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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

後花園天皇と同世代の人たち

今年(2019年)は後花園天皇の生誕600年です。ごく一部の後花園天皇ファン以外にはどうでも良い情報ですが、生誕600年です。

 

1419年生誕ということは、応永の外寇の年です。

 

彼らの同時代にどういう人がいるのか、ということを調べてみました。

 

まずは1415年です。琉球王国伊是名島に思徳金(うみとくがね)という人物が生まれました。長じて金丸(かなまる)と名乗り、父を助けて農業をやっていた、と言います。

 

1417年、朝鮮王朝の世宗(せじょん)の第二子として李瑈(い・ゆ)が生まれます。長男が王太子のため、王を補佐することが決まっていました。

 

そして1419年、日本の世襲宮家である伏見宮家の貞成親王の次男として彦仁(ひこひと)が生まれます。伏見宮家は崇光天皇の子孫ですが、皇位から離れて時期が経っており、将来は不透明です。

 

彼ら三人に共通するのが本来王になれないはずの生まれにもかかわらす王に登りつめることです。

 

一番最初に王位に上り詰めたのは彦仁です。彼は天皇家の断絶に伴い、急遽元国王で、当時の国制の頂点の地位にあった後小松上皇の養子となって104代天皇として登極します。わずかに十歳でした。後小松上皇を継承したのか、貞成親王を継承したのか、という争いが起こり、彼の権威は不安定な状態でスタートします。

 

二番目に上り詰めたのは瑈でした。彼は順調に補佐役としての地位を固めますが、兄の国王文宗が急死し、甥の端宗が即位すると首陽大君(すやんてぐん)として弟の「錦城大君(くむそんてぐん)とともに補佐しますが、やがて自らが王位に就くことをのぞみ、癸酉靖難(けゆじょんなん)で端宗を引き摺り下ろした上で後に処刑し、第七代国王に登ります。この辺をドラマ化したのが韓流ドラマ「王女の男」です。

 

最後が金丸で、尚泰久王に気に入られ、出世を重ね、御物城御鎖側官(おものぐすくおさすのそば)の地位につきます。尚徳王奄美遠征に対する反発が強まり、尚徳王の死後にクーデタが起こり、王家が大量に殺害され、金丸が尚円として即位します。第二尚氏です。

 

この時期何があったのでしょうか。

 

やはり大きいのは永楽帝の死去(1424年)です。稀代の軍略家であった永楽帝は明の最大版図を築きます。北はアムール川河口にヌルガン都司を設置し、北アジアの抑えとし、東はあのクビライすら手こずったあの日本を、偉大な洪武帝さえ匙を投げたあのややこしい日本を、永楽帝は武力を一切用いずに、それどころか彼の徳を以って服属させることに成功しました。というよりもあの頑迷な日本が、永楽帝の徳を慕って自主的に臣と称して朝貢してきたのです。西は遠くソマリランドまで軍団を派遣し、麒麟と出会うことに成功します。思っていた麒麟よりも首や脚がやたら長く、網目模様であったのは誤算でしたが。

 


永楽帝―中華「世界システム」への夢 (講談社選書メチエ)

 

しかし永楽帝の膨張しすぎた大帝国はすぐにメッキが剥がれます。日本国王源道義(足利義満)が死ぬとほどなく国王を継承したはずの源義持は明との関係断交に踏み切ります。日本は明の徳を慕ってやってきたのではなく、明の回賜品による利益が目当てだったのです。吉田賢司氏は義持の敬神の意識が、明との断交に至ったとしています。義持の極端な神仏への依存傾向を考えればありうる話です。

  


足利義持:累葉の武将を継ぎ、一朝の重臣たり (ミネルヴァ日本評伝選)

 

モンゴル遠征で死去した永楽帝の後を継承した洪熙帝と宣徳帝は永楽帝の広げた風呂敷をたたむことに専念します。広がりすぎた明の版図を、明の実力にあったレベルに戻すこと、これを仁宣の治と言います。

 

明の圧が抜ける中、琉球では尚巴志による統一が進み、琉球王国が成立します。日本では称光天皇が後継者のないまま死去し、傍系から養子を迎えて皇位を継承させる変則的な形で皇位継承がなされます。それ以前に室町殿が後継者を定めないまま死去したために籤引きで時期室町殿を決定しています。

 

日本では1441年に大きな事件が起こりました。足利義教が家臣の赤松満祐に暗殺されたのです。朝鮮王朝では大きな衝撃を以って受け止められました。いわば国王が、家臣に暗殺されるという前代未聞のことが起こったのです。朝鮮王朝が大きな衝撃を受けたのは、当時朝鮮王朝の窓口となっていた大内持世が巻き込まれて死亡したことが大きかったでしょう。

 

義教の後を継承したのが当時十歳の義勝です。朝鮮王朝の使節が前国王のお悔やみと新国王の祝賀のために来日しました。その使節の一人が申叔舟(しん・すくちゅ)でした。義勝はその使節が滞在中に死去します。後継者は一応定められましたが、彼が室町殿になるのは見送られ、室町幕府管領畠山持国、義勝らの母の日野重子、朝廷のトップであった後花園天皇らの分担によって運営されることになります。この混乱ぶりを申叔舟は冷徹な目で見ていたことでしょう。

 

申叔舟は後に首陽大君に仕え、1452年明への謝恩使となった首陽大君に同行します。そこで彼が目撃したものはまたしても混乱でした。1449年土木の変で正統帝が捕虜となり、急遽景泰帝が即位しますが、翌年には正統帝が帰還します。しかし景泰帝は正統帝を幽閉しています。明の権威も大きく揺らいでいたのです。首陽大君や申叔舟の目には明の混乱は自らの他山の石となったでしょう。

 

1455年、首陽大君はついにクーデタを起こし、王権の立て直しを図ります。自らが国王に登り、反対派を徹底的に弾圧し、申叔舟らを起用して朝鮮王朝を立て直します。

 

日本でも後花園天皇後南朝と後光厳皇統の遺臣の連合によるクーデタ(1443年)、実父の貞成親王との軋轢、極端な言い方をすれば宮廷クーデタ未遂といってもいいような事件(1445)などをくぐり抜け、自らの王権を固めていきます。

 

尚円は一番最後に国王に登りますが、彼が国王に登るのは1469年、つまり世祖死去の翌年、後花園死去の2年前となります。

 

彼が御物城御鎖側官という貿易の責任者から王位に上り詰めたところを見ると、貿易関係を掌握することが琉球では大きなポイントとなることがわかり、王家の傍系から継承している朝鮮および日本とは一線を画していることが伺えます。

 

この時期、北アジアでは明の影響力の減退によって、北アジア諸民族に大きな影響がおよびます。ヌルガンをハブ拠点として交易していた北アジア諸民族はハブを失ったことで模索を続けることになります。アイヌの場合、北のハブを失ったことで南で接する日本の影響を強く被ることになります。コシャマイン戦争はその流れで説明することができます。この点については中村和之氏が下記の本に収録された「コシャマインの戦い」の中で述べていらっしゃいます。

 


週刊 新発見!日本の歴史 2013年 12/15号 [分冊百科]

 

ともあれ、後花園天皇の時代というのは、明の圧倒的な秩序が崩壊し、その影響が大きかった時代と言えるでしょう。この点については今後も検討していく必要があるでしょう。

 

後花園天皇自身はその最後は彼らの中で一番無念の死を遂げたのではないかと思います。自らの判断ミスで大戦を招いてしまい、その終結に向けて執念を燃やす中、急性の脳血管系の病気に倒れ、起き上がれなくなってからも投薬や灸治を指示し続け、発病から数時間後に死去します。最後の足掻きを見ても彼の無念さが伝わってきます。