後花園天皇をめぐる人々ー後土御門天皇3
後土御門天皇について以前に渡邊大門氏の『戦国の貧乏天皇』を紹介いたしましたが、末柄豊氏が新しい『戦国時代の天皇』(日本史リブレット)を出しています。
後土御門天皇から正親町天皇までの戦国時代の天皇について述べています。
渡邊氏・末柄氏の著作に加えて、神田裕理氏編の『ここまでわかった 戦国時代の天皇と公家衆』(洋泉社歴史新書y)を読むと現段階における戦国時代の天皇制研究の到達点がだいたいカバーできるかと思います。もちろん大学で専門的にやろうとするならば、ここから今谷明氏の研究、奥野高広氏の研究などに遡って見ていく必要がありますし、雑誌論文でもかなり進んできています。
ここまでわかった 戦国時代の天皇と公家衆たち―天皇制度は存亡の危機だったのか? (歴史新書y)
- 作者: 日本史史料研究会,神田裕理
- 出版社/メーカー: 洋泉社
- 発売日: 2015/12
- メディア: 新書
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後土御門天皇の最大のポイントは金欠であった、ということです。
葬儀を出す費用が捻出できずに遺体が40日間以上放置されていた、という伝説があります。実際には防腐処理がなされていたはずであり、それほど損壊しなかったのではないか、と見られていますが、水銀を流し込んだくらいで防腐の効果があるのか、とか、いろいろ議論はあるでしょう。
ただ注意しなければならないのは、葬式も出せない、って言っても、50000円ほどの家族葬すら出せないほど貧窮はしていない、ということです。やはり天皇ですから、大喪の礼はそれ相応の格式が必要で、私の父のように「死んだらゴミの日にポリ袋に入れて出して欲しいが、法律的にアウトなので、法律的にセーフな状態で、できる限りゴミを捨てるように出して欲しい」と遺言すれば別ですが、普通は大喪の礼、火葬、陵墓の造成など、かなりの費用がかかります。ちなみに末柄氏前掲書によれば七万疋と言います。現在の貨幣価値にざっくり換算すると、7000万円です。昔の幕府ならばポンと出せたんでしょうが、嘉吉の乱や応仁の乱以降、財政基盤が弱体化した幕府には厳しい額です。
前近代の天皇を理解する上で押さえておかなければならない点があります。後土御門天皇は譲位できませんでした。彼は5回も譲位を宣言しますが、譲位させてもらえませんでした。そして異例なことに在位中に崩御します。
現在の我々から見れば、在位中に崩御するのは当然かと思いがちですが、実は非常に少ないです。太上天皇制が始まって以降は、原則譲位します。特に院政開始以降は譲位して上皇になってから本格的に政務を見るのがノーマルな状態になり、天皇が政務を見る親政はアブノーマルになります。
在位中に崩御した天皇といえば、近衛天皇・安徳天皇・四条天皇・後二条天皇・称光天皇という感じになります。
近衛天皇は後継者が決まらず、体調不良が長引いたにも関わらず譲位が行われず、崩御後も後継者で揉めます。安徳天皇と四条天皇は不慮の崩御であり、しかも幼少での崩御となっているので、譲位する余裕はありません。後二条天皇は二十四歳で、しかもかなりの急死だったようです。称光天皇は、崩御直後に譲位させることも考えられましたが、称光天皇の遺志を慮って在位のままの崩御となりました。
いろいろと曰く付きでなければ在位中の崩御はないわけです。在位中に崩御する、ということは、御所の触穢の問題もあって、よろしくないわけです。
後土御門天皇が「やめたい」というのは、実際にはそれほど奇矯なことではありません。ただ譲位すると践祚・即位の儀式で数千万円レベルの金が必要で、仙洞御所の造営にも多額の費用がかかります。この費用を出し惜しみしているから、後土御門天皇は譲位できないわけです。後土御門天皇が根性なしだった、とか、やめるやめる詐欺だ、とかいうのは当たりません。
この後、後奈良天皇、後柏原天皇も譲位できないまま崩御します。正親町天皇に織田信長が譲位を迫った、とされるのは、実際には譲位するための条件を整えたのであり、むしろその意味では信長は天皇に忠義を尽くしている、というべきでしょう。
後土御門天皇でもう一つ特筆されるのは、彼の大嘗会のあと、大嘗会は数百年間途絶えてしまう、ということです。費用がなくリストラされました。その後、霊元天皇が息子の東山天皇のために頑張って再興します。これは幕府ににらまれてしまい、中御門天皇は見送られますが、桜町天皇の時に今度は幕府の援助のもと再興されます。
後土御門天皇の大嘗会は文正元年十二月二十八日に行われています。これは西暦で言えば1466年で、文正の政変で伊勢貞親が失脚した時にあたります。翌年正月には畠山義就が上洛し、畠山政長が失脚、山名宗全が細川勝元から離反し、五月には応仁の乱が勃発します。文正元年段階で近衛政家は近衛家伝来の文書類を岩倉に移していますから、戦乱が勃発する予感は多くの人が共有していたに違いありません。後花園上皇もそれを感じて後土御門天皇の大嘗会を急がせたのでしょう。