オンライン日本史講座2月第2回「日明貿易と日本国王」に向けて3
オンライン日本史講座2月第2回「日明貿易と日本国王」のための予備講座3回目です。
今回は室町幕府の将軍と日本国王についてざっくりと述べていきます。
最初の「日本国王」である「日本国王良懐」こと懐良親王は今川了俊に敗れ、筑後の山奥に逼塞します。没年も薨去した土地も厳密にはわかっていません。
懐良親王没後にも「日本国王良懐」名義の使者は実は見られます。八代の名和氏ともあるいは北朝方の勢力とも言われます。ともかく「日本国王良懐」名義以外では明に通交できませんから、とりあえず「日本国王良懐」を名乗る以外には手はないわけです。
しかし実態はありませんし、明も良懐こと懐良親王の征西将軍府が崩壊したことはわかっていますから、それ以後の遣使は全て却ています。
洪武帝が死去し、建文帝が後継者になり、叔父の燕王と抗争が始まります。靖難の変です。燕王との緊張関係が増す中、「日本国源道義」の使者がやってきます。いうまでもなく足利義満の使者です。燕王と戦わなければならない建文帝は日本の来朝を喜んだことでしょう。義満を日本国王に冊封します。
建文帝は敗れ、燕王が皇帝になります。永楽帝です。
永楽帝は積極的な海外膨張政策をとります。その最中に日本国王の使者がやってきたのです。あの、クビライ・カアンですら手を焼いたあの日本が、です。父親の洪武帝も手を焼いたあの日本です。永楽帝は己の実力に酔いしれたことでしょう。しかも鄭和からは「麒麟」の発見のニュースも飛び込んできます。「永楽の盛時」はここに極まりました。
しかし日本国王源道義は間も無く死去します。永楽帝はこれを悲しみ「恭献王」の諡号を贈ります。
永楽帝に逆風が襲い掛かります。日本が離反しました。「世子源義持」は当初は恭献王源道義の後継の日本国王として冊封されますが、やがて明との関係を拒否します。何があったのかは当日お話しします。
永楽帝は後宮の乱れ、国内の不満の鬱積など様々な困難に直面します。さらに彼の健康も衰えていきます。求心力を保つために大規模な外征に打って出ます。しかしその途上で彼は戦病死します。
永楽帝については私はこの本を参考にしています。
日本では義持が死去し、足利義教が継承します。義教は朝鮮を通じて明との国交回復を持ちかけますが、朝鮮からは断られます。しかし永楽帝の後を継いだ宣徳帝(間にもう一人いる)は琉球の尚巴志を介して義教に朝貢を呼びかけます。
義教の時代には日明貿易は二度派遣されます。しかし明からの使者を迎える時にいろいろ議論が沸き起こります。
有名なのが満済が述べた言葉です。「前回の明からの使節への応接について丁寧すぎる、と内々に斯波義将が述べていた」というあれです。そこから義満の明に対する卑屈な姿勢が云々され、また義教がその対応を改めたことで義教の株が上がる、ということになっています。
しかし橋本雄氏によれば、そもそも斯波義将は義満が明の使節にどのように応対したか、その場には居合わせていなかった、ということです。義満についていたのは昵懇の公家と僧侶だけだったようです。つまり義満は気のおけない人物だけを連れて明との応接に臨んでいたようです。しかもその対応は非常に高圧的であった、といいます。
義教の時には明の皇帝の勅書にどのように接するか、というのがまず問題になります。これについて礼拝をしない、という案も出されますが、満済が三度を超えなければいいのではないか、と発言し、二回の拝礼ということに決定します。
返書に日本年号を書くのか、明年号を書くのか、が問題となります。多くの意見では日本年号を主張していました。鹿苑僧録の宝山乾珍(足利直冬の子)は干支を主張します。しかし満済はいずれも退け、明年号を主張し、満済の意見が通ります。満済の所属する醍醐寺は明との貿易に絡んでいましたので、くだらないプライドで醍醐寺の経営に関わる日明関係が破綻するのは避けたい、という気持ちだったでしょう。
返書の義教の肩書きも問題になります。日本国王と書くのはまずいんじゃないか、という意見です。つまり日本国王は明皇帝の臣下ではないか、ということです。満済はおそらく半分キレながら返答しています。
「あのな、昔の義満のことは全部うーそさ、そんなもーんさ、とは言われへんやんか。今更失敗だったというてどないしますねん。明かてものすごくこちらの遣使をよろこんでいるんや。それをひっくり返してどないするつもりですねん。こちらが下手、いうても義教様は日本の大臣やねんから相手の皇帝にベコベコするのは当然やん。国王という肩書きまずい、って覇王やから「国王」で問題ないですやろ」
まあかなり意訳してますが、満済の言い分は以上の通りです。満済は腹の底では「そんなしょーもないプライド振り回してせっかくの経済関係ぶっつぶすってほんまにあいつらみんな脳みそ入ってるんか?」程度には思っていたでしょう。半ばヤケクソ気味に「そんなに気になるんやったら『日本は神国やさかい、マウンティングされるわけにはいきません、いうたらよろしいやん」と言っています。もちろん面と向かって明皇帝に喧嘩を売る根性は細川持之や赤松満祐にはありません。
あと興味深いのは満済が「義教さまもご存知なかったんかいな」と驚くシーンがあることです。日本国王として儀式に臨む時の姿勢をよく知らなかったようです。
義政の代には明も衰えが隠せず、日本からの朝貢を制限するようになります。
朝貢は莫大なお返し、つまり回賜品が必須です。十倍返しくらいが妥当です。周辺諸国はその回賜品が目的なので、回賜品を得るために貢物を持ってきて中華帝国の威信を向上させる手伝いをしているわけです。これはつまり経済的に苦しくなってくると明は朝貢を制限するようになります。
義政時代には10年に1回に制限されます。室町将軍にとって日明貿易は経済的利益のみならず文化の最先端を行く文化のプロデューサーたりうるための文化の輸入先でもあったのです。「唐物」が手に入らなくなると室町将軍は自らがプロデュースする必要に迫られます。
この時期日本のみならず周辺諸国で「伝統文化」が成立する背景はそこにあります。
この辺についても語れたらな、と思います。では木曜日にお会いしましょう。