後花園天皇をめぐる人々ー一休宗純
いわずとしれた一休さんです。♪「好き好き好き好き好き好き」の一休さんです。テレビアニメが懐かしいです。
一休が後小松天皇の落胤である、というのはどの程度信ぴょう性があるのか、と言う問題ですが、島津氏のご先祖が源頼朝の落胤である、というよりは信ぴょう性が高いと思われます。というか、島津の先祖が頼朝である確率は、秀吉の母が萩中納言の娘で天皇(誰かは不明)の寵愛を受け、秀吉を生んだ、というのと同レベルです。
江戸時代に新井白石が記した『読史余論』に一休と後花園天皇について次のように説明があります。
南朝記に、大徳寺の一休と聞えしは実は後小松の皇子也。然れど賤しき腹に宿り給しかば人臣の子となされて僧とは成り給へる也。称光院の御世継の事を議せられし時に一休に問はしめて定め申さるべしとて院宣有りしに和尚言葉はなく一首の和歌をば献ず。
常磐木や 木寺の梢 つみ捨てよ 世を継ぐ竹の 園は伏見に
然らばとて伏見殿の御子に定れりといふ。此の歌書かれし物は今も世の宝など申して伝ふる者あれば然も有りしにや心得られず。
現代語に直してみると次のようになるのではないか、と思います。
信ぴょう性については白石自身が逃げる気満々です。
一休の和歌の意味ですが、「常盤木や 木寺の梢 摘み捨てよ」というのは、どう見ても常盤井宮や木寺宮を指しているとしか思えません。後小松上皇が一休に相談したとすれば、常盤井宮か木寺宮の登極を相談したのではないか、と思われます。それに対して一休は「世を継ぐ竹の園(皇族のこと)は 伏見にある」と答え、伏見宮貞成親王の第一皇子の彦仁王を推薦した、ということになりましょう。
後小松上皇は称光天皇の後釜に伏見宮を据えることをあまりよく思っていなかった節があります。足利家を継承したばかりの義宣(のちの義教)の使者に「窮屈の折ふし(体調が悪いので)」と述べて会おうとしなかった、というのは、本当に体調不良だったのかもしれませんが、重大な局面で「体調悪いんで」と会おうとしない、というのは会いたくない、という意思表示ととるべきでしょう。義宣を嫌がらせか、「軽服(きょうぶく、軽い服喪)」の勧修寺経成を使わしています。これは多分言った、言わないを避けるために書面を出さざるを得ないように物忌み中の経成を派遣したのではないか、と思います。
結局彦仁王を後小松上皇の猶子として貞成親王を棚上げすることで両者は一致しますが、木寺宮とか常磐井宮だったら新天皇の父親面するのがいなくて後小松上皇としてはすっきりしたでしょう。
我々は南北朝の対立に目を奪われがちになりますが、後小松上皇にとっての脅威は大覚寺統の宮家ではなく、同じ持明院統の崇光皇統であったと考えられます。
この和歌自体の信ぴょう性は白石の逃げる気満々の記述からも伺えるようにさほど高くはありませんが、この話のベースには後光厳皇統と崇光皇統の激しい対立が横たわっているような気がします。しかし時間が経つとなし崩し的に後花園天皇以降は後光厳皇統に編入されてしまいますが、少なくとも後花園天皇存命中はこの対立は決着がついていませんでした。