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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

御由緒六家ーゆうきまさみ氏『新九郎、奔る!』を解説する

御由緒六家というのがあります。後北条氏の古参家臣団である大道寺を筆頭に荒川・荒木・在竹(有滝)・多米(多目)・山中の六家に松田を加えて七家ということもあるようです。

 

詳しくは下のウィキペディアをご覧ください。

御由緒六家 - Wikipedia

 

ゆうきまさみ氏の『新九郎、奔る!』でも当然彼らは重要な位置付けです。

 

大道寺太郎は新九郎の乳兄弟(新九郎の傅役の大道寺右馬介の子)にして従兄弟(太郎の母と新九郎の母が姉妹)という関係で、赤ん坊のころから一緒に育ってきているので「新九郎」と呼び捨てでタメ口です。初出も第1巻の冒頭(つまり第一話)と早く、また伊都(北川殿)への恋心を持っており、新九郎(当時は幼名の千代丸)に「あーゆーの好み?」と突っ込まれています。図体が大きく(在竹三郎に「ズータイばかりでかくなりやがって」と突っ込まれています)、腕っ節も強い(新九郎に「右馬介譲りの腕っぷしがあるのだろうが」と言われています)頼りになりそうな人物です。永正七年(一五一〇)小田原城で戦死した、と考えられています。子孫は後北条氏重臣となり、太郎の玄孫の大道寺政繁は小田原の役で切腹させられています。子孫は越前藩・尾張藩弘前藩・旗本などとして江戸時代に残りました。

 

荒川又次郎と在竹三郎は荏原からやってきて八郎の家臣となり、八郎の不慮の死によって新九郎の家臣となります。応仁の乱の初頭に備中は周囲を山名の領国に囲まれたために大変な苦労をして何とかこの二人だけ命からがらたどり着いたような描写がなされています(第2巻52ページ)。「無事であればあと二・三人は」と物騒なことを言っています。落ち着いた荒川又次郎は家臣団のリーダー格、又次郎より少し若い在竹三郎はサブリーダー格でお調子者のムードメーカーという設定です。

 

次に登場するのが山中才四郎で登場当初は駒若丸という幼名で登場しています(第4巻10ページ)。走り出てきて「新九郎様!」と叫んだところ伊勢貞親に「なんじゃ、騒々しい」と叱られますが、貞親は新九郎の居場所を教えてやるなど、「天下の佞臣」のイメージとは違い優しいところもある人物として描かれています。駒若丸は荏原行きの人員を選ぶ際に「連れてってくださりませーっ」「背負う時洗濯なんでもいたしますぅ」と叫び、盛定に身の回りの世話を命じられ喜んでいます。盛定は新九郎に「手をかけて股肱として育てておけ」と耳打ちしますが、新九郎は「えこひいきになりませんか?」と返し、「ほんとーにめんどくさい奴だな」と言われています。

 

荒木彦次郎は寡黙な一匹狼で、剣術の腕が立つため、新九郎の護衛役としての活躍が目立ちます。初登場は4巻45ページでいきなり喧嘩のシーンです。新九郎に抜擢されたことが嬉しかったのか、新九郎のためなら命も擲つ人物として描かれています。

 

現状ではこの五名が御由緒六家の中で新九郎に従っていますが、残りの多米権兵衛はどうしたのか、と思っていますと7巻144ページで西軍の政所執事となった伊勢貞藤の家人として現れています。貞藤を通じて山名宗全と碁の勝負をした新九郎ですが、帰り道に畠山義就大内政弘の内意を受けた集団に襲撃され、危ないところを人足に扮した多米権兵衛に救われます。彦次郎の戦い方にもアドバイスを送るなど、かなりの経験を積んだ有力な武士と思われます。

 

この中で大道寺は家老ですが、山中氏は相模三崎城代を務める有力家臣に、多米・在竹・荒川は軍事集団である足軽衆を構成するメンバーとして記録に残っています。荒木については初期にその姿が見えますが、その後は姿が見えず、「早い段階で没落」と見られています(黒田基樹氏『戦国大名・伊勢宗瑞』)

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ここで私が注目しているのは荏原編でやたら存在感を発揮していた笠原弥八郎です。第4巻58ページで初登場します。備中国東荏原荘高越山城の城主が伊勢盛定ですが、その城代を務めているのが笠原美作守です。その三男が弥八郎で、荏原についた新九郎一行の扱いに不審を覚えた在竹三郎は弥八郎に事情を聞くことにしますが、その時に「親父を斬りにいたか!?」と発言し、三郎から「なんか心当たりがあるのかよ」と突っ込まれています。その後もさりげなく登場してきます。

 

この家は侮れない家で、笠原美作守家は伊豆衆として名前が見えます。新九郎が伊豆に進出したあたりで新九郎に従ったようで、笠原信為が小机衆を率いて活躍し、鶴岡八幡宮造営総奉行を大道寺盛昌(太郎重時の子)とともに務めています。ということは信為の父の氏冬が弥八郎ということになりそうです。

 

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日野富子の描かれ方ーゆうきまさみ氏『新九郎、奔る!』を解説する

私は現在伊勢宗瑞の仕事を抱えています。そのことを弟にいうと「伊勢宗瑞なんて知っているのか」と心配されました。そこで「ゆうきまさみ氏のマンガ『新九郎、奔る!』を読んでいるからこれで完璧だ」と言っておきました。

 

実際『新九郎、奔る!』のベースの一つが黒田基樹氏の北条氏研究だと思います。

 

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もう一つ、『新九郎、奔る!』では日野富子の扱いが目を引きます。

 

『新九郎、奔る!』では第3巻51ページに初登場となっています。足利義視が伊勢から帰還してほどなく、義政と対立してしまいます。しばらくして義政のもとに呼び出された義視は「お赦しが出れば、これまで以上に尽くさねば。」と決意して義政のもとに向かいます。そこで義視が目にしたものは、以前自分を殺害しようとした伊勢貞親でした。そしてその傍には貞親の右腕の盛定もいます。そして義視がのぞこうとしている内大臣日野勝光もいます。彼は御台所の兄として義政の側近となっていました。

 

いわば義視にとっては敵のオールスターズといっても過言ではありません。義視はてきめんにメンタルをやられてまぶたが「ピク」と動いています。そこに登場するのが将軍家御台所の日野富子です。

 

彼女の最初のセリフが「開けっ放しでは寒うございます。襖を閉めてもっとこちらへ」という全く他意のなさそうなセリフです。で、実際に他意はなかったようです。義政と富子夫婦はびっくりするほど純粋で、自分は悪意がないのに周囲を振り回すという役柄です。

 

義視についてきた八郎貞興は盛定についてきた弟の新九郎を手招きで呼び寄せると「伯父上(伊勢貞親)が御出仕なさるとは聞いていなかったぞ。これでは今出川様(義視)への嫌がらせではないか」と不満をぶつけています。

 

義視は「いささか気分が優れませぬ」といい義政が「では帰って休むがよい」といった後で富子が「この後は伊勢での土産話など聞きながら酒宴と考えておりましたのに。大事になさりませ。」と送り出します。義視は「引き留めようともせぬのか」と絶望しています。

 

この直後義視は出奔、貞興はそれに巻き込まれて落命しますが、この辺は富子さんとは無関係なので割愛します。

 

富子は新九郎が奉公衆を務めた将軍足利義尚の生母ですから、この後も新九郎とは深く関わってきますが、富子の描かれ方で一番印象的なのは第7巻の45ページ以降のエピソードです。

 

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京都に疫病が流行り、伊勢弥二郎もはしかに罹患します。そして日野勝光の子もはしかで落命、これでキレた富子が義政を責めます。

 

富子「こうなる前に御所様の御力でなんとかできなかったのですか!?」

義政「人の力でなんとかできると本気で考えておるのか、御台所は?」

富子「病の兆しがあったときに速やかに遺骸を焼くなりしておればこのようなことにはならなかったはずでござります。」

義政「後知恵だ。そもそもそれは誰がやるのだ?余の奉公衆にでもやらせよと申すか?そちに言われるまでもなく疱瘡・麻疹の経験者は現場に出して骸の処理をさせておる」

 

と続きますが、その麻疹はやがて盛定の妻の須磨(作中では新九郎の義母)が亡くなり、御所では「余が止められぬ戦を病が止めておる。愉快ではないか?」という義政の軽口にキレた富子が心底あきれ、軽蔑しきった顔で「貴方様は・・・」と絶句しています。

 

結局この夫婦喧嘩は最後まで尾を引くことになりますが、この描写が富子観の大きな変化を示しています。

 

私が子どもの頃に読んでいた学習漫画集英社版『日本の歴史』ではこの疫病の時に富子は「土民の二千や三千死んでも税を出せるものはまだまだいます。どんどん取りなさい」と発言し、義政をドン引きさせています。ドン引きした義政は浄土寺を訪れ、そこに慈照寺を作ることになる、という筋書きです。

 

富子の悪女というイメージはもっぱら『応仁記』などの軍記物によるものであって、実際に足利義尚をゴリ押しして応仁の乱の原因を作った人物ではない、という見方が近年では多数派になりつつあります。もちろんそれへの批判もあって、現状学界では富子悪女説と富子冤罪説に分かれておりますが、私見では富子は冤罪であった、と思っています。

 

富子冤罪説の中心は学習院大学の家永遵嗣氏ですが、氏の論を一般書で分かりやすくまとめたのが呉座勇一氏の『応仁の乱』です。

 

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また近年の日野富子研究としては田端泰子氏の著作があります。

 

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伊都(新九郎姉)「家族か・・・減っちゃったねぇ」ーゆうきまさみ氏『新九郎、奔る!』を解説する

『新九郎、奔る!』第8巻93ページの北川殿(伊勢宗瑞姉、作中では伊都)のセリフ「家族か・・・減っちゃったねぇ」の解説です。

 


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場面は新九郎が伊都の若君(竜王丸、後の今川氏親)誕生祝いに駿河に駆けつけるシーンで、この旅費捻出関係で以下のエントリで紹介した事例である盛定による鎧の売却が発生しています。

 

sengokukomonjo.hatenablog.com

この時の駿河行きはフィクションですが、色々と伏線が貼られています。これも追々解説したいと思います。

 

伊都と水入らずで話している新九郎ですが、そこで次のようなやりとりがあります。

 

伊都「こう見えてケッコウ丈夫なの!」

新九郎「「こう見えて」の意味が分かりかねますが、丈夫なのは知っております。」

新九郎「家族が皆風邪をひいた時も姉上だけ平気で」

伊都「ちょっと待ちなさい。あたしがバカだと言うの?」

新九郎「さようなことは申しておりません。」

 

というようなやりとりがあって冒頭の「家族か・・・減っちゃったねぇ」という絵リフが出てきます。

 

ここまでで伊都は兄の八郎貞興、母の須磨(伊勢貞親の妹)を失っており(実際には両名の没年は不明だが、少なくとも貞興が盛時成人時までには死去)、そのことを言っているのですが、彼女の家族はこの後もどんどん減っていくので、この何気ないセリフはあとへの伏線となっています。

 

彼女の父の伊勢盛定がいつ死去したのかは不明なのでこれは置いておきます。

 

彼女の関係者で真っ先にこの世を去るのは夫の今川義忠です。文明8年(1476)2月6日、遠江国の在国奉公衆の勝田・横地氏を討伐に出かけた義忠はその帰途に勝田・横地氏のザンとの襲撃を受け、落命します。この経緯は第8巻の主題をなしています。そしてその死去が新九郎を歴史の表舞台に押し出す大きなきっかけになるのですが、それはまた別に解説します。

 

その後新九郎の尽力もあって彼女は安らかな日々を過ごすことになります。弟の新九郎も駿府に在住して北川殿と氏親をサポートし、新九郎は氏親を連れて遠江三河まで出兵し、今川家のために奮戦します。

 

その彼女の次の家族との別れは新九郎でした。新九郎こと伊勢宗瑞は永正16年(1519)8月16日、66歳で伊都に先立ち死去します。

 

続いて彼女が失うのはもう一人の弟の弥二郎です。弥二郎の死没年代は不明で、明応6年(1496)12月を最後に史料に見えませんが、近年の黒田基樹氏の研究(「伊勢宗瑞論」同編『伊勢宗瑞』戎光祥出版、2013年所収)では弥二郎の死没時期は大永2年(1522)7月28日、59歳で死去しているとされています。

 


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弟二人に先立たれた彼女の悲しみは推して知るべしですが、彼女にはさらなる試練が待ち受けていました。

息子の氏親が大永6年6月23日に死去しました。享年54歳。彼女は夫、弟だけでなく息子にまで先立たれてしまったのです。もっとも氏親は永正18年(1521)ごろより体調を崩し、晩年は寝たきりとなっていたため、彼女にも覚悟はできていたでしょう。

 

氏親の死去の3年後の享禄2年(1529)5月26日、北川殿(作中では伊都)はその戦さの人生の幕を下ろしました。

 

彼女は第2巻110ページで父の盛定から「女には女なりに家を守るという戦さがある」と説教され、義忠との婚姻を決意した時に「戦を選ぶなら今川家なんて最高の舞台と思うわけ」(第2巻198ページ)と言っています。

 


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彼女の戦さは大勝といっていいでしょう。義忠の軽挙妄動で幕府の敵となりかけたり、扇谷上杉氏の家宰の太田道灌に乗っ取られかけたりした今川家を弟の新九郎の助けを借りて守り切り、彼女の生きている間に『今川仮名目録』という家法を出し、検地を行って駿遠二カ国を支配する「海東一の弓取り」と呼ばれる強力な戦国大名にし、さらに弟は彼女の伝で関東に覇を唱える後北条氏となったわけですから。そして彼女の縁で北条氏と今川氏の同盟関係は長く続きます。

 

彼女の葬儀には孫の氏輝・彦五郎・玄広恵探栴岳承芳が中心となったものと思われます。

特に栴岳承芳今川義元となって彼女の死後の31年後に桶狭間の戦いで戦死し、京都かぶれの情けない武将というイメージを持たれてしまいます。その辺目黒川うな氏のマンガの『織田シナモン信長』第6巻(71ページ)でもミニチュアダックスフントのギルバートに転生した今川義元が「あの公家風スタイルで頭スッカラカンな顔はどこからきたのやら?」と困惑しています。その一つの原因が祖母の北川殿でしょう

 


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新九郎の従兄弟の伊勢盛種の苦労ーゆうきまさみ氏『新九郎、奔る!』を解説する

これは以前のエントリを『新九郎、奔る!』仕様にリライトしたものです。

 

『新九郎、奔る!』の第3巻の終わりに「外伝 新左衛門、励む!」という話が載せられています。新九郎の父の伊勢盛定の若き日々の話です。伊勢貞国に気に入られ、貞国の娘の須磨と結婚して政所の中枢にのし上がっていった伊勢新左衛門盛定が尾張国国人領主の娘の浅茅と出会い、深い仲になるまでを描いています。本作では新九郎と弥二郎が浅茅の子となっています。この浅茅はのちに伊勢貞藤と再婚します。そしてこの横井氏は北条時行の子孫とされており、のちに新九郎の子孫が北条氏を自称する際に大きな意味を持ってきます。

 

もとエントリはこちらです。文書の翻刻と読み下しはこちらからお願いします。

 

sengokukomonjo.hatenablog.com

 

www.digital.archives.go.jp

 

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足利義澄御内書案 朽木家古文書 国立公文書館

内容は以下の通りです。

伊勢肥前守盛種が知行していた当国松山保(新潟県十日町市)の事、 伊勢盛種の直務の土地であるところ、代官と号して(越後守護の)被官人の長尾三河入道が乗り込んできたとのこと、驚いている。そこで盛種を下国させた。きっちりと処分を行い、元のように戻せばよろしい。詳細は右京大夫細川政元)から話があるであろう。

 伊勢盛種の知行分に越後守護代の一族長尾三河入道(輔景)が介入してきたことに対し、盛種を下向させたので、長尾による権利侵害を停止するように長尾の主君の上杉民部大輔(房能)に命じた文です。

 

松山保は伊勢盛種の直務(代官などを通さず直接支配する土地)であったところ、「代官と号し」、というところ、少し解説を加えますと、遠国ですから伊勢盛種は越後国にいるわけではありません。しかし幕府の申次衆であった盛種の所領ですから、当然上杉氏や長尾氏の影響を排して所領支配をしていたのです。つまり「直務」ということです。しかし長尾輔景が「代官」と「号す」つまり無理やり主張してきて権利を侵害したわけで、これは一説には上杉氏による新九郎(伊勢宗瑞)への牽制とも言われています。それを排除しようとしたのがこの書状です。

 

新九郎は足利義澄細川政元の命令を受けて東国に降って堀越公方を滅ぼしていますので、そういう可能性は大いにあると思います。

 

文中に出てくる伊勢盛種は新九郎こと伊勢宗瑞の従兄弟に当たります。盛種の父の伊勢盛富については『新九郎、奔る!』第3巻の143・144ページに、『新九郎、奔る!』の17・18ページに登場してきます。

 


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新九郎、奔る!(3) (ビッグ コミックス) [ ゆうき まさみ ]

 

ja.wikipedia.org

 

参考

ja.wikipedia.org

伊勢盛定の売却した鎧ーゆうきまさみ氏『新九郎、奔る!』を解説する

ゆうきまさみ氏の『新九郎、奔る!』を解説する記事です。

 

『新九郎、奔る!』のすごさは細かい話にもしっかり史実が反映されていることです。

 

『新九郎、奔る!』九巻の81ページに新九郎の父親の伊勢盛定が「佐々木能登守の息子に二十貫文で売った。」というセリフがあります。また167ページに新九郎が「一昨年にお売りになった具足の代金はどうなりました?支払ってもらえず訴えておられましたよね。」と質問したのに対し、盛定が「あれは先方の手違いでな、後できっちり支払うてもろうた。」と目を逸らしながら答えます。この辺のやりとりは見事なショートコンとになっていますが、このような笑わせどころでもきっちりと史実を下敷きにしています。

 


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室町時代研究の必須文献の一つである『室町幕府引付史料集成』(近藤出版社、一九八〇年)というのがあります。その上巻の266ページは「政所賦銘引付」(まんどころくばりめいひきつけ)という史料ですが、そこにこのような文があります。

史料に興味のそれほどない方は読み飛ばして現代語訳からご覧ください。

 

伊勢備前入道正鎮〃〃(申状)同日(文明六年二月十日)

具足沽却之処、佐々木能登守(持秀)息弥三郎長綱、可買請之由申、代廿貫文ニ定之、差日限渡遣之処、以若党土田乍出状難渋、相尋之処、於出状者一向不存知之由申云々

読み下します。

伊勢備前入道正鎮申状

具足沽却のところ、佐々木能登守の息の弥三郎長綱、買い請くべきのよし申す。代二十貫文にこれを定む。日限を差し渡し遣わすのところ、若党土田を以て状を出しながら難渋す。相尋ぬのところ、状を出すにおいては一向存知せずのよし申すと云々。

 

現代語訳です。

伊勢備前入道正鎮の訴え状

具足を売ったところ、佐々木能登守の息子の弥三郎長綱が買いたいといってきた。代金を二十貫文に定めた。期限をきって引き渡したところ、若党の土田を通じて文書を出してきたのに支払いがない。問い合わせたところ文書については全く知らないと申した、ということだ

 

要するに「支払ってもらえず訴えた」のです。その結果はここでは分かりませんが、『新九郎、奔る!」では「先方の手違いで払ってもらった」ということになっています。

 

ちなみにこの文書は伊勢盛定の終見文書となっています。その後は程なく死没したか、あるいは鎧を売ったお金で連歌の会を開いたりして(娘婿の今川家に金の無心をしたりしながら)悠々自適の生活をしていたものと考えられます。( )内のことは『新九郎、奔る!』をご覧ください。

 

 

伊勢盛定と伊勢貞藤のライバル関係ーゆうきまさみ氏『新九郎、奔る!』を解説する

新しいカテゴリーです。

 

ゆうきまさみ氏の『新九郎、奔る!』に触発されて伊勢宗瑞のことを調べています(実際にはそういう仕事が来たからですが)。

 

第一回目の本日はタイトルにもある「伊勢盛定と伊勢貞藤のライバル関係」です。

『新九郎、奔る!』第七巻138ページをご覧ください。

 


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そこに伊勢貞藤の発言として「(新九郎の)実父盛定殿と儂は政治的にはライバルだったからな。いや、だからと言っていがみあっていたわけではないぞ。」「あれも兄 貞親が仕向けたことであってな。」とありますが、どういうライバル関係だったのでしょうか。

 

話は寛正6年(1465)に遡ります。

 

遠江国は当時斯波武衛家が守護でした。ただ残念なことにこのころにはすでに斯波武衛家は斯波義敏と甲斐将久(かい・ゆきひさ)の対立がこじれて斯波義敏斯波義廉の対立となり、斯波武衛家は分裂していました。

 

そのようなことで遠江国でも両者の争いが響いてガバナンス不全に陥っていました。そこに着目したのが隣国駿河国の守護の今川義忠です。

 

今川家はもともとは南北朝内乱の活躍によって今川範国駿河遠江二カ国の守護になります。今川範国の子には嫡男範氏の他に貞世と仲秋がいました。貞世と仲秋が九州で武勲を立てますが、貞世は足利義満から警戒され、九州探題を解任、遠江半国守護となります。しかしその後大内義弘の応永の乱に加担した疑いをかけられ、完全に失脚し、没年もわかりません。貞世は出家名の「了俊」の方が有名です。

 

貞世の子孫は遠江国に土着しますが、遠江守護は斯波武衛家に渡ります。遠江今川家からは堀越氏と瀬名氏が出て、著名な人物に瀬名氏貞の次男の関口親永の娘の瀬名姫(築山殿)がいます。

 

その遠江今川氏の今川堀越治部少輔(範将か)が上意に叛いて土地を没収され、室町殿御料所となります。その代官に任ぜられたのが伊勢貞藤でした。

 

一方堀越治部少輔の子の今川堀越貞延は今川本家の義忠と組んで在国奉公衆の勝田(かつまた)氏や横地氏とともに所領回復を志します。この時に義忠の取次を務めていたのが貞藤の義兄(貞藤の姉の夫)であった伊勢盛定でした。

 

ちなみにこの堀越貞延・横地・勝田は今川義忠とともに第八巻で出てきます。第八巻の169ページです。

 

ちなみに141ページでは貞藤の嫡男の伊勢貞職(さだもと)が盛時(のちの宗瑞)に「ここに住み着いたらどうだ?」と気遣っていますが、貞職の子の貞辰(さだとき)とその子孫は盛時の息子の氏綱の家臣となっています。また貞辰の子の貞孝は伊勢貞宗の孫の貞忠の養子となって伊勢伊勢守家を継承しています。貞孝の孫の貞興は室町幕府滅亡後に明智光秀の家臣となり、山崎の合戦で戦死しています。

 

豆腐メンタルの足利義教

足利義教と言えば極めて強い意思で弱体化した日本を立て直し、琉球まで支配したスーパーマンであるという幻想が通用しています。

そのバリエーションが南部氏と安藤氏の戦いに介入し、南部氏に対して御内書を出して強く和睦を勧めたためにさすがの南部氏も義教の要請に従って安藤氏の十三湊への還住が実現するという話です。

これは以前にも当ブログで述べてきましたし、また拙著『乱世の天皇』でも述べていますのでここでは詳しくは述べませんが、わかりやすく言えば口先介入を主張する畠山満家と口先介入すら拒否する足利義教の対立です。

 

 

sengokukomonjo.hatenablog.com

 

 

同様のことは大和国一揆でも起きており、口先介入を主張する南都伝奏の万里小路時房と口先介入を拒否する足利義教の対立です。

 

義教がなぜ口先介入を拒否するのでしょうか。それは自分の命令を拒否するものがいると信じたくない豆腐メンタルのせいです。考えれば、ここでの命令は所詮は口先介入ですから、南部氏や大和国人が義教のいうことを聞くとは誰も考えていません。ただ時房や満家はそれでも介入したという実績が重要と考えていました。しかし義教は介入して無視された、ということによってプライドが傷つくのです。だから義教は口先介入すら拒否するのです。

 

同じ事例を見つけました。というか、今から20年近く前に扱ったことがあったのですが、これも義教の口先介入の拒否だと気づいていませんでした。その頃は義教の口先介入に関心もなかったので。

 

秦野 裕介 (Yuusuke Hatano) - 「倭寇」と海洋史観--「倭寇」は「日本人」だったのか - 論文 - researchmap

 

満済准后日記』永享6年6月17日条です。

 

明の使者が来日し、義教を日本国王冊封するための使者が来日しますが、その時の外交交渉として、倭寇の禁圧、倭寇に拉致された明人の送還が決定します。

 

このうち「賊船」の停止の問題については次のようになっています。

 

就其賊船事ハ、壱岐対馬者共、専致其沙汰歟。

 

これについて黒嶋敏氏は次のように述べています。

明からの要請を受け義教は、「賊船(倭寇)」の根拠地とされる対馬壱岐に影響力を持つ少弐氏(『海の武士団』)

 

 

 

私も「「賊船事」は「壱岐対馬者共」の行為であり」としていますから、その辺は黒嶋氏の見解に同意します。

 

ただ最近出された伊東亜希子氏の「少弐氏と朝鮮通交」(『日本歴史』874号、2021年)では「賊船の取り締まりは壱岐対馬の者たちが従事していて」と、逆の解釈になっています。

 

この解釈の違いは「沙汰」という言葉の解釈によるものです。

 

沙汰|日本国語大辞典|ジャパンナレッジ

 

沙汰とは - コトバンク

 

壱岐対馬の者共」が倭寇なのか、倭寇を取り締まる立場か、はさておいて、この二つの島が少弐氏の被官(家来)であることから、少弐氏に命じて取り締まらせる必要があります。

 

ただ問題点があって、少弐氏はその前年から義教によって治罰される対象であり、治罰の対象である少弐氏に御教書を出すのは「存外」である、と義教がごね始めたので、赤松満祐と細川持之が「この御教書によって赦免されるわけではないので問題ありません。少弐氏に御教書を出すべきです」と再三進言しても義教は拒否し続けるので、どうすればいいのか、と相談事を満済に持ってきます。

 

満済は「上意は尤も」と義教の気持ちに理解を示しますが、実際問題としてなんらかの処置は取らなければならず、満済は「対馬一国は少弐氏の家臣の宗氏が支配しているのだから彼らに御教書を出せばいい。壱岐は誰が支配しているのか知らないが、下松浦の者が支配しているのならば彼らも少弐関係者である。同様に下松浦に御教書を出せばいい」と答えています。

 

この満済の対応で義教が満足したかどうかは明らかではありませんが、その後持之と満祐はこの問題を満済の元に持ち込んでいませんから、一応解決はしたようです。

 

この問題は九州問題について幕府の対応がかなりいい加減だという文脈で把握されていますし、私自身もそれは当たっていると思います。しかし同時にこの問題をややこしくしているのが「俺に敵対している少弐氏に仕事を命じるのはおかしい」という義教の筋論というか、潔癖症である、ということも事実です。

 

おそらく持之も満祐も満済も実際に少弐氏に倭寇禁圧の命令を出してもそれが実効性のあるものであるとは思っていません。そもそも少弐氏の元に辿り着くかどうかすら怪しいでしょう。要するにここで持之らがやろうとしているのは明の使者の帰還に際して倭寇禁圧を要求されているので、形だけでも明の要求に応えようという口先介入です。要するに「出した」ということが重要なのですが、義教にとってはそれでも少弐氏を赦免しかねないことが癪に触るのです。

 

その辺満済の対応は流石にスマートです。少弐氏に出すのではなく、宗氏と「下松浦」の誰かに出す、というあたり、かなり適当だな、と思いますが、カリカリしている義教の癇癪をそらす意味はあるでしょう。

 

義教の豆腐メンタルの逸話としてもう一つ紹介しておきます。

永享2年(1430)のことです。一色義貫が義教の右大将拝賀式をボイコットします。大名が行列に騎馬で参加する「大名一騎打」の先頭を望んだ義貫に対し、義教は畠山持国を先頭とします。それにキレた義貫は行事をボイコットしますが、それに対し義教が義貫の処分を検討し、畠山満家らに諮問します。

 

満家としても自分の息子がからむ話ですから頭の痛い話ですが、満家は義貫の処分を回避するように進言します。それに対し義教は「畠山の意見は「事始」である」と批判します。今の言葉で言えば「判で押したようだ」という感じでしょうか。「いつもいつも「無為」(穏便に)とばかりいう」と不満を漏らし、「関東・九州へも聞こえが悪い。これでは将軍のために問題が起こらないとか、権威を失わないと言えるのか」と迫ります。

 

それに対する満家の返答が見事です。「問題も起こらないし、権威も失わない」と言い切ります。義教が重ねて「許したら色々と話が広まるだろう。だから処分をしないわけには行かない」と迫りますが、「その振舞では問題が起こることはなかった。あなたの未練がましい態度が問題です」とはねつけます。満家は義教のメンツにこだわる姿勢をよく思っていないことがわかります。

 

義教がメンツにこだわるのは昔からで、それは一貫しています。義教が後半になって我を張るように見えるのは、満家が永享5年に死去していることが大きいのでしょう。

 

ちなみに義教は臨界点を超えると突然武力介入をおっぱじめ、泥沼にハマることもあります。大和国一揆は義教が突如キレたことで武力介入が始まり、その過程で一色義貫・世保持頼が殺害される、という修羅場を演出することになります。義教は後花園天皇の治罰綸旨を出し、大和騒乱の決着を一気に図ろうとしますが、義教は嘉吉の乱に倒れ、嘉吉3年に後花園天皇による停戦綸旨で終結します。