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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

2019-01-01から1年間の記事一覧

源頼政挙兵の背景

以仁王は治承三年の政変で今まで知行してきた城興寺領を取り上げられたことを逆恨みして平氏打倒の兵を挙げます。 彼の背後には八条院の勢力がありました。八条院暲子内親王は鳥羽院と美福門院の間の皇女で、鳥羽院の遺領のほとんどを伝領し、その権威と財力…

正親町天皇の生涯ー永禄六年正月一日〜閏十二月晦日

永禄六年正月一日、四方拝、小朝拝、元日節会御湯殿上日記、言継卿記、公卿補任、続史愚抄四日、千秋万歳、この日別殿行幸御湯殿上日記、言継卿記五日、千秋万歳御湯殿上日記、言継卿記この日、叙位停止続史愚抄七日、白馬節会続史愚抄八日、太元帥法御湯殿…

以仁王ー歴史の闇に消えた先駆者

以仁王という名前を聞いた人は結構多いでしょう。多分中学校の歴史では習うと思います。源平合戦と一般には言われる治承・寿永の内乱の先駆者となった人です。 以仁王 東京国立博物館蔵 以仁王は後白河天皇の第三皇子です。ちなみに第一皇子はもちろん二条天…

平清盛と源義朝

平治の乱の原因の一つとして挙げられているのが、源義朝の平清盛に対する敵愾心です。源平合戦の前哨戦というような見方すらなされています。 本当でしょうか? そもそも源義朝に平清盛を恨む動機が考えられません。もちろん人間ですから、何を考えても不思…

薄命の明主、二条天皇

立命館大学の近所に二条天皇陵の香隆寺陵(こうりゅうじのみささぎ)があります。 阪急から市バスに乗って立命に向かうと、衣笠校前で降りることになるわけですが、衣笠校前のバス停のすぐ近くの道をまっすぐ西に向かうとすぐに二条天皇陵に出ます。 www.kun…

稀代の寝業師2 藤原経宗

藤原経宗。 藤原経宗 天子摂関御影 この人もなかなかの策士です。古澤直人氏の研究を私なりに整理すると、藤原経宗の存在感が大きくなります。 経宗は関白藤原師実の孫に当たります。 彼が出世の糸口を掴んだのは姉の懿子が後白河との間に守仁親王をもうけた…

尼心阿和与状(『朽木家古文書』103 国立公文書館)

これは実は以前に取り上げた4号文書のその後です。 sengokukomonjo.hatenablog.com まず現物を貼り付けます。 尼心阿和与状 国立公文書館 釈文。 和与佐々木四郎右衛門尉行綱女子尼心阿代浄円与 同出羽五郎義信代光円相論、近江国高嶋 本庄案主職并後一条地…

平治の乱後白河主犯説

7月11日(木)のオンライン日本史講座のお知らせです。 ticket.asanojinnya.com 河内祥輔氏は平治の乱の主犯を後白河上皇とする斬新な説を唱えています。 保元の乱・平治の乱 それに対し元木泰雄氏はその見方を厳しく批判しています。 保元・平治の乱 平清…

正親町天皇の生涯ー永禄五年正月一日〜十二月晦日

永禄五年正月一日、四方拝を行う、小朝拝、元日節会は停止御湯殿上日記、孝親公記、続史愚抄四日、千秋万歳あり、五日同じ御湯殿上日記(四日・五日)、孝親公記七日、白馬節会を停止続史愚抄八日、太元帥法を行う、聴聞、後七日御修法は停止御湯殿上日記(…

平治の乱における源氏と平氏の関係

7月11日(木)のオンライン日本史講座のお知らせです。 ticket.asanojinnya.com 今回は平治の乱を取り上げます。 平治の乱といえば、教科書的理解では平氏と信西の連合に対して不満を持った藤原信頼と源義朝が連携して平清盛の留守中に後白河上皇の御所を襲…

ハイホー!7dと足利義教

ハイホー!7d、と言っても分かっていただけない方が多いと思います。ディズニージュニアで放映している「白雪姫と七人の小人たち」のスピンオフ番組です。若き七人の小人たちがしあわせ女王様を魔法使いのヒルディ・グリム夫妻から守る、という話です。 『…

保元の乱のその後

保元の乱はつまるところ後白河派も崇徳派ももともとは差がなく、どちらも権威を欠如させた存在であったことが武力の発動という前代未聞の結果となりました。当然ながらその結末も悲惨なものになります。 崇徳の流罪については前回述べました。太上天皇の座に…

足利義藤御内書(『朽木家古文書』99 国立公文書館)

足利義藤御内書です。義藤とは聞きなれない名前ですが、足利義輝の初名です。言わずと知れた剣豪将軍です。 足利義藤御内書 国立公文書館 年号のない日付の下に花押が押されており、御内書であることがわかります。 釈文です。 今度不慮題目出来 至當谷被移…

崇徳上皇

一言で言えば悲運の人です。 崇徳院 天子摂関御影 歌人として知られており、百人一首では77番の歌です。 瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ 鳥羽天皇の長子として待賢門院藤原璋子との間に産まれ、諱を顕仁といいます。曽祖父白…

正親町天皇の生涯ー永禄四年正月一日〜十二月晦日

永禄四年正月一日、四方拝を行う、小朝拝、元日節会は停止御湯殿上日記、公卿補任、続史愚抄四日、千秋万歳、五日同じ御湯殿上日記(四日・五日)五日、叙位を停止続史愚抄七日、白馬節会停止続史愚抄八日、太元帥法聴聞、後七日御修法は停止御湯殿上日記(…

稀代の寝業師藤原忠通

寝業師という言葉があります。私は故根本陸夫氏を思いつきます。裏工作が得意な人ということですが、根本氏も緻密な情報網を駆使して大胆なトレードを仕掛けたり、有力なアマチュアを裏技的な手法で入団させたりして西武やダイエー・ソフトバンクを強豪球団…

藤原頼長という人物

藤原頼長。この人ほど個性的な人物はいるだろうか、というほどの人物です。この人の個性の前には全て霞んでしまうほどの個性です。 藤原頼長 『天子摂関御影』 彼は藤原忠実の次男で兄の忠通よりも24歳年少でした。彼については故棚橋光男氏の『後白河法皇…

本当に強い戦国武将は誰かベスト5私案

Qさま!で6月24日に放映された「本当に強い戦国武将ベスト15」がいろいろ言われているようで、そもそも「強い」ってどういう意味なのか、とかまあ悩むわけですが、普通に考えれば結果で見ても織田信長・豊臣秀吉・徳川家康に集中するだろうな、というこ…

保元の乱3−戦争の日本史

保元の乱の主役は鳥羽・崇徳・後白河・藤原忠実・忠通・頼長であることは論を俟ちませんが、もう一つは伊勢平氏の平清盛と河内源氏の源義朝でしょう。特に義朝はこの戦いでその地位を飛躍的に向上させ、清盛に次ぐ軍事貴族の地位を手に入れます。 伊勢平氏は…

室町将軍家御教書(『朽木家古文書』62 国立公文書館)

『朽木家古文書』62です。 とりあえず写真を。 室町将軍家御教書 朽木家古文書 国立公文書館 釈文 若州發向事不日可被 致忠節之由所被仰下也 仍執達如件 嘉吉元年十一月三日 右京大夫(花押) 佐々木朽木満若殿 一行目の一番下の「被」と二行目下から四字…

保元の乱の過程2−戦争の日本史

時はいいころ(1156)保元の乱 武者の世のはじまりと言われる保元の乱ですが、『保元物語』に基づく保元の乱のイメージが強く存在しています。それに対して『愚管抄』を通じてみると少し異なるイメージが出てきます。 『愚管抄』は藤原忠通の息子の慈円…

正親町天皇の生涯ー永禄三年正月一日〜十二月晦日

永禄三年(1530年)の正親町天皇の動向です。 この年は桶狭間の戦いがあり、また長尾景虎が上杉政憲を奉じて関東に出陣し、近衛前久が長尾景虎を頼って越後に下向するということがありました。 永禄三年正月一日、四方拝御湯殿上日記言継卿記二日、読書…

保元の乱の過程−戦争の日本史

保元の乱は小学校でも習う有名な戦乱です。だいたい平治の乱とワンセットで習います。「時はいいころ(1156)保元の乱」という語呂合わせを覚えさせられた方も多いかと思います。 保元の乱に関しては「貴族の争いに武士が動員され、武士の世の中になって…

ラボール学園で「和の文化体験教室 古文書のお勉強始めませんか」を行います

ラボール学園(京都勤労者学園)で「古文書のお勉強始めませんか」という講座を開催することになり、私が担当させていただくことになりました。 これは9月2日(月)午後1時30分から午後3時30分に開催される「1回講座 和の文化体験教室 古文書のお勉…

最凶のヒャッハー源義親

今日のオンライン日本史講座のまとめです。 源義親は源義家の嫡子です。対馬守だった時に九州を横行し、略奪を働いています。時に1101年のことです。大宰大弐大江匡房からの訴えで義親は隠岐国に流罪となりますが、出雲国に渡り、そこで反乱を続けたため…

清和源氏の行く末ー戦争の日本史

軍事貴族としてもっとも有名なのが清和源氏であることは論を俟たないでしょう。その中でも我々が「源氏」といった場合、念頭に置いているのが河内源氏です。 ticket.asanojinnya.com 清和天皇の孫の経基王が源の姓を賜って臣籍降下し、武蔵守として赴任し、…

京極導誉書状(『朽木家古文書』55 国立公文書館)

婆娑羅大名と呼ばれた佐々木京極導誉の書状です。 京極導誉は道誉の方が有名です。「京極導誉」でグーグル先生に聞くと「もしかして京極道誉?」と聞かれます。 自署では「導誉」なので「導誉」が正しいのですが、「入道々誉」と書かれるので「道誉」が有名…

奥州藤原氏ー戦争の日本史

奥州藤原氏とはどういう人々だったのでしょうか。 奥州藤原氏は一体全体どういう家なのか、というのは私も北方史に足を踏み入れるまではよく理解できていませんでした。ややこしい。 そもそも清原清衡が藤原清衡に名前を変える意味が分からなかった。あのへ…

祝!後花園天皇生誕600年その1

『看聞日記』応永26年6月17日条を見てみます。 十七日。雨降。(中略)抑二条局産所ニ出〈庭田〉。則平産〈寅刻〉若宮云々。尤珍重也。面々賀申。三位則御盃持参。 これは『後花園天皇実録』には次のように「按」があります。 御降誕ノ日次、看聞御記ニ…

正親町天皇の生涯−永禄二年(1559)年一月一日〜十二月三十日

永禄二年正月一日、四方拝、小朝拝、元日節会御湯殿上日記、言継卿記、康雄記、公卿補任四日、千秋万歳、五日も御湯殿上日記(四日・五日)七日、白馬節会御湯殿上日記、言継卿記、公卿補任八日、太元帥法、聴聞あり、後七日御修法御湯殿上日記、厳助往年記…