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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

龍王、のちの今川氏親ーゆうきまさみ氏『新九郎、奔る!』を解説する

『新九郎、奔る!』第10集から龍王についてです。

 


新九郎、奔る!(10) (ビッグコミックス)

 

 

この第10集は今川義忠戦死後の家督争いがとりあえず終結し、義忠従兄弟の今川新五郎範満が家督を相続、駿府の館に入ったところから始まります。

 

小川の長谷川次郎左衛門政宣館に身を寄せた伊都(義忠正室、新九郎の姉の北川殿)と龍王(義忠嫡男)の命が狙われ、新九郎は伊都と龍王を京都に連れて行くことになります。

 

この話、全くのフィクションとは言えません。

 

1487年に義忠娘(作中では亀)と正親町三条実望の婚姻が行われています。駿河からわざわざ上洛してくるとも考えづらいためにそもそも義忠娘、そしてその母や弟(つまり伊都や龍王)は当時京都在住だった、と黒田基樹氏は推定しています。作中ではこの説をもとに話を構成しています。

 

そしてその年、新九郎らは範満打倒の兵を挙げるのです。

 

ここでは上洛した龍王の様子がその後の伏線となっている可能性を見ておきたいと思います。

 

龍王が上洛し、祖父にあたる伊勢盛定(伊都や新九郎の父)に面会するシーンです(60ページ)。

 

そこで龍王は「ぐらあぐらあ」と揺れています。何かあまり身体が頑健そうにも見えません。健康そうな描写の亀との違いが際立ちます。さらに亀はつねに龍王をさりげなくサポートしています。

 

史実では今川氏親は19歳に至るまで「龍王丸」の名前を使い続けています。色々と説はあるものの、元服が何らかの事情で遅れたことは事実のようです。さらに23歳まで花押を使っていません。国内事情か、足利政知との関係かわかりませんが、氏親本人の状態の可能性もないではありません。

 

彼は54歳で死去しますが、晩年は寝たきりとなっていたようで、妻が国務を代行していました。妻は寿桂尼です。そして氏親の死の3年後、母親の北川殿(伊都)も亡くなります。年齢的には十分生きていますし、検地や分国法を制定し、遠江を斯波氏から奪還し、三河国まで力を伸ばすなど、今川家の戦国大名化を強力に推し進めた人物ですが、どこか虚弱というイメージも拭えません。

 

また彼は母と妻が京都出身ということもあって京都文化に通じており、今川義元に代表される京都びいきの戦国大名の基礎を作り上げた人物でもあります。

 

戦国ixaでの今川氏親です。

 

今川氏親(Copyright © 2010-2022 SQUARE ENIX CO., LTD. All Rights Reserved.)

分国法である『今川仮名目録』は氏親死去の直前なので実際には寿桂尼や北川殿が関係したのではないかと考えられます。

 

寿桂尼です。

寿桂尼(Copyright © 2010-2022 SQUARE ENIX CO., LTD. All Rights Reserved.)

今川家関係の女性は長生きで、彼女も息子の義元の死を見届けています。

『新九郎、奔る!』第10集出版!ーゆうきまさみ氏『新九郎、奔る!』を解説する

『新九郎、奔る!』第10集が出版されました。

 


新九郎、奔る!(10) (ビッグコミックス)

 


新九郎、奔る!(10) (ビッグ コミックス) [ ゆうき まさみ ]

 

今川義忠戦死後の今川家の内紛の収束、そしてそれに伴う伊都(義忠後室、新九郎姉、北川殿)と龍王(のちの今川氏親)の上洛、長尾景春の乱、応仁の乱の収束、新九郎の足利義尚御供衆の就任と話が動いていきます。

 

このうち私の目を引いたのは伊都らの上洛です。これは黒田基樹氏(本書の「協力」として名前が上がっています)の説です。龍王の姉(作中では亀)が正親町三条実望に嫁いだことから、彼女らが駿河にいたとは考えられない、という所説です。

 

そのきっかけとして今川範満サイド(範満本人は知らない、福島修理亮があやしい雰囲気を出している)による伊都・龍王暗殺未遂が描かれています。これは本書におけるフィクション部分ですが、話としてうまく繋がっていっていると思います。

 

一方、関東では山内上杉氏家宰の長尾景信死後の家宰の地位は、嫡男の長尾孫四郎景春ではなく景春の叔父の長尾忠景が継承することとなり、それに不満を募らせた景春が最終的に挙兵する長尾景春の乱が描かれています。

 

長尾景春の乱は新九郎にとって大きな意味を持ちます。だからこそここまで景春の鬱屈やそれを導いた上杉顕定、そして新九郎とも因縁の関係となる太田道灌が活躍しているわけです。

 

そして応仁の乱の終焉。伊勢貞宗大内政弘を抱き込んで西軍の切り崩しを進め、ついに足利義視と政弘が日野富子献金する形で足利義政への取りなしを頼み、畠山義就は京都から撤退、河内国に攻め込み、政弘は帰国、義視は美濃国に没落していきます。

 

鴨川を渡る時に義視が「停めてくれ」「最後にもう一度だけ都を見ておきたい」と輿を停めたところに新九郎が「今出川様!!」「この川を渡る時に思い出すことがござりませぬか!?」「あなたは・・・人の上に立つべき人ではなかった!」と呼び掛けます。新九郎の兄八郎貞興はかつて義視に仕え、義視をかばって非業の死を遂げています。新九郎としてはその後西軍に投じた義視を許せず、「あの人には言いたいことがある」と言い続けて大道寺太郎や伊勢貞宗を呆れさせています。

詳しくはこの記事をご参照ください。

 

sengokukomonjo.hatenablog.com

 

 

しかし彼はのちに義視の子の義材(義尹・義稙)に仕えています。その時の新九郎と義視の絡みが今から楽しみです。

 

扇谷上杉定正も「五郎」から相模守護、修理大夫と出世していますが、どことなく実直そうな様子は相変わらず、道灌を頼りにし、道灌の暴走をフォローする役回りを演じています。この定正と道灌の関係の破綻が龍王と新九郎、そして今川範満の運命を大きく変えるだけに、定正と道灌の関係が今後どのように描かれるのかも楽しみです。

 

そして最後に義尚の御供衆となって細川聡明丸邸への義尚の御成に従う新九郎、彼のキャリアのスタートで、その後彼は幕臣として40歳前後まで活動します。彼の64年の人生のうち、その2/3は申次衆や奉公衆という幕臣としてキャリアを積み重ねてきたのです。

そしてこの細川聡明丸、のちの政元は新九郎にとっては頭痛の種となります。政元が殺害される永正の錯乱まで新九郎は政元に苦しめられ、政元の死によって新九郎の関東での動きは活発化していきます。

 

こうした史実を念頭に置いて聡明丸が新九郎に語った「我の機嫌を取れ。後々いい目を見させてやるぞ」という言葉はなかなか重い伏線となっています。

 

しばらく第10集におけるさまざまなシーンについて、解説をしていきたいと思います。

 

 

足利義視ーゆうきまさみ氏『新九郎、奔る!』を解説する

足利義視といえば将軍にならなかった足利氏の中でも有名な方です。中学受験でも出てくる可能性はありますし、高校受験でも出てくる可能性はあります。応仁の乱を扱う際に「将軍家の後継争い」で試験に出なくても、名前くらいは出てくる可能性は大いにあります。

 

義視は六代将軍足利義教の十男として永享十一年(1439)に生誕しています。母親は義教の正室正親町三条尹子の女房の小宰相局です。

 

義教は兄義持が後継者を残さずに死没してその後の室町幕府に混乱をもたらしたことの教訓か、数多くの女性との間に数多くの子どもを残しています。妻妾は少なくとも十一人、子どもは現在確認されているだけで十七人います。ただみな短命で、応仁の乱の当時には四男の足利政知天竜寺香厳院主清久)、五男の足利義政、十一男の義視(浄土寺義尋)の三人のみが生存していました。

 

義視は正親町三条尹子の兄の正親町三条実雅の養君となり、出家することとなりました。足利将軍家の子は嫡男は伊勢氏に養育されますが、それ以外は公家を「御父」として公家と関わる高僧として生きることとなります。義政も幼い頃は烏丸資任に養われていました。

 

義視の初登場は第2集46ページ、元服した新九郎が足利義政への御目見えを終えて引き上げるときに義視と出会います。そして義視は新九郎に「お主の兄、八郎はたしかに余によく仕えておる。だが、余を陥れようと謀った貞親とお主の父、盛定は赦せぬぞ!」「余の瞳が黒いうちは両名の赦免はないと思え!」と言い捨てて去ります。ものすごい顔つきで耐えている新九郎を八郎が「チョン」と足で突き、悪戯っぽい顔で「後で」と囁いています。

でその夜には八郎は新九郎に「俺もことあるごとに言われているよ」といい、義視の気性の激しさ、面差しが義教そっくりであることなどいろいろ語っています。

 

実際には義視の顔は伝わっていないので、彼が義教に似ていたかどうかはさだかではありません。

 

本作で義視に八郎が仕えているのにはいろいろややこしい事情がありました。

文正の政変で伊勢貞親伊勢盛定足利義視の排斥を狙って失脚、貞親の子の貞宗政所執事を継承しますが、伊勢氏排斥の声が高まる中、貞宗細川京兆家と関係を結んで伊勢氏にとっての難局を乗り切ろうとします。そのために元服していない千代丸に連絡役(と場合によっては夜の相手)をさせるため(勝元が「寝所に呼ぶかもしれませぬぞ」といい千代丸が「お眼鏡にかないますれば」と返事しています。1集116ページ)、細川家に通わせ、八郎を義視のそばに送り込みます。八郎は当初は抵抗しますが、その後はうまく義視のそばでの仕事をこなしていきます。

 

史実では義視のそばに八郎貞興がいたかどうかは明らかではありません。そもそも八郎貞興という兄が伊勢宗瑞(北条早雲)にいたらしいことまでしかわかりません。もう一つは他ならぬ伊勢宗瑞(北条早雲)が若き頃に義視に仕えていた、という説も存在しており、本作ではその辺を考慮して貞興を義視に仕えさせたということのようです。

 

義視はその後西軍の大内政弘上洛を受けて伊勢国に逃亡し、そのときに八郎も同行します。その途中の近江国田上荘で落武者狩りに遭い、八郎は顔面に大きな傷を受けますが、それを契機に義視のお気に入りとなり、京都に帰還後にはすっかり義視に心酔しています。「あの御方が将軍位にお就きになれば、魑魅魍魎の棲み家も随分と変わるであろう。俺はそれを支えるのだ」と言っています。

 

義視は西軍との講和を望む日野勝光の排斥を義政に直訴し、後見役の勝元は「まずいな」とこぼし、同朋衆から「ますいですね」「まだ登場もしていないキャラの名前だけいきなり出てくるってのは」とヒソヒソさら「いや、そーゆーことじゃなくて」と勝元は突っ込んでいます。実際勝光は応仁の乱勃発当初に牙旗を出すことに反対し、近衛政家からボロクソに書かれています。ただ『応仁記』などを見ると後花園上皇も意外と西軍との講和を望んでいたようで、朝廷の立場は拙著『乱世の天皇』でも述べています。勝光は西軍に親和的な立場をとったことで佞臣というイメージがついていますが、彼は彼なりに筋を通しただけで、この問題で責められるべきは後花園上皇だったでしょう。私見では相国寺の戦いを契機に後花園は西軍への親和的な態度を一変し、西軍治罰院宣を出しています。

 

勝光の処遇をめぐって隙間風が吹き始めた義政と義視ですが、第3集39ページでは「兄上が浄土寺にお見えになって四年・・・わずか四年だ!」「何故だ・・・何故こんなことになった?」と煩悶する義視の姿が描かれています。

 

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武家百人一首に描かれた足利義視

 

この絵と同じポーズで塞ぎ込んでいる義視の姿は気の毒に映ります。

 

その夜、八郎と新九郎、そして伊都は三人で酒を飲みながら義視について語っています。そこで新九郎が八郎に「生真面目で真っ直ぐで慈悲深いだけではダメなのです、きっと」と釘を刺しています。

 

義政に呼び出された義視は「御赦しが出れば、これまで以上に尽くさねば」と八郎を後ろに従えてつぶやいています。しかし義視を出迎えたのはまさかの伊勢貞親伊勢盛定で、義視はそれに大きなショックを受けています。そして義視の側近の八郎は貞親と盛定についてきた新九郎に「これでは今出川様(義視)への嫌がらせではないか!」と憤っています。

ショックで帰る義視の後ろ姿を鋭い目つきで睨みつける盛定が「有馬入道か・・・どうも今出川様の取り巻きはよくないのう」と呟き、その有馬入道元家は殺害されて義視は(主観的に)追い詰められ、伊都の輿入れの日に義視は比叡山に出奔、八郎は義視を逃がそうと追いかけてきた新九郎らの前に立ちはだかり、義視は「八郎!八郎これへ!」と呼び、八郎も義視についていこうとして「さらばだ新九郎!達者で暮らせよ!」と呼びかけた直後、伯父の伊勢盛景によって殺害されます。

 

義視はその後西軍に迎えられ、義政は「義視を、甘やかしすぎた!」と激怒し、ゆうき氏を「ええええ!?」と驚かせています(第3集126ページ)。

 

新九郎は大道寺太郎と弓矢の稽古をしながら「兄上は、今出川様が西軍に入ることを知っていたのかな?」「兄上はなんのために死んだのやら。今出川様に裏切られたような気分だ」とぼやいています(第3集130ページ)。

 

新九郎はそれ以降義視を敵視するようになり、第4集16ページでは「(乱が終われば_西軍に走った今出川様もお戻りになるだろう。あのお方には一言申し上げたいことがある」といって大道寺太郎は黙り込んでしまっています。

第8集42ページでは「今出川様には申し上げたき議がございます」と伊勢貞宗に言って「恨言であれば筋違いだぞ。八郎は今出川殿に忠実に仕え、それがために命を落とした。武士の習いではないか」と諭されています。

 

64話で応仁の乱終結し、京都を出て美濃国土岐成頼のもとに亡命するために義視が賀茂川を渡るときに新九郎が義視に痛烈な一言を浴びせますが、それは単行本がそこに追いついてからのお楽しみということで。

(追記)第10集でこのシーンが出ています。

 

sengokukomonjo.hatenablog.com

 

 

史実では義視はほどなく義政によって赦免されますが、そのまま美濃に止まり、足利義尚の死を受けて子息の義材(のちの義稙)を連れて上洛します。義尚のあとの将軍職をめぐって足利政知の子の天竜寺香厳院主清晃を推す細川政元への対抗のために日野富子が義視・義材親子に肩入れしたからです。義視上洛後の三ヶ月後に義政は死去しました。

義政の法事の席で義視は蔭涼軒主の亀泉集証に対して「もともとは仲が良かったが間に立つ人のせいで疎遠になった」とこぼし、集証は義視が顔馴染みの禅僧を出世させて欲しいと申し入れたとき、禅僧たちは反対しましたが「義視の言ってきたことだからなんとか聞いてやってくれ」と主張した話を義視にしています。これを聞いた義視はにっこりと微笑んだと言います。

 

義視は恩人のはずの富子が政元と通じているという疑いを捨てきれず、富子が自らの小川殿に清晃を呼んだことをきっかけにして富子の小川殿を破却し、所領も奪いました。無事義材は10代将軍となり、義尚の申次衆であった新九郎もそのまま義材の申次衆となっています。

義視は将軍の父として室町殿として扱われることとなり、准后になりますが、ほどなく病に倒れ、義視の死後、将軍専制指向を強める義材と管領細川政元との関係はますます悪化し、明応の政変が起こります。

 

新九郎はそのころには駿河と京都を行き来するようになっており、明応の政変でどのように動くのかはわかりませんが、義材が越中に逃亡後に11代将軍将軍足利義澄の申次衆を務めています。そしてさらに義澄の母の仇を討つために伊豆に侵入し、戦国大名として成長していくことになります。

 


新九郎、奔る!(1) (ビッグコミックス)

 


新九郎、奔る!(3) (ビッグコミックス)

 


新九郎、奔る!(8) (ビッグコミックス)

 


新九郎、奔る! コミック 1-9巻セット

 

義視については以下の書籍も役立ちます。

 


室町幕府将軍列伝 新装版

 


室町幕府全将軍・管領列伝 (星海社新書)

 


「室町殿」の時代: 安定期室町幕府研究の最前線

 


足利将軍事典

 


乱世の天皇 観応の擾乱から応仁の乱まで

「どうする家康」瀬名姫のご先祖登場!ーゆうきまさみ氏『新九郎、奔る!』を解説する

『新九郎、奔る!』第9集51ページに堀越源五郎義秀という人物が出てきます。これ以降この源五郎は新九郎のよき協力者として現れます。

 

今川義忠死後に駿河は真っ二つに割れます。義忠遺児の龍王丸はまだ幼く、しかも義忠は幕府からの心証が最悪という事情もあって義忠の従弟の新五郎範満が擁立されますが、遠江に近い山西(駿河の西の方)に所領を持つ朝比奈丹波守(泰熙)を筆頭に新五郎範満に対して徹底抗戦を唱える重臣がおり、そういう強硬派を抑える役割をしています。

 

義秀は伊勢貞藤や太田道灌と同年の永享四年(1432)生まれ、遠江国堀越の海蔵寺の喝食(かつじき・かっしき・かしき)をやっていました。喝食とはざっくり言えばお稚児さんです。父の堀越貞延が遠江国で勝田・横地によって戦死したあとに今川義忠によって引き立てられ、今川家重臣となりました。142ページで新野(今川家一門)から「お主は名もなき喝食だったのを亡き御屋形様(義忠)に拾ってもらった恩を忘れたか!」と詰め寄られています。それに対し冷静に「忘れておらぬ故!龍王様と御家族を守る務めがあります」と言い返しています。新野は「お主は、それでも堀越の、遠江今川の一門か!!」と言われています。

 

交渉が終わり、伊都らは駿府を範満らに引き渡しますが、源五郎は取次役として残り「言ってみればスパイですな」と新九郎に告げています。今後の活躍が期待される人物です。

 

この人物の出自については以下のエントリで述べています。

 

sengokukomonjo.hatenablog.com

遠江今川氏はかつて九州探題を務め、『難太平記』(伊都いわく「今川了俊って方が書いた同人誌!」)を著した今川貞世法名了俊)を祖先とした一門です。

 

堀越源五郎はその後龍王丸派の重臣として瀬名を与えられ、瀬名一秀と改名します。この源五郎の曾孫が瀬名姫です。源五郎の孫の親永が同じく今川一門の今川刑部大輔家、関口氏に養子に入って関口親永となり、その娘が瀬名姫です。「どうする家康」では従来の瀬名姫像(家康とは政略結婚で不仲)とは異なり、家康の初恋の人で仲睦まじい夫婦となり、となっています。

 

堀越源五郎のその後の活躍にも期待したいです。

 

 


新九郎、奔る!(9) (ビッグコミックス)

『新九郎、奔る!』第9集の太田道灌と伊勢新九郎の談合ーゆうきまさみ氏『新九郎、奔る!』を解説する

昨日ゆうきまさみ氏の『新九郎、奔る!』第9集が発売になりました。

 

内容は今川義忠の戦死から今川範満の家督代行就任までの流れで、52話から58話が収録されています。そのうち5話が「道灌」という見出しで、新九郎と太田道灌との交渉がメインとなっています。

 

義忠が遠江に侵攻して戦死しましたが、遠江守護代の甲斐敏光は西軍から東軍に寝返ったにもかかわらず、東軍の義忠は攻撃を加え、さらに遠江在国奉公衆の勝田と横地を攻め滅ぼし、挙句に戦死しました。

 

いわば賊軍となった形で戦死した義忠ですが、当然その子の龍王丸が家督を継げる可能性も低くなります。しかも四歳の子どもです。

 

従兄弟の小鹿今川範満は扇谷上杉氏の血を引いており、扇谷上杉氏の家宰の太田道灌駿河入りして範満支援のために駿河入りしており、さらに堀越公方足利政知も範満を支援しておりました。京都では伊勢氏の血を引く龍王丸の家督相続を目指していきますが圧倒的に分が悪い、という状況です。

 

で、これまでの「北条早雲」物語では、当時45歳の早雲が同い年の太田道灌と丁々発止の交渉を繰り広げ、範満を家督代行にして龍王丸成人の後には龍王丸に家督を譲るという形になった、とされています。

 

ところが近年の研究では伊勢新九郎は24歳若い康正2年(1456)生まれとみられており、とすればこの交渉の時には21歳となります。45歳の太田道灌が21歳の伊勢新九郎とまともにやりあうとは考えづらいと見られ、黒田基樹氏はこの時の新九郎の駿河下向はなかったのではないか、としています。

 

『新九郎、奔る!』では基本的に黒田氏を中心とする現在の通説に依拠しながら、昔の「北条早雲」伝説も少しずつ取り入れて物語が進められています。

 

例えばかつては新九郎は一時足利義視に仕えていた、という考えもありました。ただ康正2年生まれ説を取れば、義視に仕えるには年が若すぎます。本作では兄の伊勢八郎貞興が義視に仕えていたという設定になっています。

 

また新九郎の父は伊勢貞藤という見方も実在しました。貞藤は永享4年(1432)生まれで、実は太田道灌と同じ、つまり北条早雲の生年と考えられてきた年に生まれています。北条早雲が永享四年生まれ、というのは貞藤の事績と混乱したのではないか、と見られています。

これについて、本作では新九郎の実母である浅茅が貞藤に再嫁したという設定になっており、新九郎が誰の子になるのか、流動的になっているシーン(第2集32〜34ページ)があります。

 

このように本作では過去の「北条早雲」像を裏切らないような設定がなされており、その辺も読みどころです。

 

第9集ではまだ21歳の若造の新九郎が今川家の家督を決める重要な談合に扇谷上杉氏の家宰という大物と対等に渡り合えるはずがない、という見方をうまく使いながら、太田道灌との交渉を描き出しています。

 

新九郎が駿河入りしたのは彼が主たる使節ではない、という設定がそれです。あくまで新九郎は室町幕府評定衆という大物である摂津之親の配下に属しています。しかし本作での之親はやる気がありません。そこで新九郎が表に出ようと之親に願いますが、撥ねつけられます。新九郎が之親のモノマネをしながら之親に言われた「そこもとのような若輩者が、どう調停するというのだ?」という台詞を語っています。

しかし最終的に之親は新九郎に「任せる」と新九郎に投げています。

 

そして交渉が終わると道灌は新九郎に厳しい言葉を投げつけます。

 

新九郎「私の実力ではこの程度でした」

道灌「それは心得違いですぞむっしゅう」

新九郎「心得違い?」

道灌「今度の調停を己の実力で成したと勘違いしてはなりませんぞ。お手前は幕府や政所を背負っておられる。その御威光が成さしめたのだと忘れぬことです。全くの徒手空拳であったならば、お手前、百回くらい斬られておりますな。」

新九郎「百回!」

道灌「そもそも、それがしに会え申さぬ。」

 

道灌に己の非力さを改めて思い知らされる新九郎でした。

 

このように考えれば、新九郎が駿河入りして道灌とサシで交渉した、という話もありうるのではないかと思えてきます。若輩者とは言っても新九郎には政所執事の伊勢守家を背負っているのであり、それを考えれば道灌といえども配慮せざるを得ないわけです。しかも新九郎は義忠後室の弟、新九郎がこの段階で駿河入りしていた可能性はないわけではないと思います。

 

他にも「狐」による関東情勢の解説など、見どころたくさんです。

 

 

 


新九郎、奔る!(9) (ビッグコミックス)

 


戦国大名・伊勢宗瑞 (角川選書)

 


今川氏親と伊勢宗瑞:戦国大名誕生の条件 (中世から近世へ)

 

足利義政ーゆうきまさみ氏『新九郎、奔る!』を解説する

ゆうきまさみ氏『新九郎、奔る!』解説です。

本作は基本的に悪役がいません。悪役となりそうな人物、例えば新九郎の甥の龍王丸(のちの今川氏親)氏親を排除しようとした今川新五郎範満も今川家の行く末を真剣に憂える人物であり、自身の欲望ではなく、彼なりに真剣に今川家のことを考えるが故に龍王丸やその母の伊都と対立してしまう、という役柄です。

「天下の佞臣」とされる伊勢貞親も新九郎に対しては親切ですし、彼自身理想の実現のために働いているのが伝わります。

また『南総里見八犬伝』のイメージと太田道灌殺害の経緯から、悪役とされがちな扇谷上杉定正も本作ではいい味を出しています。もともと無欲だった青年が扇谷上杉氏を背負わされることで激しく苦悩するシーンが楽しみです。

 

このように一般に悪役となりそうな人物もしっかりとその背景を書き込むことで、単なる悪役ではない、というのが本作の特色ですが、例外的に分かりやすい悪役が足利義政です。

あまりのひどさに作者のゆうきまさみ氏も作中に登場して「ええええっ!?」とドン引きし、義政の後ろ姿をみながら呆れている描写がなされています(第3集126ページ)。このシーンの解説は足利義視に譲ります。

 

義政はその初っ端から千代丸(新九郎)に「千代丸にはどうも御所様がたやすく前言を翻しすぎるように思えます。「綸言汗の如し」、御所様のようなお立場の方が一度交わした約束を破るべきではありません!」とディスられています。従兄弟の伊勢貞宗は「ほう」と感心し、父親の伊勢盛定は「口が過ぎるぞ!!」と慌て、伯父の伊勢貞親は「真っ直ぐな心根でよいではないか」と褒めながらも「その性根ではやってゆかれぬぞ」と釘を刺されています(第1集40〜42ページ)。

 

文正の政変で貞親と盛定が義政の気まぐれでピンチになった時、千代丸は「無性に腹が立ってきました!」と姉の伊都に訴えますが「元々そういうお方なのよ」と冷静に切り返されています。

 

怒りを鎮めようと弓矢の稽古に打ち込む千代丸に貞親が稽古をつけてやりながら「そちが御所を罵りたくなる気持ちは儂にも理解るがな、少し堪えてはくれんかの。」といいます。千代丸は「伯父上はそれほど尽くした御所に裏切られたのですよ!!」と言い返しますが貞親は「ギギギギ」と歯を食いしばりながら「今度もさぞかし無念の思いを噛みしめておられよう。まっこと口惜しいのう。」と悔しがっています。それを見ながら千代丸は「さすがは育ての親、御所のイメージが根本から違う」とある意味感心しています(第1集96〜102ページ)。

 

応仁の乱の最中、新九郎の母の浅茅が叔父(義母須磨の弟)の伊勢貞藤と再婚することになり、盛定の子として元服したい千代丸は早い元服を望み、十二歳で元服します。

 

その初めてのお目見えのシーンで義政の顔が初登場です。ここで義政は「何故 元服を急いだ?」と新九郎に問いかけ、新九郎の真面目な回答に「殊勝な言葉ではあるが、つまらぬ。」と言い放ち、新九郎を落ち込ませています(第2集42ページ〜44ページ)。

 

義政の行動が一貫しないのは事実で、拙著でも「義政の悪癖は、首尾一貫しないことだけが一貫していること」と評しています。義教のようになりたかった義政ですが、この「一貫しないことだけが一貫している」悪癖が文正の政変から応仁の乱の主要な原因となるのは衆目の一致するところでしょう。

 

義政のイメージといえば無能な政治家です。ただこの「無能」というイメージについては注意が必要です。

 

義政という政治家は、高い理想を持ちながらそれを実行するための首尾一貫した意志を持てなかった弱さが仇となった、と私は考えています。寛正の飢饉では全く無為無策だったのではなく、彼なりに手当てを行い、能動的で機動的な対策を打っています(東島誠氏)。さらには彼が御所の造営を止めなかったのは飢饉対策としての公共事業という見方もあります(藤木久志氏)。少なくとも拱手傍観していたわけではなさそうです。

この辺は大道寺右馬之介が「先の寛正の大飢饉の折も、伊勢守様は寝る間も惜しんで対策に当たられた。」と解説してくれている通りです(第1集17ページ)。

 

従来の応仁の乱にまつわる歴史では圧倒的な悪役である日野富子はむしろまともな人物として描かれているだけに義政の悪ぶりが目立ちます。

 

その義政がかっこよく見える瞬間が第5集にあります。貞親が義政を隠居させ、日野勝光を除き、貞宗が養育する春王(足利義尚)を将軍につける陰謀をめぐらし、貞宗が義政にリークしたことで義政は貞親追放を決意します。そのシーンです。

 

伊勢邸に「私用」でやってきた義政は貞親のこれまでの労をねぎらい、思い出話に興じます。そして貞親に引退をもちかけます。しかし貞親は「ますます老骨に鞭打ちまするぞ!」と義政の思わせぶりな引退勧告をガン無視します。そこで義政は貞親の陰謀を全て露見させ、「申しておくが、今宵の宴にそちの席はないぞ。身の振り方は己れで考えよ。」と立ち上がると貞親に最後の言葉をかけます。

 

「貞親。これが最後となるであろう。もう一度だけそちを昔のように呼ばせてくれ。」「御父様と。」

(涙を流しながら)「御父様には長きに渡って世話になった。なろうことならば、隠居は共にし、共に余生を楽しみとうござりました。」

 

これに貞親も思わず「み、三寅様!」と義政の幼名を思わず口走ります。

 

義政も貞宗も貞親を救うためにこの失脚劇を演出したのです。

 

義政「貞宗。文正の折、そちは貞親のためにこそ貞藤と組んで義視を救い、右京大夫細川勝元)に頭を下げた。」

義政「今度はどうか?貞親のためにはなったか?」

貞宗「あの年齢になって誰かの恨みを買い、付け狙われるのも酷でありましょう。命長らえるにはよい退き時だったのです。」(第5集81ページ〜93ページ)

 

せっかくかっこいいところを見せた義政ですが、その後は盛定が出家したことが気に入らず、駄々をこねて貞宗を困らせています。貞宗も「ヘソ曲がりなところのある御方」「虫の居所が悪かったとしか思えぬ」「いつもの癇癪」と困っています(第5集139ページ)。

 

盛定と新九郎が義政にお目見えするシーンでは富子が盛定と新九郎を庇い、その結果盛定の隠居と新九郎への家督相続が認められますが、義政は新九郎に「よくよく苦労を背負いこむ星の下に生まれたと見える。哀れではある。が、これもそちが持って生まれた運だ。」「余の瞳が黒いうちは任官はないと思え。無位無官の地方領主として日々を送れ」と新九郎に嫌がらせをしています(第5集150〜158ページ)。

 

このあとの展望ですが、義尚との軋轢などまだまだ活躍が期待できそうな人物です。

 

 


新九郎、奔る!(1) (ビッグコミックス)

 


新九郎、奔る!(2) (ビッグコミックス)

 


新九郎、奔る!(3) (ビッグコミックス)

 


新九郎、奔る!(5) (ビッグコミックス)

 


乱世の天皇 観応の擾乱から応仁の乱まで

 


〈つながり〉の精神史 (講談社現代新書)

 


飢餓と戦争の戦国を行く (読みなおす日本史)

 

過去記事でも義政について扱っています。

 

sengokukomonjo.hatenablog.com

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大内政弘ーゆうきまさみ氏『新九郎、奔る!』を解説する

ゆうきまさみ氏『新九郎、奔る!』解説、今回は「西軍最強のコンビにして乱の急先鋒!」と伊勢貞藤(新九郎の叔父で新九郎の実母の再婚相手、西軍の政所執事)に紹介されている大内政弘です。

 

西軍関係者であるがために新九郎との絡みはほとんどありませんが、7巻で新九郎が貞藤を通じて山名宗全に面会にいくシーンで出てきます。そこに畠山義就とともに現れますが、すぐに激昂する義就と対照的に落ち着いています。碁が佳境に達すると義就は政弘に「周防介殿(政弘)、しばしよろしいか」と声をかけ、「周防介殿はどう思う?」と問いかけますが、政弘は「今のところ互角」と呑気に返して「碁の話ではござらぬ!」と突っ込まれています。政弘は「入道殿(宗全)は敵に容赦ないお人だが、妙に人の好いところもある。伊勢守殿(貞藤)を通して堂々と乗り込んできた相手だ。入道殿の好みであろうよ。」と言っていますが、義就は新九郎を襲撃することを提案し、政弘もそれに応じています。

 

山名宗全の死後に山名政豊が細川聡明九郎(政元)と和睦した後にも抵抗し続けたのが義就と政弘で「俺たちは俺たちの戦をやるだけだ!なあ兄弟!」と義就に声をかけられ、「ああ。」と返事をするなど、西軍を最後まで支えた武将です。

 

政弘のハイライトシーンは実はそこではありません。応仁の乱の序盤の形成を決定づけた人物であります。

第2巻52ページから後の御由緒六家となる荒川又次郎と在竹三郎が登場するシーンです。御由緒六家については以下のエントリをご参照ください。

 

sengokukomonjo.hatenablog.com

そこで備中国荏原から上ってきた両名が政弘の軍勢について説明しています。

 

荒川又次郎「道中ではぐれましたが、無事であればあと二・三人は。なにしろ備中は三方を山名の分国で囲まれております故・・・」

在竹三郎「船が使えればよかったのですが。」

八郎「船は使えなかったのか?」

又次郎「船はだめです。一度海沿いの道を行こうと考えたのですが、とんでもないものをみてしまいまして。」

八郎「何を見た?」

又次郎?「瀬戸内の海を東に向かう大船団です。西軍に加勢する大内周防介(政弘)の軍勢です!」

又次郎「道中で耳にしたところ、船は五百隻、軍兵の数二万とも三万とも。」

三郎「なにしろ海が見えません。船が七分に海が三分!」

八郎「海が三分ぅ!?」

 

この話は瞬く間に東軍に広まり、足利義視を恐慌に陥れます。勝元は政弘が到着するまでに決着をつけようと現状最も手強い斯波義廉を排除するための猛攻を開始しますが、義廉は耐え抜き、宗全は「ここを耐え切ればもう間もなく、大内勢数万が天兵の如くこの地に下ろうぞ!」と期待をし、政弘が入洛した時には「勝ったぞ〜っ」と雄叫びを挙げています。

 

そもそも大内氏とはどんな大名だったのでしょう。

 

大内氏で有名なのは最後の当主の大内義隆でしょう。

 

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戦国IXA大内義隆Copyright © 2010-2021 SQUARE ENIX CO., LTD. All Rights Reserved.

イメージとしては「文弱に流れ」とか「陶晴賢に裏切られ」とか、あまりイメージはよくありません。

 

政弘はこの義隆の祖父にあたります。『新九郎、奔る!』はよく知られた戦国大名の祖父の世代です。北条氏康の祖父の新九郎や今川義元の祖父の今川義忠(新九郎の姉の伊都は義元の祖母)などですね。

 

大内氏は本姓が「多々良」という見かけないものとなっています。伊勢盛時は「平盛時」、足利義政は「源義政」と名乗る場合、政弘は「多々良政弘」と名乗る、という具合です。代々周防国で周防権介の官途名乗りを世襲した在庁官人ということが明らかにされています。逆に言えばそれ以外はわかりません。ちなみに「在庁官人」とは国衙(国の役所)で実務に携わった現地の有力者のことです。

 

大内義弘のころに百済王の子孫を自称し、朝鮮との密接な関係を作り上げていきます。実際「多々良」という本姓を見ると、案外製鉄などの技術を日本に伝えた百済からの渡来人の末裔だったかもしれません。

 

南北朝時代の大内弘世の代に南朝方として台頭し、後に北朝に転じて周防・長門に勢力を広げ、大内義弘の代に九州にも関与していきます。

この辺は久水俊和氏の編による『「室町殿」の時代』(山川出版社、二〇二一年)の中で述べられています。

 

大内義弘は応永の乱足利義満と戦い、戦死します。その後幕府方に転じた大内弘茂(義弘の弟)は義弘からあとを託された盛見(義弘の弟)と戦い敗北、盛見は幕府の赦免を勝ち取ります。

こう見ると大内氏は最初からかなり幕府に対して貸しを作っています。盛見は幕府の信頼を勝ち得て九州への介入を強めていきます。幕府としても強大な勢力が昔から蟠踞する九州の支配を任せた九州探題のお守りを大内氏に任せた方が楽ということで、大内氏に九州の支配を任せます。

 

盛見はそれで九州の大勢力の少弐満貞・大友持直・菊池兼朝らの恨みを買って奇襲攻撃を受けて殺害されました。

 

盛見の死後は義弘の息子の持盛と持世の争いを制した持世が大内氏家督となり、足利義教のお気に入りとなりますが、嘉吉の乱で義教の相伴衆として赤松邸で殺害されました。

 

持世の死は朝鮮にも大きな衝撃を与えたようで、『朝鮮王朝実録』では大内殿と日本国王足利義教)が赤松を討とうとして逆に殺された、と記され、その記述は親日派の申叔舟の『海東諸国紀』にも踏襲されています。

 

大内氏百済王の子孫を自称したことは朝鮮王朝からも好意的に把握されており、義弘は朝鮮に所領を要求しています。その後も挑戦王朝とは友好関係を結び、日朝貿易の要となっています。

また九州探題のお守り役として室町将軍の直轄となった筑前国の代官となって博多を抑え、日明貿易にも関与します。こうして大内氏は明や朝鮮との関係を元に巨額の利益を上げていきます。

 

大内氏は少弐氏との対抗上、驚天動地の申し入れを行っています。

 

大内氏対馬は朝鮮王朝の固有の領土です。出兵して占領してしまってください。私も協力いたします。対馬を挟み撃ちにしてしまいましょう」

朝鮮王朝「大内殿が負ければ別にそれで何事も起こらないが、下手に教弘に勝たれると対馬を失った少弐教頼らは倭寇化してややこしいことになるなぁ。断ろう」

 

というわけで大内氏による対馬の朝鮮王朝への併合計画はあっけなくつぶれました。この辺の経緯は村井章介氏の『中世倭人伝』(岩波新書、一九九三年)に書かれています。なおここでの「大内殿」を村井氏は大内教弘としていますが、須田牧子氏は大内持世としています(須田氏『中世日朝関係と大内氏東京大学出版会、二〇一一年)。

 

持世の後を継いだ教弘(盛見の子)は嘉吉の乱で大内持世とともに殺害された山名熙貴の娘で宗全の養女となった女性と婚姻し、政弘をもうけています。

 

この関係、どこかで見たことがありますね。そうです。細川勝元の妻です。作中では「亜々子」として細川勝元正室細川政元の母となる人物です。つまり細川・山名連合と歩調を合わせていくべき人物だったのです。

 

しかし瀬戸内の権益をめぐって教弘は勝元と対立します。伊予国河野氏の内紛に手を突っ込み、同じく伊予国の掌握を目指す勝元と対立することになります。教弘は勝元と犬猿の仲だった伊勢貞親を頼りますが、伊予国に出陣中に病死しました。

 

教弘の後を継いだ政弘は斯波義敏の亡命を受け入れるなど、伊勢貞親との連携を目指したようですが、文正の政変から勝元と宗全の決裂後には宗全に与して大軍勢を率いて上洛することになります。

 

政弘が大軍を率いて上洛できたのは、大内氏が博多を押さえて利益を上げていたことが大きいと考えられます。

 

しかし領国では叔父の大内教幸(道頓)が東軍に属して政弘に反旗を翻し、京都では守護代の陶弘房が応仁の乱最大の合戦となったと言われている相国寺の戦いで戦死するなど、それなりに苦労もしています。

 

宗全死後には総大将の足利義視は政弘のもとに移動しています。

 

文明8年(1476)9月には政弘は義政の和睦勧告に応じ、文明9年10月には足利義尚から四カ国(周防・長門筑前豊前守護職を安堵され、11月には出京し、応仁の乱は集結します。

その背景には補給拠点の兵庫を東軍方の赤松政則らに攻撃されたこともあり、長期間にわたる在京は大内氏に大きな負担となったこともあります。陶弘護の力が増して大内氏の力を凌ぐ下剋上の可能性も出てきており、いつまでも粘るわけにはいかない、という事情がありました。政弘としてはとりあえず伊予国の河野通春の赦免を勝ち取って河野氏への影響力を保持すれば、瀬戸内海を押さえることができますので、そこの条件闘争を勝ち取った、ということでしょう。

 

第8巻・第9巻で中心となる今川義忠戦死が文明8年2月のことなので、『新九郎、奔る!』ではまだ応仁の乱は終わりそうもありません。

 

その後の大内氏ですが、政弘は大内氏権力の再編に乗り出し、また足利義尚の六角氏征伐には家臣を、足利義稙の六角氏征伐には自身が二度目の上洛を果たしますが、やがて病に倒れます。

 

政弘の子の義興も明応の政変で失脚した足利義稙を支え、明応の政変で義稙を追放した細川政元死後には義稙を奉じて上洛、細川高国と協力しながら10年にわたって在京し幕府を支えました。

 

それによって大内氏は周防・長門筑前豊前のみならず安芸・石見・山城の守護職に任じられ、大内氏は最盛期を迎えることとなります。

またこのころに寧波の乱が起こり、大内氏日明貿易から細川氏を排除して独占することとなります。

 

義隆は大内氏の最盛期を引き継ぎました。大宰大弐に任ぜられ、少弐氏を滅ぼし、肥前の有力国人龍造寺胤信に偏諱を与え隆信と名乗らせ、安芸の国人毛利元就の嫡男と三男にも偏諱を与えています(毛利隆元小早川隆景)。

義隆は自身を頂点とした官僚組織を作り、領主的な重臣たちの勢力を抑制することで中央集権制を作ろうとしましたが、重臣たちの反発を買って大寧寺の変陶隆房に背も滅ぼされてしまいました。

 


新九郎、奔る!(7) (ビッグコミックス)

 


新九郎、奔る!(2) (ビッグコミックス)

 


「室町殿」の時代: 安定期室町幕府研究の最前線

 


中世倭人伝 (岩波新書)

 


中世日朝関係と大内氏