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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

拙著『乱世の天皇』見どころ11ー海域アジアへの目配り

これはまあ、ゆるく自慢が入ってますが、拙著『乱世の天皇』の見どころの一つは第八章「後花園天皇の時代の海域アジア」です。後花園天皇の本で海域アジアとの関係を述べた書物は初めてでしょう。というか、後花園天皇の評伝が初めてでした。

 

というネタはさておき、2020年に入って一斉に出てきた室町天皇本の中で拙著の特徴はこの第八章です。類書では海域アジアに関する記述は群を抜いていると思います。

 

これは結局どこに目配りをするか、という問題で、そこそこ限られた紙幅の中でどれを取り上げ、どれを省くか、というのは筆者の問題関心によります。

 

私はもともと対外関係史を修士論文で取り上げたことや、しばらく北海道史にも関心を寄せていたこともあって、やはり海域アジア視点の章を入れたかったわけです。

 

あくまでも後花園天皇を中心に室町時代天皇を取り上げるわけですから、同時代の王権と比べないと意味がありません。

 

第八章では後花園天皇と同年代の二人の国王を取り上げています。朝鮮王朝の世祖と琉球王国尚泰久王です。

 

この辺はかつてエントリを立てています。

 

sengokukomonjo.hatenablog.com

 ざっくりといえば、彼ら三人は傍系の王族から王位に上り詰めた、という点です。ただ三人ともそれぞれ事情が違います。後花園天皇天皇になるべき人がいなくなって、傍系から十歳の少年を天皇に迎えました。

 

朝鮮王朝では甥の国王を殺害して自ら王位に登っています。その背景に少年の国王(この場合足利義勝)が在位していたことによる混乱があったのではないか、ということを指摘しています。

 

ちなみにものすごくどうでもいいことですが、韓流ドラマ(私はドラマ自体みないので韓流ドラマもみていませんが)の「王女の男」に世祖が出てきます。

 

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王女の男

この中で一番左にいるのが世祖で、右端の老人が世祖と対立して殺害された金宗瑞です。この話は世祖の娘と金宗瑞の息子の、敵対する家同士の恋愛物語で、いわば「ロミオとジュリエット」のような話です。知らんけど。

 

拙著では世祖と金宗瑞は出てきます。ちなみに拙著で出てくる申淑舟も「王女の男」に世祖の側近として出てきます。

 

sengokukomonjo.hatenablog.com

 

琉球の場合はいずれも在位期間が短く、それゆえしばしば王の死に不自然な点を見出す見解もあるようですが、年齢だけを見れば琉球国王が特に短命ではないことを指摘し、琉球国王の直面したであろう困難な事情について述べています。

 

さらには琉球国王日本国王(室町将軍)との関係についても述べています。

 

日明関係についても、土木の変による海域アジアの動揺について述べています。

 

もちろん後花園天皇が北東北・北海道の歴史に登場してくる背景についても考察しています。

 

天皇の問題についても海域アジアの視点から見る、ということは意味があると思います。その点拙著で述べておりますので、よろしくご味読くださいませ。

 

 


乱世の天皇 観応の擾乱から応仁の乱まで

 


室町・戦国天皇列伝

 


北朝の天皇-「室町幕府に翻弄された皇統」の実像 (中公新書)

 


中世天皇葬礼史 (戎光祥選書ソレイユ第7巻)

 


朝廷の戦国時代

 

 

 

 

 

足利義教にまつわる誤解

足利義教の評伝をいつかどこかで書こうと決めましたが、まずはネタ作りです。

 

NHKの「知恵泉」という番組でそういえば足利義教が取り扱われていました。ググってみるとその番組の中身が分かりました。ただかなり違うんじゃないかな、と思わせるところがあります。やっぱり義教はかなり誤解されてますね。

 

tvpalog.blog.fc2.com

 

もっとも「知恵泉」にそのレベルの精緻な見解を求めるのは、木に寄りて魚を求めるようなものでしょうが。そもそも「知恵泉」は正確な学問的成果を披露するところではなく、歴史の出来事を今日に活かす、というものですから。

 

具体的に見ていきましょう。

 

一つは義教が比叡山を攻撃した話です。

 

延暦寺の僧たちが幕府にどれだけ横暴を働いていたのかを知っていたから

 

いやいや、それは違います。

 

義教がうまく誘い出して殺害した金輪院は実は青蓮院に所属した山門使節です。山門使節の話を無視していきなり幕府と延暦寺を対立関係で把握するのは間違えています。

 

金輪院は明らかに天台座主時代の義円准后(のちの足利義教)を支えていたのであり、それゆえ彼らは暴走したのです。

 

そのきっかけはこれまた比叡山の山僧でした。光聚院という山門使節を義教は優遇したのです。ただ問題は光聚院は延暦寺で不祥事を起こして排斥された人物であったために山門使節内部、特に義教と近かった山門使節に不満が高まっていた、ということを抑えなければなりません。

 

また義教が延暦寺を攻撃したのは、義教が延暦寺を勝訴としたあと、延暦寺側が幕府の威光を背景にして暴走し、園城寺を焼き払ったのです。これがきっかけであり、むしろ延暦寺と幕府の密接な関係が背景にありました。

 

禁闕の変で活躍した護正院は梶井門跡(三千院)の院家です。青蓮院から梶井に変えたのは義教が青蓮院を優遇しすぎた、と思ったからではないでしょうか。

 

こう考えてみると、「知恵泉」の言い分は無茶苦茶です。

 

詳しくは以下のエントリで。

sengokukomonjo.hatenablog.com

 

あとこれも問題ですね。

 

南朝の皇室の残党から皇籍をはく奪、遠方に追放したのです

 

まあこれは 拙著『乱世の天皇』を読んでくれ、としか言いようがありません(笑)

 


乱世の天皇 観応の擾乱から応仁の乱まで

 

本当のことを言えば森茂暁氏の『闇の歴史 後南朝』か、渡邊大門氏の『奪われた三種の神器』をしっかりと読むべきです。

 

 


闇の歴史、後南朝 後醍醐流の抵抗と終焉 (角川ソフィア文庫)

 

 


文庫 奪われた「三種の神器」: 皇位継承の中世史 (草思社文庫)

 

 

この辺の書物を読めば、南朝の皇室の残党である護聖院宮家の王子を出家させていることがわかります。遠方ではありません。預け入れ先は長慶天皇皇子の海門承朝足利直冬の息子の宝山乾珍です。彼らはいずれも臨済宗の高僧ですから、「追放」とは言えません。厳密に言えば護聖院宮家の取り潰しです。護聖院宮家としては小倉宮家と同じ扱いが我慢できず、のちに大事件をやらかします。もっとも私は主犯は称光天皇外戚日野有光であると考えています。

 

ただこの「知恵泉」の間違いですが、これ、必ずしもNHKの責任だけでもないですね。歴史学でも義教を「独裁者」とか、「権力の強化」という側面だけで見てきましたからね。だから義教にすごい力を与えてしまう。

また後南朝の問題でも、義教の事績を大げさにとらえているところも多いです。この辺はまだまだ学問レベルの議論が必要で、私見が正しい、というつもりもありませんが。

 

義教については実際以上に強硬で独裁的なイメージを持たれています。

 

このブログでも、拙著でも主張している、津軽への「介入」もそうです。

 

sengokukomonjo.hatenablog.com

 

義教をやたら強硬策に走る人物という先入観があって、安藤氏と南部氏の紛争に際して南部氏を押さえつける、という図を描いてしまう。

 

しかしあの史料を素直に読めば「口先介入」を主張する畠山満家に対して、それが無視された時の「外聞」(メンツ)にこだわって「口先介入」すら拒否する義教の姿が現れているだけです。

 

津軽安藤氏が足利義教の強力な後押しで十三湊に還住できた、という話も、1980年代までは還住説は少数派でした。しかし足利義教に関する研究が進み、「弱体化する室町幕府」像に対して、「将軍権力を強化する足利義教」という像が提出されると、それに影響されたか、北方史の研究でも南部氏に圧力をかけて津軽安藤氏の還住を実現する足利義教、という見方が出てきているわけです。

 

日明貿易でも義教に関しては看過すべきではない誤解がいろいろあります。私自身も加担してきた自覚はあるので、自分自身の過去の研究にも決着をつける必要があります。ちなみに論文では自己批判を含めた論文として拙稿「室町時代における天皇論」があります。

ci.nii.ac.jp

流石に義教が琉球を島津氏に与えたという「琉球附庸説」を信じる人はいない、と信じたいですが、油断はできません。琉球足利将軍家の関係についてもこの際にしっかりと一般書レベルで叙述することにも意味があるでしょう。

 

 

sengokukomonjo.hatenablog.com

 

 

後花園天皇に比べると海域アジアとの関わりの章は大幅に強化する必要があります。

 

このように足利義教に関する誤解が行き渡ったおかげで、結構あちらこちらに影響が出ています。足利義教の等身大の人物像に迫る評伝が必要であると考えます。

 

現在歴代の足利将軍家の評伝は初代尊氏・三代義満・四代義持・八代義政・十一代義稙・十二代義晴・十三代義輝・十五代義昭が出ています。ここに六代義教を早急に入れるべきです。

 

足利義教の評伝の構想

後花園天皇の評伝を書くと、次の課題は足利義教の評伝です。

 

言わずと知れた室町幕府六代将軍です。足利義満の子として生まれ、青蓮院門跡から延暦寺天台座主を務めた高僧です。兄の足利義持の死去に伴い、くじ引きで将軍に選出され、将軍権力を強化しようと奔走しますが、最期は重臣の赤松満祐に暗殺されます。

 

ちなみに足利義教については以下のエントリで大雑把な話をしています。

 

sengokukomonjo.hatenablog.com

 また拙著でも重要な位置付けを占めています。

 


乱世の天皇 観応の擾乱から応仁の乱まで

 

足利義教は一時多くの本が出されていました。

 

今谷明氏の『土民嗷々』(創元ライブラリ)をはじめ、森茂暁氏の『室町幕府の崩壊』(角川ソフィア文庫)は明らかに足利義教を主人公としています。それ以外には森茂暁氏の『満済』(ミネルヴァ日本評伝選)も足利義教にかなり触れています。

 

しかしこれらはあくまでも室町時代の政治過程を叙述するために義教を取り上げただけで、義教の生涯そのものを述べたものではありません。例えば義教の前半生は完全にオミットされます。

 

もっとも後花園天皇と違い、義教の場合、前半生はほぼ不明です。しかし当時の日記に「青蓮院門跡天台座主大僧正義円准后」は時に現れます。意外な義教の一面が現れています。

 

義教といえば「独裁」「暗殺」「粛清」というイメージが出てきます。その点については類書はしっかりと書かれています。その中でも公家に対する弾圧は実は群を抜いている、と思います。守護大名の粛清が目につきますし、また庶民に対しても過酷な話が出てきます。しかしよく見ると庶民に対する弾圧の事例は散発的で、義教の命令に反したものに対して行われている、という面があり、彼が特に苛政を敷いていたわけではありません。

 

公家に対する過酷な処分というのは、私の見るところ、皇統の問題があるように思えます。その点に踏み込んで彼の公家政策を見直すべきでしょう。

 

義教の人生は政治の側面だけではありません。義教に関する書籍はあくまでも室町時代の政治史を叙述するためのキャラとして義教を扱っています。義教が優れた文化のプロデューサーであり、彼自身和歌の数寄と言われるほど和歌に堪能であったこと、連歌にも堪能であったことなどについても掘り下げる必要があるかと思います。

 

後花園が学問をはじめとする諸芸に通じていたのは、義教のプロデュースがあったことを忘れてはなりません。

 

私は拙著で後花園天皇を「天皇存続のキーパーソン」と記しました。後花園天皇を「近来の聖主」に育て上げたのは足利義教です。義教なければ天皇の地位がどうなっていたか、予断を許しません。特に天皇が後継者なく崩御し、皇位に関して様々な思惑が交錯した中、すでに定められていたとはいえ、各方面からの抵抗も大きかった、伏見宮家からの天皇擁立をスムーズに成し遂げた功績はもっと評価されてもいいでしょう。

 

さらにいえば義教の文化・芸能への関与がなければ、東山文化もなく、ひいては日本文化も今日の姿とは違ったものになっていたかもしれません。

 

義教の文化への関わりも義教の評伝には落とせません。

 

また拙著では第八章に「後花園天皇の時代の海域アジア」という章をつけましたが、義教の評伝では海域アジアとの関わりは落とせません。特に申淑舟の『海東諸国紀』の中の「日本国紀」(!)には義教の最期が丁寧に書いてあります。義教の最期は朝鮮王朝にとっては極めて大きな衝撃であったことが伺えます。まあ衝撃を受けた原因は大内持世が遭難したことにありますが。

 

 足利義教の評伝執筆のための準備を始めていきたいと思います。ただ現在のところ出版元は民明書房の予定ですが。

 


土民嗷々―一四四一年の社会史 (創元ライブラリ)

 


室町幕府崩壊 (角川ソフィア文庫)

 


満済:天下の義者、公方ことに御周章 (ミネルヴァ日本評伝選)

 

 

 

本の文字数はどれくらいの字数なのか

拙著『乱世の天皇』(東京堂出版)の話です。

 

www.tokyodoshuppan.com

 

著書はどれだけの文字数なのか、という話です。

 

作家であり、出版社経営をしていらっしゃる木暮太一氏の動画を見ていました。

 

https://www.youtube.com/watch?v=BBg25fZYipM

 

「10万字は古い。今は8万字か6万字だ」という内容です。

 

ちなみに拙著は17万字です。324ページです。

 

ビジネス書などの実用書では男性向け8万字256ページ、女性向け6万字192ページだそうです。

 

それに比べると、拙著の字数とページ数はぶっちぎってます。

 

ちなみに拙著は同種の書物に比べて多いか、といえばそうでもありません。同種の著書を調べてみました。拙著が目標とした渡邊大門氏の『戦国の貧乏天皇』(柏書房)は・・・・270ページ、ごめん、多かったわ。

 


戦国の貧乏天皇

 

気を取り直して神田裕里氏の『朝廷の戦国時代』(吉川弘文館)は・・・・・

 

276ページ。スマソ。多かったわ。

 


朝廷の戦国時代

 

 

 

多分室町・戦国時代の天皇論では圧倒的ボリューム、ということでいいですか・・・。

 

 

実際17万字、というボリューム、私が暴走して書いて書いて書きまくって編集者をなかせた、というものではありません。

300〜320ページ前後という編集部からの条件があり、それに従って書いています。

 

これには理由が色々あります。一つの理由は

「秦野裕介?だれよ、そいつ。聞いたことねぇわ」

と1000人中999人がいうレベルの知名度であることです。

 

すんません、見栄はってかなり過大評価しています。多分もう一桁増やす必要がありますね。

おそらく私の名前を知っているのは西宮市の某塾の関係者か、立命館大学の文学部の一部の受講生か、立命館アジア太平洋大学の受講生のうち、極度に物覚えのいい人ぐらいでしょう。

 

そんな極端に知名度の低い人間ならば、そんなにたくさん部数は刷れません。1万部なんてありえません。

 

一般論をいえば私のように無名の作者の場合3000部は行かないのが普通、と出版セミナー系の本には書いてありました。そんなものです。(実際の部数と印税率は公表してません)

 

そのように少ない部数で利益を出そうと刷れば「薄利多売」ではなく、一つの本の単価をあげて少部数出す方式になります。

 

(追記)

honz.jpここでは人文書について書いてあって、単行本は15万字とありました。大体300ページ弱になります。上の渡邊大門氏や神田裕里氏の著書はそれくらいと思います。

 

ちなみに一つ、単価を上げるための方策としてハードカバーで出す、というのがあります。売れる人はソフトカバーを出せます。少し意識してみてみるとよく分かります。もちろん例外も多いので、「あっ!ハードカバーだ!こいつ売れてねえんだ!w」ということでもありません。「ハードカバーで出してください」というワガママは通りやすそうですが、私が「ソフトカバーでお願いします」と言っても難しいのではないか、と思います。

 

新書は大体10数万字です。新書はいわゆるビジネス書よりも字数が多いです。ビジネス書は字が大きく、行間も広く、周りの余白も大きく取ってあります。新書は安く作れるので単価も安くなります。従ってそこそこ売れる、とみなされていないと書かせてもらえません。私の大きな目標は新書を出すことです。

 

拙著のターゲットは基本的に「コアな歴史ファン」です。私がからんだ書籍は大体同じです。こういう層の人はビジネス書などの実用書を読む人に比べると読書好きです。というよりも実用書は何か得たい知識やノウハウがあって読むのですが、「コアな歴史ファン」は読むこと自体を楽しみます。

 

売れる本のテーマというのはつぎの3つらしいです。

 

1 ダイエット

2 お金儲け

3 不安を取り除く

 

1 ダイエットについて

後花園天皇の生涯を知って私も10kgの減量に成功しました!」

そんな人いません。後花園天皇について知っても減量できません。後花園天皇の本を書いても全く減量できませんでした。当たり前ですが。

 

2 お金儲け

後花園天皇の生涯を知ったおかげで、1億円稼げるようになりました!」

ありえません。多分。もっとも後花園天皇の話をうまく使って話をしてお金儲けができるかもしれませんが、その方法は私は書いていません。というか、そういう方法があれば私が知りたいです。

 

3 不安を取り除く

後花園天皇の生涯を知って、血圧が正常値にもどり、血糖値も問題なくなり、尿酸値も下がり、肝機能値も正常になりました!」

いや、後花園天皇の生涯を本にするのもいいですが、とりあえずダイエットしましょうよ、私。全部自分のことです。はい。

 

拙著は室町時代天皇について関心のある方が手にとって読んでくださっていると思います。そのような方は拙著を読んで、何か実用的なベネフィットを求めているわけではないでしょう。拙著が提供できるベネフィットは、あまり知られていない室町幕府天皇の歴史について知ることができる、です。

 

もっとも「室町時代天皇の歴史について知ること」ができれば、天皇という制度そのものにも考えるための視座や素材を提供することができる、と私は考えています。何しろ室町時代天皇にとって最大の危機だった、と私は考えています。そこからまさに「奇跡の再生」が行われたわけです。その過程と背景を知ることは、天皇の長期的存続の意味を問うことになる、ひいては日本社会そのものを考える際の材料になるのではないか、と考えています。

 

その辺の仕掛けについては改めてエントリを立てたいと思います。

 

 

 

 

 

拙著『乱世の天皇』見どころ10ー読み仮名再び

拙著『乱世の天皇』(東京堂出版)の見どころというか、苦労の跡です。

 

www.tokyodoshuppan.com

読み仮名にかなり力を入れている話をしていますが、僧侶の名前も悩みどころです。

 

例えば誰でも知っていると思いますが、源実朝を暗殺した「公暁」、もうこれはガチで「くぎょう」と読むと思っていたら、どうやら近年では「こうきょう」と読むらしい、という話があって、少々びっくりです。

 

私は僧侶の名前については悩んだ時は「呉音」で読む、ということを原則にしておりまして、先ほどの「公暁」も呉音です。近年は漢音だった、ということなのですが、実は意外と漢音で読まれる僧侶は多いです。

 

南都の興福寺の一乗院門跡に覚慶という人がいます。読み方は多くの場合「かくけい」「かっけい」となっていますが、呉音で読むならば「かっきょう」ではないか、と思います。しかし今までこの「覚慶」を「かっきょう」と読んでいるケースは見たことがありませんので、私も『虚像の織田信長』(柏書房)では「かくけい」としておきました。

 

ちなみにのちの足利義昭です。

 

義昭といえば足利義満の子息にも「義昭」さんがいます。ただし彼の場合読み方は「ぎしょう」です。大覚寺門跡ですから。

ただ知り合いにこれを何度正しても「よしあき」と読む方がいらっしゃって、ご本人もわかっていらっしゃったようですが、もうあそこまでいくとくせですね。

 

同じような例は東寺領荘園の「上野荘」で経験しています。これは「かみののしょう」と読みますが、いくら指摘してもそこにいる全員が「うえののしょう」と読んでいます。最近では諦めています。これは現在桂川の「上野橋」(かみのばし)がかかっているところです。

 

小倉宮家に聖承という人がいます。後花園天皇が即位したときにブチギレて伊勢に出奔し、伊勢国司の北畠満雅の庇護下に挙兵した人です。

 

彼の読み方は多くの書物では「せいしょう」となっていますが、ここは「迷ったら呉音」の私はあえて「しょうじょう」と読みました。

 

後ろの「承」は「じょう」と濁るはずです。なぜなら「承」の字は、長慶天皇の皇子で相国寺南禅寺の住持を務めた高僧の「海門承朝」(かいもんじょうちょう)から取られているからです。

 

ちなみに小倉宮聖承の名前は出家後の名前で、諱は伝わっていません。

 

出家名といえば大名や天皇親王も出家して名前が変わることがあります。

 

我々は「貞成親王」(さだふさしんのう)という言葉を普通に使いますが、実際に貞成さんは親王宣下から半年後に出家に追い込まれていますので「貞成親王」であったのは半年です。出家後には「道欽入道親王」となります。ただ貞成親王という呼び方が一般的なので、彼の場合は出家後も「貞成親王」で通しました。

 

このような例として畠山満家があります。彼は出家後は「道端」(どうたん)、息子の持国は「徳本」(とくほん)、赤松満祐は「性具」(しょうぐ)と名乗っていますが、ここはいちいち名前を変えると混乱を招きかねないので、そのまま俗名を使っています。

 

貞成親王については追号があり、「後崇光院」といいますので、「後崇光院」も考慮しました。論文ではかつてそれで下書きを完成させながら急遽やめにしたこともあります。やはりそこは一番有名な言い方に統一すべきと思ったからです。

 

ややこしいのは山名宗全です。彼の場合は俗名の山名持豊も有名で、嘉吉の乱などでの活躍を「山名宗全は・・・」と書くのがなんとなく気が引けたので、嘉吉2年の出家までは「山名持豊」、出家後は「山名宗全」としておきました。

 

天皇は譲位すると太上天皇、略して上皇と呼ばれ、上皇が出家すると太上法皇、略して法皇と呼ばれるのは周知の事実に属しますが、後小松は出家後の話と出家前の話が前後して出てくるシーンがあります。ここで「後小松法皇」「後小松上皇」がグダグダと出てきては混乱します。そこで拙著では天皇は基本的に追号の一部、つまり「院」を抜いて表記することにしました。「後小松」「後花園」というように表記しています。

 

実は追号を決めるシーンはややこしいので工夫が必要でした。

 

例えばこんな文章、ややこしさのあまり読みたくなくなるでしょう。

 

親長が後花園を推したのは、彼が後花園に近侍していたからであろう。

 

意味がわかりませんね。そこで私は「後花園」を諱の「彦仁」で表記しようかな、と考えたこともあります。しかし難点があります。

 

天皇尊治は鎌倉幕府に対して勅書を発した。

 

はい、誰のことか、分かりませんね。これ「後醍醐天皇は」とすると分かりやすくなります。

 

天皇彦仁は赤松性具入道を討てという綸旨を下した。

 

やはり何のことかわかりません。

 

天皇彦仁」案はボツになりました。

 

親長が「後花園」を推したのは、彼が後花園に近侍していたからであろう。

 

こう書けばわかります。

 

もう一つ悩むのは幼名です。

 

足利義勝の幼名は「千也茶丸」といいます。これを「ちやちゃまる」と読むか、「ちゃちゃまる」と読むか。

 

恥ずかしながら私は長い間「せんやちゃまる」と誤読していましたのでどちらでもよかったのですが、「千也」に「ちゃ」という読み仮名を振るのが面倒くさかったので「ちやちゃまる」としました。「丸」が厳密には「まろ」と読むことが多かったようで、「ちやちゃまろ」が正しいのでしょうが、もし違っていたらそれはそれで恥ずかしいので、冒険せずに「ちやちゃまる」を採用しました。

 

困ったのは「三春」です。足利義政の幼名ですが、「さんはる」か「みはる」か、これについては振り仮名を見たことはありません。ここは諦めて「みはる」と呼んでおきました。

拙著『乱世の天皇』副読本4ー後小松天皇

拙著『乱世の天皇』を読むときに知っておくと役に立つ知識です。今回は後小松天皇を取り上げます。

 

後小松天皇については以下のエントリで取り上げたことがあります。

 

 

sengokukomonjo.hatenablog.com

 

 

sengokukomonjo.hatenablog.com

 

 

あまり有名な人物ではない、と言いたいところですが、皇子に一人、めちゃくちゃ有名人がいます。一休宗純後小松天皇の第一皇子と言われています。そしてそれについては今日ではほぼ確定していることと言われます。そして何を隠そう、一休が後小松天皇の皇子であることが分かったのは後花園天皇の一休への手紙の分析からでした。

 

後小松天皇後円融天皇の皇子にあたり、後円融天皇から譲位される形で天皇になります。しかしその直後に後円融天皇足利義満ともめて政務から遠ざけられ、10年間を静かに余生を過ごすこととなりました。

 

後小松天皇の最初の大きな仕事は南北朝合体です。

 

これは足利義満が勝手に進めたものなので、後小松天皇としては寝耳に水というところが大きいでしょう。特に両統迭立とか、南朝後亀山天皇から後小松天皇へ位を譲る、という取り決めに至っては後小松天皇およびその周辺からすれば「お前は何を言っているんだ?」の世界でしょう。

 

後小松天皇後亀山天皇の対面は実現せず、後小松天皇サイドが一方的に三種の神器を接収してあっさり終わってしまいました。のちに後亀山天皇太上天皇号を奉呈することになりましたが、これはさすがに義満が動いたので朝廷としても反対だが反対できない状態になり、結局「天皇の孫に太上天皇号の例はないが、特別に与える」という形で太上天皇号が与えられることになりました。

 

後小松天皇は1383年に父の後円融天皇の亡くしていますが、1407年に母の通陽門院三条厳子を亡くします。天皇が喪に服すことを「諒闇」(りょうあん)と言いますが、後小松天皇は在位中に父と母の二人の諒闇を経験することになります。

 

在位中に二度の諒闇を経ることの先例は一条天皇四条天皇後醍醐天皇がいましたが、義満は後醍醐天皇四条天皇の先例が不吉と言い立てて諒闇を回避するように動きます。

 

当初は後小松天皇の母の崇賢門院広橋仲子にしようとしましたが、義満が反対します。結局義満の意中は義満の妻の日野康子でした。康子は天皇の母に準ずる地位を与えられます。准母と言います。そして諒闇を回避するには准母を立てることが行われていましたが、義満は自分の妻を准母に立て、自分は後小松天皇の事実上の父親がわりに納まりかえってしまいました。

 

この出来事から、足利義満後小松天皇の後には自分の息子の足利義嗣天皇にしようとしているのではないか、そうしておいて天皇家を乗っ取って天皇を足利家で継承しようとしたのではないか、という見解が出されました。これを「王権簒奪論」(おうけんさんだつろん)と言います。

 

これについては現在はどちらかといえば認めない見解が優勢で、多数説では義満は天皇家に次ぐ家の格を求めたに過ぎない、と言われていますが、近年再び義満が天皇になろうとしたのではないか、という見方が出されています。

 

実際は義満は義嗣が元服した直後に急死していますので、義満が何を考えていたのかは、闇の中です。

 

私は義満が天皇を凌ぐ権威を身につけようとしていた、という可能性は否定できないとは思っていますが、義満が王権簒奪を目論んでいた、とまではいえない、という立場です。

 

次回は引き続き後小松天皇を見ていきます。後小松天皇足利義満の息子の足利義持足利義教を散々困らせてしまう、かなりの困ったちゃんです。

 


室町の王権―足利義満の王権簒奪計画 (中公新書)

 


北朝の天皇-「室町幕府に翻弄された皇統」の実像 (中公新書)

 


室町人の精神 日本の歴史12 (講談社学術文庫)

 

拙著『乱世の天皇』副読本3ー後光厳天皇の子孫

本エントリは拙著『乱世の天皇』(東京堂出版)の副読本として、歴史に詳しくない方が拙著を読むときに、あった方がいい知識を記しています。

 

『乱世の天皇』–株式会社東京堂出版

 

今回は「後光厳皇統の人たち」というテーマですが、拙著では「皇統」という言葉をよく使います。まずそれについて説明します。

 

拙著では天皇を出す家全体をまとめて「天皇家」と呼んでいます。現在では「皇室」と呼ばれています。「皇室」というのは近代になってからの用語で、「皇室典範」によって定義された皇室のことを指していますので、朝廷という制度のあった前近代(江戸時代以前)に「皇室」という言葉を使うと、近代の皇室との違いが曖昧になるので、何かしら用語を作る方向性になっています。

 

その場合多くの研究所ではそれを「王家」と呼んでいます。当時の用語としては天皇を出す家全体のことを「王家」と呼んでいましたが、一般的に普及している言葉ではないことと、面倒臭いことになったりしますので、「王家」という用語を私は回避しています。

 

そして天皇家はもちろん「万世一系」ではなく、しばしば分裂し、ある天皇の子孫は断絶し、ある天皇の子孫が今日まで続いているのです。拙著ではその系統をその系統の始まりに位置する天皇の名前をとって「何とか皇統」と呼ぶことにしています。

 

ここで関係のあることをいえば、崇光天皇の子孫を「崇光皇統」、後光厳天皇の子孫を「後光厳皇統」と呼んでいます。現在の皇室は崇光皇統の子孫ということになります。

 

前回に崇光天皇に代わって天皇になったのは弟の後光厳天皇だという話をしました。そしてその後は後光厳天皇の子孫が天皇の位を継承します。

 

後光厳天皇の次は後円融天皇です。

 

後円融天皇は色々とやらかしてくれます。

 

息子に後を絶対に継承させたい、と義満相手にパニクります。義満からは「誰が崇光皇統をひいきしようと私がついております」と言われていますが、義満は「言われんでも崇光皇統に天皇を継がせるわけないわな。何をパニクってんだか」と思っていたでしょう。

 

とりあえず後円融天皇は息子の後小松天皇皇位を継承させることに成功します。というよりも

ことここに至っては崇光上皇の子の栄仁親王(なかひとしんのう)を天皇にしようという人はいませんでした。後円融天皇はどっしりと構えていればよかったのです。

 

ただ後円融天皇には引っかかるものがありました。それは三条公忠という内大臣を務める公家が、自分の土地について天皇ではなく義満に訴え出て、義満を通じて天皇にその土地の所有を認めてもらったのです。このように幕府から朝廷に話を通すことを「武家執奏」(ぶけしっそう)といいます。武家執奏を三条公忠は使ったのですが、それが後円融天皇の機嫌を大きく損ねました。

 

後円融天皇は義満からの執奏状を一旦は無視しました。これは不満の表明であり、公忠はそこでやめておくべきだったのですが、公忠は少し空気の読めないところがあったのか、再度義満からの催促を行ってもらいました。

 

後円融天皇は義満や公忠に直接不満を言わずに、公忠の娘で、後円融天皇中宮の三条厳子(たかこ)に「お前の父からの執奏状は受け付けてやる。その代わりにお前とは口もきかないし顔も合わせない」と脅しをかけました。結局公忠はその土地の入手をあきらめました。

 

しかしその後公忠のもとに後円融天皇から「この前の土地は武家執奏に頼ったからダメだったが、別の土地を埋め合わせに与えよう」と言われます。そして実際に公忠は後円融天皇から土地をもらいました。喜んでいる公忠のもとに徳政令が出された、という知らせがとどきます。つまりこの数ヶ月分の土地の取引を無効にする、というものです。しかし後円融天皇はていねいにも「公忠の土地は除外する」という命令もつけてくれました。

 

さあ、どうしましょう。その土地の権利は自分に関してだけは認められています。

 

その土地の権利を手放します、と答えたあなた、正解です。

 

その土地は天皇がわざわざ認めてくれたのだからもらっておくか、と思ったあなた、アウトです。

 

これは後円融天皇のいやがらせです。いわば「ぶぶ漬けでも食うて行きなはれ」です。こう言われて「ぶぶ漬け(お茶漬け)を食べてはいけないのと同じことです。「公忠の土地は俺がしっかり守ってやるからな(だから気をつかって辞退しろ)」ということです。

 

ちなみにここで後円融天皇に逆らうとどうなるのか、といえば、娘の厳子の身に危険が及ぶかもしれません。

 

そのおそれは二年後に現実のものとなります。

 

後円融天皇は義満の助けもあって順調に後小松天皇に位を譲ることができました。しかしその直後に足利義満との対立が始まり、後円融院政はうまく回らなくなります。何事に関しても厳しい義満と、何事に関してもわがままでマイペースな後円融上皇の関係がうまく行くはずがありませんでした。

 

そのような中、厳子は後円融上皇の皇女を産みました。実家で産みましたが、帰ってきたその日、事件が起こります。後円融上皇は厳子に会いたい、と言ってきましたが、衣服の準備が間に合わない、と参上をためらっていたところ、後円融上皇が刀を持って厳子の部屋に乱入し、厳子を峰打ちにします。「峰打ちじゃ、安心せい」とはよく言われる台詞ですが、安心できません。1メートルもある刃物の背中で殴りつけられれば怪我もします。しかも日本刀は背中も尖っていますから。

 

厳子は重傷を負いますが、騒ぎを聞いてかけつけた後円融上皇の母親の崇賢門院が上皇を落ち着かせ、三条家に使いを出して厳子を救出させます。

 

上皇がいきなり中宮に切りつけ、重傷を負わせる、というのはものすごいスキャンダルですが、話は拡大して行きます。後円融上皇は自分の側室を追放します。義満と不倫関係にある、と疑ったのです。義満は身の潔白を主張しようと使者を出しますが、後円融上皇は「死んでやる」と立てこもってしまいました。母親の説得で何とかなりました。

 

ちなみに崇賢門院は義満の伯母に当たります。崇賢門院の妹が義満の母親にあたります。つまり義満と後円融はいとこということになります。

 

この事件をきっかけに後円融上皇は政治から遠ざけられ、義満が事実上の院として後小松天皇を支える形ができます。これが義満の事実上の上皇待遇につながり、「義満が天皇になろうとした」とか「義満が天皇家を乗っ取って息子を天皇にしようとした」とか言われる学説を生み出していくことになります。細かいことをいえば「義満が天皇になろうとした」という学説は存在しません。あくまでも義満が上皇待遇を求めた、という話であり、その目的が自分の息子を天皇にしようとした、という話です。その見解を「王権簒奪説」(おうけんさんだつせつ)と言います。これは戦前から主張されていましたが、近年(といっても三十年前)では今谷明氏が『室町の王権』という書物で主張し、一時は多数説となりました。現在では多数説は義満にそのような意図はなかった、という考えですが、現在でも今谷説はアップデートされつつ影響力があり、王権簒奪説も近年では再評価されつつあります。

 

次回は後小松天皇を取り上げます。