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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

源義家ー名将か凡将か

源義家といえば前九年の役後三年の役で活躍した名将の中の名将というイメージです。

 

しかし後三年の役の彼の動きを見ていると父の源頼義に比べると拙劣というか、下手くそというイメージがあって、河内源氏が急速に没落していく大きな原因ではないか、と思えます。

 

6月20日(木)午後8時30分からのオンライン日本史講座のお知らせです。

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義家大好きで凝り固まっていると、義家が停滞し、その子孫が没落していくのは悪辣な古代デスポットである白河法皇が策略をめぐらして台頭してくる正義の武士を叩き落とそうとした、というように描かれます。これは史的唯物論的見方ですが、実は皇国史観的なものの見方でも軍人に介入する愚かで頭の古い貴族と腐りきった院政という図式で描かれています。公家というのはどうもずるくてクズで最低という風に描かれがちです。公家ファンとしては残念です。まあ私も若い頃は公家は嫌いでしたけど。

 

義家が前線の指揮官としては優れていたのは事実でしょう。前九年の役でも陸奥守赴任段階で老境に差し掛かっていたどころかしっかり老人であった頼義に代わって実戦で奮闘したのは義家であると考えられます。

 

彼は前九年の役の功績によって出羽守になりますが、出羽国には清原武則鎮守府将軍として存在しており、腐った彼は越中守に転任希望を出しています。うーん、耐性がない。まあ前九年の役ではかなり頼義・義家サイドが清原氏に借りを作っているので仕方がないかもしれませんが。

 

下野守時代には大和源氏源頼俊の「衣曽」出征をバックアップしています。陸奥国で国の印などを盗んだ藤原基通を逮捕しています。

 

この頼俊の「衣曽」出征は後三条天皇即位後に行われており、これまでの北緯40度ラインを一気に津軽海峡まで押し上げる事業でした。しかし詳細は分からず、はっきりしているのは、陸奥守の頼俊のキャリアはここでストップしてしまったこと、逆に頼俊とともに「衣曽」征伐に参加した清原貞衡は鎮守府将軍に任命されたとされていますが、貞衡という人物はここだけでしか出てこないので、武則の孫の真衡ではないか、とされています。また武則の息子の武貞の婿で海道平氏の出自という説が近年では有力視されています。

 

いずれにせよこのころ清原氏の勢力は極大期を迎えます。

 

一方義家はそのころ白河天皇の側近となっていました。白河天皇の護衛役です。

 

白河天皇の護衛役や武士団同士の争いに介入して収拾するなど、こつこつと実績を積み重ねた義家は念願の陸奥守になります。

 

このころ陸奥国では清原氏の紛争が起きていました。清原武貞が死去したのち、真衡・清衡・家衡の三人が争いを始めたのです。清衡と家衡は同母で異父というややこしい関係ですが、安倍頼時の娘であった母を持つ両者は連携して真衡と対抗しますが、真衡死後は両者が争うことになります。

 

真衡が保持していた安倍氏の旧領の奥六郡を半分に分けますが、家衡と清衡はやがて対立し、義家は露骨に清衡を支持して家衡を挑発します。家衡は清衡を襲撃し、妻子を殺害しますが清衡は逃亡し、後三年の役が勃発します。

 

この戦いは家衡の討伐に手こずり、官符を求めますが、朝廷はこれを私戦と認定し、停戦命令を発すことも検討されていました。

 

結局義家は官符を得ることはできず、最終的には陸奥守を罷免され、受領功過定を通ることもなく、彼のキャリアは陸奥守で停止してしまいます。

 

そのころ義家の弟の源義綱が台頭し、藤原師通に重用されます。一方義家は陸奥守時代の不祥事で昇進が停止したままで、義綱は陸奥守を経て美濃守になります。しかし好事魔多し、義綱は美濃国延暦寺と対立し、関係者を殺してしまいます。それに対し義綱の処罰を求めた延暦寺の強訴に対し、剛毅な師通は弾圧を以って応じ、鎮圧してしまいますが、その四年後に38歳で死去します。この煽りを食らって義綱は失脚します。

 

義家にとっては復権のチャンスで、師通に抑圧されていた白河法皇に引き立てられ、受領功過定を通過し、院昇殿を許されます。義家に日の目が巡ってくるかに思われました。しかし白河の強引な引き立ては彼への反発を呼びます。

 

長男の源義親対馬で反乱を起こします。義家が遣わした郎党も現地で義親に合流し、義家のメンツは丸つぶれになります。さらに息子の源義国が義家の弟の源義光と合戦に及び、義家に収拾が命じられますが、その最中に68歳で病死しました。

 

彼の死後には河内源氏は急速に没落していきます。義家のあとは息子の源義忠が継承しますが、台頭してくる伊勢平氏との関係で協力関係を結んだことで河内源氏内部の不満は高まり、叔父の義光に暗殺されます。しかも当初は義綱の子の犯行とみられたため、義綱らは失脚し、子は殺害、義綱も流罪に処せられます。そして真相がバレた義光も常陸国に逃亡し、失脚します。あとには謀反人義親の子で若年であった源為義が遺され、跡を継ぎますが、為義はコネを持てなかったために受領になることすらできず、河内源氏伊勢平氏のはるか後塵を拝することになりました。

 

この辺の参考文献として是非とも読んでいただきたい文献をとりあえず三つ挙げておきます。

 


源義家―天下第一の武勇の士 (日本史リブレット人)

 


河内源氏 - 頼朝を生んだ武士本流 (中公新書)

 


白河法皇 中世をひらいた帝王 (角川ソフィア文庫)

前九年の役・後三年の役の前提−戦争の日本史

昨日のオンライン日本史講座のご報告です。

 

予定では前九年の役後三年の役の詳しい話をするはずだったのですが、その前提である「武士の誕生」と「北アジアの変動の中のエミシ社会」に時間を取られて源頼義の人生までいけませんでした。なので次回は源頼義源義家、そして奥州藤原氏について見ていきます。

 

前九年の役のターニングポイントは藤原登任安倍頼時の対立で、鬼切部の戦いで陸奥国国衙軍が敗北したことに始まります。

 

もちろんその前提には北アジアレベルの大変動があるわけで、単に「エミシが日本に不満を持って暴れた」という単純な問題ではありません。

 

北緯40度以北のエミシの地ではそのころ環濠集落、防御性集落が見られます。これが実際に防御性なのかどうかということについては議論がありますが、防御性だとしたら戦争状態が出現していたと考えられますし、そうでなかったとしても何らかの大きな変動があったことは事実でしょう。

 

実際北海道ではアイヌ社会が大きく動き始めていました。そのころアイヌ社会は日本の土師器文化の影響を受けた擦文文化の段階に移行していました。それはエミシ社会の北海道への拡大とアイヌ社会への同化があったとされています。そしてアイヌ社会は日本海集団と太平洋集団に分化し、それまでオホーツク文化が繁栄してきた道東や道北、さらにサハリンにも居住地を広げていきます。

 

オホーツク海域でも大きな変動がありました。沿海州からサハリン、道北・道東と分布してきたオホーツク文化が衰退し、撤退していきます。一方、取り残されたオホーツク人はトビニタイ文化を形成しながらやがてアイヌ文化に吸収されていきます。アイヌ文化に北東北的な側面があるのはアイヌ文化が擦文文化を母体にしつつ新た文化を作り上げていったからだと言われています。

 

オホーツク海域における鷲の羽、貂の毛皮などは王朝貴族からも希求されるものであって、オホーツク文化は最大佐渡あたりまで交易相手を求めて来航したと言われていますが、有名なのは奥尻島に交易拠点を作ろうとして、オホーツク文化と倭・日本との中継貿易を担っていたアイヌと対立し、斉明天皇による軍事介入があった事実です。

 

38年戦争終結後、北緯40度ラインに設定されたエミシと日本の境目ですが、双方の交流が盛んになり、またアイヌ社会の成立の中で変動する地域秩序の動揺の結果として奥六郡の俘囚の長、エミシの有力者である安倍氏の南方への勢力拡大と国衙への抵抗が起こり、それを抑えるために軍事貴族が投入されることとなります。

 

軍事貴族とは有力な武士団のことですが、武士団の成立に関しては様々な説が存在し、一概には言えないのが現状です。

 

古くは地方の乱れによっって地方の有力者が武装し、そこに都から下ってきた貴族を棟梁として大規模化した、という「草深い農村」からの「封建領主階級」の出現という見方がされてきました。

 

それに対し、武士の本流は都の下級貴族である、という見方が出てきています。下級貴族で五位・六位あたりの専門的な職能を以て朝廷に仕える「士太夫層」という集団の中で武を以て仕える家を「兵の家」、軍事貴族というようになった、というものです。その軍事貴族の出自として延喜の群盗で活躍した平高望藤原利仁承平・天慶の乱で活躍した平貞盛藤原秀郷源経基の子孫が武士となる、という説明です。

 

その両方を見ないとだめだ、というのがハイブリッド武士論だと私は把握しています。

 

確かに出羽国仙北三郡の俘囚清原氏は在地のエミシと出羽国国衙の官人として下向し、そのまま在地にいついた清原氏が結びついたハイブリッドと考えれば非常にわかりやすいです。多かれ少なかれ武士というものが地方から、都から、だけ出てきたのではなく、双方向からの動きの結果として出てきたものと言えるかもしれません。

 

東国には平貞盛の子孫の桓武平氏と秀郷流藤原氏が大規模に展開します。一方摂津国多田を本拠とした清和源氏河内国大和国にも勢力を伸ばしながら、河内源氏源頼義が鎌倉の平直方の地盤を引き継ぐことで東国に力を伸ばしていきます。

 

何となく「東国の源氏」「西国の平氏」というイメージがありますが、のちの「平家」につながるのは伊勢・伊賀に展開した平氏の傍流である伊勢平氏の一流であり、また鎌倉と強く結びついたのは源義朝であって、例えば義朝の父の源為義はそれほど関東武士というイメージはありません。それから源氏と平氏がライバル関係にあった、というのも鎌倉時代の軍記物によって作り上げられたイメージなので、とりあえずこの辺では源氏と平氏の対抗図式は眉に唾をつけてよいかと思います。

 

清和源氏は本当にあちらこちらに勢力分布を広げています。河内源氏は河内を本拠としながら鎌倉を中心に相模国武蔵国にも勢力圏を有しています。頼義の弟の頼清は頼義よりもかなり早くに陸奥守になりますが、信濃国に勢力を扶植し、村上氏の祖となります。

 

頼信の兄弟で摂津多田を継承した源頼光に始まる嫡流摂津源氏は都の大内を守護する本流の武士団となり、頼光伝説とその子孫の源頼政伝説を生み出します。これは武士が単に目に見える敵を追い払うだけでなく、目に見えない妖怪なども追い払う存在であったことを意味します。こういう機能を辟邪といいます。

 

頼信のもう一人の兄の源頼親の子孫は大和に勢力を張り、大和源氏と呼ばれますが、平治の乱信西を捕縛し、処刑した源光保大和源氏です。ちなみに平治の乱の勃発前には摂津源氏源頼政大和源氏源光保の方が河内源氏源義朝よりも格上であったこと、そもそも源為義源義朝が比較的若くで到達した受領にすら届かなかったことを考えるに、河内源氏が本流であったとは到底言えません。この辺はもっと注意されても良い点であると思います。大和源氏の末裔で有名なのは陸奥国の石川氏、摂津源氏の末裔では本願寺の坊官を務めた下間氏、美濃国に勢力を広げた土岐氏がいます。

 

頼義の子供の義家の弟の義光は甲斐国に勢力を張り、甲斐源氏となります。武田氏や南部氏がそれです。また義家の子の源義国からは新田源氏と足利源氏が出ており、後年に義家が重視されるのは足利氏が天下を取ったことと関係があると思います。

 

ところで何でも後花園天皇に結び付けないと気が済まない私はここで後花園天皇伏見宮家から「十二年合戦絵」「後三年合戦絵」を借り出しているのですが、一体何を学ぼうとしたのでしょうか。足利氏の祖先を顕彰する絵巻を見て、足利氏の偉大さを天皇も学んでいたのでしょうか。

後花園天皇をめぐる人々−細川持之、後花園天皇綸旨発給の決断

嘉吉の乱足利義教が弑殺され、細川持之が幕政を掌握することになりましたが、持之の優柔不断、無能ぶりが強調され、綸旨を出して嘉吉の乱を終わらせた後花園天皇の引き立て役になっている、というイメージがあります。

 

 

sengokukomonjo.hatenablog.com

 

 

しかし実際には持之はかなり果断に嘉吉の乱の後処理を行なっており、かなり有能な人物であったようです。この辺は詳しくは石田晴男氏の『応仁・文明の乱』をご覧ください。

 


応仁・文明の乱 (戦争の日本史 9)

 

 ざっくり言うと、当日の深夜に朝廷に丹波守護代内藤貞正を遣わして義教の死去と義勝による継承を伝え、天皇からは「頼りにしている」との勅答を引き出しています。翌日には諸大名を招集して後継者と治罰綸旨の奏請を決定しています。さらに赤松攻めの人員を決定し、管領が「政道を申沙汰する」という決定、つまり政務の管領による掌握が決定されています。さらに義教による処分を赦免することも決定しています。

 

翌々日には義教の兄弟四人と義嗣の子が鹿苑院に移され、警固されています。

 

綸旨については翌日には決定していたものの、三条実雅ー中山定親を通って万里小路時房のところまで回ってきたのは一ヶ月後でした。

 

この一ヶ月の間が結局「遅い、グダグダしてから止むを得ず綸旨を出したのか」というイメージになりますが、石田氏は根回しをしていた、としています。

 

万里小路時房のところに話を持ってきたのは中山定親で、「満祐を討伐することについては、将軍後継者が少年であるので、管領が政務をとっているが、人々はどう思っているのか、心もとないので綸旨を申請したい、と管領が言っている」と言ってきました。それに対し時房は「綸旨を申請するのは本義であり、実際永享の乱にも綸旨が出されているのは問題がないが、将軍家の家臣に勅裁を出すには及ばないが、申請がある以上綸旨を出すべき」と答えています。

 

この辺、今谷明氏の『土民嗷々』と石田氏とは少し認識にズレがあります。

 


土民嗷々―一四四一年の社会史 (創元ライブラリ)

 

 今谷氏は基本的に持之を無能とみていて、それを自覚していた分、良心的であったと評価しうる部分があった。としています。それに対して石田氏は持之をしっかりとやるべきことをやっていると評価しています。

 

綸旨に関して言えば私は次のようにかんがえています。治罰の綸旨自体は永享の乱以降、特別なものではなくなっており、綸旨を出すことは既定路線であった。ただ問題は家臣である赤松満祐に対して綸旨を出す、というのがどうか、ということで朝廷内部には逡巡があった、と。時房がグズグズ言っているのも、清原業忠が下痢とゲロで会えない、と嘘を言ったのも、朝廷内部の反対論に配慮したものではないかな、と思っています。ポイントは後花園天皇がそれを押し切り、剰え自分で文案を考えたところで、後花園天皇による朝廷の掌握の第一歩が始まったのではないか、とかんがえています。

 

 


乱世の天皇 観応の擾乱から応仁の乱まで

 

 

源頼義ー武門源氏の雄飛の基礎を作った名将

オンライン日本史講座のお知らせです。

 

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源頼義源義家といえば、義家は「八幡太郎義家」として英雄、頼義はその親父という感じでなんとなく脇役感が強いです。子どもの頃、『八幡太郎義家』という名前の伝記を古本で入手したことがあります。義家は凛々しい若者に、頼義は分別のある渋い中年に、安倍貞任は乱暴者っぽいが人情味あふれる漢に、安倍宗任はインテリ風に、安倍頼時は頑固で一徹で誇り高き英雄に、藤原経清は顔はたぬきづらで卑しい小物の悪人に描かれていました。のちに大河ドラマ炎立つ』では藤原経清藤原泰衡という、あまりよく描かれてこなかった二人を渡辺謙が格好良く演じていて、ものすごいギャップを感じたものです。

 

源頼義といえば河内源氏の棟梁、というイメージがありますが、実は意外と苦労人でもあります。

 

小一条院の判官代を務めていました。平忠常の乱を鎮圧したことで武勇を見込まれ、狩猟好きだった小一条院の相手として選ばれたのです。小一条院三条天皇の皇太子だったのですが、藤原道長の圧力によって辞退に追い込まれ、道長の庇護下に入った人物です。この小一条院に仕えていた、ということは道長との関係は浅からぬものがあった、と言われています。

 

ちなみに最大限元木泰雄氏の『河内源氏』を参考にしています。

 


河内源氏 - 頼朝を生んだ武士本流 (中公新書)

 

「そんなんでは足りない。もっと詳しいものを出せ」と言われたらこれです。


源 頼義 (人物叢書)

 

彼が受領になったのは50歳を目前にした1036年のことで、その時7歳年下の弟源頼清に5年遅れていました。相摸守でした。上国スタートなので悪くはありません。しかし頼義にとって相模国の受領になったことは単にキャリアパスだけではなく、非常に大きな意味を持っていました。桓武平氏嫡流平直方の婿となります。直方の娘との間に義家・義綱・義光の三人の子をもうけ、鎌倉の大蔵にあった邸宅・所領・郎等などの地盤も引き継ぎました。この地盤が河内源氏の東国での繁栄の基礎となり、後の鎌倉幕府につながっていきます。

 

頼義の飛躍の第二ステージは陸奥守です。陸奥守は弟の頼清が数年前にすでに務めており、完全に弟の後塵を拝していましたが、藤原登任が更迭されたことを受けて陸奥守に補任され、受領として赴くことになります。頼義抜擢の理由は、北緯40度以北のエミシの地での動乱でした。エミシの有力者であった安倍頼良が衣川を超えて勢力圏を拡大しようとしてきたのです。それに対し登任は討伐しようとしましたが鬼切部で大敗し更迭されました。

 

この戦乱を鎮圧するために軍事貴族であった河内源氏の棟梁源頼義に白羽の矢が立ったのです。頼義にとって運が良かったのが後冷泉天皇祖母の上東門院(道長息女の彰子)の病気快癒祈願の大赦安倍氏が赦免され、頼良も名前を頼時と改めて頼義に恭順を誓うようになりました。やはり軍事貴族の存在感が大きかったのです。さらに頼義は鎮守府将軍も兼帯し、陸奥国の行政・軍事を掌握します。

 

陸奥守の任期が終了する直前、陸奥国在庁官人(在庁)の一人の藤原光貞から安倍頼時の嫡男安倍貞任から襲撃された、という訴えが入りました。頼義は貞任の出頭を命じますが、頼時はそれを拒否し、安倍氏陸奥国衙の争いが再燃しました。

 

その時に頼時の娘婿で在庁でもあった平永衡を疑って殺しています。これに慌てた同じく在庁で頼時の娘婿であった藤原経清安倍氏サイドに離反します。この一連の動きを亜久利川の戦いといいます。

 

安倍氏の動乱のため頼義は陸奥守に重任されることになります。ここから判断して我々はしばしば「陸奥守の重任を実現するために安倍氏を挑発して戦乱を起こさせたのであろう」と、頼義が陸奥国に勢力を扶植することを狙って一連の事件を起こさせた、と見がちです。しかし私見を言えば、結果から逆算した陰謀論ではないかと思います。頼義からすれば陸奥国への勢力扶植よりも少しでもキャリアを前に進める方が有意義です。子孫がそれだけスタート地点を早めることにもつながります。

 

これは朝廷サイドは当初は頼義の後任を用意したにも関わらず、後任の藤原良綱が任地に赴くのを拒否したため、止むを得ず頼義に引き続き陸奥守を任せたまでで、頼義にとっては不本意であるともいえましょう。

 

頼義がこのまま帰洛して陸奥守の次のステージに進むことで一番損をするのはだれでしょうか。これは藤原光貞ではないか、と思います。在庁の中でも藤原光貞の父の説貞は娘を貞任から望まれていたにも関わらず拒否していました。ようするに安倍氏とは距離を置いていたのです。対して同じ在庁でも経清や永衡は安倍氏と婚姻関係を結んでいました。いわば安倍派と反安倍派が対立する状況にあったのです。そのような中、頼義が帰国し、新たに軍事貴族ではない国守がやってきた場合、安倍派が在庁の中でも力を増しかねません。良綱が安倍氏の武力に頼るようであれば光貞らの立場は悪化します。

 

頼義は津軽のエミシの安倍富忠を離反させ、攻勢をかけます。頼時の従兄弟ともいわれる富忠を説得するために津軽に赴いた頼時を富忠は襲撃し、頼時を戦死させます。しかし頼時を喪ってもなお安倍氏の抵抗は続きます。頼義は追討の官符や兵糧の増援を求めますが、朝廷の反応は鈍いままで、頼義の苦闘は続きます。

 

頼義は黄海の戦いで大敗を喫し、頼義を後援させるために朝廷は出羽守に頼義と同じ清和源氏の満政流の斉頼を任じます。満政は頼義の祖父の満仲の弟にあたり、頼義とは再従兄弟の関係にあたります。しかし斉頼は頼義に協力せず、頼義は単独での戦いを強いられ、戦況は膠着します。

 

藤原経清は国へ納めるべき租税を自らに納めさせるなど、陸奥国は安倍派に乗っ取られてしまいます。そのような状態で二期目の任期が終了しました。朝廷は新任の高階経重を下向させますが、このような状態で交代すると頼義にとってはキャリアが大きく傷つくことになります。さすがに頼義もここで陸奥守を譲るわけにはいかなかったでしょう。赴任した経重に対して在庁や郡司は従わず、前陸奥守の頼義に従ったため、経重は帰京し、頼義は三期目の陸奥守に補任されました。

 

頼義は出羽国のエミシの清原光頼に援軍を依頼します。清原氏はおそらくは出羽国在庁で、様々な説がありますが、京都から降ってきた官人がエミシと通婚して土着化したものと言われています。これも京都と地方のハイブリッドと言えるでしょう。

 

光頼は弟の清原武則を派遣し、武則の力もあって安倍氏は滅亡し、前九年の役終結します。

 

この一連の戦いで一番大きな果実を手にしたのは清原氏です。武則が鎮守府将軍に補任され、安倍氏の旧領を併呑して奥羽にまたがる一大勢力を築き上げることになります。

 

源頼義も伊予守となりました。伊予国播磨国とならんで熟国と言われ、伊予守と播磨守は受領の筆頭でした。ここを経るとあとは公卿としての第一歩である参議への昇進もまっているところですが、頼義はすでに齢80近くに達しており、伊予守のポストは終着点であることは頼義も熟知していたでしょう。それでも河内源氏は伊予守までは射程に納める地位に到達したのです。

 

伊予守を無事勤め上げた頼義は出家し、余生は敵味方の菩提を弔う生活に入り、極楽に往生した、という伝説も残っています。弟に大きく水をあけられながらも最後は伊予守まで昇進し、子孫の雄飛のきっかけをつくった傑出した人物と言えるでしょう。

室町将軍家御教書(『朽木家古文書』47 国立公文書館)

追記:「和州」を和泉国としていましたが、大和国です。

 

古文書入門です。「室町将軍家御教書」『朽木家古文書』47号文書です。

 

「室町将軍家御教書」とありますが、「御判御教書」と名前は似ていますが中身は全く異なります。

 

もともと「御教書」というのは奉書形式の文書の中で偉い人が出す文書のことです。それに対して「御判御教書」は直状形式です。

 

詳しくは以下のエントリをご覧ください。

 

sengokukomonjo.hatenablog.com

 ではとりあえず現物を見てみましょう。

 

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室町将軍家御教書 国立公文書館

まずは釈文から。

近江國高嶋郡朽木庄并不知行

所々文書事、先年於和州之陣

私宅炎上之時、令紛失之旨、佐々木

近江守證状炳焉之上者、不可有

相違之由、所被仰下也。仍執達如件、

享徳二年十二月廿七日 右京大夫(花押)

 

  佐々木朽木信濃守殿

 

差出人が「右京大夫」となっています。右京大夫(うきょうのだいぶ)とは管領細川勝元のことで、この文書は足利義政の意を管領細川勝元が奉じて発給する文書で、命令する人と書く人が異なる「奉書」という形式です。

 

読み下しです。

近江國高嶋郡朽木庄并びに不知行所々の文書の事、先年和州の陣において私宅炎上の時、紛失せしむの旨、佐々木近江守の證状炳焉(へいえん)の上は、相違あるべからずの由、仰せ下さるるところなり。仍って執達件の如し、

 和州、つまり和泉国大和国に出陣中に私宅が焼け、証拠書類が紛失したので、新たに安堵を受けた、という内容です。佐々木久頼の文書にはっきり書いてある(炳焉)ので問題ない、ということです。

室町時代に伏見に飛来したペリカン

こんな記事を見つけました。

 

www.ndl.go.jp

ここのペリカンの説明によると永享2年に京都伏見の舟津で捕らえられたのが日本における最古の記録、ということで、後花園天皇貞成親王に関することには食いつく拙ブログとしてはこれは触れないわけにはいきません。

 

『看聞日記』永享2年閏11月28日条を見ますと、ありました。

一応原文ではなく読み下しで書きます。

 そもそも舟津猟師、興ノせウと云う大鳥一羽之を捕え持参す。鳥の体毛羽白〈鵠(くぐい=白鳥)の如し〉觜長し。下にウタ袋赤く大なり。鳥の勢鵠二許大なり。稀有の鳥なり。珍しき名鳥の間、先ず召し置く。但し預かりは猟師、太刀一これを賜う。

 29日にはこれを義教に見せようとしますが帰途に死んでしまいます。

興ノせウ勧修寺にこれを遣わす。室町殿見参に入るべきのよし申さしむ。しこうして勧修寺申す旨、この鳥恠鳥歟、未だ見聞きせざる鳥なり。左右なく進らせらるべきの条、如何のよし申し返し進らす。しかるに帰路死におわんぬ。乗輿の間長途、輿の中狭少、よって死する歟。不便なり。

 

とまるでペリカンの記事を見てから『看聞日記』を読んでいるかのようですが、実は逆で、広橋兼郷の動向を調べていたら、この記事が目についたわけです。で白鳥の二倍の大きな鳥で、くちばしが長く、大きな袋がある、ってこれはペリカン以外にはないだろう、と思ったのですが、本当にペリカンが室町日本にやってくることはあるのか、と考えて「ペリカン 迷鳥」で調べたら上のサイトがヒットして、「ペリカンでいいんだ」と思った次第です。

 

調べてみましたら、日本にはハイイロペリカン、モモイロペリカン、ホシバシペリカンフィリッピンペリカン)が迷鳥として飛来した記録があるようです。

 

この写真を見る限りハイイロペリカン(Pelecanus crispus Bruch,1832)で決まりだと思います。色が白っぽくてくちばしが赤い、というあたりを満たし、比較的日本に飛来のデータが多いペリカンです。

前九年の役と後三年の役予告2ー武士団の形成

武士団の形成です。

 

6月13日(木)午後8時30分からのオンライン日本史講座の予告編2です。

 

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太秦の映画村に行った時、目の前を小学生が「武士って何〜?」と叫びながら走って行きました。私は思わず「まあ座れ。今から一時間半武士とは何かを話してやろう」と思いました。

 

「武士って何〜?」という問いに対する回答として理解しておかなければならない前提がいくつかあります。

 

まず王朝国家の成立です。

 

10世紀初頭、唐・新羅が滅亡します。これは古代国家の限界の露呈である、と私は考えています。古代国家とは何か、ということですが、ここでは中央集権制と人身支配を基礎とした専制国家としておきます。戸籍などにより、人民を個別に把握し、人身に徴税を行う、というシステムは非常に手間がかかり、膨大なコストがかかります。

 

桓武朝のころには露呈してきた班田制の解体というのは要するに人身支配の破綻であり、班田制を中止する、というのは人身支配の放棄を意味します。

 

日本列島でこのような不効率な人身支配に基づく古代国家が成立したのは唐・新羅の圧力がありました。唐・新羅の脅威に対抗するためには一人一人レベルまで人口を把握し、彼らを徴用し、軍団を組織しなければなりませんでした。しかし唐・新羅の脅威が感じられなくなるとそのようなシステムは無用の長物となってきます。

 

このころ日本では院宮王臣家と言われる有力者が地方の有力者と結託して租税を納めない、という状況が常態化しています。こういう問題はおそらく唐・新羅でも問題になったのでしょうが、これにどう対応するのか、というのが一つのポイントです。

 

この時期、国司に徴税責任を負わせる「受領」の制度ができます。これは中央政府からすればもはや地方の中身については細かいことを言わない、ということです。定められた租税を朝廷に納めさえすれば内実がどうであろうと気にしない、というものです。「受領は倒れるところの土をもつかめ」という逸話は、そのような受領システムを背景としています。

 

受領システムでは国家はそれぞれの国司に請負額をきっちりと納めさせた上でその総額を固定化します。そしてそれに応じた総支出を固定化します。こうして身の丈にあった国家運営が行われました。

 

この辺は坂上康俊氏の次の著作を参考にしました。

 


律令国家の転換と「日本」 日本の歴史05 (講談社学術文庫)

 

 

武士を理解するためには地方の変化だけではだめです。地方の有力者と王臣家が結びついてその中から武士が生まれてくるわけですが、「武士」の「士」はどういうものだったのか、ということです。桃崎有一郎氏は武士の起源を中央の王臣家と地方有力者のハイブリッドと表現しましたが、その中央の部分は次のような感じになっています。

 

貴族とは、ごくごく大雑把に言いますと五位以上の官人です。その中でも上級層を公卿といい、参議以上を議政官といいます。それに対し五位をゴールとする、つまりゴールが貴族の末席という、特定の家職で王朝に奉仕する層を士太夫層といいます。武士というのは士太夫層のうち、武力という家職で朝廷に仕えたいわゆる軍事貴族とその家人たちをいいます。士太夫層のうち、諸国の受領を歴任する受領層が出現してきます。受領は熟国(播磨国伊予国)、大国(陸奥国但馬国など)上国、中国、下国とランク付けされた諸国受領を歴任して最後は参議をゴールとすることが多かったようです。もちろん参議にたどり着けたのは一部だけです。例えば源頼義伊予国平忠盛但馬国でそのキャリアを終えています。

 

さて、武士とは何か、という話にはもう一つ、「職の体系」というタームを理解しないとはじまりません。ちなみに読みは「しきのたいけい」です。「職(しき)」とは職務権限とそれに付随する利権のかたまりです。「職」に任命されますと(これを補任(ぶにん)といいます)、その職務を行う一方でその利権を手にします。「職」の補任が特定の家に固定化していきます。これを「官司請負制」といいます。士太夫層は「職の体系」によって成立しました。

 

日本の軍事機構は律令農民の徴兵から成立していた軍団制から郡司の子弟による健児制を経て「兵の家」と呼ばれる軍事貴族による請負が行われていました。具体的には鎮守府将軍、諸国押領使検非違使などの諸「職」が「兵の家」によって請け負われていました。

 

その「兵の家」の成立過程ですが、延喜の群盗討伐に功績のあった人々、具体的には平高望藤原利仁藤原秀郷の子孫が「兵の家」として固定化していくと言われています。実際には桃崎氏の指摘の通り、これがそのまま武士の始原に結びつくわけではなく、もっと複雑な過程を経ているのであり、その辺は桃崎氏の著作に述べられています。

 


武士の起源を解きあかす――混血する古代、創発される中世 (ちくま新書)

 

 斎藤利男氏は軍事貴族と都の武者という分け方をしています。清和源氏桓武平氏・秀郷流藤原氏のように代々「兵の家」として世襲するのを「軍事貴族」、そういう「兵の家」ではないものの、武力を持って鳴らした人々を「都の武者」としています。

 


北の内海世界―北奥羽・蝦夷ヶ島と地域諸集団

 

 この二つの違いを説明するのに使えるのが「金太郎が清少納言を殺しかける?」というネタです。

 

古事談』には次のような話が載っています。

源頼光が四天王(渡辺綱坂田金時卜部季武碓井貞光)に命じて清原致信を殺させた時、清少納言が同居していたが、法師に似ていたので殺されかけたが、尼であることを証明しようと着物の前をはだけた。

 

 これは実際にはかなり違うようです。

 

清原致信は大和守藤原保昌の郎党でした。保昌と甥で大和源氏の棟梁であった源頼親と対立し、頼親の郎党であった当麻為頼の殺害事件に関与しました。それに対する報復として頼親は致信の邸宅を襲撃させ、殺害したのです。

 

致信が清少納言の兄であるのは事実です。致信や清少納言の父親は三十六歌仙の一人としても名高い清原元輔で、曽祖父は古今和歌集歌人として名高い清原深養父です。したがって彼らは代々武力とはそれほど関係のない家です。にも関わらず致信は武勇に秀でた藤原保昌の郎等として殺害事件に関与し、彼自身も殺害されました。どうやら彼は武勇で保昌に仕えていたとしか考えられません。彼個人の意思で武力に手を染めていたのでしょう。

 

一方源頼親大和源氏という武士団の棟梁で、彼の父親は源満仲、祖父は源経基という、代々武勇を以って仕えた家柄です。源経基清和天皇の孫と言われており(陽成天皇の子孫という説もあり)、彼自身は承平・天慶の乱で活躍します。息子の満仲は摂津に勢力を扶植し、満仲の三人の子息の頼光・頼親・頼信はそれぞれ摂津源氏大和源氏河内源氏という軍事貴族を形成します。

 

陸奥国が動乱期に入ると陸奥国にも軍事貴族や都の武者が補任されるようになります。橘則光清少納言の夫で武勇に優れた都の武者でした。同じく陸奥守の源頼清河内源氏源頼信の子息です。しかしもっとも有名なのは頼信の長男の源頼義とその子源義家の親子です。