記載されている会社名・製品名・システム名などは、各社の商標、または登録商標です。 Copyright © 2010-2018 SQUARE ENIX CO., LTD. All Rights Reserved.

室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

拙著『乱世の天皇』副読本3ー後光厳天皇の子孫

本エントリは拙著『乱世の天皇』(東京堂出版)の副読本として、歴史に詳しくない方が拙著を読むときに、あった方がいい知識を記しています。

 

『乱世の天皇』–株式会社東京堂出版

 

今回は「後光厳皇統の人たち」というテーマですが、拙著では「皇統」という言葉をよく使います。まずそれについて説明します。

 

拙著では天皇を出す家全体をまとめて「天皇家」と呼んでいます。現在では「皇室」と呼ばれています。「皇室」というのは近代になってからの用語で、「皇室典範」によって定義された皇室のことを指していますので、朝廷という制度のあった前近代(江戸時代以前)に「皇室」という言葉を使うと、近代の皇室との違いが曖昧になるので、何かしら用語を作る方向性になっています。

 

その場合多くの研究所ではそれを「王家」と呼んでいます。当時の用語としては天皇を出す家全体のことを「王家」と呼んでいましたが、一般的に普及している言葉ではないことと、面倒臭いことになったりしますので、「王家」という用語を私は回避しています。

 

そして天皇家はもちろん「万世一系」ではなく、しばしば分裂し、ある天皇の子孫は断絶し、ある天皇の子孫が今日まで続いているのです。拙著ではその系統をその系統の始まりに位置する天皇の名前をとって「何とか皇統」と呼ぶことにしています。

 

ここで関係のあることをいえば、崇光天皇の子孫を「崇光皇統」、後光厳天皇の子孫を「後光厳皇統」と呼んでいます。現在の皇室は崇光皇統の子孫ということになります。

 

前回に崇光天皇に代わって天皇になったのは弟の後光厳天皇だという話をしました。そしてその後は後光厳天皇の子孫が天皇の位を継承します。

 

後光厳天皇の次は後円融天皇です。

 

後円融天皇は色々とやらかしてくれます。

 

息子に後を絶対に継承させたい、と義満相手にパニクります。義満からは「誰が崇光皇統をひいきしようと私がついております」と言われていますが、義満は「言われんでも崇光皇統に天皇を継がせるわけないわな。何をパニクってんだか」と思っていたでしょう。

 

とりあえず後円融天皇は息子の後小松天皇皇位を継承させることに成功します。というよりも

ことここに至っては崇光上皇の子の栄仁親王(なかひとしんのう)を天皇にしようという人はいませんでした。後円融天皇はどっしりと構えていればよかったのです。

 

ただ後円融天皇には引っかかるものがありました。それは三条公忠という内大臣を務める公家が、自分の土地について天皇ではなく義満に訴え出て、義満を通じて天皇にその土地の所有を認めてもらったのです。このように幕府から朝廷に話を通すことを「武家執奏」(ぶけしっそう)といいます。武家執奏を三条公忠は使ったのですが、それが後円融天皇の機嫌を大きく損ねました。

 

後円融天皇は義満からの執奏状を一旦は無視しました。これは不満の表明であり、公忠はそこでやめておくべきだったのですが、公忠は少し空気の読めないところがあったのか、再度義満からの催促を行ってもらいました。

 

後円融天皇は義満や公忠に直接不満を言わずに、公忠の娘で、後円融天皇中宮の三条厳子(たかこ)に「お前の父からの執奏状は受け付けてやる。その代わりにお前とは口もきかないし顔も合わせない」と脅しをかけました。結局公忠はその土地の入手をあきらめました。

 

しかしその後公忠のもとに後円融天皇から「この前の土地は武家執奏に頼ったからダメだったが、別の土地を埋め合わせに与えよう」と言われます。そして実際に公忠は後円融天皇から土地をもらいました。喜んでいる公忠のもとに徳政令が出された、という知らせがとどきます。つまりこの数ヶ月分の土地の取引を無効にする、というものです。しかし後円融天皇はていねいにも「公忠の土地は除外する」という命令もつけてくれました。

 

さあ、どうしましょう。その土地の権利は自分に関してだけは認められています。

 

その土地の権利を手放します、と答えたあなた、正解です。

 

その土地は天皇がわざわざ認めてくれたのだからもらっておくか、と思ったあなた、アウトです。

 

これは後円融天皇のいやがらせです。いわば「ぶぶ漬けでも食うて行きなはれ」です。こう言われて「ぶぶ漬け(お茶漬け)を食べてはいけないのと同じことです。「公忠の土地は俺がしっかり守ってやるからな(だから気をつかって辞退しろ)」ということです。

 

ちなみにここで後円融天皇に逆らうとどうなるのか、といえば、娘の厳子の身に危険が及ぶかもしれません。

 

そのおそれは二年後に現実のものとなります。

 

後円融天皇は義満の助けもあって順調に後小松天皇に位を譲ることができました。しかしその直後に足利義満との対立が始まり、後円融院政はうまく回らなくなります。何事に関しても厳しい義満と、何事に関してもわがままでマイペースな後円融上皇の関係がうまく行くはずがありませんでした。

 

そのような中、厳子は後円融上皇の皇女を産みました。実家で産みましたが、帰ってきたその日、事件が起こります。後円融上皇は厳子に会いたい、と言ってきましたが、衣服の準備が間に合わない、と参上をためらっていたところ、後円融上皇が刀を持って厳子の部屋に乱入し、厳子を峰打ちにします。「峰打ちじゃ、安心せい」とはよく言われる台詞ですが、安心できません。1メートルもある刃物の背中で殴りつけられれば怪我もします。しかも日本刀は背中も尖っていますから。

 

厳子は重傷を負いますが、騒ぎを聞いてかけつけた後円融上皇の母親の崇賢門院が上皇を落ち着かせ、三条家に使いを出して厳子を救出させます。

 

上皇がいきなり中宮に切りつけ、重傷を負わせる、というのはものすごいスキャンダルですが、話は拡大して行きます。後円融上皇は自分の側室を追放します。義満と不倫関係にある、と疑ったのです。義満は身の潔白を主張しようと使者を出しますが、後円融上皇は「死んでやる」と立てこもってしまいました。母親の説得で何とかなりました。

 

ちなみに崇賢門院は義満の伯母に当たります。崇賢門院の妹が義満の母親にあたります。つまり義満と後円融はいとこということになります。

 

この事件をきっかけに後円融上皇は政治から遠ざけられ、義満が事実上の院として後小松天皇を支える形ができます。これが義満の事実上の上皇待遇につながり、「義満が天皇になろうとした」とか「義満が天皇家を乗っ取って息子を天皇にしようとした」とか言われる学説を生み出していくことになります。細かいことをいえば「義満が天皇になろうとした」という学説は存在しません。あくまでも義満が上皇待遇を求めた、という話であり、その目的が自分の息子を天皇にしようとした、という話です。その見解を「王権簒奪説」(おうけんさんだつせつ)と言います。これは戦前から主張されていましたが、近年(といっても三十年前)では今谷明氏が『室町の王権』という書物で主張し、一時は多数説となりました。現在では多数説は義満にそのような意図はなかった、という考えですが、現在でも今谷説はアップデートされつつ影響力があり、王権簒奪説も近年では再評価されつつあります。

 

次回は後小松天皇を取り上げます。

 

拙著『乱世の天皇』副読本2ー観応の擾乱

本エントリは拙著『乱世の天皇』(東京堂出版)の副読本として、歴史に詳しくない方が拙著を読むときに、あった方がいい知識を記しています。

 

www.tokyodoshuppan.com

こちらと同内容です。こちらのサイトは小中学校向けに社会の情報を発信しています。場合によっては高校までカバーできるかもしれません。

 

yhatano.com

 

前回は「両統迭立」を見ました。鎌倉時代後半の天皇家が二つに分裂し、交互に天皇を出すようにした結果、後醍醐天皇が暴走して鎌倉幕府をぶっつぶした上に吉野に逃亡して南朝を作り、南北朝時代になってしまった、という話でした。

 

今回は室町幕府の内輪もめである「観応の擾乱」(かんのうのじょうらん)を見ていきます。高校生の日本史ならば出てくるレベルです。小学校ではガン無視、中学校ではもしかしたら「室町幕府では兄弟の争いが起こり」程度に流されるか、全く無視するか、のどちらかでしょう。

 

室町幕府が成立し、足利尊氏室町幕府の初代征夷大将軍になりました。1338年のことです。しかし尊氏はあまりやる気のない人物で、結局幕府の様々な政治は尊氏の弟の足利直義(あしかがただよし)が担当することになりました。直義は有能でやる気がある人物だったので、室町幕府は安定し始めるかに見えました。

 

足利尊氏の執事に高師直(こうのもろなお)という人物がいます。師直は南朝との戦いで力を伸ばしていきました。やがて直義と師直は対立し始め、ついに直義は師直を排除しようと動きます。


しかし直義の師直排除は失敗し、師直は逆に尊氏に迫って直義を追放します。そして直義の代わりに尊氏の息子の足利義詮(あしかがよしあきら)を鎌倉から呼び寄せて直義のあとを継がせます。


一方鎌倉には尊氏の三男の足利基氏(あしかがもとうじ)が新たな支配者として向かうことになりました。ただ基氏は直義の養子になっており、直義の勢力はかろうじて鎌倉に保たれることとなりました。

 

追放された直義は南朝に降伏して尊氏と戦うことになりました。すると師直に不満を持っていた大名たちが一斉に直義に味方をして尊氏と師直はぼろ負けして、直義と仲直りをすることになります。しかし師直は直義によって武庫川で殺されました。

師直を殺された尊氏・義詮と直義の関係はうまくいかず、やがて直義は京都を脱出し、鎌倉に向かいます。

 

尊氏は直義を倒すために南朝に降伏することを決め、さらに北朝を廃止することを決定しました。

 

南朝後醍醐天皇の皇子の後村上天皇になっていましたが、後村上天皇は尊氏の降伏を許し、さらに北朝の元天皇には上皇の称号を与えました。

 

尊氏は安心して鎌倉に向かいました。そして直義を破ると直義を捕まえました。捕まえられた直義はやがて死去しました。毒殺とも病死とも言われていますが、現在は病死という考えが有力です。

 

しかしこれは後村上天皇の策略でした。戦争が上手でカリスマ性のあった尊氏がいなくなったすきをねらって一気に京都に攻め込み、北朝上皇たちを無理やり連れ去ってしまいます。そして義詮は京都から命からがら逃げ出しました。

 

義詮は近江国滋賀県)で体制を立て直し、京都に攻め込んで南朝方を京都から追い出しますが、3人の上皇と皇太子の4人が連れ去られてしまいました。

 

そこで義詮は南朝が探し損ねていた皇子を天皇にします。これが後光厳天皇(ごこうごんてんのう)です。

 

しかし何の正統性もない後光厳天皇には権威がなく、北朝南朝の捕虜になっていた光厳上皇らの支持も得られませんでした。室町幕府による室町幕府のための天皇でした。

 

やがて南朝は捕虜を返してきましたが、室町幕府でも北朝でも扱いに困りました。彼らは相手にされず、光厳(こうごん)上皇はやがて丹波の山奥のお寺に引きこもり、そこで亡くなります。光明(こうみょう)上皇は関西各地のお寺参りに向かい、やがて亡くなります。

 

問題は後光厳天皇の兄の崇光(すこう)上皇でした。彼はあくまでも天皇は自分である、と言い張り、できれば自分の息子に天皇を譲れ、といいます。幕府でも扱いに困り、「天皇の位のことは天皇の思い通りにさせます」として後光厳天皇とその子孫を守ります。

 

崇光天皇とその子孫は室町幕府北朝からの嫌がらせを受け、急速に力を失っていきました。崇光天皇は結局京都から追い出され、伏見に住むことになり、その子孫は伏見宮家(ふしみのみやけ)となります。

 

南朝はその後も北朝および室町幕府と戦い続けますが、こちらも追い詰められ、1392年に当時の後亀山天皇から後小松天皇天皇の位を示す宝物である三種の神器(さんしゅのじんぎ)を引き渡し、ここに南北朝合体が成立しました。

 

次は後光厳天皇とその子孫について述べていきます。

拙著『乱世の天皇』副読本1ー両統迭立

拙著『乱世の天皇』(東京堂出版)は一応東京堂出版という歴史・古文書を中心とした出版社から出ています。

 

www.tokyodoshuppan.com

 

そのため、かなりコアな歴史ファン相手のため、全く歴史をご存じない人にとっては通読するのは少し骨が折れるかもしれません。私が教えている塾の教え子も購入してくださっていたりするので、ここでしばらく『乱世の天皇』を読む際に知っておいて損はない歴史知識を解説していきます。

 

これは私の勤務先の塾の生徒を対象にしたサイトからの転載です。拙著を押し付けられたりして読もうと思うが、基礎的な知識をつけておきたい、というニーズを満たすために書きました。

yhatano.com

それをこちらにも転載しておきます。

 

まず第一回は「両統迭立」を解説していきます。ちなみに「りょうとうてつりつ」と読みます。この「両統迭立」を理解しておくと、南北朝時代という時代がよくわかります。学校の授業もワンランク上の知識を身につけることでよりわかりやすくなる、と思います。

そもそも「両統迭立」とはどういう意味でしょうか。一言で言えば、天皇家が分裂し、代わり番こに天皇を出す状態になることです。

日本の歴史上、両統迭立は二回おきました。一回目は平安時代の真ん中です。

村上天皇のあとに天皇になったのは冷泉天皇でした。しかし冷泉天皇は精神病であったと言われています。これについては議論がありますが、とりあえず一般に言われていることに従います。容姿端麗(ようするにイケメン)だったようです。しかし精神疾患のために2年で弟の円融天皇天皇の位を譲ります。

円融天皇の次に天皇になったのは冷泉天皇の皇子の花山天皇でした。しかし花山天皇藤原兼家藤原道長の父親)によって天皇の位を引きずり降ろされ、兼家が推す一条天皇が即位します。一条天皇のあとは冷泉天皇の皇子で花山天皇の弟の三条天皇が即位しました。

藤原道長両統迭立は望ましくない、と考え、皇統の一本化を進めます。三条天皇に嫌がらせを繰り返して三条天皇を追い込んで後一条天皇に譲位させます。三条天皇は譲位するかわりに自分の皇子を皇太子にしますが、三条天皇の死去後には皇太子を追い込んで辞退させ、円融皇統に天皇家を統一します。

二度目の両統迭立鎌倉時代に起こります。この時の両統迭立については拙著『乱世の天皇』に書いてあります。系図も『乱世の天皇』の12ページをご覧ください。

もう少しわかりやすく解説します。

後嵯峨(ごさが)天皇は自分の皇子の後深草(ごふかくさ)天皇に位を譲りましたが、その後もう一人の皇子を即位させます。亀山(かめやま)天皇です。これは二人の両親である後嵯峨天皇と大宮院西園寺佶子(きつこ)が後深草天皇よりも亀山天皇を可愛がっていたから、と言われています。

考えればひどい話で、さらに亀山天皇は自分の息子を皇太子に立てます。後深草天皇は死去するときに後継者を決めませんでした。鎌倉幕府に丸投げしたのです。後嵯峨天皇鎌倉幕府のおかげで天皇になれたようなものでした。だから鎌倉幕府に任せたのは恩返しだったのでしょう。しかし鎌倉幕府にとっては迷惑な話です。鎌倉幕府は大宮院にたずねたところ、大宮院は「今のままでええんちゃうか」という返事でした。

そこで鎌倉幕府亀山天皇とその子孫を天皇にすると一旦は決定します。亀山天皇の次は後宇多(ごうだ)天皇になりました。そこで後深草天皇がごねだします。それはそうですね。「オレ、何も悪いことしてないのに、なんで後継者から外されなあかんねん」というものです。

さすがに気の毒に思った鎌倉幕府は「後宇多天皇の次の天皇後深草天皇の息子さんでどうですか」といいます。鎌倉幕府に逆らえません。ここに後深草天皇の子孫も天皇になることが決まりました。

亀山天皇の子孫はのちに後宇多天皇大覚寺(だいかくじ)というお寺に住んだため、「大覚寺統」と呼ばれます。一方後深草天皇の子孫は、代々御所が持明院(じみょういん)というお寺の近くにあったために「持明院統」と呼ばれます。

鎌倉幕府では「元寇」(学問的にはモンゴル襲来ということが多いですが、小学生・中学生及びそのご父母を対象としている本ブログでは教科書に多く使われている言葉にします)のあと、北条時宗が死去したことをきっかけにした争いがおこりました。「霜月騒動」といいます。北条時宗の妻の実家である安達泰盛(あだちやすもり)が、北条時宗の家来である平頼綱(たいらのよりつな)と争い、滅ぼされます。安達泰盛の領地は御家人たちに元寇のほうびとして分けられたため、元寇の結果、御家人の不満が高まって鎌倉幕府の力が弱くなった、というのはウソです。

安達泰盛亀山天皇と仲が良かったため、大覚寺統安達泰盛の保護下にありました。しかし安達泰盛が滅ぼされると大覚寺統の立場は悪くなり、鎌倉幕府の将軍も後深草天皇の皇子の久明(ひさあきら)親王になります。そして幕府は後宇多天皇から伏見天皇天皇を変え、さらに伏見天皇の皇子を皇太子にします。ここに持明院統天皇を独占するかのように見えました。

しかし張り切りすぎた伏見天皇に対し、幕府も警戒します。さらに幕府でも平頼綱が滅ぼされ、安達泰盛に近かったグループが力をもち、伏見天皇は自分の皇子の後伏見(ごふしみ)天皇天皇にしますが、鎌倉幕府後宇多天皇の皇子を皇太子にします。そして後伏見天皇はさずか3年で天皇をやめさせられ、後宇多天皇の皇子の後二条(ごにじょう)天皇天皇になります。

後伏見天皇の皇太子となったのは後伏見天皇の弟の富仁(とみひと)親王でした。そして後二条天皇が急死して富仁親王天皇になります。花園天皇といいます。

花園天皇後伏見天皇に子供ができるまでのワンポイントリリーフでした。

一方後二条天皇の死去と花園天皇天皇になったことを受けて大覚寺統後宇多天皇は勝負に出ます。後宇多天皇が皇太子に据えたのは花園天皇よりも十歳も年上の尊治(たかはる)親王でした。

これは後二条天皇の皇子の邦良(くによし)親王後宇多天皇の本命だったのですが、ここで邦良親王を皇太子にすると、その次の皇太子には持明院統から出ることになります。そこで後宇多天皇は尊治親王をワンポイントリリーフとして邦良親王の成長を待ち、大覚寺統による天皇家の独占を狙ったのです。

花園天皇は十年たって天皇をやめさせられ、尊治親王天皇になります。有名な後醍醐(ごだいご)天皇です。この後醍醐天皇だけは小学校で学んでいる皆さんは絶対に覚えておいてください。中学生・高校生・大学生ならばなおさら、社会人も当然覚えておくべき人物です。

後宇多天皇の考えはうまくいくはずがありませんでした。後醍醐天皇は自分の子孫に天皇を継がせたい、と考え、両統迭立をぶっ潰そうと考えます。そして両統迭立の大元である鎌倉幕府を倒せば自分の子孫が天皇になれるはず、と考え、鎌倉幕府を倒そうとします。

それは皇太子の邦良親王の死去がきっかけでした。邦良親王が死去し、後醍醐天皇は自分の皇子を皇太子にするように求めます。しかし鎌倉幕府両統迭立の原則に従って持明院統後伏見天皇の皇子である量仁(かずひと)親王を皇太子にしました。後醍醐天皇は「絶対に鎌倉幕府をぶっつぶしてやる」と決意し、立ち上がりました。これを元弘の変(げんこうのへん)と言います。

元弘の変で後醍醐天皇に協力したのが楠木正成(くすのきまさしげ)らでした。ゲリラ戦で鎌倉幕府の大軍を苦しめましたが、結局後醍醐天皇は敗れ、とらわれて隠岐の島に流されます。後醍醐天皇の次には量仁親王天皇になりました。光厳(こうごん)天皇といいます。

しかし後醍醐天皇隠岐の島を脱出し、鎌倉幕府の打倒を呼びかけます。楠木正成の戦いも幕府を追い詰め、最後は足利尊氏新田義貞という有力御家人にも裏切られて鎌倉幕府は滅び、京都を脱出した後伏見・花園・光厳天皇らはとらわれて後醍醐天皇のもとに送られ、光厳天皇天皇ではなかったことにされました。

後醍醐天皇による新しい政治(建武の新政)は足利尊氏の離反によって失敗に終わり、尊氏は光厳天皇を盛り立てて室町幕府を立てます。後醍醐天皇は吉野に逃亡し、そこで室町幕府に対する戦いを開始します。足利尊氏光厳天皇の弟を光明天皇として擁立し、光厳天皇による院政を開始させます。室町幕府のもとでの京都の朝廷を北朝といい、後醍醐天皇の朝廷を南朝といいます。

ここに天皇が二人並び立つ南北朝時代がはじまりました。

 

拙著『乱世の天皇』見どころ9ー巻末の参考文献

ツイッターの相互フォローさんのツイートで嬉しいものがありました。拙著『乱世の天皇』(東京堂出版)巻末の参考文献欄にご注目くださっています。そこも私なりに一つのこだわりとなっています。

 

www.tokyodoshuppan.com

なお拙著は現在全国の書店で好評かどうかは分かりませんが、販売中です。書店でお見かけの際には購読いただけますと幸いです。

 

参考文献一覧の上がっていない書物もありますが、やはり参考文献一覧はあった方が親切かな、と思います。もっと深く学びたい、と思った時に参考文献一覧があるとやはり違います。また自分の書いていることが先学の業績があってこそ、ということも事実なので、そういうことを示すためにも載せておいた方がいいかと思います。

 

ただこれはそのうちに記事にしますが、「ペルソナ設定」と関わりますので、一概に言えない点でもあります。

 

拙著ではその辺は比較的ディープではないペルソナ設定をしています。そこで参考文献には基本的に入手しやすい一般書を並べ、論文集や個別論文は基本的には入れない、という方針にしています。しかし本文中で名前を挙げた論文集や論文は参考文献一覧に名前を入れています。その結果、非常に重要な論文集が脱落してしまう、というアクシデントもありました。ひそかに頭を抱えています。「俺の論文集が載っていないではないか、あいつの論文集は載っているのに」ということがありましたらなにとぞご海容をお願いします、という意味のことを一応書いておりますので、ご海容を。

 

で、相互フォローさんにも喜んでいただけたのは、史料の概要をつけたことです。

 

f:id:ikimonobunka:20200730182827j:plain

こういう感じです。これは拙著の312ページです。

 

実はモデルがあります。これは今谷明先生の『土民嗷々ー一四四一年の社会史』(東京創元社)のスタイルを模倣しました。ただ今谷先生の著書には詳細な説明がついていて、ものすごく勉強になります。しかし私の能力ではそこまで及ばず、簡易な説明をつけるにとどめています。

 

簡便であれ、史料の説明とその史料がどの史料集に載っているのか、を記すことで、より深く自分で史料を繙いて調べたい、という要求にも対応できると思います。特にレポートや卒業論文を執筆する学生さんのお役に立てるのではないか、と思っています。

 

心残りは年表を付けなかったことです。実は作ってはいたのですが、後花園天皇の分だけで、光厳天皇から新しい年表を作り直す根性がなかったことが大きな原因です。あとは紙数もギリギリだった、という面もあります。

 

後花園天皇に限定すれば、弊ブログの「後花園天皇の生涯」に詳細な年表があります。そちらをご覧いただければ幸いです。

 

ここから先は拙著の状況を。

 

ちなみに私のお知り合いの編集者によると丸善丸の内本店様においては平積みになっているそうで、大変嬉しく思います。ありがとうございます。

 

honto.jp

 

大学院時代の後輩によると、丸善京都本店様では面陳(本の表面を向けて陳列すること)だったそうです。地元での厚遇、大変嬉しく思います。ありがとうございます。

追記(7月31日)、売れていたのか、返本されたのか、なくなっていました。

honto.jp

 

私の通勤の途中にあるブックファースト四条大宮店様の歴史本コーナーにもありました。まさかいつもお世話になっている書店に置かれるとは感激の極みです。ありがとうございます。

 

www.book1st.net

塾の教え子の情報によるとジュンク堂西宮店様にも入荷しているようです。こちらも仕事帰りに寄らせていただいており、同じくお世話になっている書店に置いてある、というのは感激です。ありがとうございます。

honto.jp

 

 


土民嗷々―一四四一年の社会史 (創元ライブラリ)

 

拙著『乱世の天皇』見どころ8ー天皇家の名前

拙著『乱世の天皇』の読み仮名の苦労を前エントリでしましたが、天皇家の諱(いみな)は結構苦労することが多いです。

 

茂仁(とよひと)=後堀河天皇

秀仁(みつひと)=四条天皇

豊仁(ゆたひと)=光明天皇

幹仁(もとひと)=後小松天皇

成仁(ふさひと)=後土御門天皇

方仁(みちひと)=正親町天皇

 

このあたりは難読でも上位に来ると思います。

 

で前回のエントリで後花園天皇の祖父にあたる栄仁親王をどう読むか、というネタを入れ忘れていました。というか、もともと前回のエントリはこれが話の中心だったのですが、いろいろ書いているうちに本当に書きたかったことを書き落としていたことに先ほど気づいて新しいエントリとして立ち上げました。

 

栄仁親王は「よしひとしんのう」と入れれば、だいたい二番目に出てくるのではないか、と思います。一番目はもちろん「嘉仁親王」(大正天皇の諱)です。で、多くの本では「よしひとしんのう」とふりがながついているはずです。

ところが飯倉晴武氏の『地獄を二度も見た天皇 光厳院』(吉川弘文館歴史文化ライブラリー)では次のように書かれています。

栄仁の読みは明治初期作成の『伏見宮系譜』に「ヨシヒト」と付けられ、それが広まったが、東山御文庫所蔵『立親王次第』に「賜御名字」として「栄仁 」に「ナカ、中」と注記されているので「なかひと」が正しい。

 従って拙著では「なかひと」と読むことにしました。桃崎氏は「ながひと」と読んでいますが、とりあえず飯倉氏に従うことにしています。

 

光範門院から取り上げられた干鮭と昆布の公事を足利義教から拝領した常盤井宮明王ですが、これは「なおあきらおう」と読んでいます。

常盤井宮家の初代が恒明(つねあきら)親王であることから、その子孫も「明」を「あき」ではなく「あきら」と読んでいたであろうと考え、「なおあきら」を採用しました。その結果弊ブログには「直明ラオウ」という、北斗の拳に出てくるキャラクターが出現しています。

 

読みではなく、漢字の表記で難しいのは伏見天皇の諱の「熈仁」(ひろひと)です。これ、「コトバンク」に収められた辞書では「熙仁」(ひろひと)と表記されているので私も悩みました。「熈仁」ではウィキペディアに従うことになりますから。

こういうのはご本人に聞くのが早いです。京都国立博物館所蔵の「伏見天皇宸翰願文」の写真が我が家にあります。京都国立博物館特別展図録『宸翰 天皇の書 御手が織りなす至高の美』に収載されています。はっきりと「熈仁」と書いてあります。というわけで今回のウィキペディアvsコトバンクウィキペディアの勝ち。

f:id:ikimonobunka:20210518093944j:plain

 

他に山国荘(やまぐにのしょう)にある「山国陵」(やまくにのみささぎ)というのも面倒くさいです。ちなみに後花園天皇はその意図としては「山国陵」に埋葬されたはずですが、後世になって政府が光厳天皇を歴代から外しついでに後花園天皇光厳天皇の御陵を名前だけ別物にしてしまったため、今日では「後山国陵」(のちのやまくにのみささぎ)としています。この辺は宮内庁に従っています。

 

面倒くさい案件としては天皇の代数があります。

巻頭の天皇家系図ではわざわざ「宮内庁に従う」と注記をしています。「お前は神武天皇などを実体化するのか」という問題もありますが、直接的には、後花園天皇自身は自分を104代天皇と考えていたわけです。だから単純に「102代後花園天皇」と書くのは妥当を欠きます。

 

2代分のズレは次のようにして出来上がっています。

 

初代神武から14代仲哀までは現行と変わりません。ところが大正15年の「皇統譜令」によって15代天皇神功皇后(神功天皇)が削除され、一代少なくなります。

 

次に38代天智天皇、39代天武天皇とされていましたが、明治3年に壬申の乱で死去した大友皇子が新たに代数に加えられ、39代弘文天皇となり、天武天皇以降は一代繰り下がります。

 

次に46代天皇孝謙称徳天皇は途中に大炊王に譲位しますが、のちに大炊王は廃され、廃帝、のちに淡路廃帝と名前が変わりますが、明治3年に淳仁天皇として歴代に入れられ、二代繰り下がります。つまり46代孝謙天皇だったのが、46代孝謙天皇・47代淳仁天皇・48代称徳天皇となったのです。

 

さらに84代順徳天皇・85代後嵯峨天皇だったのを、85代に仲恭天皇を入れます。

 

さらに現在は96代後醍醐天皇・97代後村上天皇・98代長慶天皇・99代後亀山天皇となっていますが、これは後花園天皇のころには96代後醍醐天皇・97代光厳天皇・98代後醍醐天皇重祚・99代光明天皇・100代崇光天皇・101代後円融天皇・102代後小松天皇・103代称光天皇・104代後花園天皇と数えていました。

 

こういうことをグダグダ書いても読む方はしんどいだけかな、と思ってオミットしていますが、本当はこういうところをしっかりしておかないといけませんね。

 


地獄を二度も見た天皇 光厳院 (歴史文化ライブラリー)

 

 

拙著『乱世の天皇』見どころ7ー読み仮名の苦労

これは「見どころ」というか、苦しむところなのですが、読み仮名の苦労です。

 

読み方が定まっている名前は簡単です。「足利義政」というのはそれなりに歴史に関心のある方であれば読み仮名は不要でしょう。しかしもちろん拙著を手に取られ、読んでいただく方の中には私と関係があるから仕方なく読む(例えば知り合いで手渡された(押し付けられた)のでとりあえず読んでみるか、というノリ)場合、「足利義政」を「あしかがよしまさ」と読めないことも十分考えられます。したがってこういうのもしっかりとつけます。

 

後花園天皇の父の貞成親王を「さだふさしんのう」と読める人はかなり室町時代の皇族に関心のある人でしょう。こういうのはしっかりと読み仮名をつける必要があります。おそらく拙著をわざわざ手にしてくださる方の多くは室町時代の皇族に関心のある方っでしょうから、読める可能性が高いです。しかし書籍として書店にも並んでいる状況であれば、「貞成親王」を読めない人々にこそ手に取っていただいて、読んでいただくことが必要です。拙著には私の推しの「後花園天皇」を一人でも多くの人々に知っていただきたい、という目的があるからです。

 

斯波義将」はどうでしょう。「しばよしまさ」と読まれることも多いですが、最近では「しばよしゆき」と読まれることの方が多いです。「金沢貞将」も「かねざわさだゆき」「かねさわさだゆき」が多数派となっています。ここは濁るか濁らないのか悩みますが、当時は「かねさわとの」というように濁点をつけないのでどちらかわかりません。拙著では私の好みで「かねさわ」と濁点をつけませんでした。

 

実は「斯波義将」は「しわよしゆき」と読む可能性もあり、現に桃崎有一郎氏の『室町の覇者 足利義満』(ちくま新書)では「しわよしゆき」と読んでいました。こういう場合、かなり桃崎氏の読みが正しいという気もするのですが、「しわよしゆき」を採用すると桃崎氏の本べったりになるのもなんだかな、という意味不明の理由で今回は「しばよしゆき」を採用しました。

 

「勧修寺」をどう読むか、というのも難しい問題です。貴族の家名の場合と寺院を指す場合があり、寺院の場合は「かじゅうじ」にしていますが、人名の「勧修寺経成」は「かんじゅじつねなり」を採用しました。これは貞成親王が「くわんしゅし」と書いていた(どこかは今見つかりません。見つかれば追記します)ので、貞成親王自身の表記に従いました。これも「かんしゅじ」と桃崎氏は読んでいて、従おうかな、と思いましたが、なんとなく見送りました。

 

花山院持忠」も「かざんいん」と読み仮名をつけるのが多いですが、桃崎氏は「かさのい」としていて、これも以下同文でした。これについては春日大社宮司の花山院弘匡氏が「かさんのいん」と読まれていることに従いました。この辺勧修寺家とは方針がブレブレですが、貞成親王自身の読みを尊重した結果、とご容赦を。

 

後小松天皇第二皇子の「小川宮」はかなり迷いました。「おがわのみや」が多いのですが「こかわのみや」と読んでいるケースもあり、私もなんとなく「こかわのみや」と読んできたのでそれを踏襲しました。その背景は小川宮の名前の由来となった小川亭は現在の「小川通」(おがわどおり)ですが、この由来が「小川」(こかわ・こがわ)が流れていたことに由来しますので、室町時代には「小川亭」(こかわてい)だったと考えられるからです。

 

『看聞日記』応永31年(1424)五月六日条に「土岐与安」が甘露寺兼長の息女の仙洞伺候女房の大納言典侍と密通した、という記事があります。石原比伊呂氏の『北朝天皇』(中公文庫)では「ときよあん」と読んでいますが、拙著では「よやす」と読みました。「与安」さんは伊勢守護であり、土岐氏の惣領とあります。伊勢守護といえば当時は「世保持頼」(よやすもちより)が任ぜられており、応永31年に解任されていますので、これは「ときよあん」ではなく「ときよやす」と読むべきだと考えます。拙著では「世保持頼」と表記しています。『看聞日記』では当て字が多いですから、これもその類だろう、と「与安」表記についてはオミットしています。

世保持頼は後花園天皇践祚のころに伊勢守護に返り咲きます。しかし永享12年に大和国に在陣中に義教の命によって討伐されてしまいました。

 

一番悩んだのは女性の名前です。読みもあいまいなので一番よく目にするものを選びました。通陽門院「厳子」は「いつこ」か「たかこ」か最後まで悩み、適当に「たかこ」を洗濯選択しています。ずっと「げんし」と読んできたもので。

 

他には敷政門院「幸子」も悩みます。「さちこ」か「ゆきこ」か。これは当時の人名には「ゆき」と読むケースが多いことから「ゆきこ」を採用しました。ちなみに私自身はずっと何の根拠もなく「さちこ」と読んでいましたが。

 

こういう場合音読みで読めば問題は回避できます。「げんし」「こうし」。そういえば大宮院「佶子」(後嵯峨院中宮)も「きつし」と読んでおけば問題ありません。後京極院「嬉子」(後醍醐天皇中宮)も「きし」で大丈夫です。

 

当初はそれでふりがなをつけていったのですが日野「富子」ではた、と止まりました。これを「ひのふし」とふりがなをつけるのか?と。これはさすがに「とみこ」とすべきでしょう。としたら「きし」と「とみこ」の整合性をどうするのか。

 

そこで急遽「富子」(とみこ)に合わせて訓読みに変更する作業開始です。

 

一番の問題は「嬉子」です。ウィキペディア先生は「さちこ」の読みを採用しています。しかしそれについての出典は「推測」とあるので、独自研究の可能性もあります。これを無批判に採用すると『ウィキの天皇』と揶揄されても仕方がありません。ウィキペディアの安直な利用は受講生にも戒めています。私は「使ってもいいが、かならず他の文献などでロンダリングしなさい」という立場です。

結局「よしこ」を採用しました。ずっとそう書かれた書物を読んでいて一番慣れていたからです。これが正しいのかどうかは自分でも自信はありません。

ちなみに「佶子」は「きつこ」とブロガーかツイッタラーにいそうな名前になりました。

 

第八章では同じ室町天皇論の書物との差異化をつけるために「後花園天皇の時代の海域アジア」という章をつけました。ここでも読み仮名は苦労します。問題は朝鮮王朝の名前です。

現在韓国と中国のように漢字表記をどのようにするのか、というのは「相互主義」を採用しています。拙著でも相互主義の原則に従いました。つまり朝鮮王朝の読み仮名は韓国語読みを採用し、明王朝については「明」(ミン)を除いては日本語読みを採用しています。

この理由は「相互主義だから」という理由よりは、単純に私がその方が慣れているからです。慣れている理由が相互主義だから、ということなので、最終的には相互主義だから、ということにはなりますが。

 

「世宗」を「せいそう」と読むことにはどうしても慣れなかったのです。しかし「世宗」を(セジョン)と読むと、今度は「議政府領議政」を「ぎせいふりょうぎせい」と読んだら格好がつきません。苦労して「ウイジョンプヨンイジョン」とふりがなをつけました。はっきりいって少し後悔しました。

 

ちなみに『乱世の天皇』を私はずっと「らんせのてんのう」と読んできましたが、奥付を見たときに「らんせいのてんのう」とあって、実際に辞書を見ると「らんせい」が正しいことを知って衝撃を受けています。

 


室町の覇者 足利義満 (ちくま新書)

 


北朝の天皇-「室町幕府に翻弄された皇統」の実像 (中公新書 2601)

 


乱世の天皇 観応の擾乱から応仁の乱まで

 

拙著『乱世の天皇』見どころ6ー後花園天皇の晩年

後花園天皇(厳密には上皇、以後全て後花園天皇に統一する)の出家は帝王不徳の責めを感じて出家したのは事実ですが、それはいわゆる引責辞任というようなものではありません。後花園天皇は閉眼の直前まで、さらには死後もなお「戦い続けた天皇」でした。

 

拙著『乱世の天皇』は事実上後花園天皇の評伝です。あまり知名度はありません。何しろ「後花園天皇応仁の乱」という演題でご来場の皆様にお尋ねしたところ、80人中二人しかご存知なかった、とか、亀田俊和氏の『観応の擾乱』(中公新書)の出版が決まった時に「あの亀田さんが『観応の擾乱』を出すとは素晴らしい!」と感動していた弟も後花園天皇について「誰や?」と言っていた、とか、後花園天皇推しの私の周りには「後花園天皇、誰?」感がただよっています。

 

室町時代天皇というのは長らくマイナーな分野で、私からすれば意外と一般書も出されている、という印象ですし(今谷明氏の『室町の王権』(中公新書)と一連の業績とか)、この20年ほどは研究が着実に前進している、と思うのですが、まだまだマイナー感はたっぷりです。

 

渡邊大門氏も『奪われた三種の神器』(講談社現代新書、のち草思社から再刊)、『戦国の貧乏天皇』(柏書房)で室町・戦国時代の天皇を論じ、その中で後花園天皇も多く出ています。

 

今年に入ってに来て久水俊和・石原比伊呂両氏の編による『室町・戦国天皇列伝』(戎光祥)、久水俊和氏の『中世天皇葬礼史』(戎光祥)、石原比伊呂氏の『北朝天皇』と室町天皇本が続いて出されています。そこに便乗するかのように拙著『乱世の天皇』(東京堂出版)も出版されたわけですが、実は忘れてはならないのは2018年に石原氏は『足利将軍と室町幕府』(戎光祥)を出していらっしゃいます。これは題名に「天皇」「朝廷」が入っていませんが、朝幕関係について丹念に分析した書物です。

 

この一連の著作の中で拙著のアドバンテージといえば「後花園天皇に特化している」です。一方致命的な欠陥は、といえば「後花園天皇に特化している」です。どちらにせよ私の溢れ出る後花園天皇愛を思う存分発揮した書籍です。

 

その結果、後花園天皇の晩年についてもいくつか新しい見方を提起できるようになりました。知名度のほぼない後花園天皇ですが、治罰綸旨とか、足利義政への漢詩による叱責はいささか有名なネタです。そしてこれらから後花園天皇の名君伝説も作られるわけですが、特に治罰綸旨に関していえば、綸旨をばらまいて混乱に拍車をかけただけ、という批判も見られます。

 

それはその通りで、うまくいくこともあれば、単に混乱に火を注ぐだけ、ということもありました。

 

そして拙著ではそのことに関する後花園天皇の苦悩に初めてクローズアップしたのではないか、と自負しています。晩年に彼は出家しますが、それは帝王不徳の責めを負って出家し、引責辞任のようなイメージを受けますが、それは正しくありません。

 

彼は出家後も治罰院宣を出し続け、特に後南朝の壊滅のために執念を燃やし続けます。そして晩年の後花園天皇の執念の原動力は、私は弟の貞常親王に送った手紙にあると思います。

 

後花園天皇の貞常親王宛の手紙には後花園天皇自身の戦争責任に触れられており、出家の覚悟が載せられていることから、この時の手紙の隠遁の願いと、実際の出家を一連のものとして後花園天皇の厭世的な隠遁願望とその実現と把握する傾向があるように思います。

 

しかし後花園天皇のその後の動きを見れば彼が隠遁する気が全くなかったことが伺えます。

 

貞常親王に送った書状は、確かに出家して伏見に隠遁したい、という願望を出していました。そこには具体的な決行の日時まで記されていました。しかし後花園天皇はそれを実行せず、逆にそれ以降も応仁の乱の収拾のために奔走します。出家の願いを出したころの後花園天皇の心情と、実際に出家を遂げた時の心情は全く異なったもの、と見なければなりません。何があったのでしょうか。拙著では一つの可能性を提示しています。

 

そして貞常親王後花園天皇の死直後に後花園天皇の無念な心情を書き記しています。貞常親王によって記された後花園天皇の無念な心情についても拙著で論じています。

 

後花園天皇自身、自らが取り返しのつかないことをしてしまったことを自覚し、自らの良心の呵責に苦しみながらこの世を去ったのです。

 

その意味で拙著の表紙は後花園天皇によって引き起こされたこの世の地獄と、その責め苦を生きながらにして背負っていた後花園天皇の苦悩を見事に表したものと考えます。

 


観応の擾乱 室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い (中公新書) [ 亀田俊和 ]

 


文庫 奪われた「三種の神器」: 皇位継承の中世史 (草思社文庫)

 


室町・戦国天皇列伝

 


中世天皇葬礼史 (戎光祥選書ソレイユ第7巻)

 


足利将軍と室町幕府―時代が求めたリーダー像 (戎光祥選書ソレイユ1)

 


北朝の天皇-「室町幕府に翻弄された皇統」の実像 (中公新書 2601)

 


乱世の天皇 観応の擾乱から応仁の乱まで