足利義教評伝の構想2
足利義教評伝構想の続きです。
足利義教は誤解されやすい人物です。足利義教に関する誤解と言えば、二言目には「凶暴」「狂気」と出ます。実際義教には執念深いところがあり、それがしばしば特に後小松天皇関係者に現れることは事実です。
大覚寺義昭に対する追及の厳しさも彼個人の執念深さがあります。
また彼は確かに怒りをコントロールすることが苦手であったようで、料理のまずさによる処刑、梅の枝を折ってしまったことによる処刑など、やりすぎのところはあります。ちなみにこういう過酷な話は大体が対象を貶めるための後世の捏造であることが多いのですが、残念ながら義教の場合は同時代の一次史料にしっかりと残っておりますので、かなりの確率で事実である、と考えざるを得ません。
しかし義教についてはもう一つ見逃せない誤解があります。
それは日本列島の北海道から琉球まで支配した、強力なリーダーシップを持った人物である、と評価する傾向です。確かに義教は堕落した朝廷の風紀を引き締め、天皇の権威を取り戻した人物である、と私は思います。義持もこの点はかなり苦慮していましたが、義教の場合後小松の死去という条件もあり、後花園天皇を「中興の聖主」(文道再興の聖徳)と呼ばれる存在に育て上げたのは足利義教本人です。また行き詰まりが見え始めていた管領というシステムを作り替え、大名合議制を見直すなど、幕府政治の改革にも辣腕を振るいました。
例えば北海道では津軽安藤氏と南部氏の争いに介入し、南部氏が義教の和睦案を拒否し、改めて和睦を命じるシーンがあります。
史料を厳密に読めば、そこでは義教の御内書には効き目は期待できないから出したくない義教と、効き目があろうが無かろうが出して口先介入をすることに意義がある、とする畠山満家の対話なのですが、これを「義教は強い!」という先入観で読むと、義教の強硬な姿勢に折れて撤退する南部氏という図式になります。
これは文献史学のいい加減な読みが考古学にまで迷惑をかける事例であると考えています。
ざっくり言いますと大覚寺義昭を討ち果たした島津忠国に対して義教が琉球を与えたものという荒唐無稽なものです。案外信じてしまう人がいるので注意が必要です。
これも「義教強い!」神話がよくない方向に効いている例ですね。「義教強い!」神話の解体も必要です。