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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

オンライン日本史講座「後白河院政」

昨日のオンライン日本史講座です。

研究者と学ぶ日本史11_後白河院政と平清盛 - YouTube

 

一部の抜き出しはこちらです。18分前後の動画なのでお時間のない場合にどうぞ。

 

ハイレベル日本史31_平治の乱 - YouTube

 

ハイレベル日本史32_後白河法皇と源頼朝 - YouTube

 

下記の過去エントリはその予告版であり、この予告版を元にして講座の原稿を作成しています。

オンライン日本史講座三月第三回「後白河院政と後鳥羽院政(予定)」1 - 室町・戦国時代の歴史・古文書講座

 

オンライン日本史講座三月第三回「後白河院政」 - 室町・戦国時代の歴史・古文書講座

 

オンライン日本史講座三月第三回「後白河院政」3 - 室町・戦国時代の歴史・古文書講座

 

以上のリンク集をご覧ください。

 

この続きですが、源頼朝の挙兵についてです。

 

頼朝の挙兵はあらかじめ計算されたものか、それとも追い詰められた末の決起なのか、ということが一つのポイントです。

 

以仁王の令旨によって諸国の源氏が一斉に蜂起したというイメージがありますが、実際には頼朝はしばらく蹶起していません。頼朝にとって以仁王の令旨は千載一遇のチャンスではなく、むしろ迷惑なものだったのではないでしょうか。

 

これはしばしば言われることでありますが、頼朝がもし蹶起しなければ歴史はどうなっていたか、という問題があります。

 

大きな歴史の流れはわかりませんが、ミクロな視点で見れば、頼朝に蹶起する必然性はないように思います。

 

流人はどういう感じだったのか、ということに関しては次の書籍に詳しいです。

 


流罪の日本史 (ちくま新書) [ 渡邊 大門 ]

 

個人の感想になりますが、もっとも恵まれていた流人といえば、平治の乱の首謀者として処刑された藤原信頼の兄の藤原基成ではないでしょうか。彼は自らがかつて陸奥守として赴任していた陸奥国流罪となります。一般に陸奥国流罪となれば遠いだけに辛い思いもあったでしょうが、彼にしてみれば勝手知ったる場所、しかも彼の娘の嫁ぎ先で彼の孫もそこにいました。彼にとっては都よりも陸奥国の方が住みよいと言っても過言ではないでしょう。

 

頼朝の場合はそこまでめぐまれたものではないでしょうが、細川重男氏の次の書籍が大変参考になります。

 


頼朝の武士団 ~将軍・御家人たちと本拠地・鎌倉 (歴史新書y)

 

今見たらかなり高い値段がついています。評価は分かれる本のようですが、私は大好きです。

 

この本を読めば頼朝が主体的にではなく、追い詰められてやむなく挙兵にいたる道筋が書かれています。この書籍の特徴は非常にわかりやすく意訳された史料と、その論拠となる読み下し文がついているので史料を読む勉強にもなります。

 

これを読めば頼朝が不足のない生活をしていることなどがうかがえ、頼朝が天下への野望を元来持たなかったことが説得性を持ちます。

 

頼朝の蜂起の成功は奇跡ともいうべきものでありましたが、それが成功した大きな要因として、伊豆国知行国主が源頼政から平時忠に移行し、それに伴い、目代にそれまで流人だった山木兼隆が任ぜられたことで、伊豆国の在庁に大きな動揺が走ったことがあるでしょう。その動揺は東国に広がり、頼朝を一気に関東の盟主に押し上げることとなりました。

 

問題は頼朝がどこで天下人への道を選択するか、です。

 

頼朝は後白河に密使を送り、源平相並んで朝廷に仕えることを提案していますが、平宗盛の拒絶によって頓挫しています。頼朝には平氏と本格的にことを構えることがなかったことを示しているのではないか、と考えています。

 

やはり安徳天皇が西国に遷幸してからの後継者を擁立する段階で以仁王皇子の北陸宮(ほくろくのみや)を擁立する義仲と、尊成親王を推す後白河が対立し、後白河が尊成親王を強行に皇位につけた結果、義仲が後白河を幽閉する法住寺合戦が起こり、頼朝が義仲を打倒する名分がたちました。

 

義仲打倒後、頼朝は平氏との戦いに臨むことになりますが、源範頼がグズグズしている間に源義経が天才的な軍事的才覚を発揮してあっというまに平氏を滅ぼしたように見えますが、どう考えても平氏の急速な滅亡と三種の神器の無事なる奪還は成立しないので、義経のとった手段はかなりの悪手だったのではないか、と考えています。

 

後鳥羽天皇は結局三種の神器を欠いたままとなってしまいました。もちろん形代は存在しますし、「形代ガー」「熱田社ガー」と言っても、それ自体は十分正論ですが、それで後鳥羽が納得するかは別問題です。後鳥羽がこの三種の神器の欠落のコンプレックスから完全なる帝王になろうとしていたこと自体は認められてよいでしょう。