれる法令を出します。そこでは「鎮西九国の名主」に「御下文をなさるべき事」とあり、九州の非御家人御家人化しようという動きが見られます。モンゴル戦争体制を継続するためには必要な事でした。

 

しかしそれに反発した平頼綱らにさらに北条氏一門、特に大仏宣時が頼綱に加担し、安達泰盛は滅ぼされます。

 

この動きの中で後宇多天皇から伏見天皇への譲位が成立し、さらに惟康親王を京都に送還して伏見天皇の弟宮の久明親王を将軍に据えます。これで鎌倉幕府は明らかに後深草皇統つまり持明院統を支持する姿勢を明白にします。

 

その結果、伏見天皇の次はその皇子の後伏見天皇となり、将軍と院と天皇を抑え、持明院統が完全に天皇家を掌握したかに思われました。

 

しかし平頼綱が粛清されます。頼綱の失脚に伴い、幕府の勢力図も塗り変わり、後伏見の次は後宇多皇子の後二条が付きます。

 

このころから幕府は両統迭立という形で大覚寺統持明院統の双方から交互に天皇を出す方針になっていきます。これについては天皇の権威を減殺する目的という説と、幕府が皇位継承への介入から手を引こうとしていた、という説があります。

 

しかしどちらにしても幕府が無傷でいられるはずはなかったわけで、結果論になりますが、幕府のとった手はことごとく外れてしまいます。

 

後二条のころから幕府は金沢貞顕連署に就任し、そのまま北条高時が14歳で執権に就任する事で貞顕の発言力が増してきます。貞顕は大覚寺統びいきでした。

 

それもあってか、後二条天皇没後、花園天皇が即位しますが、その皇太子に後二条皇子の邦良親王ではなく後宇多皇子の尊治親王をつけ、尊治親王即位(後醍醐天皇)後には邦良親王を皇太子につけることが決定します。

 

ここに幕府は大覚寺統に皇統を統一するかに見えました。

 

このような大きな決定が後宇多一人のスタンドプレーでできるわけはなく、私は金沢貞顕が大きく関わっているのではないか、と睨んでいます。

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金沢貞顕 称名寺

小心で慎重すぎる臆病な小物政治家というイメージで語られがちで、それは全く正しいと私も思いますが、同時に大覚寺統を贔屓し、花園上皇をブチギレさせているという側面もあります。もっとも小心で慎重すぎる性格と、持明院統を圧迫して花園上皇をキレさせる行動は矛盾しません。

 

次回は後宇多院後醍醐天皇の齟齬についての話からです。

オンライン日本史講座四月第一回「鎌倉幕府と天皇家の分裂」4

本日のご報告です。

 

nihonshi.asanojinnya.com

ここで動画を閲覧できます。ただし長いので、それをぶつ切りしたものは以下の場所から閲覧できます。

www.youtube.com

本日のテーマでの論点としてはやはりモンゴル戦争が大きいかと思います。いわゆる元寇です。今日元寇という呼称がもっとも多いのですが、当時の言葉ではなく、また「元寇」という言葉で実態をうまく言い表しているか、といえばそうでもないため、今日ではモンゴル戦争、とか、蒙古襲来とか、モンゴル襲来というようにベタな呼び方をするのが流行です。ちなみに「文永の役」「弘安の役」という言い方も実態を反映しているわけではないので「文永異国合戦」「弘安異国合戦」と呼ぶことが目につくようになっています。

 

この辺については私もかつて論文を著したことがあります。

立命館文学』624号、2011年に所収の「クビライ・カアンと後嵯峨院政の外交交渉」という論文です。

以下のサイトから私の名前を見つけてこの論文名をクリックするとpdfが取得できます。

www.ritsumei.ac.jp

直接入手できるリンクは下になります。pdfに注意してください。

http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/624/624PDF/hatano.pdf

 

本日論点となったのは、もしモンゴルが勝利した場合、日本の武士はどうしたか、というifの問題です。まあifの問題は実際には検証不可能なので、学問的な意味はあまりありませんが、ここでは「勝ち馬に乗るのではないか」という点で一致しました。

 

少弐景資はモンゴル戦争で活躍しましたが、彼が岩戸合戦であっさり粛清されているところを見ると、基本彼らはモンゴルの制圧に対して玉砕したか、といえばそうするとは考え難いと考えました。

 

実際に近年の研究でも「神国思想」などの形で「日本」という意識が出てくるのがこのモンゴル戦争を契機としている、とされているので、それを考えても当時の御家人が切り崩される可能性は高いと思います。そもそも菊池武時が挙兵した時、大友氏や少弐氏は菊池氏ではなく鎮西探題を勝ち馬と認めて菊池武時を討ち取りますが、後醍醐天皇の挙兵が成功するとあっさり鎮西探題を滅ぼしています。多数派はこんなものでしょう。

 

ただし実際にどうころんだかはわかりません。

 

もう一つ、モンゴル戦争の結果、瀬戸内や日本海側では流通が整備され、日本全体を一つの経済システムに組み込む動きが出てきます。日本海側や瀬戸内沿岸の守護職を急速に獲得していきます。これが鎌倉幕府による流通支配を表しているのではないでしょうか。

 

もう一つの論点はそもそも日本側が南宋のイデオローグに惑わされてモンゴルへの参加を拒んだのは失敗だったのか、ということです。

 

当時のモンゴルはいわば自由貿易協定のようなもので、鎌倉幕府もモンゴルとの交易に参入していくのであれば、最初からこちらで参加すればいいのではないか、という見方もあります。

 

ただこれに関しては当時のモンゴルが世界システムではなく、あくまでも世界帝国であり、政治的な統合関係を含む以上は日本の選択が誤りであった、とは言い切れないのではないか、と私は個人的には考えています。

足利尊氏袖判下文(『朽木家古文書』国立公文書館)

今週は改元便乗企画のため、古文書入門を水曜日に変更しています。来週は通常通り月曜日が古文書入門になります。

 

朽木家古文書から20号文書の「足利尊氏袖判下文」です。

 

では写真を見てみましょう。

 

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足利尊氏袖判下文 国立公文書館所蔵

www.digital.archives.go.jp

早速釈文と読み下しから行きます。

    (花押)

下 佐々木出羽四郎兵衛尉経氏

可早領知備前国野田

保地頭職事

右、以人為勲功之賞、所

宛行也者、守先例可致

沙汰之状如件

観応二年六月廿六日

 読み下しです。

下す。佐々木出羽四郎兵衛尉経氏

早く備前国野田保地頭職を領知すべきこと

右、人を以って勲功の賞として、宛て行う所なり、てえれば、先例を守り、沙汰いたすべきの状件の如し

観応二年六月二十六日

 個人的に悩んだのは「右以人」の読みです。「以」は下に「〇〇」をつけて「〇〇を以って」と読むことが多いので、「人を以って」ととりあえず読みましたが、「右」をどうするか、悩みました。『史料纂集』では読点を打っていないので「右人を以って」と読みたくなりますが、実際そう読んでしまうと「右の人を以って」なのか、「右、人を以って」なのか、わかりにくいので読点を打ちました。

 

「為」の読み方ですが、「〇〇の為」「〇〇として」「〇〇となす」が思いつきます。ここでは「勲功の賞として」と読んでいます。

 

あとは「者」の処理です。「てへれば」(ということなので)と読みます。

 

最初に「下す」と書いてあり、しかも花押がドンと文書の袖(一番右側)に据えてあります。下文という非常に尊大な形式の文書です。尊氏が経氏に恩賞として土地を与えているので態度がデカくなるのは当然です。

 

下文はやがて御判御教書にその地位を取って代わられ、応永年間には姿を消します。ただし大内義隆は古色蒼然たる形式を好み、下文を出しています。

 

御判御教書については下記にまとめました。

 

明日は後嵯峨天皇についてオンライン日本史講座を行います。

ではまた明日以降に。

 

sengokukomonjo.hatenablog.com

sengokukomonjo.hatenablog.com

sengokukomonjo.hatenablog.com

オンライン日本史講座四月第一回「鎌倉幕府と天皇家の分裂」3

4月4日(木)午後8時30分からのオンライン日本史講座の予習エントリです。

 

ticket.asanojinnya.comここの4月4日分です。名前が「南北朝・室町の皇位継承」となっていますが、日付の方で来てください。名前が実際とはずれています。

 

sengokukomonjo.hatenablog.com

sengokukomonjo.hatenablog.comの続きです。

 

順徳皇子の忠成王と土御門皇子の邦仁王から鎌倉幕府の意向が通って邦仁王が即位することになりました。幕府に皇位の継承を介入されたことで当時の朝廷の世論は沸騰します。しかし時代が降ればこの決定はベタ誉めされます。

 

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後嵯峨天皇 天子摂関御影

 

後嵯峨天皇の治世が始まります。朝廷の実力者の九条道家は忠成王を推していたわけですが、実際朝廷をリードできるのは道家しかいません。土御門定通はどう考えても朝廷をリードする立場にはありません。道家は何と言っても息子が鎌倉幕府の将軍です。

 

北条泰時はこの皇位決定直後に病死します。鎌倉幕府の新たな執権となったのは北条経時でした。経時は泰時の孫にあたり、当時まだ19歳でした。一方頼経は24歳、官位も正二位前権大納言という高位高官に昇っていました。これが飾り物であれば問題はなかったのですが、実際には問題が二つありました。

 

一つは西園寺公経が死去したことで道家関東申次に就任しましたが、頼経は道家の子であるために事あるごとに道家の意向が頼経に反映されることは避けられません。もう一つは頼経を中心に反経時派が形成されたことです。

 

経時が若くして北条本家(これを義時の号を採って得宗といいます)を継承したことに反発する北条朝時が頼経に接近していました。

 

これを危険視した経時はハレー彗星を理由に頼経の将軍職を息子の頼嗣に交代させます。しかし頼経は鎌倉にとどまり、朝時らを中心とした反得宗勢力の結集核を形成します。

 

そうした中、経時が23歳で死去します。経時には幼い子供がいましたが、朝時の子の光時らに対抗するために経時の弟の時頼が擁立されます。

 

その直後、時頼排斥を狙う動きが頼経・光時らを中心に活発化しますが、北条氏に次ぐ大御家人三浦泰村が時頼支持を鮮明にしたため、時頼は頼経を追放し、光時を伊豆に流罪に処してこの宮騒動と呼ばれる一連の政治闘争に勝利します。

 

これで頼経の運命は窮まり、京都に送還されてしまいます。

 

三浦泰村の弟の光村は頼経派の側近で、京に送還される頼経に対し「もう一度鎌倉にお迎えします」と誓ったとされます。

 

一方泰時、時氏の外戚であったのは三浦氏ですが、経時・時頼の外戚であったのは安達氏でした。安達氏はいつまでも二位の序列を動かない三浦氏に苛立ちを募らせ、挑発行動に出ます。当時の当主の安達義景とその甥に当たる時頼はあくまでも穏便に外戚交代をしたいと考えていましたが、高野山に隠遁していた義景の父の景盛が鎌倉に帰ってきて挑発行為を激化させます。

 

時頼と泰村は武力衝突をなんとか回避しようとギリギリの折衝を積み重ね、妥結が成立したと見えた瞬間景盛が泰村を奇襲し、宝治合戦が勃発します。

 

三浦氏は滅亡し、北条得宗専制政治がスタートします。

 

頼嗣は4年後に頼経が反時頼の陰謀事件に与した疑いで解任され、京都へ送還されます。実際には後嵯峨天皇の一宮の宗尊親王を将軍にするために解任されたのでしょう。鎌倉幕府はここに悲願の親王将軍を擁立することになります。後嵯峨天皇にとってもこれは僥倖でした。一宮の宗尊親王後嵯峨天皇が不遇の時代に生まれており、母親の身分が低かったため皇位継承は難しかったのです。鎌倉幕府の将軍ならば願ってもない行き先です。

 

頼嗣は京都に送還され、道家後嵯峨天皇の勅勘を被り、九条家は政治的に失墜します。後嵯峨は九条流家督道家の子の良実に継がせます。これが二条家の始まりです。実経が回避されたのは頼経と同母の弟だったからでしょう。実経が一条家の祖となります。

 

時頼は病気で執権を辞任したのち、回復したため執権ではないにも関わらず自らの邸で寄合を開催し、得宗という地位で幕政を執る形になります。

 

時頼には生母の身分の低い庶長子がいましたが、本命の後継者は北条重時の娘を母に持つ時宗でした。時宗は14歳で家督を継承し、連署に就任します。そして18歳で執権に就任し、幕政の頂点に立ちます。

 

しかし経時と頼経の関係がここでも再現されます。

 

宗尊親王は和歌に堪能で鎌倉歌壇を形成します。そのもとには歌人御家人が多く参入するようになっています。

 

また時宗との関係もいささかよくなかったと見え、時宗と些細な儀式の進行をめぐって争うこともあったようです。

 

しかし彼の運命は実に些細なことで暗転します。

 

彼の妻の宰子は関白右大臣近衛基平の姉でした。彼女が松殿家出身の将軍護持僧良基と密通したのです。しかし宗尊親王はそれを咎めることなく逆に庇いだてします。

 

この異常な状態に幕府は頭を悩ませたのか、それとも将軍の政治勢力化を除去するいい機会と捉えたかはよくわかりません。とりあえず幕府は宗尊親王を送還します。あとには惟康王が将軍に就任します。

 

宗尊親王は父親の後嵯峨上皇の勅勘を蒙り、時宗の取りなしで解かれていること、時宗から所領を献上されているところを見ると、時宗宗尊親王に悪意を抱いていないことがわかります。とすれば、もしかしたら将軍解任を決断したのは後嵯峨上皇だったのかもしれません。

 

少し時計の針を戻しますと、後嵯峨天皇は在位4年、ちょうど宝治合戦のころに久仁親王に譲位し、院政を開始します。後深草天皇です。しかし後嵯峨上皇と大宮院の気持ちは弟の恒仁親王に向いていました。後嵯峨院は恒仁親王天皇にします。亀山天皇です。そして皇太子には世仁親王をつけます。後の後宇多天皇です。

 

これに後深草上皇は反発します。時宗は裁定に入り、世仁親王の次は後深草院の皇子の熈仁親王と決定します。ここに皇統は後深草の子孫の持明院統と、亀山の子孫の大覚寺統に分裂することになります。

 

またまた時計の針を戻します。後嵯峨院政の特徴です。後嵯峨の時期に院庁別当の中の実務の中心となる院執権や、弁官・職事の奏事を院に取り次ぐ伝奏、訴訟を取り上げる院評定といったシステムとしての院政が完成します。

 

そういう意味で後嵯峨上皇の時代は中世の天皇制の大きな画期と室町時代にはみなされていました。にも関わらず後嵯峨天皇の評伝がないのは問題であると考えます。

 

というわけで一見地味で誰も正面から取り上げないが、実は取り上げないと中世の天皇制がわからないんじゃないか、という天皇第二弾として後嵯峨天皇の評伝を提案したいと思います。

 

昔の改元の時の候補とその出典を見てみよう1−正長から永享へ−

新しい元号が決まりました。令和ということで、『万葉集』から採用されました。

 

月曜日深夜更新の企画は古文書入門ですが、ここはしばらく便乗企画で、後花園天皇の時の改元の出典を見ていくことにします。今日は新元号発表の日ということで、古文書入門をお休みさせていただいて、後花園天皇改元を見ていきたいと思います。今週の水曜日は古文書入門を書いて、それ以降は以前の通り月曜日は古文書入門、水曜日は改元について見ていきます。

 

第一回目の今日は正長から永享です。「代初改元」と『看聞日記』に書かれていますので、後花園天皇の代初改元であることは間違いないと思います。しかし後花園天皇践祚よりも足利義教征夷大将軍任官の方が改元の日に近いので、足利義教後花園天皇の代初改元という意味合いが強いでしょう。ただ義教は義持に比べると改元に関してはまめにやっています。

 

『師郷記』によれば「依代改元無赦儀」とあるので恩赦はなかったようです。どうしても助けたい犯罪者がいなかったのでしょうか。

 

では年号の候補とその出典、それを提出した人を見ておきましょう。

 

正長→永享
九月五日


権大納言按察使資家(土御門家、柳原家の分流)
建定(『史記』「大聖作治建定法度」)、嘉観(『史記』「従臣嘉観厚念休烈」)


中納言藤盛光(日野西家、称光天皇生母光範門院の兄弟)
永同(『後漢書』「俾建永昌同編億兆」)、久和(『周礼』「準則久和則安」)


中納言秀光(日野家日野有光の弟)
元喜(『周易』「六四本吉有喜」)、永寧(『漢書志』「祖已曰修徳武丁従之位以永寧」)


中納言親光(広橋家、後に兼郷に改名)
文安(『尚書』「欽明文思而安安」『晋書』「尊文安漢社稷」)、天和(『荘子』「与人和者謂之人楽、与天和者謂之天楽」)、仁応(『北斉書』「挙世思治則仁以応之」、『荘子』「利仁以応宜」)


式部大輔菅在直(唐橋家)
宝暦(『貞観政要』「自陛下慎順聖慈、嗣膺宝暦情深致治」)、文安(『尚書』「欽明文思而安安」)、慶安(『周易注疏』「有慶貞之吉応地無疆」)


博士菅長郷(高辻家)
和元(『唐書』「陰陽大和元気已正、天地降瑞風雨以時」)、恒久(『周易』「天地之道恒久而不已」)


博士菅在豊(唐橋家)
永享(『後漢書』「能立魏々之功伝于子孫、永享無窮之祚」)、応平(『後漢書』「周公有請命之応、隆太平之功也」)

 

「藤」というのは「藤原」で「菅」というのは「菅原」です。

 

多数決にすると「文安」を二人が提出しているのが目につきます。しかし「文安」は今回は採用されませんでした。

 

「宝暦」と「慶安」は江戸時代に採用されています。

 

いかがでしたか。とりあえず平安時代以降、千数百年にわたってこのように漢籍から採用するのが伝統でした。今回は日本の古典から採用する、という伝統を打破した元号でした。もっとも現在の一世一元の制も中国の明王朝の時に採用され、日本では明治時代に始まった比較的新しい伝統です。とは言っても百数十年の年月を経ているので、むしろ今の日本ではこの百数十年の「伝統」こそが伝統とされているので、その辺は筋が通っています。

 

元号について考える際の材料にしていただければ幸いです。

 

大事なことを書き忘れていました。

 

この永享の改元に反対した人がいました。その名前を足利持氏と言います。どうしたか、といえば彼は数年間「正長」の年号を使っていました。

 

オンライン日本史講座四月第一回「鎌倉幕府と天皇家の分裂」2

承久の乱後の鎌倉幕府と朝廷の関係です。

 

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4月4日午後8時30分からのオンライン日本史講座のお知らせです。

 

sengokukomonjo.hatenablog.com

これの続編です。

 

承久の乱によって後鳥羽とその子孫は皇位継承から原則的に外されます。代わって皇位を継承したのは後鳥羽の兄の子孫の後高倉皇統でした。しかし後高倉には出家していない皇族が後堀河天皇以外にはおらず、非常に脆弱なものとなっていました。

 

現状皇位継承者は秀仁親王一人です。とりあえず皇位の継承を確実なものとするために秀仁親王は生後半年強で立太子、2歳で践祚践祚の2ヶ月後に即位します。非常にスムーズに進んでいます。

 

ここで践祚と即位についてざっくり説明しておきましょう。

 

践祚とは天皇の位を継承することです。即位とは天皇の位を継承したことを内外に広げることです。通例は数ヶ月程度ですが、後柏原天皇のように20年も行われないこともありました。

 

後堀河上皇院政を敷きましたが、2年足らずで死去します。まだ23歳の若さでした。後鳥羽の生き霊という噂もたちます。

 

皇位の行く先は混沌とします。惟明親王の話は前回しましたが、万一に備えた皇位継承者のストックは用意してありました。しかし後堀河死去の直前に九条廃帝仲恭天皇)も死去しており、皇位継承のスペアも少なくなっていきます。

 

結局万一に備えたスペアは順徳皇子の忠成王と土御門皇子の邦仁王に絞られます。

 

あとは四条天皇が順調に成長して多くの皇子をもうけて後高倉皇統を安定させるしかありません。九条教実の娘の彦子を入内させました。

 

最初に摂政になったのは九条教実です。後堀河が後鳥羽の生き霊に殺された、という風聞がたち、教実らは後鳥羽と順徳の帰京運動を始めます。土御門はすでに配所で世をさっていました。しかしその帰京運動は幕府からの反対もあってつぶれます。帰京が実現するためには四条に多くの皇子が生まれ、後高倉皇統が盤石にならなければなりません。

 

やがて後鳥羽も隠岐島で帰らぬ人となります。諡号顕徳院といいます。

 

いよいよ順徳の帰京運動は切実味を増します。せめて一人でも帰京を実現しないと九条道家の面目は立ちません。しかし広い目で見ればそれは後高倉皇統にとって不安定化しかもたらしません。というより、道家は順徳皇子の忠成王を本命としていたのではないでしょうか。廃帝が廃位されたことは九条家にとっては衝撃だったようです。

 

 九条道家北条泰時ももちろん藤原頼経もそれぞれ向いている方向は違えど天皇の権威をどのようにして次代に引き継いでいくか、を必死に考えているわけですが、一人、そんな努力をあざ笑うかのような行動に出ました。

 

四条天皇は悪戯盛り、自分の座っている地位の重さなどに思いを馳せるほど成長していません。彼はいたずらで滑石を内裏に撒いて人々が足を滑らせるのを楽しみにしていたところ、自分が滑って負傷し、その三日後に急死した、と伝えられます。

 

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四条天皇 天子摂関御影

 

思いも掛けない事情で突如途絶えた後高倉皇統ですが、もはや後鳥羽皇統を忌避することはできません。

 

ここで九条道家は順徳皇子の忠成王を推し、それに基づき準備を進めます。ただ鎌倉幕府の同意なしに忠成王を践祚させるわけにもいきません。道家らは忠成王の践祚を見合わせます。その結果天皇空位となりました。

 

天皇空位にしても鎌倉幕府の意向を確かめた、というのは鎌倉幕府が邦仁王を推すかもしれないという読みがあったからでしょう。邦仁王は泰時の妹が嫁いでいる土御門定通が養育していました。

 

道家の危惧は当たりました。北条泰時は使者の安達義景に「もし忠成王が践祚していたら引き摺り下ろせ」と命じる強硬姿勢で臨みます。

 

結局11日間の空位の末に邦仁王が践祚します。後嵯峨天皇です。当時の公家たちは反発します。幕府の容喙で皇位が決定する、というのは朝廷にとっては屈辱以外の何物でもありません。当時の日記には泰時に対する怨嗟の声が記されています。

 

泰時はその4ヶ月後、熱病で苦しみながら病死します。さながら平清盛のように苦しみぬいたとされました。

 

興味深いのは泰時死後100年後の『神皇正統記』には泰時の決断は褒め称えられています。これは後醍醐天皇後嵯峨天皇の子孫だったからです。後嵯峨天皇は自身の子孫に皇位を継承させ続けました。それゆえ「正統」の天皇だったのです。

 

そして鎌倉末から室町時代には後嵯峨天皇天皇の歴史において一つの画期とみなされるようになります。

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後嵯峨天皇 天子摂関御影

嵯峨院の時代は幕府の主導のもとに朝廷権威の立て直しが強力に推進された時期でもありました。

 

次回は後嵯峨天皇の時代を見ていきたいと思います。

後花園天皇の生涯−寛正三年正月一日〜寛正三年十二月晦日

寛正三年
正月一日、元日節会
続史愚抄
五日、叙位
続史愚抄
七日、白馬節会
続史愚抄
八日、太元帥法を行う、後七日御修法は停止
続史愚抄
十一日、県召除目延引
続史愚抄
十六日、踏歌節会
続史愚抄
二月二十二日、連歌会、この日足利義政、召により参内
蔭涼軒日録、碧山日録
三月二十八日、県召除目追行
続史愚抄(二十六日・二十七日・二十八日)、大乗院寺社雑事記(二十六日・二十七日・二十八日)
三十日、内裏で源氏物語御談義あり、連歌
大乗院寺社雑事記
四月二十日、賀茂祭
続史愚抄(十八日・二十日・二十一日)
五月九日、今宮祭
蔭涼軒日録
六月七日、祇園御霊会御輿迎を停止
蔭涼軒日録
八月五日、前内大臣徳大寺公有を右大臣に任ず
続史愚抄
十五日、石清水八幡宮放生会延引、二十七日再び延引
続史愚抄
九月十三日、御霊祭
大乗院寺社雑事記
十一月十日、興福寺維摩
三会定一記、大乗院寺社雑事記
十二月十八日、足利義政に勅して使を伊勢神宮に遣わし、神宝を献じ遷宮を促す
本朝通鑑
二十日、石清水八幡宮放生会を追行
続史愚抄
二十七日、伊勢内宮正遷宮あり
荒木田氏経記、本朝通鑑、寛正四年雑記、続史愚抄