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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

オンライン日本史講座四月第三回「室町時代の皇位継承」4

無事終わりました。

 

今日のポイントです。

 

まず一つ目。称光天皇崩御した後は貞成親王第一皇子の彦仁王を皇位継承にする、というのは足利義持と後小松上皇の間で決まっていたのは事実ですが、その時称光天皇は回復しているので、この約束は足利義教が義持を継いだ時にも生きていたのでしょうか。

 

ここは私はずれがあるように思います。この約束事は応永32年7月に称光天皇が重体になった時の話ですが、この時後小松は義持と話し合って在位中の崩御はまずいので譲位させなければならないが、実際問題称光の気持ちを考えれば難しいので、崩御後直ちに彦仁王に譲位したことにして乗り切る、ということが決定しています。

 

しかしその時称光は回復し、その翌年には皇女を産ませています。ということは、称光はまだ皇女を産ませることができた、ということを意味します。それは立ち消えになった、とみるのは不自然ではないでしょう。後小松はそう考えたのではないでしょうか。

 

一方義教はそれが継続している、と考えていた節があります。義教は称光危篤の報を受けると後小松に無断で伏見に使者を遣わします。若宮を直ちに若王子に入れなさい、畠山満家を警護に差し向けます、という具合でそれを聞いた伏見宮家は大騒ぎで彦仁を送り出します。

 

後小松は「体調が悪いから」といって面会に応じません。直接書状をもってこいと命じます。

 

後小松は彦仁を践祚させる時に貞成の子として践祚することをいやがっていたのです。義教の方で「仙洞の猶子にします」と言われてそれを一番気にしていたことをカミングアウトしています。

 

この辺の詳細は別記事にまとめてあります。

sengokukomonjo.hatenablog.com

ここでも話題にしましたが、後小松には実は木寺宮常盤井宮というカードが存在していました。他にも護聖院宮玉川宮もいます。こういうのを交渉のカードとして保持していたからこそ、彦仁王を後小松の猶子として践祚させ、後光厳皇統を断絶させない、ということを考えることができたのです。

 

もう一つは話が前後しますが、後光厳天皇の時に「天皇権威の失墜」といっているが、そこはしっかりと実証できているのか、という金子先生からの質問です。

 

要するに神器がない、譲国の儀がない、だから権威がなかった、というだけではなく、権威が失墜していたことを史料で説明できるのか、ということです。そもそも「天皇権威」とはどういうもので、後光厳においてはそれがどのように失墜していたのか、もう少し慎重に説明する余地はあったかな、と思います。まあそこはこれからの課題ということで。

 

あとは禁闕の変のことについて先走りして話しましたが、これは次回説明ということで。

 

今回痛感したのは称光天皇論の必要性です。なんとなく「体が弱く、後継者の誕生は望めなかった」と言われていますが、実際には死去の2年前には皇女を産ませているわけで、後継者の生誕する可能性は実はあったのです。

 

もう一つは称光天皇が病弱だった、と言いますが、それはいつからなのか、ということです。今のところの私のイメージですが、応永25年以降ではないか、と考えています。称光天皇のトラブルについて、健康問題ばかりフォーカスするのは公正さを欠きます。きちんと彼のやんちゃな悪事も取り上げないと虚弱な称光というイメージだけでは正しくありません。

 

小川宮は結構あっさりと流してしまったので、こちらは下記エントリをご覧ください。

sengokukomonjo.hatenablog.com

 

次回は後花園天皇践祚から初めて後土御門、後奈良、後柏原と行きたいのですが、どこまでいけるかわかりません。正親町天皇にはいかないことは確実です。ただ後柏原単独で残すと面倒くさいのも事実で、強行突破を図るか、それとも後花園で喋りすぎてそこで終わってしまう、というアクシデントもあるかもしれません。