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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

斯波義廉ーゆうきまさみ氏『新九郎、奔る!』を解説する

三管領家の中で圧倒的に存在感のない斯波武衛家の続編です。前回は斯波義敏でしたが、今回はライバルの斯波義廉(しばよしかど)です。

 

 

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ただでさえ影の薄い斯波武衛家の、それも西軍とあって新九郎との接点はありません。第2巻6ページに畠山義就(よしひろ)を出迎えながら「見事な戦さ振りでござった!」と言っているシーンが初出で、あとは8巻143ページで斯波義敏・義寛(よしとお)親子に「ほれほれ、とっとと出ていかんかーい」と煽られているだけです。

それもこれは今川範満と新九郎との会話の説明です。

 

このように非常に影の薄い斯波義廉ですが、実在の斯波義廉も想像を絶する影の薄さです。何しろ、いつどこで死んだかすらわからない、という状況です。もっとも山名宗全の息子で西軍から東軍にいち早く離反し、東軍の主力として活躍した山名是豊も同様にいつ、どこで死んだかはわかっていません。

 

義廉について、渋川家からの養子という情報は比較的よく知られています。なぜ渋川家から養子を迎えなければならなかったのか、ということについては、当時の関東情勢を見ればわかります。

 

享徳の乱鎌倉公方足利成氏と室町公方足利義政は戦争状態に入り、義政は兄の天竜寺香厳院清久を還俗させ、政知と名乗らせて鎌倉公方に任命します。成氏と古河公方、政知を堀越(ほりごえ)公方と呼びます。

この辺の経緯は8巻127〜129ページに記されております。

 

堀越公方の最大の問題点は兵力がないことでした。対関東の兵力は越後上杉氏と駿河今川氏でしたが、それだけでは足りず、遠江守護の斯波武衛家にも出兵を命じます。

ここで問題が起きました。前エントリで説明したように、当主となった斯波義敏と家宰の甲斐将久が対立し、出兵できない状況に至りました。それに激怒した義政は義敏を更迭し、松王丸(後の義寛)に後を継がせます。

 

それを乗り越えて斯波家から朝倉孝景、甲斐敏光が派遣され、なんとか出兵の目処が立った頃、義政の必殺技「掌返しレベル10」が発動します。義政は堀越公方が独自の軍事的な力を持つことを恐れたのでしょう。政知を叱責し、堀越公方の軍事権を取り上げてしまいます。

この辺の事情は8巻139ページから140ページで説明されています。

 

斯波武衛家がそれではまずい、と考えた義政は、堀越公方足利政知の執事の渋川義鏡の子の義廉に斯波武衛家を継がせることとしました。

堀越公方の執事と斯波武衛家の家督が親子ということで、堀越公方の武力は大幅に整備されました。これは旨い手だ、と誰もが思うところですが、計算通りに世の中はすすみません。

 

渋川義鏡とともに政知を支えるべく関東に下った上杉教朝犬懸上杉禅秀の子)が死去します。病死とも自害とも言われていますが、このころ扇谷上杉氏の家宰の太田道真が隠遁し、子の資長(道灌)に家督を譲っています。義鏡による政治的陰謀の末と言われています。

 

さらに扇谷上杉持朝(相模守護・上杉定正の父)が義鏡に狙われ、大森氏頼(小田原城主)、三浦時高(三崎城主)らが引退に追い込まれ、義鏡による関東掌握が成立するかに見えましたが、ここで義政の必殺技「一貫しないことだけは一貫レベル10」が発動します。義政は持朝支持を表明し、義鏡を失脚させます。

 

義鏡を政知の側から遠ざけた以上は、義廉は無用の長物となりました。また急遽据えられた義廉は、奥州探題の大崎教兼との関係の構築も一から始めなければなりません。結局日野重子の死去の恩赦によって斯波義敏復権し、不利になった義廉は山名宗全を頼って義敏を推す伊勢貞親と対立、文正の政変の一要因となります。

 

その後は応仁の乱になだれ込み、義廉は顔を出さないものの東軍の猛攻を凌ぐシーンが第2巻56ページから58ページに記されています。緒戦で大内政弘が入京して圧倒的優位を築くまでの立役者です。

 

ちなみに義廉は政長の管領罷免を受けて管領についていますが、応仁の乱勃発後も管領を罷免されていません。この辺は2巻57ページのコマの下に「※驚くべきことに、将軍義政のいる東軍と敵対しているにもかかわらず、罷免されていないのだ」とあります。私は、この段階では後花園上皇後土御門天皇足利義政日野勝光が西軍への目配りも行っていたことと関係があると考えています。(拙著『乱世の天皇』)

 

斯波義廉は応仁二年(1468)に足利成氏との和睦に乗り出します。成氏との和睦を手土産に義政を取り込もうと画策しましたが、逆に義政の怒りを買います。義廉は斯波家家督と越前・尾張遠江守護そして管領職を罷免されてしまいます。(石田晴男氏『応仁・文明の乱』)

この辺の事情は第2巻192ページに書かれているとおりです。

 

しかし義廉には伊勢貞親からの朝倉孝景への切り崩し工作が行われ(第2巻91〜93ページ、第4巻130〜131ページ、第6巻118ページ)、孝景は西軍から東軍に寝返ります。さらに甲斐将久の嫡子で甲斐家をついでいた甲斐敏光の切り崩しにも成功し、斯波義廉はその存立基盤を失い、尾張国守護代織田敏広(織田伊勢守家)を頼って尾張国に下国しました。しかしそこも義敏と織田敏定(織田大和守家、清洲織田家)の攻撃を受けて勢力を失い、その後の消息は不明です。

 

ちなみに織田大和守家の一門で重臣だった織田弾正忠家から織田信長が出ています。義廉の子孫は越前朝倉家の庇護下に入り、鞍谷公方家を継承するという説もありますが、疑問視する見解もあります。(『管領斯波家』所収の佐藤圭氏の論文)

 


新九郎、奔る!(2) (ビッグコミックス)

 


新九郎、奔る!(4) (ビッグコミックス)

 


新九郎、奔る!(6) (ビッグコミックス)

 


新九郎、奔る!(8) (ビッグコミックス)

 


応仁・文明の乱 (戦争の日本史 9)

 


乱世の天皇 観応の擾乱から応仁の乱まで

 

 

 

 

斯波義敏ーゆうきまさみ氏『新九郎、奔る!』を解説する

三管領家の中で一番影の薄い斯波家です。この斯波家はもともとは一番家格の高い家柄ですが、色々ありすぎて『新九郎、奔る!』のころには一番影が薄くなっています。

 

それでも『新九郎、奔る!』第1巻では56ページで伊勢貞親に相談する斯波義敏が初登場しています。伊勢貞親の新しい妻は義敏の側室の妹で、貞親は前妻の甲斐将久の妹を離縁して義敏関係者を妻に迎えています。52ページで義敏の側室と貞親の妻が千代丸(新九郎)と出会い、「なんとまありりしいお顔つきではありませんか。」「ほんに頼もしいこと。」と言われ「お菓子をあげましょう。」とお菓子をもらっています。

この貞親の妻の移り変わりは幕府政治と深い関係があります。それについてあとで述べます。

 

もともとは足利泰氏の庶長子の足利家氏に始まります。家氏は母親が北条一門の名越朝時の娘で、北条時氏北条泰時の嫡男、北条経時北条時頼の父)の娘との間に生まれた頼氏が足利家を継ぎ、家氏は足利家家督から外されます。

 

南北朝時代に足利高経が新田義貞を倒すなどの活躍を示し、高経の子の義将(よしゆき)が執事となりますが、この時高経は「執事となることは家の傷だ」を放言しながらも義将の後見として幕府政治を牛耳ります。しかし高経は京極導誉と対立し、失脚、越前国杣山城で病死、義将はほどなく赦免されます。義将のころから「足利」ではなく、陸奥国の所領の斯波(紫波)郡にちなんで「斯波」を名乗るようになります。読みは一般には「しば」で通っておりますが、郡は「しわ」と読むので、厳密には「しわ」と読むのが正しいとみる見方もあります。

 

斯波義将の時に康暦の政変を起こして細川頼之を蹴落として幕政を掌握し、その後は細川・畠山とともに幕政を主導する立場になります。義将はそれまで平家の公達や源頼家が就任していた右衛門督に上り、応永の乱の活躍で尾張遠江の守護も兼ねるようになり、それ以降の代々の官途から「武衛」と呼ばれるようになります。

 

義将のハイライトシーンは、義満死後の後継者に義嗣ではなく義持を選び、さらに朝廷から打診された義満の「鹿苑院太上天皇」号を辞退したことです。これ以降室町殿は隔絶した権威を持つ天皇同等の地位であることではなく、天皇の臣下のトップという立ち位置を選び取ることになります。

 

義将の強大な権力はその子孫にマイナスに働きました。義将死後には細川氏と畠山氏による主導が続き、特に義重が比較的早くに亡くなってまだ若い義淳に家督が移動したことで斯波武衛家は幕政から少しずつフェードアウトしていきます。

 

また斯波武衛家でも重臣の甲斐将久(ゆきひさ)が力を持ち、義淳を凌ぐようになります。将久(常治という法名の方が有名)は斯波家の家宰であり、越前と遠江守護代を兼ねると同時に将軍家とも繋がりを持ち、いわば室町殿による斯波武衛家牽制の手段としても機能していました。

 

義淳については管領職への打診が足利義教からあったときに、将久らが「義淳は管領の器ではありません」と申し入れた事件があり、義淳は精神障害があった、という説もあります。ただ実際には斯波家に所領を給付することを引き換えに義淳の管領が実現したところをみると義淳に何らかの問題があったわけではなく、斯波武衛家の駆け引きだったという見方もあります。

 

義淳のよくない噂については、斯波義敏が残した記録に依拠することが多く、割り引いて読む必要がありそうです(このように書かれた史料の内容を吟味して読み込むことを「史料批判」と言います)。

 

義淳も若くして亡くなり、遺言では弟の持有を指定しましたが、義教は「持有はその器ではない」と拒否し、相国寺の僧侶であった瑞鳳を還俗させ、義郷と名乗らせた上で斯波家の家督につけています。これについては義教が持有の器量を警戒して遠ざけたという見方がありますが、私は反対です。持有は史料を見る限りでは義教のお気に入りです。おそらく義教は持有をお気に入りではあっても斯波家をまとめていくタイプではない、と見ていたのでしょう。実際持有は義郷の死後(落馬による事故死)に斯波家を継承した斯波義健の後見人として軍事的・政治的に活躍しています。しかし持有も早死にし、幼い義健があとを継承します。しかし義健も若くして死去し、斯波武衛家は断絶しました。

 

そこで急遽一門から斯波武衛家を継承したのが斯波義敏です。

 

斯波義敏斯波高経の五男の斯波義種の子孫です。加賀守護でしたが、満種が義持によって加賀守護を没収されてからは越前の中の大野郡(福井県勝山市大野市福井市の一部、岐阜県郡上市の一部)を支配し、斯波武衛家の有力一門となります。義淳の死後には持種が甲斐将久とともに若い当主の後見人となりますが、将久との関係が悪化し、斯波武衛家断絶後には持種の子の義敏が家督を継承しますが、将久との不仲は解消するどころか激化し、斯波武衛家は動揺します。

 

この両者は足利義政による「不知行地還付政策」という、寺社本所領(寺社や公家の荘園)の中で守護らによって支配され、寺社本所(寺や神社や公家)の支配から離れてしまった荘園を元の持ち主に返却するよう命じた義政の政策をめぐって対立するようになります。将久らは義政や伊勢貞親と組んで越前国に強力に介入するようになりました。それに対して反発する越前の国人らは義敏と組んで義政・貞親ラインと対立し、将久と義敏の対立は幕府を巻き込んで拡大の一途をたどります。

 

この両者の対立は、長禄二年(1458)には長禄合戦と呼ばれる内戦に発展、このために義敏は享徳の乱鎮圧のための出兵に応じることができず、義政によって追放されてしまいます。追放された義敏は周防の大内教弘を頼って逃亡し、義敏の子の義寛(当時は松王丸)に家督を継承させられました。

 

斯波武衛家の家督はその後には堀越公方執事の渋川義鏡の子の義廉を養子に迎えることとなりますが、義鏡が上杉氏との対立の結果失脚し、義廉は無用の長物となります。さらに義廉は奥州探題大崎教兼との関係構築がうまくいかず、奥州から北海道にかけて動乱が続く中、義政は義廉に変えて教兼との関係が深かった義敏の復帰を図り、義敏も伊勢貞親を頼って復帰工作を始めます。

 

『新九郎、奔る!』で貞親の妻が将久の娘から義敏関係者にすげ替えられた事情には、義政・貞親が義廉から義敏に斯波家の家督の復帰を考えていたことが背景にあります。この辺は端折られていますが、その事情を踏まえれば『新九郎、奔る!』がより面白く読めるでしょう。

 

千代丸に親切に接してくれる従兄の伊勢貞宗の生母が離縁されたことを知った千代丸は、自分の母の浅茅に土産物を買うために大道寺重昌とともに街に出ますが、そこで京極持清重臣の多賀高忠の配下に追われている「狐」と呼ばれる少年に出会い、そこで義敏の話を聞かされています。

 

狐「伊勢守は新妻の色香に迷って斯波義敏復権の願いを聞き入れてしまい、義敏は義敏でこの伊勢守の新妻をあてにしっぱなし、と。まあ京雀の好きそうなゴシップだがね。」

千代丸「伊勢守様はそんな私情で動くお方では・・・」

狐「口さがない京雀の目にはそう見えてるってことさ。事情はどうあれ斯波家は義敏が復権した。おさまらないのは廃嫡された義廉だよ。京に軍勢を呼び込んで今にも義敏に食らいつかんばかりだ。しかもそいつを、義廉の行動を山名宗全入道が後押ししてるって構図、これくらいはガキのお前さんでも理解るだろ?」

 

もっとも義敏については貞親も「義敏はあのようなふつつか者だから家中をまとめられぬかもしれぬが、その時はその時。」と言っています。義敏では世が乱れることは作中では貞親もわかってはいたようです。

 

史実では近衛政家が義敏復帰と上洛の噂を聞いた時に、戦乱を予期して近衛家伝来の日記(『御堂関白記』など)や文書類を岩倉に避難させています。それほど義敏の存在自体が危機要因であったことが伺えます。

まあ義敏の個人的資質というよりは、甲斐氏や朝倉氏などとの関係がよくないことが原因だったので、義敏は気の毒といえば気の毒です。

また義敏の上洛で危機が煽られた結果、近衛家伝来の日記や文書が応仁の乱の戦火から守られたことも事実で、政家のように危機感を覚えなかった九条家の桃花文庫は焼け落ち、九条家に伝来した記録・文書類は焼失しています。

 

義敏は第3巻45ページに義敏が義廉の勢力を打ち破り、「第二話以来じゃ、ゆかいゆかい」と喜んでいます。そして貞親は「左兵衛佐は頼りにならぬ男だが、今回ばかりはよくやった。これで朝倉弾正(朝倉孝景)に盛った毒の効き目も早まろうというものよ。」と褒めています。

 

第8巻では143ページに今川範満と新九郎の会話の中で遠江国に異様な情熱をたぎらせる今川義忠の動きについて「現状、遠江は斯波家の分国。義廉を追い出せば義敏殿か御子息が戻ってくるだけだとおもうのだが」と語るシーンがありますが、そこで義廉に対して「ほれほれ、とっとと出ていかんかーい」と煽っている義敏と義敏にそっくりな義寛(よしとお)が出ています。

 

次回は義廉についてみていきます。

 

 


新九郎、奔る!(1) (ビッグコミックス)

 


新九郎、奔る!(8) (ビッグコミックス)

 

畠山氏の内紛ーゆうきまさみ氏『新九郎、奔る!』を解説する

ゆうきまさみ氏『新九郎、奔る!』の前半部の大きな山が応仁の乱です。

 

応仁の乱はなぜ起きたのでしょうか。教科書的には将軍家の後継者争い、細川勝元山名宗全の幕政の主導権争い、大名の後継者争いとされます。近年の研究では将軍家の後継者争いはきっかけではないとされ、勝元と宗全も対立関係よりも直前までの同盟関係の方が近年は強調されています。

大名のお家騒動の中でも決定的だったのが畠山政長畠山義就の争いでしょう。この争いの収拾に失敗し、応仁の乱が引き起こされるのは間違いありません。

 

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作中でも義就は「憎き政長めを討ち果たし」といい(第2巻6ページ)、政長(生きてた)は「それがしは義就ずれの首を見るまではとても勝った気にはなりませぬな」(同14ページ)と言っています。

 

彼らはなぜそこまで憎み合うのでしょうか。

 

原因は義就の父の畠山持国に遡ります。

 

畠山氏はもともとは鎌倉幕府創設の功臣の一人である畠山重忠が有名でした。この畠山氏は平姓です。平姓畠山氏の畠山重忠北条時政によって滅ぼされますが、その妻が北条時政の娘であったことから、その妻または娘が足利義純に嫁ぎ、畠山の名跡を継承することになります。ここに源姓畠山氏が始まります。

 

この畠山氏の本家は東北に移り、奥羽管領などを務めますが、南北朝時代に没落し、二本松を領する弱小領主となって、最後は伊達輝宗を巻き込んで伊達政宗に滅ぼされます。

 

庶家が足利義満の時代に台頭し、三管領の一角を占めるようになります。義就と政長の祖父に当たる畠山満家応永の乱で大内義弘を討ち取る武功を立てますが、足利義満に嫌われ、家督を双子の弟の満慶(みつのり)に交替されるという理不尽な扱いを受けます。

 

義満が死去した時、満慶は満家に家督と畠山宗家の領国である越中・河内・紀伊能登守護職を返上しますが、満家は満慶に能登守護職を与え、能登畠山氏(畠山匠作家)が創設されます。一方満家の系統は河内畠山氏(畠山金吾家)といいます。

 

満家は義持・義教の覚え目出たく重用され、またその信頼ゆえに義教に直言や説教をしばしば行っています。

 

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満家は永享五年(1433)に亡くなりますが、その死去を契機に義教の専制が始まるとすら言われています。義教にとって直言・叱責してくれる重要なブレーキ役だったわけです。

 

満家のあとは持国が跡を継ぎましたが、引き続き重用されていました。彼の運命が急転したのは永享十三年(1441)正月のことです。義教に滅ぼされた鎌倉公方足利持氏の子の春王丸と安王丸を擁立して結城氏朝が挙兵しました(結城合戦)。この時持国は義教の出兵要請を拒否、その結果畠山氏の重臣の遊佐国政と斎藤祐定が持国を引き摺り下ろし、持国の異母弟の畠山持永を家督にしました。持国は遊佐国政や持永母を恨みながら河内国に退きました。

 

ところが嘉吉元年(1441)6月、嘉吉の乱で義教が暗殺されたことで風向きが変わります。持国は上洛し、持永は越中に出奔しますが、閏9月には討たれてしまいます。

 

こうして持国が畠山氏の家督に復帰し、さらに嘉吉の徳政一揆禁闕の変を解決して義教派であった細川氏と山名氏を圧倒します。

 

持国の弱みはきちんとした身元の女性との間に子どもがいなかったことでした。そこで持永の同母の弟の畠山弥三郎持富を自分の後継者に指名しました。これによって持永騒動で分裂した畠山家中をまとめようとしたのでしょう。

 

しかしその目論見は持国自身の短慮によって崩壊します。

 

持国には実は子どもがいました。母は桂の「土用」という女性です。彼女は持国の他に小笠原氏や江馬氏との間に子どもをつくっており、家臣団としても彼女の産んだ持国の子どもが本当に持国の子どもであるのか、自信が持てなかったのでしょう。持国の唯一の実子は石清水八幡宮に出され、そこの社僧となる予定でした。

 

しかしその子が十二歳になった文安五年(1448)に持国はその子を召し出し、元服させます。彼が畠山義就です。

 

一方、持国の独断に対して被害者である持富は黙って身を引きました。後花園天皇や定房親王日野重子の信頼を獲得して幕政を取り仕切っている持国に抵抗してもいいことはないことを知っていたのでしょう。持富は異論をさしはさまず、二年後に死去しました。

 

持富の死後、神保氏らの家臣団は義就の家督に異を唱え、持富の遺児の弥三郎(政久という説と義富という説があるため、仮名で呼ばれることが多い)を擁立して挙兵、享徳三年(1454)には細川勝元山名宗全の支援を受けて義就を排斥、政久が畠山の家督となり、持国を隠居に追い込みました。

 

一方義政は義就を支援し、弥三郎を追放して義就を再び迎え入れます。その後持国が死去して義就が畠山氏の家督を継承しました。

 

義就は義政の寵愛を笠にきて大和国への勢力伸張を図り、義政の怒りを買います。そして義政は義就によって追放されていた弥三郎を赦免し、義就に圧力をかけます。弥三郎は赦免直後の長禄三年に死去しますが、弥三郎派の遊佐長直・神保長誠らは弥三郎の弟の政長を擁立し、義就と対決姿勢を強めます。彼らの背後には畠山氏の勢力を削ぎたい細川勝元山名宗全連合がありました。

 

長禄四年(1460)、義就は紀伊国根来寺との合戦に大敗し、義政に見限られ、後花園天皇の治罰綸旨が出されて朝敵となりました。その後は河内国嶽山城大阪府富田林市)に二年間立て籠り、細川・山名・政長を中心とする幕府軍と二年間戦いますが、寛正四年(1463)義就は敗北し、紀伊国に逃亡します。その半年後には義政の母の日野重子が死去したことに伴う大赦で義就は朝敵を赦免されますが、引き続き吉野にこもった状態が続きました。

 

寛正五年(1464)、政長は勝元から管領職を譲られます。政長の妻は京極持清の娘で、勝元の従兄弟に当たります。政長はいわば勝元による畠山氏支配のいい道具だったわけです。

 

一方このころ斯波義敏伊勢貞親と関係を深めて復権してきたことに伴って立場が悪くなっていた斯波義廉は義就の自陣への引き込みと義就・宗全の関係構築に動くと、畠山氏の内紛は一気に政局化します。

というのは、宗全はここまで一貫して細川勝元と歩調を合わせており、義就との連携は勝元・宗全関係の破綻を意味します。

 

文正の政変で伊勢貞親が没落し、その煽りを喰らって斯波義敏・季瓊真蘂・赤松政則が失脚すると、斯波義廉畠山義就陣営に山名宗全が加わり、その支援のもと、義就は河内から上洛してきました。これが文正元年(1466)十二月二十五日のことです。

 

作中第1巻172ページで義就が上洛し、山名邸に入ったことを蜷川親元から聞かされた伊勢貞宗は「ばかな」といい、「細川と山名は、割れるぞ」と危惧しています。

 

文正二年(1467)正月二日、宗全の支持を失った政長は畠山家督を奪われ、五日には管領職も罷免、完全に失脚しました。勝元・政長はそれを不服として正月十五日には御所巻(室町御所を取り囲んで威圧すること、このころには大名らが御所にやってくるだけのことが多い)を計画しますが、その計画を察知した宗全らは勝元・政長より早く室町御所を制圧し、さらに内裏から後花園上皇後土御門天皇を迎え入れることに成功しました。ここに勝元・政長陣営は行き詰まり、政長は明け渡しを命じられた邸を焼き払い、上御霊社に立てこもります。

 

作中では新九郎の兄の伊勢八郎貞興が「尾張守(政長)は死ぬ気だな」と言っています。上御霊社の祭神が「伊予親王早良親王井上内親王他戸親王」など、「政争に敗れて濡衣を着せられて憤死した方々だ。多分尾張守はそれらの御柱に己をなぞらえているんだ」と貞興による解説が続きます。

 

政長は「何年も大過なくなく勤めてきた管領職をさしたる落ち度もないのに罷免され、家督まで奪われ、それが昨日まで咎人だった右衛門佐(義就)に与えられたとあっては、尾張守ならずとも頭にはくるだろう」と貞興に同情されています。

 

こうして畠山氏の内紛は細川・山名連合を引き裂き、応仁の乱に続いていくのです。


新九郎、奔る!(1) (ビッグコミックス)

 


乱世の天皇 観応の擾乱から応仁の乱まで

 


応仁の乱 戦国時代を生んだ大乱 (中公新書)

 


室町幕府全将軍・管領列伝 (星海社新書)

 

畠山政長と畠山義就ーゆうきまさみ氏『新九郎、奔る!』を解説する

『新九郎、奔る!』における大きなイベントが応仁の乱です。応仁の乱が起きた大きな原因の一つが畠山氏の内紛です。

 

『新九郎、奔る!』でも畠山の争いが描かれています。

 

畠山義就(よしひろ)の初登場シーンは第1巻172ページで、「(文正の政変の)六年前に将軍 義政の勘気を被り、畠山家の家督を失って以来、河内や大和を転々としていた畠山義就が、義政の許可を得ぬまま上洛してきたのだった。」という説明とともに馬上で顔を見せず(笑みだけが見える)現れています。「義就の目的はただひとつ、長年 家督争いを続けてきた仇敵、従弟である現管領畠山政長を、その座からひきずりおろすことである。」と続いています。

 

畠山政長の登場シーンは179ページです。「かかって来い、右衛門佐、そのクビ、食いちぎってくれるわ。」とこっちは憤怒の形相で現れています。

 

新九郎は応仁の乱では東軍にいたので、新九郎と関係が深いのは政長の方です。第2巻98ページでは伊勢貞宗と政長と新九郎が酒を飲みながら話をしているシーンがあります。

室町御所の隣の相国寺が西軍によって制圧され、室町御所も半焼した相国寺の合戦の直後のシーンです。相国寺を取り戻さなければ東軍の生命線が危うい状況で、圧倒的な兵数の不利を押して政長が突入の決意を述べるところです。

 

貞宗右京大夫殿(細川勝元)も苦しいところだ。一刻でも早く、相国寺の陣を取り戻したいところだろうが兵の数が」

政長「だから明日俺が行くのだ」

貞宗「兵が足りまい!」

政長「徒に日を過ごしては、敵が相国寺全体を固めてしまうぞ。こちらの兵が足りぬは相手も知っておろう。ならばそこに油断が生じる。ましてや一度勢いを停めた軍勢、この俺が打ち破れぬと思うか七郎(貞宗)!?」

立ち上がり貞宗と新九郎を振り返りながら「今宵は久方ぶりに語らえて楽しかったぞ。勝って戻るからその時にあらためて酌み交わそう!」と去っていきます。

 

政長といえば応仁の乱の導火線となった上御霊の戦いで敗北していることから、基本的にしょぼい役柄となっています。

呉座勇一氏の『応仁の乱』でも「これまでの戦績を考慮すると、おそらく畠山義就は単独でも政長に勝利できた」と評されています。多分それはそうでしょう。

これは義就が非常に戦上手だったからであり、政長がしょぼいわけではないと思うのですが、その意味では『新九郎、奔る!』における政長の描写は「歴史漫画史上最もかっこいい政長」という気がします。

 

政長は第8巻75ページに再登場しています。金策に鎧を売れと迫る新九郎に「どうしてこんなせせこましい男に育ってしまったのか!」と騒ぐ父伊勢盛定、それを呆れた顔で見ている弥二郎(新九郎の弟)。そこに貞宗が入ってきて「珍しい客が来ております故」と酒の席に誘います。

 

二人が伊勢守邸に行くとそこに「珍しい客」の畠山政長が「おお、久しいな、新九郎殿。立派になられた!」と声をかけるシーンです。

 

実はそこで管領職の形骸化を示す会話がなされています。

 

貞宗尾張守殿(政長)は今度 再度の管領職に就かれる。」

新九郎「それは!まことにお目出度うございます!」

政長「数日間の間だがな。」

新九郎「なんですか、それは?」

政長「御所様(義政)が将軍位を春王様(義尚)にお譲りになる。その式典で幕府の体裁を整えるための臨時の職だよ。」

新九郎「ええっ!」(太字)

 

新九郎が驚いたのは幕府の形骸化ではなく新九郎が十二歳で元服した時にその幼さを皮肉った義政が九歳の春王に将軍を譲ることにびっくりしています。貞宗から「そんなことよく憶えているなぁ」と呆れられています。

 

 

104ページでは政長は貞宗を酒を酌み交わしながら管領なき幕府について解説しています。

 

貞宗「お主が管領を続ければよかったではないか。」

政長「俺はほら。右衛門佐(義就)をどうにかせにゃならんからな。」

貞宗「新御所様(義尚)については御台所様(日野富子)が手取り足取りなされるそうだ。俺も及ばずながら力を尽くしてお支えするつもりだが」

政長「貞親殿と違ってお主は控え目だな。新御所様の「御父様」として腕を振るう気はないのか?」

貞宗「ないことはないがな、父の轍は踏みたくないのだ」

政長「などと言いながら、従弟の新九郎殿を駿河に派遣して今川の出方を探っておるのだろう?することが手広いわ。」

 

このように新九郎陣営と和気藹々の政長ですが、最後は明応の政変貞宗に梯子を外され、自害に追い込まれます。いわば貞宗は友人を切ったことになるわけです(実際に政長と貞宗が個人的に仲良かったかどうかは不明)。

貞宗は蜷川親元に「だいぶ悪くなって参られた」とつぶやかれ(第5巻162ページ)、須磨(貞宗の叔母、盛定の正室)には「貞宗殿は頼りにもなるが、少しお気をつけなさい。あれはとんでもない狐やもしれぬ。」と言われています(第5巻172ページ)。須磨のアドバイスを受けた新九郎は「どういう意味だ?」と首を傾げていますが、このアドバイスは政長こそ聞くべきものだったのでしょう。

 

畠山義就は西軍ということもあって、新九郎との関わりは少ない状態です。猛将であったことは事実のようで、作中でも勝元が「右衛門佐(義就)のような猛犬に襲いかかられてはたまらぬからな」と言っています。

 

数少ない新九郎との関わりは、新九郎が西軍方の政所執事である伊勢貞藤(新九郎の叔父で新九郎の実母の浅茅の再婚相手)のもとに新九郎がこっそりやってきて山名宗全と碁を打つシーンです。

そこに義就と大内政弘という「西軍最強のコンビにして乱の急先鋒!」と貞藤による解説が入っています。じっと動かず、表情すら変えない政弘に対して宗全や新九郎の発言一つ一つに笑ったり怒鳴りつけたり忙しく気持ちが動いています。かなりの激情型の人物のようです。

宗全と新九郎の碁が佳境に入ってきたころ、義就は政弘を誘い出し、「あれ(新九郎)を帰せば、入道殿(宗全)の様子(病気で半身不随)があちらに細かに伝わるぞ」と持ちかけ、政弘は「では小僧を斬るか」と応じて、翌日新九郎らは襲撃されますが、貞藤につけてもらった多米権兵衛元成に救われます。

 

山名宗全の死後、宗全の孫の山名政豊と勝元の嫡男(で宗全の内孫)の聡明九郎(政元)の間で和睦が成立後、義就は「俺たちは俺たちの戦をやるだけだ!なあ兄弟!」とますます戦意旺盛、政弘も「ああ」と応じています。

 

次回のエントリでは、応仁の乱の導火線となり、ひいては戦国時代の引き金ともなった畠山家の内紛はなぜ起きたのかを説明したいと思います。

 


新九郎、奔る!(1) (ビッグコミックス)

 


新九郎、奔る!(7) (ビッグコミックス)

 


応仁の乱 戦国時代を生んだ大乱 (中公新書)

 


乱世の天皇 観応の擾乱から応仁の乱まで

 

細川勝元と山名宗全ーゆうきまさみ氏『新九郎、奔る!』を解説する

足利義政が政治に不熱心、というのは後世の記述で、当時の記録を追っていく限り義政という人物は極めて権力欲の旺盛な人物ではあります。義政は季瓊真蘂や伊勢貞親を側近として将軍親裁政治を推し進め、それに対抗する細川勝元山名宗全連合と厳しく対立して文正の政変を引き起こします。

 

 

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少し『新九郎、奔る!』から外れますが、細川勝元山名宗全の関係について見ていきます。

 

応仁の乱の東軍と西軍の総帥同士という関係から、この両者は対立図式で見られがちですが、実際には20年以上にわたる強固な同盟関係を結んでいたのが実情です。

 

その辺の詳細は『新九郎、奔る!』第1巻でも描かれています。新九郎が細川勝元邸に出入りしているときに山名宗全と出会うシーンがありますが、そこでは新九郎は山名宗全の養女(山名一門の山名熙貴の娘、この経緯は第7巻130ページで語られています)で勝元の正室亜々子の話し相手となっている設定です。この過程で両者の関係が語られ,第7巻では宗全が勝元との関係を回想するシーンがあります。

 

宗全「亜々子か。あれは可哀想な娘でな。石見国守護家に生まれながら、実父の顔を知らぬ。三十年前か。普広院様(足利義教)が赤松満祐に弑殺された時、あれの父・山名熙貴もその場で斬り殺されてな。亜々子は産まれたばかりであったよ。儂は命からがら赤松邸から脱出したのだが、一門であり、まだ若かった熙貴を見捨てたような思いが去らんでな。熙貴の子らを盛り立ててやろうと胸に誓ったのよ。亜々子は三国一の婿に嫁がせてやりとうて我が宗家の娘としたのだ。そして幸いなことに、赤松邸から無傷で脱出した者ん鎌、管領細川持之殿には恐ろしく頭の切れる倅がいたというわけよ。」

 

細川持之については下記エントリで触れています。

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このようにして細川家と山名家の連携は成立しましたが、その背景には畠山持国の勢力の急速な拡大がありました。

 

足利義教守護大名家督争いに介入して散々恨みを買って最後は赤松満祐に殺害されるのですが、山名家も義教の介入を受けています。

山名宗全の父の時熙には宗全(持豊)と持煕の二人の子息がいました。義教は持煕がお気に入りだったのですが、時熙は持豊を推していました。しかし持煕が義教の勘気に触れて失脚し、持豊にお鉢が回ってきた、という事情があります。

細川持之は細川一門の統制がしっかりと取れていたこともあって義教の介入を受けることはありませんでした。

 

問題は畠山持国です。畠山満家の死後に持国と弟の持永との間で家督争いが起き、義教は持国を追放して持永を登用します。

 

嘉吉の乱で義教が殺された後に持国は政界復帰し、持之の死後には管領となって幕府政治を主導します。この時期には室町殿足利義勝が幼少だったため、幕府政治は持国が担当することになりましたが、それを後花園天皇日野重子がバックアップする体制となっていました。

 

その辺の体制については拙著『乱世の天皇』や『戦乱と政変の室町時代』第八章「禁闕の変」で述べています。

 

この持国主導の幕府政治に対抗するために落ち目となった細川家と山名家が連合したわけです。

 

禁闕の変では細川・山名が後花園天皇襲撃に参加している、という噂が流れたり(私見ではクロ)、持国も細川・山名体制を敵に回さないために禁闕の変後には赤松満政を犠牲にして細川・山名を懐柔したりしています。

 

しかし文正の政変のエントリでも述べたように、勝元と宗全の間には少し立場の違いが見え始めています。

 

この辺は第1巻110ページで勝元が「我が舅殿(宗全)は大名衆に担がれているうちにそんなことも判断できぬほどの馬鹿になられたか。馬鹿に政を託すわけには行かぬ故、ここは兵庫助殿(伊勢貞宗)に助け舟を出さねばなるまい」と言っています。この「助け舟」の結果、千代丸(新九郎)は細川家に出入りし、勝元の子をみごもっていた亜々子の話し相手とされる、という設定です。

この時亜々子のお腹の中にいた細川政元に新九郎は散々引っ掻き回されることになりますが、それはまたの機会に。

 

文正の政変後には関東管領の職が越後上杉氏から養子に来た上杉顕定に決まり、後花園上皇院宣が下され、また前々年に践祚していた後土御門天皇の大嘗会が執り行われています。

 

そのような「御目出度ムード」の中、畠山義就の上洛が戦乱を引き起こします。

 

畠山義就畠山政長の対立が応仁の乱の大きな要因となったことは間違いありません。それまで政長支持で一本化してきた細川・山名連合でしたが、宗全が義就支持に回ったことで両者の連合は崩壊します。

 

宗全は室町殿・室町殿後継者と上皇天皇を確保すると管領職であった政長を罷免し、畠山の家督も義就に切り替えます。一色触発の両者ですが、義政はこの両者の私戦であり双方への援助を禁止します。要するに「幕府はこの争いに関与しない」という宣言です。義政は両者の争いが本格的な戦乱になるのを回避しようとしたのでしょう。

 

勝元は正直に義政の指示に従い、政長への手出しを控えますが、宗全はそれを無視して義就に加勢し、政長・勝元を追い落としました。

 

私見ではこの時宗全は後花園上皇院宣を下され、政長を朝敵として攻撃したものと考えています。そしてこの時後花園上皇が決断した院宣による畠山の争いの決着は失敗し、いわば応仁の乱のトリガーを弾いてしまった、と考えています。私見では応仁の乱の最大の戦争責任は後花園上皇にあると考えます。この辺は拙著『乱世の天皇』で述べています。

 

作中では205ページで宗全の義就支持の理由が述べられています。

千代丸(新九郎)「舅殿(宗全)がなぜ婿(勝元)を陥れるようなことをなさいますか!?」

勝元「おおかた舅殿も、あのお歳になって、天下の権という物を握ってみたくなったのであろうよ。男としてそれはわかる。だがこちらの面目をつぶしたことだけは」

 

宗全が細川・山名連合を崩壊させたのは、作中に書かれている通りだと思われます。

 


新九郎、奔る!(1) (ビッグコミックス)

 


新九郎、奔る!(7) (ビッグコミックス)

 


乱世の天皇 観応の擾乱から応仁の乱まで

 


戦乱と政変の室町時代

 

 


新九郎、奔る! 1 (ビッグ コミックス) [ ゆうき まさみ ]

 


新九郎、奔る!(7) (ビッグ コミックス) [ ゆうき まさみ ]

 


乱世の天皇 観応の擾乱から応仁の乱まで [ 秦野 裕介 ]

 


戦乱と政変の室町時代 [ 渡邊 大門 ]

 

文正の政変ーゆうきまさみ氏『新九郎、奔る!』を解説する

ゆうきまさみ氏の『新九郎、奔る!』の最初は三十八歳の新九郎が堀越公方の御所を襲撃するシーンから始まりますが、そこから十一歳の千代丸に戻ります。そしてその千代丸が伊勢宗家に同居する実父の伊勢備前守盛定の邸に引き取られてすぐに起きたのが文正の政変です。

 

『新九郎、奔る!』では伊勢家から見た文正の政変が描かれています。

 

伊勢貞親足利義政の養育先であった縁で、貞親の嫡男の伊勢兵庫助貞宗(新九郎の従兄)が義政の長子の義尚(作中では春王)の養育先となっています。

 

ただ義政には後継者に足利義視がおり、伊勢家としては義視が将軍となった場合、旨味がありませんので、義視を排斥して義尚を後継者につけようと画策します。

 

とここまで書いてきて気づく方もいらっしゃるかもしれません。義視を排斥して義尚に跡を継がせようとしたのは日野富子ではないのか、と。これについては現状の有力な説では明応の政変後に作られた『応仁記』の捏造で、日野富子はこの問題に関しては「冤罪」である、とされています。

 

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実際義視に将軍になられて困るのは伊勢貞親です。この辺は『新九郎、奔る!』第1巻37〜38ページで盛定が「盛定スクリーン」を使って説明しています。盛定は義視が将軍後継の座を返さないことを問題視し、それに対し貞宗が「もし後から男子が生まれても将軍位は今出川殿(義視)に譲る」という約束があることを指摘するなかで「この約束には春王君の御生母ー御台所の富子様も異を唱えておりません」と発言しています。この辺は富子研究の新しい動向を踏まえています。

 

貞親は義視に謀反の疑いありと義政に讒言し、その結果を受けて貞親は「今宵のうちに今出川殿を囲み、明朝、御所(義政)の命が届き次第、御切腹いただけるよう準備をいたせ!」と動き出します。この時居合せた千代丸の頭をポンと撫でて優しい顔で「今宵は寝んでおれ」と言います。しかし翌朝には大名(たいめい)たちに囲まれており、貞親は失脚しました。その夜に貞親は近江国に逐電し、文正の政変は終わります。

 

伊勢家から見れば、義視の排斥に失敗して貞親と盛定が失脚した、という顛末ですが、これに関連して色々な人物がとばっちりを食っています。

 

そもそもこの文正の政変のもう一つの本質は、足利義政による専制政治があり、義政による将軍親裁政治を支えてきたのが伊勢貞親と季瓊真蘂でした。

 

季瓊真蘂は赤松氏の一門の出身で、相国寺鹿苑院の蔭涼軒のトップである蔭涼職を務めていました。幕府の宗教政策や外交(外交文書を執筆)、財政などに大きな影響力を持つ蔭涼軒のトップに足利義教の引き立てで就任した季瓊真蘂は、嘉吉の乱で義教の首を赤松満祐から受け取る役割を果たしています。その後は一時引退していましたが、義政の引き立てで政務に復帰し、貞親と共に義政を支える柱石となっています。

 

義政の親裁は細川勝元山名宗全連合と衝突しながら守護大名家への家督介入を繰り返し、武衛騒動(三管領の筆頭の斯波武衛家のお家騒動、斯波義敏斯波義廉の争い)を引き起こします。

 

話がややこしくなったのは、義政が幕府に反抗していた斯波義敏畠山義就大内政弘の三人を赦免し、細川・山名連合への対抗馬としようとしたことがきっかけです。

 

義敏復帰の中で立場を失った斯波義廉山名宗全と結びつくことを図り、また大内政弘畠山義就山名宗全と距離を縮めていきます。その背景には義政への不満があったのではないか、と見られています。

 

またこのころから磐石だった宗全と勝元の関係も少し離れていきます。

 

呉座勇一氏の『応仁の乱』によると、義視への早期の家督継承を望む山名宗全と、義視への家督継承に反対する貞親ら義政側近グループの対立と、義視への家督継承を望みながらも早期には求めない中間派の細川勝元という図式になっていたようです。

 

そのような中、貞親ら義政側近グループが仕掛けた政変が文正の政変です。

 

結果は義政側近グループの壊滅となり、義政は政治的に無力となります。このまま宗全と勝元の連携が続けば、義政はほどなく義視に将軍を譲り、勝元・宗全連合による幕政が続いたことでしょう。

 


応仁の乱 - 戦国時代を生んだ大乱 (中公新書)

 


新九郎、奔る!(1) (ビッグコミックス)

 

 


応仁の乱 戦国時代を生んだ大乱 (中公新書) [ 呉座勇一 ]

 


新九郎、奔る! 1 (ビッグ コミックス) [ ゆうき まさみ ]

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

長禄・寛正の飢饉ーゆうきまさみ氏『新九郎、奔る!』を解説する

トンガの海底火山であるフンガトンガ・フンガハアパイ火山のVIE(火山爆発指数)は6と言われています。これは「並外れて巨大」「100年に一度」という状況で、近年ではフィリッピンのピナトゥボ火山(1991年)が同等の噴火規模と言われています。この噴火の結果、日本では1993年の冷夏と米不足を招きました。

 

同等のVIEを持つ海底火山の噴火として知られているのが1452年から1453年にかけて噴火したバヌアツ共和国の海底火山のクワエです。この噴火がめぐりめぐって日本では「長禄・寛正の飢饉」を引き起こした、と言われています。

 

長禄・寛正の飢饉、特にひどかったのが寛正二年(一四六一)なので私は「寛正の飢饉」と呼んでいます。

 

この年、京都では8万超えの餓死者が出て、後花園天皇足利義政漢詩を贈って義政を諌めた、という逸話があります。

 

ゆうきまさみ氏『新九郎、奔る!』では第1巻と第7巻で出てきます。

第1巻では17ページ〜18ページに新九郎の育ての親の大道寺右馬之介が「先の寛正の大飢饉の折も、伊勢守様は寝る間も惜しんで対策に当たられた。」といい、それに対して新九郎(当時は幼名の千代丸)が「民は京で八万人も餓死したと聞いたぞ。」と言いますが、右馬之介は「それほど手の施しようがなかったのです。無論、飢えた民は我らを恨みもしましょうが、上の者がいかほど手を尽くそうが。下賤の者どもは恨言を並べるものです。」と返し、新九郎は納得できない顔で黙り込みます。

後の北条早雲の撫民説話の伏線にもなっている話です。

 

次に出てくるのが第7巻の73ページから。

疫病の流行で手をこまねいて有効な手立てをうてない義政の政治責任を問う御台所日野富子と義政の関係は少しずつ悪くなっていきます。

 

富子「御所様は、寛正の飢饉の際も手を拱いてばかりで、先帝(後花園天皇)からお叱りを受けたではありませぬか。」

義政「お叱りを受けたわけではない。漢詩を送られたのだ。」

富子「またそのような毛づくろいを。恥入ったのではなかったのですか。」

 

寛正の飢饉の際の後花園天皇漢詩については拙著『乱世の天皇』でも取り上げています。飢饉に際して無為無策の為政者に対して漢詩を贈り、心を入れ替えさせる英邁な天皇という立場は後花園天皇の生涯の一つのクライマックスと言えるでしょう。

 

 

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実際にはクワエの噴火によるエアロゾルが寛正の飢饉の直接的な結果であったか、というのはなかなか難しいかもしれません。間接的な影響は否定できないでしょうが、この寛正の飢饉の直接的なきっかけは畠山氏の内紛です。

 

畠山持国の後継をめぐって畠山義就畠山政長が対立し、畠山氏の領国である河内国が戦場となって生活に困った人々が京都に押し寄せて飢饉が引き起こされたものと考えられています。そしてその時死んだのは、京都の住民ではなく、河内国をはじめとした畿内から京都に入ってきた人々である、と考えられています。

 

寛正の飢饉の直接の引き金を引いたのは畠山氏の内紛であり、さらには畠山氏の内紛をきちんと抑えることもできなかった足利義政の失政に原因があるでしょうが、さらにその底流には海底火山噴火の影響がなかったとは言えないでしょう。

その気候変動が引き起こしたかもしれない事件として、コシャマイン戦争などもあるかと思います。この辺はまだまだ研究の余地が大きいと思います。

 

今回クワエのあるバヌアツから2000km離れたトンガで起きた噴火は、長期的には世界の気候変動に関係してくるかもしれません。

 


新九郎、奔る!(1) (ビッグコミックス)

 


新九郎、奔る!(7) (ビッグコミックス)

 


乱世の天皇 観応の擾乱から応仁の乱まで

 

 


新九郎、奔る! 1 (ビッグ コミックス) [ ゆうき まさみ ]

 


新九郎、奔る!(7) (ビッグ コミックス) [ ゆうき まさみ ]

 


乱世の天皇 観応の擾乱から応仁の乱まで [ 秦野 裕介 ]