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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

オンライン日本史講座二月第二回「日明貿易と日本国王」に向けて2

木曜日のオンライン日本史講座2月第2回に向けてのエントリです。

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前回は日明貿易の前提の話をしました。

 

今回は「日本国王」の初発について説明いたします。

 

日本国王として一番有名なのは「日本国王源道義」こと足利義満でしょう。義満は貿易の利益を求めるために明に卑屈な姿勢をとった、と考えられています。

 

具体的には明皇帝に対し称臣朝貢、つまり明皇帝の家来と名乗って貢物を送ったわけです。日本の有力者が中国の君主に臣下と称するのはけしからん、というわけです。

 

しかしこの見方は前回見たように、当時の華夷思想を現代の国民国家的な見方で裁断する誤った見方です。昨今よく見る言い方で言えば「現代の価値観で過去を断罪するな」です。

 

満済が奇しくも言っていたことですが、足利義教が称臣することについて満済は「日本大臣」として皇帝に臣下の礼をとるのは当然だ、と発言しています。

 

義満以前に実は日本国王が存在しました。『明実録』および『明史』に「日本国王良懐」として登場します。どう見ても後醍醐天皇皇子の懷良親王です。

 

これには本物説と偽物説がありますが、偽物説を史料的に証明するのは難しいでしょう、というのが私の見解です。例えば「良懐」とひっくり返っているから偽物だ、とか、その史料は明側の史料なので信憑性がないとか、そういう類のものです。明側の史料を明確にどころかそれをかすかにでも否定するような史料があればわかりますが、そのようなものはありません。状況証拠的にも当時太宰府を抑え、倭寇鎮圧を担当しうる勢力は懷良親王しかいません。

 

もう一つ、『明実録』を見ると良懐は没落し、明の使節は敵対する「持明」に拘留されます。「持明」に対抗する九州の勢力である「良懐」が懷良親王でなければ何だ、というのでしょうか。懷良親王ではないどこかの勢力で北朝と戦っていた勢力が懷良親王を騙ったとでもいうのでしょうか。

 

あるいはこういう考え方もあります。懷良と交渉した使者が懷良親王使節を騙った、と。しかしこれについては村井章介氏が「露見すれば背命の罪に問われるのを覚悟してまで、ニセの朝貢使を仕立てなければならなかった動機は何なのか」「懷良の称臣入貢は、こんな不自然な想定や憶測をかさねてまで、絶対に容認できない背理なのだろうか」と述べています。

 


アジアのなかの中世日本 (歴史科学叢書)

 

私も懐良親王については「初期日明関係に見る東アジア国際秩序の構築と挫折」(『新しい歴史学のために』210号、1993年)で述べています。

 

『明実録』その他の史料(詳しくいえば「送無逸勤公出使還郷省親序」「明国書並明使仲猷無逸尺牘」)には「持明」に連れ去られた明の使者の困難がかなり記されています。

 

この辺から見られる明側の意識を見ると明の「国王」に対する意識が見えるのではないか、と考えています。

 

そこでは「持明」と「良懐」が争い、「持明」の「新設の守土臣」(どう見ても今川了俊)が「良懐」を破り、明使は「持明」に連行されます。そこでは「幼君在位」「臣国権を擅(ほしいまま)にす」という情勢となります。彼らを取り調べたのは「執事」とされていますが、明らかに細川頼之です。頼之の追求は厳しく、「執事とは紛々擾々」といいますから、相当もめたことが伺えます。

 

幕府内でも議論がありましたが、結局明に使者を出しました。「新設の守土臣」は明使が「良懐」のために援軍を求めたと勘違いした、と明使は書いています。良懐と敵対している「持明」こと北朝および室町幕府は明の報復攻撃を受けるリスクがある、と彼らが考えていたことがわかります。

 

義満(というか頼之)の派遣した使者は瞬殺されます(比喩であって、実際に殺されたわけではありません。速攻で追い返されたという意味です)。「日本は礼法を蔑ろにして捨て去り、我が使者をバカにした。日本のこの乱れは容認できない」と洪武帝はキレています。

 

明にしてみれば、「幼君が在位」して「臣が国権を擅にする」「持明」を受け入れるわけには行かなかったのです。

 

懷良親王の率いる征西将軍府は衰亡し、懷良親王も甥の良成親王に征西将軍の地位を譲ります。この頃征西将軍府を支える菊池武朝南朝の間の齟齬も見え、九州でももはや南朝は追い詰められていきました。

 

日本を統一した足利義満は明との関係を考えなければならなくなりました。義満は明とどのように向き合ったのでしょうか。次回のブログ記事ではそれを考えます。

 

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ラボール学園での講演の予定

公益社団法人京都勤労者学園での講演、古文書講座のお知らせです。

2月6日から受付が始まっております。直接ご来場いただいて申し込む形です。ネットはもちろん電話でのお申し込みも承っておりません。恐れ入りますが直接窓口までお越しくださいませ。

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まずは私が一人で担当する講座から。

www.labor.or.jp前期に引き続き後北条氏の文書を見ていきます。後北条氏の印判状を中心に見ていきます。とりあえず予習をして、解説を聞くというスタイルです。一字一字解説していきますのでくずし字に全く慣れていなくてもついていけると思います。ただやはり戦国時代の文書は難しい傾向があるので、それ相応の努力は必要です。

 

次に京都の歴史をたどる講座「京都の歴史と地名・謎解き散歩」。私は「大覚寺大覚寺統の歴史」をやります。

www.labor.or.jpこれは120分の講義形式です。質疑応答もございます。

 

最後に「語り継ぎたいその人の生涯」。私は「後花園天皇」と「兼好法師」の二回登場します。ここは歌人の方の講演が多く、短歌や詩に関心のある方には非常に聞き応えのある講演だと思います。私はゴリゴリの政治史なので少し肌合いが異なります。

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関心があって、お近くの方はぜひお申込みを。

称光天皇の追号について

称光天皇追号が「称徳天皇」と「光仁天皇」から一字ずつ採った、というのは基本的には疑うべくもない事実である、と言ってよいでしょう。なぜかといえば、当時学識ナンバー1と言われた一条兼良が書いているからです。しかも兼良は称光天皇追号の決定に参加しています。当事者の書いた一次史料にはっきり「称徳天皇光仁天皇から一字ずつ採った」と書いてある以上、何を疑うのか、というものです。

 

私も基本的には疑いをもつところではない、と思っています。

 

でも何か引っかかるのです。

 

実は引っかかり始めたのも最近です。それまでは私も疑うことは微塵もありませんでした。

 

何が引っかかるかといえば、称徳天皇から光仁天皇というのは、そこに皇統の移動があったわけです。私はここのところ後小松上皇足利義教の駆け引きを調べていまして、その結果、義教が後光厳皇統を潰そうとしていること、後小松が必死に抵抗しているのではないか、と考えるようになりました。称光天皇が重病に陥り、後継者に伏見宮の若宮の彦仁王が候補に挙がった時に、後小松上皇がやけに皇統の断絶になる可能性を心配していたのです。義教が彦仁王を後小松上皇の猶子とすることを確約してようやく彦仁王の践祚にゴーサインが出ます。

 

後小松上皇崩御後に義教が貞成親王太上天皇尊号を奉呈しようとした時にも満済は後光厳皇統が断絶することになる、と反対しています。

 

後小松皇統の存続にここまでこだわった後小松上皇が、称徳天皇光仁天皇の皇統移動を意味するような名前にゴーサインを出すでしょうか、という疑問がありました。ちなみに当時の貴族の大半は後小松上皇にシンパシーを感じています。しかも兼良によれば言い出しっぺは後小松上皇です。後小松上皇が「皇統の移動を宣言する」とは考えられません。むしろ逆でしょう。自らと称光天皇光厳天皇の光景であることを宣言することの方がよほど自然です。だから私は称光天皇崇光天皇と同じ構造ではないか、と思っています。崇光は光厳を崇める、という意味でしょう。そして称光は光厳を称えるという意味でしょう。

 

そう考えた方が自然なのは後小松上皇諡号にこだわったからです。ようするに後小松上皇は「称光院」という言葉に頌徳の意味を込めたかったのです。しかし兼良が「子が親を頌徳するのはありだが、親が子の徳を称えるのはおかしい」と主張して追号と決めました。大事なのでもう少し詳しく念を押します。つまり後小松上皇は「称光院」を諡号としたかったのですが、「称光院」は追号ということになります。

 

ここで重要なポイントが出てきます。つまり「称光院」は諡号にも追号にもなるのです。言い換えれば諡号追号に当時の公家はそれほどの差異を認めていない、ということが明らかになります。これ、後花園天皇追号問題にも重要な論点を提供しています。

 

それはさておき、後小松上皇諡号としたかった称光院という追号は、はっきり意味を持たされているのです。もちろんこれをごり押しした後小松上皇の意思がそこに込められています。関白の二条持基満済

満済)「後何院ではダメなのですか」

(持基)「そのことですよ、ダメだと仰せです」

という問答をしていますから、「フツーに「後何院」としとけや」と思っていたはずです。つまり「称光院」は形では貴族の合議で決まっていますが、そこに後小松上皇の意思が強く押し出されているのです。

 

ここで繰り返しますが、後小松上皇が「称徳天皇から光仁天皇に皇統が変わったように称光天皇から皇統が変わるんだぞー!!!!」と主張するでしょうか。絶対にしないと思います。したがって「称徳天皇光仁天皇から一字ずつ採った」という兼良の言い分を私は疑っているわけです。

 

これを疑う理由はもう一つあります。それは「先例がない」ということです。天皇諡号から一字ずつ採る、というルールでつけられた天皇称光天皇以前にはいません。いないはずです。兼良によれば順徳天皇追号を定める際に「淳和」と「陽成」から一字ずつ採るという案があった、ということを以前述べました。

称光天皇の追号の由来 - 室町・戦国時代の歴史・古文書講座

これはまだわかります。淳和天皇陽成天皇も子孫は天皇になっていません。後嵯峨天皇のもとでは順徳院の子孫が天皇になる可能性を排除したい気持ちはものすごくよくわかります。でも他の天皇から一字ずつもらう、という命名法がこれまで存在しない以上、それが「子細」(それがまずい理由)であるのは明白でしょう。

 

考えてもみてください。「後文徳」を「先例がない」と反対した兼良ですよ?その兼良が先例の全くない「以前の天皇から一字ずつもらう」という案に賛成すると思いますか?私には到底賛成するとは思えません。

 

ではなぜ兼良はそんなことを言ったのでしょうか。それについて次回、暇があれば書いてみたいと思います。これについては近い将来論文にしますので出たおりにはよろしくお願いします。

オンライン日本史講座二月第二回「日明貿易と日本国王」に向けて

戦国IXAのメンテの終了予定時刻が22時間延びて暇です。

 

そういう時はオンライン日本史講座。

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次回の二月十四日は「日明貿易日本国王」です。

 

これを理解するためにはまずは海禁体制と貿易について理解しないといけません。

 

海禁体制とは「下海通蕃の禁」の短縮です。字のごとく海外渡航や外国との交易を禁止する、という意味です。明代に設定され、清にも引き継がれます。

 

近年では江戸幕府のいわゆる「鎖国」も「日本型海禁・華夷秩序」と再定義されています。「鎖国」と言いますと国を完全に閉ざしている、というイメージなのですが、実際に完全に閉ざしていたわけではもちろんありません。近年では「四つの口」という概念が教科書にも登場しているかと思いますが、「松前口」「長崎口」「対馬口」「薩摩口」という四つの口を通じて徳川日本は世界に繋がっていた、という議論です。

 

松前口」は松前藩を通じてのアイヌとの通商関係です。「長崎口」は出島を通じたオランダ東インド会社や唐人屋敷を通じた明清との通商関係です。「対馬口」は対馬藩を通じた朝鮮王朝との国交関係です。当時の国交関係は朝鮮王朝とのみ結ばれていました。「薩摩口」は薩摩藩を通じた琉球との関係です。琉球は政治的には薩摩藩に組み込まれていましたが、清との朝貢関係を残しておいた方が薩摩藩にとって都合が良かったのと、清との本格的な対立を回避する目的で琉球王国という形で残されていました。

 

要するに外国との関係を完全に遮断していたのではなく、外国との関係を国家が統制していた、という考え方です。

 

海禁体制の基本は「人臣に外交なし」という言葉で言い表せます。明皇帝から冊封された国王のみが明皇帝との関係を持つことができるのです。

 

ちなみに華夷秩序のもとでの国家というのは今日我々がいる国家とはかなりイメージが異なります。「礼・文中華主義」に基づく華夷秩序が特徴です。どういうことか、といいますと、「礼・文」的素養を身につけた、つまり儒学を身につけていることが「中華」の条件です。それに対し儒学を身につけていないことを「夷狄」と呼びます。中華と夷狄の関係を華夷秩序と呼びます。

 

華夷秩序は固定的、血統的観念では本来はありません。「礼・文」を身につければ中華に近づけます。一方、「礼・文」を守れないと夷狄になります。現実はともかく理念自体はそういう形になっています。

 

日本では江戸時代はともかく平安・鎌倉・室町時代にそういう「礼・文中華主義」がどの程度浸透していたか、といえば、あまり普及しているとは言えません。しかし天皇や将軍は論語礼記などの儒学の経典から学問を始めます。したがって彼らも「礼・文中華主義」にはどっぷり浸かっているとも言えるわけです。

 

皇帝を中心とした華夷秩序において、国王は皇帝の周辺に位置して皇帝から冊封された土地を治める存在です。燕王などの諸王と日本国王や朝鮮国王などの諸国王は実は同じ「王」です。明皇帝から冊封された王のみが皇帝と直接関わることを許されます。したがって皇帝と交渉できるのは国王およびその使節のみです。

 

そのもとでの貿易は朝貢貿易、公貿易、私貿易に分類されます。我々は冊封体制といえば朝貢貿易だけに目が行きますが、実際にはそれ以外にも様々な貿易形態がありました。

 

朝貢貿易は言わずと知れた、朝貢ー回賜の関係からなる貿易です。周辺の蕃国は朝貢品を皇帝に貢ぎます。それに対し皇帝からは回賜品が送られます。当たり前ですが朝貢に対し10倍返しくらい返さないと周辺諸国朝貢しません。朝貢を一方的な収奪と見るのは間違いです。周辺の蕃国にとっては極めて大きな経済的利益があるわけです。というか、それがなければ誰がわざわざ朝貢するか、という話です。

 

明にとっても大きな意味があります。多くの蕃国が皇帝の徳を慕ってやってくる、という図式を作ることは、皇帝の権威をこの上なく向上させる意味があります。したがって朝貢でどの程度大盤振る舞いするか、というのは明側の経済的な余裕と明にとっての必要性に左右されます。

 

義満時代にはぼろ儲けだったのに義教時代になるとしょぼくなるのは、永楽の盛時から仁宣の治への意向が関係してきます。さらに土木の変で明が苦しくなると余計にケチくさくなります。

 

公貿易は朝貢品以外のものを明の官衙が買い上げるものです。これもかなり周辺諸国に有利なようになっています。

 

私貿易は皇帝の許可した商人と使節の貿易です。

 

明にとっては外国の品が全く必要ないか、といえばそうではありません。明も交易したいわけです。琉球王国はそのために明が整備したツールです。この辺については2月の第4回で詳しく説明します。

 

次の更新では日本国王について説明します。特に最初の日本国王である「日本国王良懐」について重点的に説明するつもりです。よく知られている「日本国王源道義」=足利義満に先行する日本国王です。

 

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オンライン日本史講座第5回

おかげさまで無事第五回を終えることができました。今回は参加者が合計8名とかなりいい感じに増えてまいりました。

 

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Zoomを使ったオンライン講座のいいところとして、直接話すだけでなく、チャットに書き込んで意見を表明したり、質問したりすることができることがあります。顔出しするかしないか、直接話すか書き込むか、話を聞くだけにするか、いろいろ自分の立場を好きに選べます。

 

この講座の命綱は実は参加者の皆様の質問、討論にあると思っています。受講者の中から意見や質問が出てくる。そして話が思わぬ方向に転がっていく。これが一番やってて楽しいところで、自分の用意したものを淡々と処理していく、というのは実はあまりこちらとしては面白さが半減してしまう。

 

今のところこの試みはうまくいっていると思っています。今回も若い方からの有益な議論をいただけました。ありがとうございます。

 

さて、今回の話ですが、前期倭寇と後期倭寇の整理、1980年代の対外関係史の隆盛、海洋史観、海域アジア史という研究史の中での倭寇の位置付けということから始まって、様々な倭寇の実態についてお話をさせていただきました。

 

私見では「倭寇」というのは基本的にレッテルであって、自称しているヤツはいない、というところを強調したいと思っています。したがって「倭寇」の実態に入ると実に様々な人々が出てきます。

 

例えば李領氏の『倭寇と日麗関係史』で主張された倭寇=少弐氏というのは一面を捉えている、と私は考えています。

 

「庚寅以降の倭寇」というのは庚寅年、西暦1350年に「倭寇の侵、これより始まる」と書かれていることからその名前がついていますが、1370年代に入ると大規模化し、回数も増えていきます。この中心に少弐氏がいた、という議論です。1370年代に九州は征西将軍府が没落し、今川了俊も少弐冬資を暗殺したことで求心力を失っていた時期で、直冬党に属して腹背に敵を受けていた少弐頼澄が倭寇化して兵糧や人員を朝鮮半島に求めたとしても不思議ではありません。ちなみに倭寇による略奪の実態については質疑応答の中で出てきたもので、それがなければそのままスルーするところでした。参加者の質疑から新たな展開に話が進むところは、オンライン講座の醍醐味であると思います。普通の講座と違ってこのオンライン講座ではしばしば質問タイムが挟まります。時間の制約のないオンラインならではの長所です。

 

少弐氏はかなり長い間倭寇と関係を持ち続けています。もちろん彼らが自らを「倭寇」と位置付けているわけではありません。ただ室町幕府に「高麗盗人」の統制を要求した朝鮮王朝の使節はもちろん「倭寇」の禁圧を要求しているのでしょう。つまり日本側の記録で「高麗盗人」とか「土一揆同心」とか「壱岐対馬者共」というのは、朝鮮側からすれば「倭寇」といってもいいようなものでしょう。

 

他には嘉吉の乱で逃亡した赤松則繁(満祐の末弟)による倭寇の話、大内教弘による対馬割譲と朝鮮王朝の薄い反応(対馬が朝鮮領になると少弐氏の倭寇化を心配しなければならない)、鉄砲伝来と倭寇の関係などについてお話をしました。

 

その過程で琉球王国の話に広がったのも、講師と受講者の間の距離の近いオンライン講座ならではの魅力でしょう。

 

次回は「日明貿易日本国王」という題で行います。また予告編を何回か、当ブログにて掲載します。お楽しみにお待ちください。

 

それではありがとうございました。

 

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オンライン歴史講座第5回予告3庚寅以来の倭寇

明日のオンライン日本史講座のお知らせ第三回です。相変わらず見出しが一定せず申し訳ないことです。昔からこういうきっちりしたことが苦手です。研究会で史料を貼り付ける作業をやっていた時に後輩から「秦野さん、まっすぐ貼ってくださいね」と注意を受けたことがあります。ちなみにまだ一枚も貼り始めていませんでした。私がまっすぐとかきっちり決まった通りに貼ろうという努力を見せないことをあらかじめ知っていたんですね。

 

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庚寅年以降の倭寇という意味です。倭寇関連の庚寅年というのは1350年のことを指します。日本では南朝年号正平五年、北朝年号貞和六年、観応元年に当たります。高麗では中定王二年、元では至正十年です。

 

この年何があったか、と言いますと、十月に足利直義が京都を脱出するという事件が起こります。

 

何を言ってんだかわかんない、という人は亀田俊和氏の『観応の擾乱』を読んでくだされば全て氷解すると思います。持ってないよ、という方は下のアフィをポチってくだされば私も喜びます。中公新書でしかも結構売れているのでそこらの図書館でもあると思うのでそこで読むのもありです。

 


観応の擾乱 - 室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い (中公新書)

 

高師直を殺してうまく天下を取ったはずの直義がなぜだか不利になって追い詰められて京都を脱出するのですが、これが大きな破紋を引き起こします。

 

九州にいる足利直冬を討伐する必要が生じたわけです。で、もともと直義に近い少弐頼尚も直冬討伐に駆り出されることになり、兵糧集めが大変です。

 

高麗では12歳の中定王の時代です。このころの高麗は中恵王の暴政で国が乱れ、中恵王の死後も幼君が続き、急速に国が傾き始めたころです。

 

『高麗史』には「この時より倭寇の侵略が始まった」と記されていますが、それ以前から「倭寇」は記録されているので、この時以降、倭寇が大規模化した、という風に取られています。

 

李領氏の『倭寇と日麗関係史』はこの問題に切り込んだ名著です。

 


倭寇と日麗関係史

 

李氏は庚寅年以降、爆発的に増加した倭寇の数を、多くの倭寇が一斉に朝鮮半島に渡ったのではなく、一つの大規模な集団が繰り返し襲撃したため、倭寇の数が増えたように見える、と指摘し、さらに集団の大規模化についても考察をしています。

 

それまで数人からせいぜい十数人の集団が倭寇だったのに対し、数千人レベルで、しかも騎馬軍団とあっては、これは庶民の蜂起や対馬などの海民集団ではなく、なんらかの正規兵だろう、と考えられるわけです。

 

李氏が注目したのが少弐頼尚でした。直冬下向で、後醍醐天皇の皇子の懐良親王率いる南朝方と直冬方の腹背に敵を受ける形となった少弐頼尚はとりあえず兵糧その他の調達手段を朝鮮半島に求めたのではないか、という見解です。

 

李氏はそこまでしか検討していらっしゃいませんが、私見では少弐氏による兵糧の調達はその後も続いている、と考えています。

下に私見を披瀝した論文を挙げておきます。前回示した論文です。pdf注意。

ja.wikipedia.orgここの一番下にあります。

http://www.ritsumei.ac.jp/acd/re/k-rsc/hss/book/pdf/no81_04.pdf

 

 

では明日、オンラインで会いましょう。

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称光天皇の追号の由来

今日は称光天皇について考えてみました。

 

称光天皇は我らが後花園天皇の一つ前の天皇です。皇女は残せたのですが、皇子を残せなかったため、あえなく皇統が断絶してしまいました。

 

後小松はそこで伏見宮家から養子を迎えて皇統を存続させることを選択します。私の見るところでは、後小松は当初常盤井宮木寺宮から養子を迎えることを考えたのではないか、と思っています。しかし実際には伏見宮一択でしかないわけです。

 

後小松は足利義教に対して後花園を養子として迎えて、後光厳皇統を断絶させないように約束させます。

 

ここ、重要です。

 

どういうことか、といえば、後小松は後光厳天皇の孫に当たります。後光厳天皇の子孫、つまり後光厳皇統は称光天皇崩御によって断絶してしまうわけです。

 

一方、後光厳天皇の兄の崇光天皇の子孫は伏見宮家となっていましたが、崇光天皇観応の擾乱で引きずり降ろされた経緯があり、自分とその子孫が「正統」な皇位継承者である、という意識を持っていました。その執念は引き継がれていったのです。

 

後小松からすれば後光厳皇統断絶の危機です。もし皇統が断絶すれば自分は「正統」(しょうとう)の天皇ではなくなります。「正統」の天皇となるためには子孫が皇位を継承し続けるしかありません。そこで後小松が採用したのが養子です。これは義持の代から決定していたことで、称光天皇が皇子をもうけないまま崩御した場合には伏見宮家から養子を迎えることは決定していました。ただ義持が死去して義教が継承したため、この約束が履行されるかどうかは不透明になっていました。したがって後小松にとって一番怖いのは後光厳皇統の断絶ということになります。

 

とりあえず正長元年(1429年)七月十六日の段階で義教と後小松の交渉の末に伏見宮家の若宮を後小松の養子とすることが決定しました。

 

七月二十日、称光天皇崩御します。

 

翌日には追号の儀が持ち上がります。結局「称光院」という追号に決定するのですが、これについて一条兼良は『後成恩寺関白諒闇記』において次のように説明します。

廿二日為清朝勧進、於前関白直盧被定之。万里小路大納言、勧修寺中納言、右大弁宰相等相議、奉号称光院云々、順徳院御号時有淳陽号〈取淳和陽成之一字置上下〉、仍今度就此儀一両勘進之内加称光〈称徳光仁一字置上下〉、直依院仰進勘文云々、儒中猶存先蹤、勘申雖勿論、淳陽既不被採用、定有子細歟、今度難資准的歟、議奏之次第如何、理可然乎、但称光無殊難歟云々 

 ここではざっくりいえば、「称光院は称徳天皇光仁天皇から一字ずつ採っている」ということになります。

 

私はこれは「ほんまかいな」と思っています。

 

なぜかと言えば、称徳天皇光仁天皇と言えば、天武皇統が断絶して天智皇統に戻っていった、ということになります。「称光院」をプッシュしたのは後小松であることは様々な史料から明らかなので、もし後小松が称徳と光仁から一字ずつ採った、というのであれば、彼は皇統の移動を認めている、ということになります。しかし彼の動きを見る限り事実は反対です。彼は皇統の移動の可能性を阻止しようと必死なのです。その彼が皇統の移動をイメージするような名前をつけるはずがないでしょう。そもそも先例にうるさい当時の朝廷が、前例のない二つの天皇の名前を組み合わせる、という追号を許可するでしょうか。

 

ここで想起されるのが「崇光院」です。「崇光院」は村田正志氏が「けだし光厳院を崇拝するという意味であろう」と『證註椿葉記』の中でおっしゃっています。光厳院の「正統」な後継者を主張した「後光厳院」という追号は本人の遺詔ですが、後光厳よりもだいぶ長生きした崇光は光厳の正統な後継者であることを示すために「光」の字を入れたのでしょう。「称光院」も同じことが言えるのではないでしょうか。

 

後小松は当初これを追号ではなく諡号にしようと考えていたようです。光厳の後継者であることを主張するための方策ではないでしょうか。しかし諡号案は兼良の反対で立ち消えになります。兼良の言い分は、子が親の顕彰をするのは有りだが、親が子の顕彰をするのは無し、ということです。この辺は『薩戒記』に詳しいです。

 

二条持基満済と「後何院」ではだめなのか、とか、「後何院」は後小松が嫌がっている、とか、後小松が小路にちなんだものはだめだ、といっているとか、いろいろ困っているようです。ちなみに「称光院」の他に候補に上がったのが「西大路院」です。

 

しかし現実は後小松にとって氷のように冷たいものでした。後小松の崩御後には、後小松と折り合いの悪かった義教によって後小松の決定はことごとく覆されていきます。後光厳皇統も兼良がこの文章を書いた段階では断絶したも同然と考えられていたのでしょう。そして当初は後小松の遺詔を守ろうとしていた兼良は、伏見宮家の宮廷での発言力の強化とともにその立場を翻します。そのような兼良の立場を表しているのが、称徳から光仁への皇統の移動を表したものとして「称光院」を位置付けた議論ではないでしょうか。