足利義澄御内書案(『朽木家古文書』479 国立公文書館)
古文書入門です。
まずは翻刻。
伊勢肥前守盛種知行分当國
松山保事、為直務處、号代官
被官人長尾参河入道強入部
由驚思食候、仍盛種令下國候、
急度加成敗、如元無相違候者、可
為神妙候、委細右京大夫可被申候也
十二月七日 御判
上杉民部大輔とのへ
比較的わかりやすい字です。
読み下し。
伊勢肥前守盛種知行分の当国松山保の事、 直務たるところ、代官と号し、被官人長尾三河入道入部の由、驚き思しめし候、よって盛種を下国せしめ候、きっと成敗を加え、元のごとく相違なく候はば、神妙たるべく候、委細は右京大夫申さるべく候なり。
伊勢盛種の知行分に越後守護代の一族長尾三河入道(輔景)が介入してきたことに対し、盛種を下向させたので、長尾の権利侵害を停止するように長尾の主君の上杉民部大輔(房能)に命じた文です。
松山保は伊勢盛種の直務(じきむ)であったところ、「代官と号し」、というところ、少し解説を加えますと、遠国ですから伊勢盛種は越後国にいるわけではありません。しかし幕府の申次衆であった盛種の所領ですから、当然上杉氏や長尾氏の影響を排して所領支配をしていたのです。つまり「直務」ということです。しかし長尾輔景が「代官」と「号す」つまり無理やり主張してきて権利を侵害したわけで、これは一説には上杉氏の伊勢宗瑞(北条早雲)への牽制とも言われています。それを排除しようとしたのがこの書状です。
伊勢宗瑞は足利義澄の命令を受けて東国に降って堀越公方を滅ぼしていますので、そういう可能性は大いにあると思います。
伊勢盛種も伊勢宗瑞も足利義尚の申次衆を務めていましたし、同じ「伊勢盛なんとか」なので極めて近い同族であることは間違いがないようです。
(2021年9月26日追記)
ウィキペディア松代町(新潟県)の項目に「伊勢盛富、盛種父子」とありました。
伊勢盛富は伊勢宗瑞の伯父にあたります。ゆうきまさみ氏の『新九郎、奔る!』第三巻及び第八巻にも出てきます。
新九郎、奔る!(8) (ビッグ コミックス) [ ゆうき まさみ ]
新九郎、奔る!(3) (ビッグ コミックス) [ ゆうき まさみ ]
参考