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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

足利義教はなぜ北海道から沖縄までを支配したスーパーマンとなったのか

足利義教はしばしば織田信長のモデルともなった強力なリーダーシップを持った強烈な独裁者というイメージを持たれています。もっとも織田信長足利義教のことを「悪御所」とディスっていますから、信長が義教のことを基本的には評価していなかったことが伺えます。義昭に対して「義教様は悪御所と呼ばれてますが何ででしょうねぇ(何かを見た)」と皮肉をかましていますが、部下に殺されてしまうまでそっくりなため、信長が殺された時に義昭は「特大ブーメラン乙」と思ったでしょう。

 

義教はその強烈なリーダーシップを生かして北海道から沖縄まで支配したことになっています。

 

もちろん誤りです。琉球に関しては現在研究上琉球を支配したことになっている論拠である「嘉吉附庸説」は完全に否定され尽くしており、これを事実として取り上げる著作物は歴史の著作ではなく、政治イデオロギーを主張するものでしかありません。イデオロギーを主張するのはよいのですが、虚偽の歴史的事実をでっち上げてイデオロギーを主張するのは、そのイデオロギーそのものの説得性を失わせるだけです。

 

北海道の方では「十三湊還住説」となりましょうか。こちらはイデオロギー的な問題ではなく、単に史料の誤読です。『満済准后日記』をしっかりと読めていなかった。それが原因です。『青森県史』でも『看聞日記』の読みが結構ガバガバなのは以前述べましたが、北方史の研究ではしばしば室町時代の日記類を雑に読むケースが目につきます。

 

しかし後花園天皇が『東日流外三郡誌』や『東北太平記』に出てくるのはなぜか、ということを考えた場合、足利義教の時代に沖縄や北海道が日本の歴史に絡んでくることにも着目すべきではないか、とも思います。

 

ミクロな視点で言いますと、琉球が三山統一を経て統一国家を形成したのが1429年、日本では永享元年です。そして津軽安藤氏が南部氏に攻撃されて北海道に落ち延びるのが1432年、永享4年です。

 

義教が日明関係の復交を目指した時、それを仲介したのが琉球尚巴志でした。義持時代から尚巴志は室町将軍と関係を持っていたため、明の依頼を受けて義教に手を差し伸べたのです。そして義教の管領を務めていた細川持之尚巴志に仕えていた王相懐機が書状のやりとりをしています。義教は確かに琉球と関係を持っていたのです。

 

津軽安藤氏は京都扶持衆であった、と考えられています。関東公方足利持氏京都扶持衆が攻撃された時に津軽安藤氏は室町公方の足利義持に贈り物を贈って義持から感謝の御内書を拝領しています。

南部氏は『看聞日記』には「関東大名」と記され、足利持氏の使者として黄金と馬を足利義持の元に贈っています。南部氏はどうやら足利持氏と深い関係を持っていたようです。

その南部氏による京都扶持衆津軽安藤氏の攻撃に対して義教ができたことといえば、後花園天皇の口宣案を出して南部氏の懐柔を図ることぐらいでした。いわば口先介入しかできなかったのです。

しかしそれでも義教が北海道まで何らかの関係を有していたことは事実です。近年安藤氏の北海道での拠点の一つと考えられている矢不来館の発掘調査の結果、彼らが京都の文化を受容していたことが明らかとなっています。北海道南部まで室町殿の文化に組み入れられつつあったのです。

 


モノから見たアイヌ文化史

 


中近世の蝦夷地と北方交易: アイヌ文化と内国化

 

 これをマクロな視点から見てみますと、この時代は「グローバルな中世の危機」を脱して「近世帝国」が作られつつある時期だとも言えます。十四世紀の「グローバルな中世の危機」によって元、高麗、鎌倉幕府が滅亡し、明、朝鮮、室町幕府が出現します。そのもとで危機が克服され、近世帝国が登場するステップである「長期の十六世紀」のキックオフの時代に当たるのが十五世紀半ばという時代です。

 

その時代に足利義教が登場したのです。足利義教が強烈な個性を放ち、当時の日本の状況に立ち向かったのは間違いがありません。わずか13年という短い間に義教が日本列島に残した刻印は意外と大きいものでした。それはそれとして評価する必要があります。そして彼の目指したものの多くは嘉吉の乱と嘉吉の徳政一揆で崩壊していきます。

 

嘉吉の乱と嘉吉の徳政一揆は一連のものです。そしてそれが多くの可能性を葬っていったのも事実です。そして何が残されたのか、その点を足利義教の評伝によって解明する必要があります。

 

ちなみにネタ元はこちらです。

 


【中古】 世界システム論で読む日本 講談社選書メチエ266/山下範久(著者) 【中古】afb

 

足利義教が琉球を島津氏に与えたというデマは潰す必要があります2

足利義教による「嘉吉附庸説」なる怪しい議論があります。1983年に完膚なきまでに叩き潰され、これまで琉球に言及する歴史学研究者はまずそれを何らかの事実を踏まえている、とは考えない代物ですが、一般書で歴史学者の肩書きでこれを取り上げる人がいる、という事実を踏まえ、これは潰さなければなりません。

 

「嘉吉附庸説」について詳細に考察したのは紙屋敦之氏です。初出は1983年の「琉球国司考」です。

 

初出の時の所収書物

 


近世の支配体制と社会構造

 

再録された著書


幕藩制国家の琉球支配 (歴史科学叢書)

 

紙屋氏によれば、琉球侵略後ギクシャクした琉球と民の関係が正常化した寛永10年(1633)に正常化したことをきっかけに琉球幕藩体制の中に組み込まれますが、その際に琉球足利義教から賜ったものだ、という「嘉吉附庸説」が唱えられた、ということです。

 

ここで課題として挙げられているのが「なぜ嘉吉元年(1441)なのか」という疑問ですが、これについての私見をここでは述べたいと思います。

 

『島津家文書』を紐解いてみればわかりますが、一番ストレートに室町幕府が島津氏を褒め称えたのが大覚寺義昭討伐事件だったからです。そこで最大級の賛辞が足利義教直々の御内書で贈られ、そこに義教の側近であった赤松満政の副状もつけられています。これだけの賞賛を浴びた事例を使わない手はありません。『島津家譜』と『島津家文書』を並べて読んでいると気づきますが、明らかに義教御内書に琉球の話を継ぎ足したものです。

 

紙屋氏は田中健夫氏の業績を引きながら足利将軍家御内書には「琉球を国内支配の枠組みで捉える琉球観を有していたことが明らかになる」としていますが、近年ではそのような見方は否定されています。

 

足利将軍家琉球宛の御内書について以前に述べました。読んでいただければ幸いですが、かいつまんで説明しますと、ひらがな書きの御内書は琉球国王に対して主として出されており、逆に琉球国王(世の主)から日本国王足利将軍家)へは和風漢文で出されています。そして管領から琉球重臣宛の文書も和風漢文です。つまり足利将軍家から世の主に渡される文書にのみひらがな表記が使われているのです。これが何を意味するか、と言えば、日本国王である足利将軍家琉球国王である世の主はお互いの国の国内文書の形式を使っている、ということです。室町将軍家は琉球を「異国」と見做していたことが明らかになってきています。従って足利将軍家の「御内書」というのも現在では使われません。年号が記され、印章が捺された「御内書」もどきの書状は「国書」というべき、れっきとした外交文書だったのです。

下のエントリでも述べていますが、室町将軍家が印章を捺すのは明・朝鮮・琉球のみです。

 

sengokukomonjo.hatenablog.com

ちなみに印章は次のように捺すようです。

f:id:ikimonobunka:20210607184305j:plain

『昔御内書案』国立公文書館

 

よく見る印判状とは異なることがわかるでしょう。明らかに足利将軍家は国内の大名とは異なる基準で琉球世の主に対していたことがわかるでしょう。

 

義教の時代に琉球は三山統一が成し遂げられ、琉球王国が誕生した、と考えられています。三山統一以前から中山王の尚巴志足利義持の元に使者を派遣しているのに対して南山王や北山王からの国書は見当たらないので、その辺をどう考えるかはこれからの課題です。

とりあえず足利義教の評伝には正しい琉球の歴史の叙述が必要であり、いろいろ勉強したいと思います。

 

足利義教が琉球を島津氏に与えたというデマは潰す必要があります

足利義教琉球を島津氏に与えた、というデマがあります。これはデマと言って何ら問題はありません。これは学問上ではすでに否定され、決着がついている問題ですが、いまだにネット上では信じられているデマでもあります。多くの義教関係の著作や琉球関係の著作で否定され続けているにも関わらず、まだ生命力を持っており、クマムシか、と思っていましたら、その供給源が一つ明らかになりました。

 

 

 

 吉川弘文館のお墨付きとなればいつまでたっても減らないわけです。『日本史総合年表 第2版』(吉川弘文館、2005年)を基にしているので余計にタチが悪い、としか言いようがありません。吉川弘文館の年表に載っている、とすれば信用するのは道理で、これを主張する人が減らないのも道理です。

 

ちなみに田部連氏(田部連@大隈は大隅ではない!)は島津氏研究の著名な研究者ですが、氏はただちに反論していらっしゃいます。

 

 

しかし『日本史総合年表』の威力は大きいです。

ちなみに黒嶋敏氏の『琉球王国戦国大名』(吉川弘文館、歴史文化ライブラリー421、2016年)でも「嘉吉附庸説」を近世前期のものとしています。

 


琉球王国と戦国大名: 島津侵入までの半世紀 (歴史文化ライブラリー)

 

 

今谷明氏も『土民嗷々』(新人物往来社、1988年)で「虚説」としていらっしゃいます。

 


土民嗷々―一四四一年の社会史 (創元ライブラリ)

 


土民嗷々―1441年の社会史

 


足利将軍暗殺―嘉吉土一揆の背景

 

『島津家譜』では次のように書いてあります。

僧正の首を将軍家に献じ候処、義教公御自筆の御感状、名物の御太刀・御腹巻・御馬具、また琉球国忠賞として拝領致し候。これより琉球国は当分船を以て毎年年貢仕り候。

これは本当でしょうか。実はこのときの「義教公御感状」は『島津家文書』にあります。しかしそこには「太刀一腰・腹巻一領・馬一匹」はありますが、琉球はありません。「委曲は(赤松)満政が申し」とありますが、その赤松満政の副状にもありません。

 

紙屋敦之氏の「琉球国司号」(『幕藩制国家の琉球支配』校倉書房、1990年、初出1983年)によって詳細に嘉吉附庸説は解体されています。

 


幕藩制国家の琉球支配 (歴史科学叢書)

 

 

にも関わらずまだ出てくるのは『日本史総合年表』の威力だったわけです。

 

ちなみに同じ吉川弘文館の『対外関係史総合年表』(1999年)には嘉吉附庸説は出てきません。

 


対外関係史総合年表

 

 これが洒落にならないのは、近年足利義教を評価する人の中に沖縄文化を否定する政治的主張を学問的装いのもとに行おうとする人がいるからです。しかしながら嘉吉附庸説は『東日流外三郡誌』と変わらないレベルである、と言えます。

 

こういう強靭なデマは根気強く潰さなければなりません。何しろ少なくとも三十八年間はずっとそのデマを潰すべく琉球史や室町時代史や戦国時代史の研究者が努力しているのです。その努力に対し背中から銃撃されるのは困ったものです。

 

足利義教は「天台開闢以来の逸材」だったか?3

足利義教の評伝ということになりますと、従来の足利義教論との最大の差異化ポイントは、青蓮院門跡義円時代をいかに描き出すか、ということだと思います。

 

この際に避けて通れないのが石崎建治氏の論文「天台座主青蓮院門主義円時代の足利義教についてー永享年間山門騒動の一前提ー」(『金沢学院大学文学部紀要』第三集、一九九八年)です。

 

この論文では青蓮院門跡義円の文書について検討が加えられ、義円の意欲的な青蓮院門主天台座主としての活動が明らかにされていきます。と同時に義円が比叡山の中でいろいろと制限を受けている様子も明らかにされています。「寺家の論理」と「院家の論理」という言葉で説明されていますが、「院家の論理」では義円は貴種であり、延暦寺のトップに立ちうる人物です。しかし「寺家の論理」では寺院全体の意向を考慮する必要があり、義円の行動は大きく制約されることもあるわけです。

その体験から将軍足利義教になったときに、延暦寺に対して厳しい姿勢をとった、と考えられています。

 

義円時代の足利義教についてはこの論文が一番詳細に書かれているのではないか、と思われます。

 

この石崎氏の論文を読んでいて気付く点があります。それは義円の仏教思想家としての活動が全く見られないことです。これは至極当然であり、義円は仏教思想家として延暦寺で着目されていたのではありません。あくまでも貴種として青蓮院門主として、青蓮院の権益確保のために門跡に入れられていただけです。

 

そもそも当時の天台に「開闢以来の逸材」が活躍するような余地は当時の顕密仏教には残されていないでしょう。義円らに期待されていたのは日々の寺領などの管理と、将軍の御成に際して将軍を接受すること、将軍や天皇の護持のための祈祷を行うこと、などで、そこに個人の卓越性は必要とされません。

 

一つ、石崎氏の論文で触れられていない点があります。それは応永二十一年(一四一四)に義円が逐電し、嵯峨洪恩院にて「禅衣」を著した、という事件です。このとき義円の側近であった泰村法眼が逮捕され、義持と満済が話し合ったときに義持は義円の帰還については「叶わず」と言っていることからすれば、かなり深刻な対立が存在したことが伺えます。

 

この問題は、翌年の十二月付の明王院文書に「阿闍梨三后正法印大和尚位義円」名義で義持のための祈祷を行っていることが記されており、この段階以前には義持から赦免されていることがわかります。

 

この一件を考慮に入れて延暦寺の衆徒が義円の天台座主就任を求めて根本中堂に閉籠した事件を解釈すると少し違った姿が見えてくるのではないか、と思います。

 

この事件について石崎氏は「寺院大衆」の高姿勢・強硬姿勢を示しものであり、義円に対して高姿勢な立場を保持していると述べています。

 

この論の前提としては「義円が天台座主になろうとせず、門跡としての義務を果たしていない」ことへの衆徒の不満があるかのように考えられていますが、ここで義円が失脚したことがある、ということを念頭におけば「義円は天台座主になろうとしなかった」のではなく、「なれなかった」のではないかという気もします。

とすれば、衆徒の不満は「義円が天台座主になれず、門跡としての責務を果たすことができない」ことにあったのではないか、とも考えられます。この辺については慎重に考える必要があるでしょう。

 

山門騒動について私は義教が殺害した衆徒が山門使節であったこと、山門騒動後に梶井門跡の院家であった護正院が登用されていることを重視したいと考えています。そしてこのとき処刑された円明坊・月輪院・金輪院・杉生坊らいずれも青蓮院の門徒であったという点も重視すべきと思います。彼らが山門使節たり得たのにはやはり義教のバックアップがあったからです。というのは円明坊は義持の勘気を被り失脚していますが、義教によって山門使節に復帰しています。また梶井門跡の院家であった乗蓮坊も義持によって退けられ、義教によって復権しています。

つまり山門騒動で義教に殺害された山門使節は、実は義教に引き立てられた勢力だったのです。この辺を軽視すべきではないと考えています。

この辺は下坂守氏の以下の論文を参考にしています。下坂氏は山門騒動で殺された山門使節が実は義教によって引き立てられた事実を指摘しながら、この辺はそれほど重視していらっしゃいませんが、この辺を見直すことで義教神話を見直すことができるのではないか、と期待しています。

 

なお下坂守「山門使節制度の成立と展開 : 室町幕府の山門政策をめぐって」(『史林』58(1)、1975年)は以下のリンクで入手できます(pdf注意)。

 

https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/238223/1/shirin_058_1_67.pdf

足利義教は「天台開闢以来の逸材」だったか?2

足利義教の評伝に際しては「義教スゲ〜」説についてしっかり考察する必要がありそうです。

 

これはもちろん義教が凡庸であった、ということを主張したいのではありません。義教が相当有能であったことは当時の記録から見ても間違いがありません。しかし義教をスーパーマン化してしまうのも問題があります。

 

そのような言説の一つとして最近取り上げている「天台開闢以来の逸材」という言葉があります。これは現在のところいまだ典拠を見出せていません。また本郷和人氏は「義円の激しい性格と聡明さは、くじ引き以前からよく知られていた」と述べていらっしゃいますが、これについても現状では典拠を現状見出せていません。

 


人物を読む 日本中世史―頼朝から信長へ (講談社選書メチエ)

 

 

今谷明氏と森茂暁氏は義教についてかなり詳しい評伝を残していらっしゃいますが、そこには義円時代の義教について突っ込んだ議論をしていらっしゃいません。両氏の御著書を見る限り、義円が聡明であったかどうかについてはわかりません。

 


土民嗷々―一四四一年の社会史 (創元ライブラリ)

 


室町幕府崩壊 (角川ソフィア文庫)

 

で、私は前回も述べたようにSNSでご協力をお願いしたところ、明石散人氏の『二人の天魔王』が有力ではないか、という情報を得ました。

 

この書物は『看聞日記』や『満載准后日記』など多くの史料に当たって記述されています。ただし『建内記』は参照していなかったようで、『建内記』に引用されているくじ引き対象の人名を「不明」とした上で、くじ引き八百長説を展開していますが、私は八百長説自体、成り立たないと考えています。

 


増補 二人の天魔王 -信長の正体-

 

 ここで前回引用した、岡崎桓教が青蓮院義円に「天台相伝の秘書を伝えた」ことが、義円が「天台開闢以来の逸材」であったことの証明とされています。

 

これについてもう少し詳しく見ていきます。桓教が義円に「天台相伝の秘書を伝えた」というのは『満済准后日記』応永30年5月12日条に出てきます。

 

自岡崎准后以使者〈伊予上座〉被申子細。去月依頼所労未得減、同篇体也。仍法流事、大略青蓮院准后ニ兼ヨリ申入了。今ハ十九箱大事計候。此箱ハ即護法頂戴箱ト号、三昧流法統伝持来也。今度此大箱大事等令申彼門跡、可奉渡此箱由存候。但自故尊道親王此箱相伝申入候之時ハ、故鹿苑院殿ヘ被申入、被得時宜候キ。然者只今儀モ不可相替間、必可受時宜歟云々。

 

大雑把に何が書かれているかと言えば、岡崎准后(桓教)が病気のため、法流を青蓮院准后(義円)に譲ろうと思うが、これを尊道親王より継承したときには故鹿苑院殿(足利義満)の許可を得たので今回も公方の許可を得たい、という話です。この後続きがあって、病気なのでどうしようか、という相談事です。

 

この話のここでのポイントは、桓教がその「秘書」を「故尊道親王」から受け継いだ、ということです。前回のエントリで見たように尊道入道親王は義円入室直後に亡くなってますので、その法流は桓教に行っていたわけです。従って青蓮院に伝わってきた「秘書」を一時的に預かっていた桓教から元の持ち主を継承した義円に戻すのは、義円の才能とは関係がありません。

 

義円に抜かされた、と明石氏が考えた「良順(一四八世)、堯仁親王(百四十九世)、実円(百五十一世)、相厳(百五十二世)」はそれぞれ曼殊院(良順)、妙法院(堯仁)、毘沙門堂(実円)、檀那院(相厳)ですので、別に彼らが義円より劣っていたから外されたのではなく、彼らが青蓮院ではなかったからです。

 

従って義円が他の天台座主と比べて特別に有能であった、というのははっきりとそう言える根拠はない、と言い切れるでしょう。

足利義教は「天台開闢以来の逸材」だったか?

ここのところエントリに多くアップしている足利義教ですが、彼が将軍になる前は青蓮院門跡という天台宗比叡山延暦寺天台座主大僧正も務めた高僧であることも有名ですね。

 

ただ引っかかるのが「天台開闢以来の逸材」という言葉です。義教の聡明さを示すいい話ではあるのですが、実は天台座主としての義円(義教)が聡明だった、ということを示す史料はありません。というよりもそもそも義円時代の義教に関する史料はほとんどありません。義円時代については『大日本史料』が公刊されていますので、実は史料は集めやすいです。従って私はこの時代の『大日本史料』を総まくりしました。

 

とはいっても東京大学史料編纂所データーベースで大日本史料のデータベースに「義円」と入力して検索するだけです。これで『大日本史料』の義円関係史料が全て閲覧できます。すると「天台開闢以来の逸材」という言葉はおろか、似たような言葉も出てきません。あえて言えば義円が失脚し、逐電した時に衆徒が根本中堂に閉籠した時に義円を褒め称える文書を提出している位です。義円が無能ではなく、慕われていることは理解できますが、「天台開闢以来の逸材」とまでいうのは言い過ぎではないかと思います。

 

そこでSNSでフォロワーの皆様の手をお借りしました。すると川村一彦氏の著作と明石散人氏の著作にあることをご教示いただきました。年代から見て明石散人氏の著作が言い出しっぺではないか、と考えられます。

 

義円の出世について明石氏は次のように述べています。

 

僧侶時代の出世は前代未聞で、十八歳大僧正、二十一歳准三后、二十四歳で座主に請われ、二十六歳にして天台座主という驚くべきものでした。この出世は、別に彼が義持の弟であったからではありません。義教は天台開闢以来の逸材といわれていたのです。これを物語っているのが、当時天台最大の尊敬を集めた百四十七世桓教が、良順(一四八世)、堯仁親王(百四十九世)、実円(百五十一世)、相厳(百五十二世)を差し置いて百五十三世義円(義教)に天台相伝の秘書を伝えたことなんです

 


増補 二人の天魔王 -信長の正体-

 

 

まず二十六歳で天台座主、というのは義持の弟以外のファクターはありません。もっとも全く無能では務まらないかもしれませんが、別に珍しいことでもありません。三宝院義賢(足利義教の従兄弟)も二十六歳で東寺長者ですから。尊雲法親王に至っては二十歳で天台座主です。義円を大幅に上回る記録です。

 

ではなぜ桓教が義円に「天台相伝の秘書」を伝えたのでしょう。明石氏のいう「天台相伝の秘書を伝えた」というのは付法のことだと思いますが、そもそも付法を経ないと門跡になれません。しかし義円が入室した時の青蓮院門跡の尊道入道親王は義円が入室した半月後に亡くなっています。従って義円は二条師良の子で二条良基の養子になっていた桓教に預けられています。従って桓教が義円に何かするのは自然であって、義円が特別優れていたことにはなりません。

 

義円が「天台開闢以来の逸材」であった、というのは現時点では「都市伝説」ではないか、と考えます。

 

「義教スゲ〜」神話は意外と害悪を垂れ流します。義教が北海道から琉球を支配し得た、という与太話(あえてそう表現します)は、かなり政治的な意味合いを帯びた言説である、と断じざるを得ません。こういう政治的与太話の温床となっている「義教スゲ〜」論を無力化するためにも義教の等身大の評伝が必要です。

足利義教は「天台開闢以来の逸材」だったか?

ここのところエントリに多くアップしている足利義教ですが、彼が将軍になる前は青蓮院門跡という天台宗比叡山延暦寺天台座主大僧正も務めた高僧であることも有名ですね。

 

ただ引っかかるのが「天台開闢以来の逸材」という言葉です。義教の聡明さを示すいい話ではあるのですが、実は天台座主としての義円(義教)が聡明だった、ということを示す史料はありません。というよりもそもそも義円時代の義教に関する史料はほとんどありません。義円時代については『大日本史料』が公刊されていますので、実は史料は集めやすいです。従って私はこの時代の『大日本史料』を総まくりしました。

 

とはいっても東京大学史料編纂所データーベースで大日本史料のデータベースに「義円」と入力して検索するだけです。これで『大日本史料』の義円関係史料が全て閲覧できます。すると「天台開闢以来の逸材」という言葉はおろか、似たような言葉も出てきません。あえて言えば義円が失脚し、逐電した時に衆徒が根本中堂に閉籠した時に義円を褒め称える文書を提出している位です。義円が無能ではなく、慕われていることは理解できますが、「天台開闢以来の逸材」とまでいうのは言い過ぎではないかと思います。

 

そこでSNSでフォロワーの皆様の手をお借りしました。すると川村一彦氏の著作と明石散人氏の著作にあることをご教示いただきました。年代から見て明石散人氏の著作が言い出しっぺではないか、と考えられます。

 

義円の出世について明石氏は次のように述べています。

 

僧侶時代の出世は前代未聞で、十八歳大僧正、二十一歳准三后、二十四歳で座主に請われ、二十六歳にして天台座主という驚くべきものでした。この出世は、別に彼が義持の弟であったからではありません。義教は天台開闢以来の逸材といわれていたのです。これを物語っているのが、当時天台最大の尊敬を集めた百四十七世桓教が、良順(一四八世)、堯仁親王(百四十九世)、実円(百五十一世)、相厳(百五十二世)を差し置いて百五十三世義円(義教)に天台相伝の秘書を伝えたことなんです

 

まず二十六歳で天台座主、というのは義持の弟以外のファクターはありません。もっとも全く無能では務まらないかもしれませんが、別に珍しいことでもありません。三宝院義賢(足利義教の従兄弟)も二十六歳で東寺長者ですから。尊雲法親王に至っては二十歳で天台座主です。義円を大幅に上回る記録です。

 

ではなぜ桓教が義円に「天台相伝の秘書」を伝えたのでしょう。明石氏のいう「天台相伝の秘書を伝えた」というのは付法のことだと思いますが、そもそも付法を経ないと門跡になれません。しかし義円が入室した時の青蓮院門跡の尊道入道親王は義円が入室した半月後に亡くなっています。従って義円は二条師良の子で二条良基の養子になっていた桓教に預けられています。従って桓教が義円に何かするのは自然であって、義円が特別優れていたことにはなりません。

 

義円が「天台開闢以来の逸材」であった、というのは現時点では「都市伝説」ではないか、と考えます。

 

「義教スゲ〜」神話は意外と害悪を垂れ流します。義教が北海道から琉球を支配し得た、という与太話(あえてそう表現します)は、かなり政治的な意味合いを帯びた言説である、と断じざるを得ません。こういう政治的与太話の温床となっている「義教スゲ〜」論を無力化するためにも義教の等身大の評伝が必要です。