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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

オンライン歴史講座第5回予告2

オンライン歴史講座第5回の予告です。

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倭寇に関して重要なポイントは、前期倭寇と後期倭寇に分けられるか、という点です。

 

一般的に「前期倭寇」というのは、十三〜十四世紀の倭寇で、その主体は対馬壱岐・松浦などの海民が朝鮮半島に押し寄せて掠奪行為を働いた、というものでした。この主体は日本人である、と考えられてきました。

 

一方、「後期倭寇」というのは、十五世紀後半から十六世紀の倭寇で、その主体は明の商人たちが武装したものと考えられています。この見方は実は明代にはすでに存在していたので、明の関係者もこの時期の「倭寇」が明人であることを理解していました。従って「倭寇」の主体が明の人間であることはいわば周知のことだったのです。

 

後期倭寇を代表する人物といえばやはり王直が挙げられます。

どれくらい有名か、といえば、戦国ixaでもカードになっている程度には有名です。

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王直Copyright © 2010-2018 SQUARE ENIX CO., LTD. All Rights Reserved.

王直とは「中国(明)出身の倭寇の頭領だワン!東南アジアや日本と密貿易を行って巨万の富を築いたワン!」ということです。

 

鉄砲伝来の時に我々はややもすればポルトガル船がやってきたかのように思いますが、全くの誤認です。

 

厳密に言いますと王直の船に不祥事を起こしたポルトガル人が三人駆け込んできて保護を求めたことから、彼らは王直の船に乗って種子島に到着し、鉄砲を伝えたのです。

 

詳しくはこの辺をご覧ください。

 


真説 鉄砲伝来 (平凡社新書)

 


鉄炮伝来――兵器が語る近世の誕生 (講談社学術文庫)

 

王直は双嶼(リャンポー)諸島を中心に活躍した倭寇頭目です。一五四二年以降松浦隆信と組んで日本と明と東南アジアを結びつける交易活動に乗り出します。

現在平戸市には王直屋敷跡が史跡として存在しています。

www.hirado-net.com王直は明の誘降に応じましたが、だまし討ちで処刑されました。しかし王直の死後、明は海禁政策鎖国政策みたいなもの)を解除し、倭寇は消滅します。

 

海禁政策を解除するとなぜ倭寇が消滅するか、といえば、倭寇というのが海禁政策への抵抗である以上、海禁政策がなくなれば、倭寇という非合法交易者は合法交易者となるからです。後期倭寇の本質が商人であることを示すよい例です。

 

一方、前期倭寇朝鮮半島に入ってきた海賊集団で、その本質は日本人による掠奪行為と考えられてきました。

 

朝鮮王朝は倭寇に対して様々な手段を講じています。具体的には倭寇に貿易を許可して利益を取らせ、平和な交易者とする「興利倭人」、名目的な朝鮮の感触を与える「受職倭人」、日本の守護大名などの使節名義で来朝を許す「使送倭人」、国内居住を認める「恒居倭」などがあります。これらの施策によって倭寇も十五世紀にはおおむね沈静化すると言われています。

 

朝鮮王朝における倭寇の問題はその後も尾を引き、例えば倭寇の本拠地と考えられていた対馬を襲撃した応永の外寇、三浦(サンポ)の恒居倭が対馬の宗材盛と組んで大規模な反乱に至った三浦の乱などがあります。

 

このように朝鮮王朝にやってきた倭寇対馬を主力とした日本人だと考えられてきました。しかし1987年に田中健夫氏、高橋公明氏によって高麗末期には高麗の被差別民や、高麗の離島である済州島の人々が関与していることが明らかにされ、倭寇という集団が単一の民族集団ではないことが明らかにされてきました。

 

そのように多様な集団による国家に束縛されない地域の枠組みを設定し、その実態を明らかにする、という研究動向が1980年代から90年代のトレンドであった、と言えるでしょう。

 

例えば村井章介氏は環日本海地域、環シナ海地域という地域を設定し、そこで活躍した多様な集団の分析を通じて国家の束縛にとらわれない人々の交流を描き出しました。

 

そのような研究動向は現在では「海域アジア」という研究視座として定着しています。

 

倭寇研究とは、海域アジア研究の重要なピースでもあるのです。

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後花園天皇宸翰消と足利義教自筆御内書2

前回見てきました後花園天皇宸翰消息および足利義教自筆御教書(熱田神宮宝物館所蔵)の解説です。

前回のエントリはこちらになります。

sengokukomonjo.hatenablog.com

これについては『看聞日記』永享五年十二月十二日条にいろいろ書いてあります。

十二日。晴。三条宰相中将参。室町殿為御使。則対面。禁裏勅書並室町殿御内書賜之。熱田社領可知行云々。祝着喜悦千万也。旧好異于他御領之間事更自愛無極。勅書御内書御返事則申。三条御剣一持参。殊更又練貫一重、杉原十帖給之。一献畢退出。禁裏へ長講堂領、法金剛院領、丹州山国庄灰形、濃州多芸御月宛、出雲国横田庄等被進云々。入江殿へ高掠郷被進之。旧院御譲状ニ女院へ水金役〈月宛三十貫〉、大性院御比丘尼御所出雲横田庄被進之。雖然室町殿不被計申、禁裏へ被進云々。

 なかなか色々な情報が入っています。

 

まず「三条宰相中将」というのは三条実雅です。義教の正室の尹子に兄で義教の側近中の側近です。彼は伏見宮と義教の連絡役をこなしていました。

 

文中の「禁裏勅書並室町殿御内書」というのが今日熱田神宮に伝わる文書です。

 

これはこの年の十月二十日に崩御した後小松法皇の遺領の処分で、義教が担当していますが、最後のところが大変興味深いです。

 

後小松院は「女院」つまり光範門院に水金役を残していたのですが、義教はそれをガン無視して後花園天皇に献上してしまったわけです。端っから後小松院の遺詔を守る気は永遠にゼロです。

 

「大性院御比丘尼」は「大聖寺門跡」のことで、後小松院の皇女の理永女王です。彼女にも出雲国横田庄を残していましたが、義教はもちろん無視して後花園天皇に引き渡します。後小松院の遺詔を守る気はここでも永遠にゼロです。なぜかといえば彼女も光範門院所生だったからでしょう。更にいえば後小松の皇子はほぼ光範門院の所生で、土岐家出身の小兵衛局所生の皇女と南朝遺臣所生と伝わる一休が例外です。皇女はそもそも死没年がわからない、ということで早世していたかもしれません。一休にはそもそも遺領配分などありません。従って義教は基本的に後小松関係者に遺領を残さない、という方針だったようです。

 

それでも光範門院には鮭昆布公事がありました。月四十二貫という計算になります。しかしそれも翌年には「不快」というよく分からない理由で取り上げられ、お気に入りの常盤井宮にあっさり与えられてしまいます。

 

その辺の事情は

sengokukomonjo.hatenablog.comとか

sengokukomonjo.hatenablog.comで述べたとおりです。

『戦国古文書入門』(東京堂出版、2019年)の執筆の裏話

渡邊大門編『戦国古文書入門』執筆者の一人の秦野です。

www.tokyodoshuppan.com


戦国古文書入門

 

私以外の執筆者のお名前も知ることができました。みなさま、その界隈の一流の方ばかりで、私などがそこに混ざっているのはおこがましい限りです。

 

私は実はくずし字をかなり苦手にしておりまして、例えば博士課程の時に院ゼミで読んでいた『後法成寺関白記』(近衛尚通の日記)の担当部分が一晩徹夜しても読めず、後輩に手伝いを頼んで15分ほど席を外していた(宿直のバイト帰りだったので顔を洗ったり髭を剃ったりしていた)ら「読めました」とほぼ完璧に出来上がった翻刻を持ってこられて「あ、ワイ、こういう才能ないから人に頼むことにしよう」と心に決めたことがあります(ヲイ)。

 

そういう私ですから、自分の経験などを元に読み進めるのは危険です。

 

どうしているかといえば、『くずし字用例辞典』(東京堂出版)をがっつり使います。どの程度使うかといえば、ほぼすべての文字について『くずし字用例辞典』を引きます。一応活字になっているものはあるのですが、しばしば間違いがあります。人の作った読み本を無批判に使って同じ間違いを繰り返すのははっきり言って恥ずかしすぎる。いや、くずし字について自信のある人ならばその過程は省略できるでしょうが、私にはそれを愚直にするしかない。


くずし字用例辞典 普及版

 

解説をする時に「この字は典型的な形です」=(ワイでもみたことがある)、「この字は初心者は戸惑うでしょう」=(ワイ、めっちゃ戸惑っている)というだけで作ってしまっては、これまた問題です。(うっわ、これ、めっちゃむずいやん)と思って「この字はかなり難しく戸惑いますが、頑張って慣れてください」と書いたのに、実は頻出する文字であるのでくずしが大きいだけ、というのもありがちです。

こういうトラップにはまらないために私が愛用しているのは『覚えておきたい古文書くずし字200選』と『覚えておきたい古文書くずし字500選』(柏書房)です。これを参考にして字の難しさを判定しています。これもだいたい一字一字めくって調べておきます。


覚えておきたい古文書くずし字200選

 


覚えておきたい古文書くずし字500選

これだけでは足りません。上にあげたくずし字の書籍はその多くが近世文書を基にしています。戦国古文書の問題は、近世に比べてくずし方が自由である点です。従ってこれらではうまく検索できないことがあります。

 

そこで活躍するのが「ネットde真実」です。

r-jiten.nabunken.go.jp

ここにはお世話になっています。ただここを有効に使うためにはある程度候補を絞る必要があります。役に立つのは「え〜?この字、本では〇〇と読んでるけど、ほんまかいな〜。◆◆と違うんかいな」と思った時に調べます。

 

一つ心残りなのは、私ももっと早くにこのような、一字一字まで懇切丁寧に解説してくれる本に出会っていたら、人生変わったかもしれない、ということです(←他人任せすぎてどんな素晴らしい本でも豚に真珠だと思う)。

オンライン歴史講座第5回(2月第一回)「倭寇」のお知らせ

オンライン歴史講座のお知らせです。

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2月は室町時代の国際環境について議論していきます。

 

2月の第一回は倭寇です。

 

私の倭寇に関する見解は以下にまとめられています(pdf注意)。

www.ritsumei.ac.jp

http://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/hss/book/pdf/no81_04.pdf

 

目次を紹介しますと以下の通りになります。

倭寇と海洋史観−「倭寇」は「日本人」だったのか−」

1 海洋アジア論における倭寇理解

2 「倭寇」はどのように考察されてきたか

3 「倭寇」の用例

4 「倭」と「日本」

5 ある「倭寇」の実態−永享十二年の少弐嘉頼赦免をめぐって−

むすびに

 

まあこれは李領先生の『倭寇と日麗関係史』(東京大学出版会、1999年)をかなり参考にしています。李先生が主として南北朝時代における、いわゆる「庚寅以来の倭寇」の正体を少弐氏であると明らかにしたことをうけて室町時代においても少弐氏が倭寇の重要な構成メンバーであったことを明らかにしました。

 


倭寇と日麗関係史

 

 

あとは「倭寇」という言葉の成り立ちを分析して、そもそもそれが「日本人であるか否か」という問い自体が無意味であることを主張しています。

 

この論文は幸いにも『史学雑誌』112編5号の「2002年の歴史学会 回顧と展望」において黒嶋敏先生に取り上げていただいて、「高麗史などの「日本」を公的な交渉相手)室町幕府、それ以外を「倭」とする斬新な論点を提示。今後の議論を呼ぼう。」と非常にありがたい取り上げ方をされたんですが、残念なことに全く議論を呼びませんでした(´༎ຶོρ༎ຶོ`)

 

この論文を執筆した動機として一番重要なのは、しばらく論文を書けていなかった私を見かねた先輩が発表の場を作り出して書かせてくださったことが大きいのですが、一応格好をつけると、当時流行していた海洋史観に対する疑問があったことです。例えば川勝平太先生は「環シナ海域を舞台に日本人(だけでなかったが)は暴れまわった」と書き、小林多加士先生は「倭寇の活動を日本は巧みに体制内に取り込みつつ制御したのに対して、中国はそれを体制外に放り出し排除していた」ことが「中国と日本の明暗を分けた」として倭寇活動を日本の経済発展の原因になっている、という議論をしています。

 


海のアジア史―諸文明の「世界=経済」(エコノミー・モンド)

 


文明の海洋史観 (中公文庫)

いや、日本ってそんなに海洋指向だったっけ?というのが私の意見です。そもそも「倭寇」を「日本」というのはそんなに自明のことだっけ?とかいろいろ考えてしまいます。

 

倭寇は日本人とは限らない、というのは田中健夫先生、村井章介先生、高橋公明先生をはじめとした対外関係史研究の進展によって指摘されてきたことですが、1990年代後半ごろにはそれに対する批判的な見解が出てきたことも事実です。浜中昇先生や先ほどあげた李領先生などがそれに相当します。

 


倭寇と勘合貿易 (ちくま学芸文庫)

 


中世倭人伝 (岩波新書)

 

オンライン歴史講座第4回

第4回「応仁の乱」が無事終了しました。

 

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前回までに私が出した論点はつぎの三つでした。

 

1 日野富子山名宗全と組んでいた、というのは本当か?

 

2 義政「今回のこの喧嘩、政長と義就のサシでやらせろ、てめえら手ぇ出すんじゃねぇぞ」

勝元「はい」

宗全「そんなの知らねぇや。ヒャッハー、汚物は消毒だ!」(ボー!!!)

勝元「だがこちらの面目をつぶしたことだけは・・・」(出典ゆうきまさみ『新九郎、奔る!』一巻p205)

となった責任者は誰でしょう?

 

3 戦国時代の始まりは応仁の乱?それとも明応の政変

 

という問題でした。

 

私からの回答は

1 『後法興院記』応仁元年六月四日条に「御台内府等自山名依相語旗事など相支云々」とあるが、これは要するに「御台(日野富子)と内府(日野勝光)が山名から言われて(義政による宗全討伐命令の)邪魔をした、ということだ」という意味で、これから富子と勝光が以前から宗全と組んでいた、と読むのは早計ではないでしょうか。

2 『公卿補任』応仁元年に「則被下源政長追罰院宣」とあって、要するに後花園上皇が「政長をボコれ」と命令していた。わかりやすくいうと以下の通り。

義政先生「これは政長君と義就君の個人的な喧嘩です。みなさん手を出してはいけません。二人で解決しましょう」

勝元君「はい、わかりました」

後花園先生「宗全君、政長君をボコりなさい」

宗全・義就「はい、わかりました。精一杯殴りつけます」

ということで、要するに後花園天皇が一方的に悪い、ということでFA(ファイナルアンサー)。

 

3 知らんがな。

 

以上になります。

 

あとは「戦国時代の定義とはどうなんでしょうか。議論など見ていても一定しません」という根本的なところを鋭く衝く質問が出て、みんなで侃侃諤諤の議論になったり、今村仁司氏の排除論やら赤坂憲雄氏の「差異の乱反射」論が出てきたり、と結構論点が出ました。

 

今村氏のモデルを使って足利義視を説明する、という提案も出され、色々と勉強しなければならないな、と思いましたまる

 

次回は倭寇を考えます。では今回はこれで、チャオ!

オンライン歴史講座応仁の乱3

題名が定まらなくて申し訳ねえっす。

 

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これの予告です。

 

応仁の乱を取り上げているわけですが、今回は「戦国時代っていつ始まったんだ?」という問題を取り上げたいと思います。

 

まあ私は塾で小学生を教えたりしている関係上、応仁の乱について触れることがあるわけですが、中学入試対応で応仁の乱を取り扱う場合には「日野富子が悪くて将軍の後継争いが起こって応仁の乱になった」とか「細川勝元山名宗全の対立ガー」とか嘘ばっかり教えたりしていますが、受験対応は「正しいこと」ではなく「受験に出ること」を教えることが必要です。

 

それはさておき、受験では応仁の乱が終わった結果、戦国時代に入った、と教えます。一方東軍が事実上勝った、ということは教えません。試験に出ませんから。

 

ちなみにどうでもいいことかもしれませんが、試験に出るかどうかの判定をどうするか、といえば自分が担当している地域の中学校の過去問を10年分やります。すると大体何が出て何が出ないのかはわかります。塾講師のバイトを考えている学生さんへのアドバイスです。

 

で、今日のテーマにようやく入りますが、「戦国時代にいつ突入するのか」という問題です。これについては私はぐにゃぐにゃの答えしかないので明日の討論次第でどう転ぶかわかりません。結末は自分でもわからないので見てください、としか。コメンテーターである兵庫大学教授の金子哲先生がどのようにお考えで、どのように私の議論に絡んでくるか、読めないので、明日が楽しみです。私は金子先生の仰せの通り、という対応をすることだけは火を見るより明らかです。

 

戦国時代はいつ始まったか、といえば、ここが中学受験を目指す塾の社会の授業の時間であれば「応仁の乱の結果、室町幕府は崩壊し、戦国時代になった。覚えておくように」と偉そうに言います。

 

しかし今谷明先生は明応の政変によって戦国時代に入った、とおっしゃいます。


戦国期の室町幕府 (講談社学術文庫)

 

「えっ!?明応の政変って?」

 

細川政元が将軍足利義材を引き摺り下ろし、新たに足利義晴を将軍に据えた事件です。これで将軍は傀儡化し、細川京兆家専制的な権力を振るう京兆専制政治が成立し、畿内を制圧しますが、逃亡した足利義材改め足利義稙大内義興を頼り、公方が二つに分裂し、日本は戦国時代に入る、という考え方です。

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足利義稙



ところが、京兆専制政治論にも疑問が出されています。

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足利義晴

足利義晴の時期には内談衆や奉公衆、奉行人など幕府独自の機構が整えられた、とされています。したがって細川政元によって京兆専制政治が成立した、とは言い切れない、という考え方です。

 

さらに室町時代の大名(たいめい)の存在形態が明らかになってきています。大名と呼ばれていたのは守護の中でも幕政に関与する畿内近国の守護たちで、彼らは複数の守護職を兼帯し、在京して幕政に参加することが義務でした。国許に下向するのは幕府に反抗する時か、幕府に恭順の意を示すために謹慎する時かのどちらかでした。具体的には畠山家、畠山匠作家(能登守護家)、細川京兆家、細川讃州家(阿波守護家)、斯波武衛家、大野斯波家、一色家、山名家、京極家、赤松家、土岐家、世保(よやす)家、武田家あたりです。

 

しかし応仁の乱で彼らのほとんどは領国に帰らざるを得なくなります。これで困るのは例えば斯波武衛家の場合どこに帰るのか、ということです。斯波武衛家は越前・尾張遠江の三ヶ国に守護職を持っていましたが、体は一つです。どこか一つに絞らざるを得ません。斯波武衛家は尾張国を選び、越前は朝倉、遠江は今川のものになります。今川家は遠江守護代の甲斐氏が京都とのつながりが深く、在地には根ざしていないことをいいことに遠江を強奪します。

 

こうして彼らは国許に下国するわけですが、細川家のみは丹波・摂津など京都の近くに守護職を持っていた関係で京都に勢力を及ぼします。

 

こういう形が戦国時代であって、したがって大名の在京原則が崩壊した応仁の乱が戦国時代だろう、という意見が現在では出ています。

 

どちらに与するべきか。私は明日とりあえず決定します。あくまでも当座の決定ですので翌日には転向しているかもしれません。

 

では、明日の8時半からをお楽しみに!

 


マンガ 日本の歴史〈22〉王法・仏法の破滅―応仁の乱 (中公文庫)

 

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オンライン歴史講座の予告:応仁の乱編2

今回は文正の政変です。

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これは日野富子さんが京都を焼き尽くした悪女か、という問題とも絡んできます。

 

日野富子といえば、しばしば京都を灰燼に帰した毒婦というような見方がされます。ちなみに私がある塾にバイトに行った時に、バイト先の同僚が、私が日本史専攻であることを知った時に「日野富子って欲張りだったんですよね」と話しかけてきて答えに一瞬詰まったことがあります。私の回答は「近年の研究ではそういう見方は克服されつつあって(以下意味不明)」というものでした。

 

日野富子さんが悪し様に言われるのは、やはり義視が後継者と決まっていたのを富子が自分の生んだ義尚を後継者にしたくて山名宗全と組んで細川勝元に対抗した、と言われます。それが応仁の乱の原因だと。

 

しかし不思議なことがあります。義尚と富子が山名宗全派なのになぜ彼らは細川勝元の庇護下にいるのか、とか、なぜ義視が宗全にのちについて、富子らは東軍になるのか、とか、わけのわからんことがいっぱいあります。

 

応仁の乱といえば呉座勇一先生の『応仁の乱』が有名になりましたが、私の感想を率直に言いますと「その発想はなかった」です。奈良の大乗院門跡から応仁の乱を見るとものすごくすっきりといろいろわかって納得した、というのが偽らざる感想です。

 

ただ呉座先生の『応仁の乱』以前から家永遵嗣先生、桜井英治先生、石田晴男先生、早島大祐先生など応仁の乱の周辺についてはかなり語られています。NHK大河ドラマ史上最低の視聴率だった『花の乱』の監修は今谷明先生で、今谷明先生も応仁の乱に関してはしばしば触れていらっしゃいます。近年では呉座先生の他に田端泰子先生が日野富子については書いていらっしゃいます。


応仁の乱 - 戦国時代を生んだ大乱 (中公新書)


応仁・文明の乱 (戦争の日本史 9)


室町人の精神 日本の歴史12 (講談社学術文庫)


足軽の誕生 室町時代の光と影 (朝日選書)


室町将軍の御台所: 日野康子・重子・富子 (歴史文化ライブラリー)

 

ざっとこんな感じですが、これらの研究ではいずれも富子を悪し様には述べていません。

 

そもそもこの夫妻に三十近くになってまだ子供が生まれないのは、リスクマネージメントとしてもどうかと思われるので、中継ぎを入れる必要はいずれにしてもあったわけです。

 

そこで日野家は義視を擁立する代わりに義視の妻に富子の妹の良子を入れることにしました。これでどう転んでも富子はそれほど損をしません。もちろん富子の理想のパターンは義視が中継ぎ、義尚成人後は義尚が継承、というものでしょうが、そのためには義視は必要不可欠なパーツです。彼女が義視排斥を狙う、というのはどうにも腑に落ちない。最悪義視の息子が後継になったとしても彼女の失うものはそれほどのものではありません。もっとも義視と義尚の間で戦端が開かれれば別です。実際には合戦当初は義視と富子は共に東軍についていました。この段階では義視と富子は連携していたとすらいえます。

 

義視が出てきて困っていたのは伊勢貞親です。貞親は義尚の育ての親なので義視が中継ぎになって義尚に確実に帰ってこないと困るわけです。

 

伊勢貞親のもう一つのポイントは、彼が将軍義政の親政を支える立場だった、ということです。そして義政にとっての最大の敵は将軍権力を掣肘する細川勝元山名宗全連合です。特に宗全の待遇をめぐって義政と勝元はしばしば対立しています。

 

宗全排斥の先頭に立っていたのが蔭涼軒主の季瓊真蘂と加賀半国守護赤松政則です。彼らは伊勢貞親と共に将軍の側近として活動していました。赤松家復興が宗全を牽制する勝元の陰謀という見方に私は与しません。逆に宗全赦免と引き換えに勝元が義政に呑まされた条件である、という方が近いと思います。これは『室町幕府全将軍・管領列伝』に依拠しています。

 


室町幕府全将軍・管領列伝 (星海社新書)

 

斯波義敏斯波義廉の争いも深刻でした。

義敏は貞親と関係が深く、義廉は宗全と接近しています。両者の対立を見て近衛政家近衛家に伝わる記録類を岩倉に疎開させています。政家の悪い予感は微妙に外れましたが、彼の先見の明が今日まで世界の記憶に指定された『御堂関白記』をはじめとする数々の宝物を残すこととなったのです。

 

貞親は義視を陥れようとしますが、義視の反撃を食らってあっという間に失脚します。この辺は読みやすいのはゆうきまさみ氏の『新九郎奔る』第一巻です。これは文正の政変で第一巻が終わります。文正の政変マニアにとっては欠かせない一冊です。

 


新九郎、奔る! (1) (ビッグコミックススペシャル)

 

要するに宗全は富子とは結んでいません。

 

ではなぜ宗全と富子が結び付けられてしまったのでしょうか。私はそれを誤って結びつけてしまった人物がいると考えています。その人物の誤りが現在まで引き継がれていると思います。

 

この誤りをしっかり補正しないから

「富子は義尚を無理に押してはいない」

「富子は宗全と組んで義視と対立していた」

「義視が宗全に寝返ると富子は勝元に寝返った」

という意味不明な動きを富子はするようになるのです。

 

ではその間違いとはなんだったのでしょうか。それは明後日のオンライン歴史講座をお楽しみに。

では

ticket.asanojinnya.comでお会いしましょう。