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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

足利義教は「天台開闢以来の逸材」だったか?

ここのところエントリに多くアップしている足利義教ですが、彼が将軍になる前は青蓮院門跡という天台宗比叡山延暦寺天台座主大僧正も務めた高僧であることも有名ですね。

 

ただ引っかかるのが「天台開闢以来の逸材」という言葉です。義教の聡明さを示すいい話ではあるのですが、実は天台座主としての義円(義教)が聡明だった、ということを示す史料はありません。というよりもそもそも義円時代の義教に関する史料はほとんどありません。義円時代については『大日本史料』が公刊されていますので、実は史料は集めやすいです。従って私はこの時代の『大日本史料』を総まくりしました。

 

とはいっても東京大学史料編纂所データーベースで大日本史料のデータベースに「義円」と入力して検索するだけです。これで『大日本史料』の義円関係史料が全て閲覧できます。すると「天台開闢以来の逸材」という言葉はおろか、似たような言葉も出てきません。あえて言えば義円が失脚し、逐電した時に衆徒が根本中堂に閉籠した時に義円を褒め称える文書を提出している位です。義円が無能ではなく、慕われていることは理解できますが、「天台開闢以来の逸材」とまでいうのは言い過ぎではないかと思います。

 

そこでSNSでフォロワーの皆様の手をお借りしました。すると川村一彦氏の著作と明石散人氏の著作にあることをご教示いただきました。年代から見て明石散人氏の著作が言い出しっぺではないか、と考えられます。

 

義円の出世について明石氏は次のように述べています。

 

僧侶時代の出世は前代未聞で、十八歳大僧正、二十一歳准三后、二十四歳で座主に請われ、二十六歳にして天台座主という驚くべきものでした。この出世は、別に彼が義持の弟であったからではありません。義教は天台開闢以来の逸材といわれていたのです。これを物語っているのが、当時天台最大の尊敬を集めた百四十七世桓教が、良順(一四八世)、堯仁親王(百四十九世)、実円(百五十一世)、相厳(百五十二世)を差し置いて百五十三世義円(義教)に天台相伝の秘書を伝えたことなんです

 


増補 二人の天魔王 -信長の正体-

 

 

まず二十六歳で天台座主、というのは義持の弟以外のファクターはありません。もっとも全く無能では務まらないかもしれませんが、別に珍しいことでもありません。三宝院義賢(足利義教の従兄弟)も二十六歳で東寺長者ですから。尊雲法親王に至っては二十歳で天台座主です。義円を大幅に上回る記録です。

 

ではなぜ桓教が義円に「天台相伝の秘書」を伝えたのでしょう。明石氏のいう「天台相伝の秘書を伝えた」というのは付法のことだと思いますが、そもそも付法を経ないと門跡になれません。しかし義円が入室した時の青蓮院門跡の尊道入道親王は義円が入室した半月後に亡くなっています。従って義円は二条師良の子で二条良基の養子になっていた桓教に預けられています。従って桓教が義円に何かするのは自然であって、義円が特別優れていたことにはなりません。

 

義円が「天台開闢以来の逸材」であった、というのは現時点では「都市伝説」ではないか、と考えます。

 

「義教スゲ〜」神話は意外と害悪を垂れ流します。義教が北海道から琉球を支配し得た、という与太話(あえてそう表現します)は、かなり政治的な意味合いを帯びた言説である、と断じざるを得ません。こういう政治的与太話の温床となっている「義教スゲ〜」論を無力化するためにも義教の等身大の評伝が必要です。

足利義教は「天台開闢以来の逸材」だったか?

ここのところエントリに多くアップしている足利義教ですが、彼が将軍になる前は青蓮院門跡という天台宗比叡山延暦寺天台座主大僧正も務めた高僧であることも有名ですね。

 

ただ引っかかるのが「天台開闢以来の逸材」という言葉です。義教の聡明さを示すいい話ではあるのですが、実は天台座主としての義円(義教)が聡明だった、ということを示す史料はありません。というよりもそもそも義円時代の義教に関する史料はほとんどありません。義円時代については『大日本史料』が公刊されていますので、実は史料は集めやすいです。従って私はこの時代の『大日本史料』を総まくりしました。

 

とはいっても東京大学史料編纂所データーベースで大日本史料のデータベースに「義円」と入力して検索するだけです。これで『大日本史料』の義円関係史料が全て閲覧できます。すると「天台開闢以来の逸材」という言葉はおろか、似たような言葉も出てきません。あえて言えば義円が失脚し、逐電した時に衆徒が根本中堂に閉籠した時に義円を褒め称える文書を提出している位です。義円が無能ではなく、慕われていることは理解できますが、「天台開闢以来の逸材」とまでいうのは言い過ぎではないかと思います。

 

そこでSNSでフォロワーの皆様の手をお借りしました。すると川村一彦氏の著作と明石散人氏の著作にあることをご教示いただきました。年代から見て明石散人氏の著作が言い出しっぺではないか、と考えられます。

 

義円の出世について明石氏は次のように述べています。

 

僧侶時代の出世は前代未聞で、十八歳大僧正、二十一歳准三后、二十四歳で座主に請われ、二十六歳にして天台座主という驚くべきものでした。この出世は、別に彼が義持の弟であったからではありません。義教は天台開闢以来の逸材といわれていたのです。これを物語っているのが、当時天台最大の尊敬を集めた百四十七世桓教が、良順(一四八世)、堯仁親王(百四十九世)、実円(百五十一世)、相厳(百五十二世)を差し置いて百五十三世義円(義教)に天台相伝の秘書を伝えたことなんです

 

まず二十六歳で天台座主、というのは義持の弟以外のファクターはありません。もっとも全く無能では務まらないかもしれませんが、別に珍しいことでもありません。三宝院義賢(足利義教の従兄弟)も二十六歳で東寺長者ですから。尊雲法親王に至っては二十歳で天台座主です。義円を大幅に上回る記録です。

 

ではなぜ桓教が義円に「天台相伝の秘書」を伝えたのでしょう。明石氏のいう「天台相伝の秘書を伝えた」というのは付法のことだと思いますが、そもそも付法を経ないと門跡になれません。しかし義円が入室した時の青蓮院門跡の尊道入道親王は義円が入室した半月後に亡くなっています。従って義円は二条師良の子で二条良基の養子になっていた桓教に預けられています。従って桓教が義円に何かするのは自然であって、義円が特別優れていたことにはなりません。

 

義円が「天台開闢以来の逸材」であった、というのは現時点では「都市伝説」ではないか、と考えます。

 

「義教スゲ〜」神話は意外と害悪を垂れ流します。義教が北海道から琉球を支配し得た、という与太話(あえてそう表現します)は、かなり政治的な意味合いを帯びた言説である、と断じざるを得ません。こういう政治的与太話の温床となっている「義教スゲ〜」論を無力化するためにも義教の等身大の評伝が必要です。

足利義教と織田信長

足利義教織田信長と言えば似たもの同士扱いです。

 

確かに比叡山焼き討ちとか、強圧的な政治とか、沸点や発火点が極めて低くすぐにキレるところとか、確かによく似ています。

 

しかしだからと言って信長が義教を目標にしていた、とかいうのは冗談のレベルで留めておくべきです。そのような史料はありません。まあなくてもそこは歴史捜査とかで説明できるかもしれませんが、実際は無理です。なぜかと言えば、信長自身が次のようにいっているからです。

 

 織田信長「世の中のみんな義昭様を『悪い御所』と呼んでますよ。義教様のことも同じように言われてますが、どういうことでしょうねミャハ☆彡」

 

 足利義昭「くぁwせdrftgyふじこlp」

 

「異見十七条」の十七条目を意訳。

 

第一条と第十七条を合わせると「朝廷をもっと大事にしないとお兄さんみたいな死に方しますよ」となります。信長は義輝と義教という、暗殺された将軍を並べることで、義昭に圧迫を加えているわけで、「部下に殺される奴には殺されるだけの理由があるんですよ」といっているわけです。当たり前ですが部下に反乱を起こされて殺される、というのはかっこいいものではありません。信長も義教や義輝のようにだけはならないでおこうという気持ちがあったと考えるのが自然です。

 

ちなみに信長が明智光秀に囲まれた時にどう思ったかはわかりませんが、義昭は以下のように思ったでしょう。

 

 「信長ブーメラン乙pgr」

 

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足利義教評伝の構想2

足利義教評伝構想の続きです。

 

sengokukomonjo.hatenablog.com

 足利義教は誤解されやすい人物です。足利義教に関する誤解と言えば、二言目には「凶暴」「狂気」と出ます。実際義教には執念深いところがあり、それがしばしば特に後小松天皇関係者に現れることは事実です。

大覚寺義昭に対する追及の厳しさも彼個人の執念深さがあります。

また彼は確かに怒りをコントロールすることが苦手であったようで、料理のまずさによる処刑、梅の枝を折ってしまったことによる処刑など、やりすぎのところはあります。ちなみにこういう過酷な話は大体が対象を貶めるための後世の捏造であることが多いのですが、残念ながら義教の場合は同時代の一次史料にしっかりと残っておりますので、かなりの確率で事実である、と考えざるを得ません。

 

しかし義教についてはもう一つ見逃せない誤解があります。

 

それは日本列島の北海道から琉球まで支配した、強力なリーダーシップを持った人物である、と評価する傾向です。確かに義教は堕落した朝廷の風紀を引き締め、天皇の権威を取り戻した人物である、と私は思います。義持もこの点はかなり苦慮していましたが、義教の場合後小松の死去という条件もあり、後花園天皇を「中興の聖主」(文道再興の聖徳)と呼ばれる存在に育て上げたのは足利義教本人です。また行き詰まりが見え始めていた管領というシステムを作り替え、大名合議制を見直すなど、幕府政治の改革にも辣腕を振るいました。

 

例えば北海道では津軽安藤氏と南部氏の争いに介入し、南部氏が義教の和睦案を拒否し、改めて和睦を命じるシーンがあります。

 

史料を厳密に読めば、そこでは義教の御内書には効き目は期待できないから出したくない義教と、効き目があろうが無かろうが出して口先介入をすることに意義がある、とする畠山満家の対話なのですが、これを「義教は強い!」という先入観で読むと、義教の強硬な姿勢に折れて撤退する南部氏という図式になります。

 

sengokukomonjo.hatenablog.com

これは文献史学のいい加減な読みが考古学にまで迷惑をかける事例であると考えています。

 

さらに琉球に関しては琉球附庸説なるものがあります。

 

sengokukomonjo.hatenablog.com

ざっくり言いますと大覚寺義昭を討ち果たした島津忠国に対して義教が琉球を与えたものという荒唐無稽なものです。案外信じてしまう人がいるので注意が必要です。

 

これも「義教強い!」神話がよくない方向に効いている例ですね。「義教強い!」神話の解体も必要です。

 

ガチ?の戦国時代研究者が戦国IXAの武将を学術的に解説します里見義弘

株式会社スクウェア・エニックスの戦国ゲーム「戦国IXA」に出てくる戦国武将解説シリーズ、今回は里見義弘です。

おそらくほとんど知名度はないのではないか、と思います。親父の里見義堯はまだ知名度は少しあるかな、というレベルです。ただ滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』の名前(中学入試ではしっかり出てきます)をご存知であれば「ああ、あれね」という感じになっていただけるのではないかと思います。

 

IKAブルの説明では以下のようになっています。

 

見家の最大版図を築いた第6代当主だワン!上杉謙信と協力して北条家を苦しめたけど、「房相一和」政策により北条早雲の頃より続いた北条家との争いに終止符を打ったんだワン!

 

南総里見八犬伝』は南総つまり千葉県の先っぽの戦国大名であった里見氏をめぐる物語です。里見氏の姫とそれを守る八犬士をめぐる長編伝奇小説で、もうそれだけで個人的にはお腹いっぱいです。詳しくはどこかでみてください。私はウィキペディアで「南総里見八犬伝」を調べ、途中で飽きて放り投げました。すみません。

 

里見氏は新田氏の庶流で、鎌倉時代には御家人として、南北朝時代には二つに分かれて戦ったようですが、その後の系譜関係ははっきりしません。室町時代には里見氏は鎌倉公方支配下にあったようですが、鎌倉公方足利持氏が滅ぼされた永享の乱に巻き込まれて滅亡し、その後はよくわからないのですが、16世紀初頭には里見義通が安房一国を支配し、戦国大名となりました。安房国は現在では千葉県の房総半島の先端部分ですが、当時は東京湾の出入り口を押さえる重要な拠点でした。里見義弘がどう考えても「アホイ!良い子のみんな、海賊になってくれる?」みたいな様子なのはそのためです。多分。

 

里見氏は東京湾の海運などをめぐって北条氏と戦います。里見義弘は里見義堯の子で、里見義堯の代には安房国のみならず上総・下総にまで勢力を伸ばしますが、義弘も上杉謙信佐竹義重と組んで北条氏と戦い、一旦は上総・下総を失いますが、それを奪還して里見氏の最大勢力を構築しました。

北条氏政の代になり、北条氏康時代の政策を見直した北条氏は上杉謙信との講和を進め、上杉氏の後ろ盾を失った里見氏は1577年に房相一和(安房国相模国の講和)を結び、里見氏の勢力圏は確定しますが、その直後の1578年、義弘は休止します。その後里見氏は内紛が起こり、危機に陥りますが、後継者争いに勝利した里見良義頼がうまくまとめ、豊臣秀吉にもうまく接近しますが、秀吉の怒りに触れ、安房国一国に減らされ、関ヶ原で家康に味方したため常陸国にも所領を獲得して無事に十二万石の大名になりますが、里見忠義の代に政変に巻き込まれて伯耆国倉吉(鳥取県倉吉市)三万石に減封の上に転封処分となり、後継が生まれないまま死去したため無嗣断絶となってしまいました。

 

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ガチ?の戦国時代研究者が戦国IXAの武将を学術的に解説します佐竹義重

株式会社スクウェア・エニックスの戦国ゲーム「戦国IXA」に出てくる武将の解説、今回は佐竹義重です。

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佐竹義重2021年バージョン



マイナーなイメージを私は持っていますが、意外とメジャーなんでしょうか。戦国IXAの大殿としては3回目の登場です。安東愛季南部晴政でも2回目ということを考えれば順当なところかもしれません。

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佐竹義重2014年バージョン

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佐竹義重2015年バージョン



 

 

IXAブルの説明では次のようになっています。

佐竹家第18代当主だワン!「鬼義重」の異名を持つ猛将ながら巧みな外交で諸将をまとめ上げ、蘆名家などと共に反伊達連合も結成したんだワン!

 

 

佐竹氏というのは貧乏くじを引き続けている、という印象があります。

佐竹氏は常陸源氏と呼ばれる、常陸国茨城県)の北部を勢力圏とした源氏の名門です。祖先は南部晴政と同じ新羅三郎義光です。源頼朝の挙兵時には頼朝に抵抗したために冷遇されました。滅ぼされなかっただけでも儲けものという感じですね。

奥州合戦の時には源氏の白旗を掲げて頼朝に従いますが、頼朝から「紛らわしいから扇の絵でもつけておけ」と命じられます。その後も冷遇され、北条氏に所領を侵食され続けます。

 

南北朝時代には足利尊氏に従い、うまく時流に乗りました。関東の大勢力として関東八屋形と呼ばれる足利基氏の鎌倉府の重臣となりましたが、これがまた佐竹氏に苦難の道をもたらします。有力な庶流に山入氏が出ますが、佐竹本家はそのころ後継者を欠き、関東管領上杉憲定の息子の上杉義憲が佐竹義盛の婿養子に入り、佐竹義人となります。ここで男系では義光の血筋は途絶えることになりますが、それに不満を持った山入氏と争うことになります。

 

山入氏は以前から室町公方と直接主従関係を取り結ぶ「京都扶持衆」と呼ばれる集団に入っていました。室町公方の足利義持鎌倉公方足利持氏の関係が悪化すると山入氏は難しい立場に置かれ、山入与義(ともよし)は持氏によって滅ぼされてしまいました。持氏はのちに室町公方を継承した足利義教に滅ぼされ、佐竹氏も難しい立場に追い込まれてしまいます。

 

その後百年間佐竹氏は内紛に悩まされましたが、佐竹義舜・佐竹義篤・佐竹義昭の代には内紛も治まり勢力を常陸南部にまで及ぼすようになります。

有力な常陸国人領主であった江戸忠通の反乱も義昭の代に鎮圧されています。

江戸忠通

なお江戸忠通のカードは上のようなイラストで、いかにも「江戸」っぽさを出していますが、忠通の「江戸」は常陸国那珂郡江戸郷(茨城県那珂市)です。

 

佐竹義重は義昭の子として1547年に生まれ、父祖代々の悲願である常陸国の統一を行い、さらに白河結城氏を撃破して北関東から南東北にその勢力圏を広げていきます。そして北条氏政蘆名盛氏と関東の覇権をめぐって争うようになり、佐竹氏の全盛期を気付き上げることに成功しました。

 

南奥州に勢力圏を広げたことで南奥州の雄である伊達政宗と戦うことになります。

 

豊臣秀吉の台頭に際して佐竹氏は対処を誤らず、常陸国54万石を領有することに成功しました。義重は子の義宣に家督を譲りますが、佐竹義宣がやらかしてくれました。義重をはじめ家中の多くが東軍につくことを勧めていたのに、義宣は西軍につこうとして譲らず、結局どっちつかずになって改易は免れたものの出羽国秋田20万石に減封・転封となります。秋田の大名秋田実季(安東愛季の嫡男)はそのとばっちりを受けたわけではありませんが、常陸国宍戸に転封となっています。

 

 

sengokukomonjo.hatenablog.com

 

佐竹義宣

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『戦乱と政変の室町時代』(柏書房)出版のお知らせ

この度渡邊大門編『戦乱と政変の室町時代』を柏書房から出版します。

www.kashiwashobo.co.jp

 

戦乱と政変の室町時代Amazon

この本の内容

戦国時代や江戸時代に比べて、広く一般に理解されているとはいえない室町時代。しかし、実際には、将軍家、天皇家、各地守護一族が複雑に絡み合うさまざまなドラマが渦巻いており、歴史のダイナミズムに満ちた時代だった。本書では、足利幕府体制の確立期から崩壊に至るまでの過程を、「観応の擾乱」から「明応の政変」に至る12の争いで読み解いてゆく。点としての数々の戦乱が線として結びつくことで見えてくる、室町の見取り図!

 

目次

はじめに
第1章「観応の擾乱」 その後の幕府混乱の萌芽、室町草創期の〝兄弟の争い〟  秦野裕介
第2章「明徳の乱」 専制政治を展開した足利義満による有力守護追討戦  市川裕士
第3章「応永の乱」 「反乱」か「世直し」か?――大内義弘、幕府軍との戦い  浅野友輔
第4章「上杉禅秀の乱」 いくつもの争乱の〝火種〟となった鎌倉公方関東管領の争い  千葉篤士
第5章「永享の乱」 関東をさらなる混沌に陥れた室町将軍と鎌倉公方の全面戦争  中根正人
第6章「結城合戦」 「永享の乱」で敗れた鎌倉公方の遺児たちによる〝復讐戦〟  前川辰徳
第7章「嘉吉の乱」 〝万人恐怖〟への反動、幕府権威失墜の端緒となった将軍暗殺劇  渡邊大門
第8章「禁闕の変」 後花園天皇襲撃事件に見る、皇統をめぐる複雑な争いの真相  秦野裕介
第9章「享徳の乱」 開かれた戦国期への扉――関東を分断した「三十年戦争」  谷口雄太
第10章「長禄の変」 赤松氏再興の悲願と細川氏の山名氏牽制策が交錯した陰謀  渡邊大門
第11章「応仁・文明の乱」 全国を二分し、戦国時代の到来を招いた混沌たる大戦乱  浜口誠至
第12章「明応の政変」 〝将軍が二人?〟――細川政元による新将軍擁立のクーデター  古野 貢
おわりに