オンライン日本史講座二月第二回の報告
まずは「海禁体制」です。
鎖国論から「四つの口」論への転換から話を始めました。
近世(江戸時代)を鎖国体制という、国を閉ざしていた、という見方で見るのではなく、あくまでも交流の統制として、統制下に置かれながらも続いた交流に注目すべき、という議論です。
そのような見方が出てくる背景として、中世における多様な地域間交流の問題が挙げられます。「四つの口」における「松前口」「対馬口」「薩摩口」は、中世以来の伝統を引き継いでいます。それらは断ち切られることなく続いていたのです。
以前から国家間の交渉を研究する「対外交渉史」というテーマは存在していました。国家間のみならず、地域対国家、地域対地域の関係を研究する「対外関係史」という視座、さらには国家の中の地域、国家を超えた地域など様々な地域概念が提出され「対外関係史」の研究は進みますが、そこに海によって繋がる視点を導入した「海域アジア史」というテーマが20世紀末には出てきます。日本国王論もそこに規制されています。
今回のテーマの大きな柱が「日本国王良懐」です。
1369年、明の洪武帝は使者を派遣し、日本に朝貢と倭寇統制を呼びかけます。と言っても当時の日本において倭寇統制の実を期待できるのは太宰府を制圧している征西将軍府しかありません。室町幕府は九州では圧倒的に不利な状況で、逆に南朝は九州以外では完全に追い詰められていました。明は良懐を日本王の「近属」と正確に認識していました。
洪武帝の使者は1回目は激怒した「良懐」に数人が斬殺された上に残された二人も拘留の末に追放されます。それでも洪武帝は2回目の使者を派遣します。2度目の使者である趙秩は良懐の説得に成功し、良懐は禅僧の祖来を派遣し、称臣朝貢してきます。
ここでの論点の一つは良懐は趙秩に「お前は蒙古の使者だろう」と詰め寄っている、と明の史料には書かれています。趙秩は「我々はその蒙古を滅ぼして新たに中華帝国を作った明である」と言っています。良懐は元から明への移り変わりを知らなかったのか、知っていてそう言ったのか、という問題があります。博多にいた、という懐良親王の立場を考えれば知っていた、と考えるのが自然ですが、懐良が蒙古と名指ししたのは、侵略者=蒙古というように表現していた可能性はないかな、と考えます。というのはその40年後に伏見宮貞成親王が応永の外寇のことを「蒙古」の襲来と書いているからです。ちなみに通交相手の中華帝国のことを日本では伝統的に「唐」と呼んでいました。
洪武帝はそれに応えて禅僧の仲猷と無逸の二人を遣わしますが、良懐を日本国王に冊封するはずだった彼らを思わぬ運命が待ち受けています。良懐は「新設の守土臣」に敗北し、無逸らはとらわれの身となります。
ここで思いつきましたが、なぜ洪武帝は禅僧を派遣したのか、という疑問に対する答えですが、良懐サイドが派遣した使者が禅僧だったから、という可能性があります。
それはともかく、無逸らは京都に連行され、そこの「持明」という勢力と交渉することになります。幼君が在位し、臣下が国権を思うままに振るう政治体制は明の受け入れるところとはなりませんでした。室町幕府の最初の遣使は失敗に終わります。
良懐こと懐良親王も最後はいつ、どこでだったのか、は明らかにならないままで、しかも懐良死後には征西将軍府の自立化が南朝から難詰されることになります。いわば一種の亡命政権だった可能性が議論になりました。つまり南朝が滅亡したら懐良が南朝を再興するという形だったのではないか、ということです。
後半は足利将軍と日本国王の関係です。
一つ目の論点は、義満の「日本国王」は受け入れられていたのか、ということですが、これは当時の日本では非難轟々、従って日本国王を天皇に変わる権威として期待した、という王権簒奪のツールとしての日本国王は成り立たないだろう、という見通しが立ちます。あくまでも貿易名義として日本国王を把握するべきだろう、ということです。
その点に関わって興味深いのが、足利義教の時の明の使者への応対です。義教を日本国王に冊封する使者がやってくるのが永享6年です。
その時に拝礼、肩書き、年号が問題になりました。詳細は前回のエントリをお読みください。
http://sengokukomonjo.hatenablog.com/entry/2019/02/13/003644
ここでの問題は満済がどう対応したかです。満済は折中の儀にて2回、明の皇帝に日本大臣として礼を尽くすのは問題ではない、前に日本国王と書いているのだから日本国王と書いておけ、そもそも将軍は覇王だ、明年号にしておけ、せっかく明はよろこんでいるのだから、水を差すな、どうしても明に臣従したくないというのならば「日本は神国なので外国に従うことはできない」とでも手紙に書いとけ、という主張でした。
問題は赤松満祐と細川持之がなぜちゃぶ台返しに出たか、です。拝礼なし、日本国、日本年号というちゃぶ台返しを持ち出してきたのは彼らです。でも彼らも満済と同じく日明貿易の利害関係者です。日明関係を悪化させて得なことは何一つありません。
ヒントは満済が「公方様(義教)も知らんかったんかいな」と驚いているところと、言い出しっぺが義教らしいところです。
多分義教がいきなりちゃぶ台返しを始めたのではないでしょうか。永享6年には義教の暴走が始まっていた、と言われています。畠山満家と後小松法皇が死去し、義教にとっての目の上のたんこぶがなくなっていました。全能感にひたった義教が日明関係にも口を出し始めたとしても不思議ではありません。満済は結局自分の言い分を通したようです。
修士論文を書いていた頃は「満済の発言力は結局偉大だな、義教も持之や満祐も満載には逆らえないんだな」としか思っていませんでしたが、余裕を持って史料に向かうことができるようになりますと、そのころ満済が心臓疾患らしい症状を頻りに訴えていることがわかりました。体調不良の中、必死で義教らの無茶振りを修正している満済の苦しみが理解できたような気がします。
そのころの重要な輸出品の硫黄についても議論になりました。
硫黄は明にとっては重要な武器の原料です。しかし日本ではあまり使い道がありません。その硫黄は将軍の独占物です。武器はやはり公方の専管事項であることがわかります。
その硫黄取引に手を染めて失脚したのが山名時熙です。
で硫黄に関連して取り上げるべきなのが、島津氏久と足利義持による永楽帝への謝罪の使節です。義満の死後、永楽帝を無視してきた義持が謝罪してきた時、永楽帝は喜んで義持に謝罪を受け入れ、今後一層忠節を励むように言い渡す勅諭を出します。それを見て義持は激怒します。
義持の謝罪の使者は偽物だったのです。硫黄を輸出できなくて困っていた氏久はおそらく義持名義の偽物を出すことで硫黄を捌こうとしたのではないでしょうか。
日本国王は「人臣に外交なし」という海禁体制の根本をクリアするために作られた称号です。建前上は日本国王の上には明皇帝しかいません。しかし日本国王は同時に日本の左大臣であったりするわけです。ここをどう考えるか、です。
株式会社日本の代表取締役会長が天皇、代表取締役社長が将軍という見方もできるんじゃないか、という意見が出されました。で、どちらが実権があるか、という問題である、という見方です。
実際、現在の室町時代研究では天皇と将軍を共同経営者と見る見方が主流です。将軍による天皇大権の侵害に見えるのも、天皇大権の復活に見えるのも、とどのつまりは代表権は二人にあるものの、力関係がどちらに傾くか、という問題であり、同じ経営体制の中にあることは事実である、と見る見方です。
会社の経営を掌握してきた代表取締役社長が急死し、後継者候補はまだ9歳の少年で、代表権のない専務が後継者候補を補佐している段階で、それまで退いていた代表取締役会長が経営の前線に出てくるようなものです。
本日はレギュラーメンバーが二人ほど所用で参加できなかったため、いつもより長めでお送りいたしました。
このオンライン日本史講座では私の話よりも、それを題材として展開される議論がメインです。議論の行方に主体的に関わるもよし、どこに行くのかハラハラドキドキしながら議論を見守るのもよし、顔出しあり、なし、どちらでもOKです。様々な参加の仕方で楽しめるのがこの講座の一番いいところではないか、と思います。
ぜひ一度お越しください。
次回は2月21日の「朝鮮使節の見た室町日本」です。
予告エントリは金曜日深夜、日曜日深夜、火曜日深夜にアップします。お楽しみにお待ちください。