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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

後花園と後土御門の化粧

昔の偉い人の顔は化粧をしているのはご存知なことと思います。

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少弐景資竹崎季長絵詞」

これは文永の役竹崎季長を見送る少弐景資ですが、しっかり顔に白粉を塗り、口紅をさしてお歯黒をしているのが見えると思います。ちなみにこの日景資は征東左副都元帥劉復享を弓矢で負傷させています。歴戦の勇者劉復享も「五月人形みたいに着飾ったヤツにやられた〜!!!」と思っていたかもしれません。

 

天皇はもちろん白粉を塗るのみならず眉毛も抜いて置眉をします。いわゆる麻呂眉です。麻呂眉はもちろん俗称で殿上眉と言います。ちなみに「麻呂眉」は一発変換で出ますが、他の、例えば「置眉」は「置き眉」と出ます。そして「置眉」で検索するとグーグル先生に「もしかして置き眉?」と聞かれます。「置眉です!」と言いたくなります。「殿上眉」も「天井眉」で出ました。

 

天皇雛人形を見てもわかりますように麻呂眉です(面倒臭いので麻呂眉にします)。ところがここで後花園天皇の画像を見てみましょう。

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麻呂眉がありませんね。化粧っ気もありません。

そこで興味深い史料があります。『実隆公記』文明13年2月22日条です。

今夜候鬼間。抑今日拝龍顔之処、被略御仮粧〈今年四十〉者也。旧院四十三四之御比、未令略給之由奉見及者也。如何。

 わかりやすく言えば、後土御門天皇と会ったところ、化粧を略していました。40歳です。後花園天皇は43歳44歳のころにはまだ化粧をしていた、ということです。後土御門天皇をディスっていることだけはわかります。「父君と比べて今の人は・・・」という感じがビンビン伝わってきます。三条西実隆にその気持ちがあるかどうかはわかりません。しかしこの記述を後土御門天皇が見ればそう感じることはほぼ間違いがないと思います。

 

で、この話からわかるのは、上の後花園天皇像はかなり晩年のものではないか、と思われることです。

 

それともう一つ思いますのは、ではいつ後花園天皇は化粧をやめたのか、という問題です。私はそれは天皇譲位の時ではないか、と考えています。後花園天皇は非常に高い意識で天皇の位に臨んでいました。それは彼自身が傍系から皇位を継承した、という事情があるでしょう。

 

彼の在位年数は実は当時では最長でした。もっとも後花園本人はそれを知る由もありません。というのは、建前上は102年在位した孝安天皇がいます。したがって36年在位した後花園天皇はまだまだ短いとされていたのです。しかし不自然に在位年数の長い天皇を省いて、在位年数がそれなりにはっきりしてくる継体天皇以降で見れば後花園が一番です。推古天皇の35年がそれに次ぎます。後小松天皇は30年で、これも異例の長さと言えます。

 

後花園は譲位したのが45歳。44歳でも略さなかった、ということは、譲位までは化粧をしていた、ということでしょう。

 

後土御門は40歳で化粧をやめてしまったのは、多分天皇を続ける気力が失われていたことの表れでしょう。だから実隆もさりげなくディスっていたのではないかと考えます。

 

後土御門は五回も譲位を口にします。しかし皮肉なことにそれは全く叶えられませんでした。譲位すれば仙洞御所を立てねばならず、践祚と即位に金がかかります。大嘗会の問題もあります。応仁の乱後、急速に収縮してゆく室町幕府にその費用が出せるはずはありません。彼の譲位の望みは叶えられないままでした。

 

その結果、後土御門は後花園の在位年数を更新します。13211日です。後花園は13133日です。78日長く在位しました。後土御門は終始父帝後花園へのコンプレックスに悩まされたようですが、在位年数だけは父帝を超えました。もっとも後土御門はそこは超えたくなかったところでしょう。

 

ちなみに後土御門の記録を抜くのは光格天皇です。在位38年。その記録は明治天皇が抜き去り、そして昭和天皇が最長不倒の64年の在位となっています。後花園天皇は5位に、後土御門天皇は僅差で4位につけています。